僕の秘密と、彼女の嘘

「この前はごめんね」

夜の防音室に、母の声が静かに落ちた。

グランドピアノの艶やかな黒に、天井の灯りが淡く映っている。
さっきまで弾いていた和音の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。

「……え?」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。
驚いて思わず持っていた楽譜を落としそうになる。

母が謝るなんて、ほとんど記憶にない。
音楽に関しては特に、絶対に自分を曲げない人だから。

「……何の話?」

慎重に聞き返すと、母は少し視線を落とした。

「奏のこと。ちょっと言い過ぎたなって、反省したの」

胸が、ひとつ大きく鳴った。

怒ることはあっても、後悔を口にすることはなかった母が、
こんなふうに言葉を選ぶなんて。

「ここで奏が歌ってるのを見たの。あなたの伴奏で」

あの夜のことだ。

「声は聞こえなかったけど……とても楽しそうだった」

「ああ……見てたんだ」

思い出す。
自由に声を伸ばしていた奏の姿。
ただ歌うことが嬉しい、そんな顔。

「あの子、なかなか思うように伸びなくて……焦ってしまったの。私が」

母の声は小さかった。

「音楽を教える立場なのに、楽しませてあげられないなんて、本末転倒よね」

その言葉で、張りつめていた何かが、少しだけ緩んだ。

「気づいたなら、いいんじゃない?」

それだけしか言えなかったけれど、本心だった。

これで奏はまた、笑ってピアノに向かえるかもしれない。