雪乃が帰ったあとも、部屋にはあいつの気配だけが残っていた。
『なかったことにする』
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
ただ、その言葉だけが、やけに残る。
(……は?)
ベッドに残る温度。
さっきまで腕の中にいた感触。
それが全部、“なかったこと”になる?
「……意味わからん」
ぼそっと吐き出して、頭を掻く。
(昨日、あいつ……)
泣いて、縋って、見たことない顔してたくせに。
(なんで、ああなんだよ)
考えても、答えは出ない。
ただ、胸の奥が、妙にざわついていた。
会社に着いても、その違和感は消えなかった。
キーボードを叩く音、飛び交う会話。
全部、いつも通りなのに。
(……全然集中できねぇ)
通りがかったときに、無意識に視線が動く。
――あいつの席。
何事もなかったみたいな顔で、普通にしている。
(……なんだよ、それ)
気にしているのは自分だけみたいで、無性に腹が立つ。
「……チッ」
廊下を進みながら、小さく舌打ちが漏れた。
そのタイミングで社用携帯が鳴る。
璋からで、ミーティングの時間変更漏れの連絡だった。
(ミスとか……何かあったな)
小さく溜め息をつくと、急ぎ自分のデスクに戻った。
14時からのミーティングを終えて、璋に釘を刺した。
すると、まさかの特大ブーメランがあらぬ方向から飛んできた。
「松原にデート誘われたから」
さっさと部屋を出た雪乃に圧倒され、暫くドアの先を見たまま。
動けずにいる俺に、璋が素の口調に戻る。
「和巳……前も言うたけど、お前、雪乃のこと、どないすんねん」
「……は?」
前にも璋に言われたセリフ。
『……和巳、お前こそ雪乃をどうするんだ?あいつの恋心、薄々気づいてるだろ』
正直、あの時はピンとこなかった。
――じゃあ、今は。
「……どうもしない」
「そんな顔してへんやろ、鏡見ろ」
呆れたように息を吐いて、璋が続ける。
「お前さ……ギャルゲーなら全ルート回収できるくせに」
「なんで雪乃にだけはポンコツやねん」
「……ゲームと現実は違うだろ」
「いや同じや。好きな相手攻略するだけやろが」
――分かってる。
距離を詰めるタイミングも。
言うべき言葉も。
全部、分かってるはずなのに。
(……なんで)
雪乃相手になると、全部、外す。
――だから、いつも遅れる。
「……うるせぇ」
それだけ返して、視線を逸らす。
璋は見放すような瞳で肩をすくめた。
「ほな、そのまま後悔せぇや」
「……は?」
「行かせてええんか」
一瞬、呼吸が止まる。
「……何の話だよ」
「どっちもや」
短く告げられて、眉が寄る。
「……松原と関西」
どちらの単語も聞くだけで、胸の奥が波打つ。
「まぁええわ」
「後悔すんのはお前やしな」
璋は珍しく苛立ちを含んだ低い声を残して、先に部屋を出ていった。
その言葉だけが、やけに残った。
(……後悔?)
そんなわけ――
「……っ」
言い切れない自分に苛立ったまま、俺も部屋を後にした。
デスクに戻ると、松原の弾んだ声が耳に入る。
「本当に――いいんですか?」
視線を向けると、松原が誰かと話していた。
「ありがとうございます、じゃ今夜で」
「楽しみにしてます、八千草さん」
聞き馴染みの名前に、足が止まる。
今、なんて言った。
(雪乃?……今夜?)
――一瞬、音が消えた気がした。
ただ頭の中で、その単語だけが反響する。
誰となんか、考えるまでもない。
「……は?」
低く、声が漏れる。
胸の奥が、さっきとは比べ物にならないくらい、ざわめき立つ。
(なんで)
――なかったことにするって言ったのは、あいつだろ。
だったら。
(なんで、他の男と――)
「お帰りなさい、真鍋さん!会議お疲れ様でした。一件、伝言を預かってます」
そこで、思考が止まる。
「あぁ……確認する」
松原はいつも以上の笑顔で、俺に接する。
(……雪乃とどこに行くんだ)
危うく口に出しそうになった言葉を飲み込む。
(……なんで俺がこんな)
分からない。
でも。
分からないままなのに。
苛立ちとざわめきは、ずっと残ったまま就業時間を迎えた。
***
店内は、落ち着いた照明で静かだった。
カウンター越しに並んで座る距離が、少しだけ近い。
「……まさか今日とは、思ってませんでした」
グラスを傾けながら、松原が柔らかく笑う。
「……早いほうがいいかな、って思って」
言葉とは裏腹に、自分でもわかるくらい、声がうまく乗らない。
「……何かあったんですか」
探るでもなく、ただ確かめるみたいな声。
(……こういうとこ)
優しい。
彼が社内でも人気があるのもわかる。
「別に……たまには松原とサシ飲みも悪くないかなって――」
「嘘ですね、顔に出てます」
優しい顔に似合わない即答に、少し驚く。
「……出向、決まったの」
あたしは観念して、グラスを置く。
「関西で、二年。広報課主体のプロジェクトよ」
一瞬、松原の表情が止まる。
でもすぐに、静かに息を吐いた。
「……そうですか」
「おめでとう、って言うべきなんでしょうね」
その言葉がやけにまっすぐで、こわいくらい揺さぶる。
(……ああ、だめ)
少しだけ、心が軽くなっていく。
「でも、不安なんですよね」
「……わかるんです、それ」
「……なにが」
軽くとける氷の音が、グラスに揺れる。
松原の香水の香りに、酔いそうになる。
「強がってるときの顔」
思わず、息を呑む。
(やめてよ)
そんなふうに、見抜かないで。
「……あたし、エースだからね」
「逃げる理由には、したくないから」
言いながら、胸の奥が少しだけ痛む。
(……ほんとは)
言いたいことは、そこじゃない。
でも。
「……ちゃんと、すごいと思ってます」
「八千草さんがやるって決めたなら、絶対うまくいきます」
松原の声は、変わらず穏やかだった。
(……こういうの)
優しさのかたまりみたいな言葉をくれる。
ちゃんと、あたしを見てくれてる人。
「……ありがと」
そのまま、少しだけ沈黙が落ちたあと。
松原が、ゆっくりと口を開いた。
「……俺、八千草さんのこと好きですよ」
「……え?」
あまりにも自然に言われて、反応が遅れる。
「でも」
「八千草さんが、真鍋さんのこと好きなのも知ってます」
その名前に触れただけで、心臓が嫌な音を立てる。
「それでも」
松原は、穏やかに笑ったまま。
「そういう八千草さんが、好きなんです」
――ずるい。
「……なにそれ」
「意味わかんない」
「ですよね」
かろうじて笑ったら、松原も小さく笑う。
「でも」
「俺なら、もっと楽にさせてあげられると思いますよ」
その一言が、胸に落ちて水面のように広がる。
(……楽)
「ちゃんと、見て」
「ちゃんと、選んで」
「ちゃんと、大事にする」
押しつけがましくなくて、ただ静かに寄り添ってくる。
欲しかったのは、きっとこういう優しさのはずなのに。
気づけば、口が動いていた。
「松原ってさ……優しいよね」
「……よく言われます」
「……だよね」
照れたように笑う松原に、少しだけ視線を落とす。
(……でも)
グラスを、強く握る。
(違う)
「……ごめん」
「やっぱり、ダメ」
顔を上げて、まっすぐに見る。
「ちゃんと選ばれたいの」
周りの音が一瞬だけ、消えたように思えた。
「……そっか」
少しだけ、寂しそうに笑って。
でも、どこか納得した顔で言う。
「やっぱり、真鍋さんなんですね」
「……うん」
想いは迷わなかった。
「知ってました」
そう言って、グラスを持ち上げる。
「だから、応援はしません」
「え?」
「でも」
少しだけ、悪い顔で笑う。
「諦めもしません」
(……ほんと、いい人だわ)
「……ありがとう」
それしか、言えなかった。
――そのときだった。
カラン、とドアベルが鳴る。
何気なく、視線を向けた瞬間。
「……は?」
低く押し殺した声が、聞こえる。
「……和巳」
見慣れた男が、そこに立っていた。
『なかったことにする』
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
ただ、その言葉だけが、やけに残る。
(……は?)
ベッドに残る温度。
さっきまで腕の中にいた感触。
それが全部、“なかったこと”になる?
「……意味わからん」
ぼそっと吐き出して、頭を掻く。
(昨日、あいつ……)
泣いて、縋って、見たことない顔してたくせに。
(なんで、ああなんだよ)
考えても、答えは出ない。
ただ、胸の奥が、妙にざわついていた。
会社に着いても、その違和感は消えなかった。
キーボードを叩く音、飛び交う会話。
全部、いつも通りなのに。
(……全然集中できねぇ)
通りがかったときに、無意識に視線が動く。
――あいつの席。
何事もなかったみたいな顔で、普通にしている。
(……なんだよ、それ)
気にしているのは自分だけみたいで、無性に腹が立つ。
「……チッ」
廊下を進みながら、小さく舌打ちが漏れた。
そのタイミングで社用携帯が鳴る。
璋からで、ミーティングの時間変更漏れの連絡だった。
(ミスとか……何かあったな)
小さく溜め息をつくと、急ぎ自分のデスクに戻った。
14時からのミーティングを終えて、璋に釘を刺した。
すると、まさかの特大ブーメランがあらぬ方向から飛んできた。
「松原にデート誘われたから」
さっさと部屋を出た雪乃に圧倒され、暫くドアの先を見たまま。
動けずにいる俺に、璋が素の口調に戻る。
「和巳……前も言うたけど、お前、雪乃のこと、どないすんねん」
「……は?」
前にも璋に言われたセリフ。
『……和巳、お前こそ雪乃をどうするんだ?あいつの恋心、薄々気づいてるだろ』
正直、あの時はピンとこなかった。
――じゃあ、今は。
「……どうもしない」
「そんな顔してへんやろ、鏡見ろ」
呆れたように息を吐いて、璋が続ける。
「お前さ……ギャルゲーなら全ルート回収できるくせに」
「なんで雪乃にだけはポンコツやねん」
「……ゲームと現実は違うだろ」
「いや同じや。好きな相手攻略するだけやろが」
――分かってる。
距離を詰めるタイミングも。
言うべき言葉も。
全部、分かってるはずなのに。
(……なんで)
雪乃相手になると、全部、外す。
――だから、いつも遅れる。
「……うるせぇ」
それだけ返して、視線を逸らす。
璋は見放すような瞳で肩をすくめた。
「ほな、そのまま後悔せぇや」
「……は?」
「行かせてええんか」
一瞬、呼吸が止まる。
「……何の話だよ」
「どっちもや」
短く告げられて、眉が寄る。
「……松原と関西」
どちらの単語も聞くだけで、胸の奥が波打つ。
「まぁええわ」
「後悔すんのはお前やしな」
璋は珍しく苛立ちを含んだ低い声を残して、先に部屋を出ていった。
その言葉だけが、やけに残った。
(……後悔?)
そんなわけ――
「……っ」
言い切れない自分に苛立ったまま、俺も部屋を後にした。
デスクに戻ると、松原の弾んだ声が耳に入る。
「本当に――いいんですか?」
視線を向けると、松原が誰かと話していた。
「ありがとうございます、じゃ今夜で」
「楽しみにしてます、八千草さん」
聞き馴染みの名前に、足が止まる。
今、なんて言った。
(雪乃?……今夜?)
――一瞬、音が消えた気がした。
ただ頭の中で、その単語だけが反響する。
誰となんか、考えるまでもない。
「……は?」
低く、声が漏れる。
胸の奥が、さっきとは比べ物にならないくらい、ざわめき立つ。
(なんで)
――なかったことにするって言ったのは、あいつだろ。
だったら。
(なんで、他の男と――)
「お帰りなさい、真鍋さん!会議お疲れ様でした。一件、伝言を預かってます」
そこで、思考が止まる。
「あぁ……確認する」
松原はいつも以上の笑顔で、俺に接する。
(……雪乃とどこに行くんだ)
危うく口に出しそうになった言葉を飲み込む。
(……なんで俺がこんな)
分からない。
でも。
分からないままなのに。
苛立ちとざわめきは、ずっと残ったまま就業時間を迎えた。
***
店内は、落ち着いた照明で静かだった。
カウンター越しに並んで座る距離が、少しだけ近い。
「……まさか今日とは、思ってませんでした」
グラスを傾けながら、松原が柔らかく笑う。
「……早いほうがいいかな、って思って」
言葉とは裏腹に、自分でもわかるくらい、声がうまく乗らない。
「……何かあったんですか」
探るでもなく、ただ確かめるみたいな声。
(……こういうとこ)
優しい。
彼が社内でも人気があるのもわかる。
「別に……たまには松原とサシ飲みも悪くないかなって――」
「嘘ですね、顔に出てます」
優しい顔に似合わない即答に、少し驚く。
「……出向、決まったの」
あたしは観念して、グラスを置く。
「関西で、二年。広報課主体のプロジェクトよ」
一瞬、松原の表情が止まる。
でもすぐに、静かに息を吐いた。
「……そうですか」
「おめでとう、って言うべきなんでしょうね」
その言葉がやけにまっすぐで、こわいくらい揺さぶる。
(……ああ、だめ)
少しだけ、心が軽くなっていく。
「でも、不安なんですよね」
「……わかるんです、それ」
「……なにが」
軽くとける氷の音が、グラスに揺れる。
松原の香水の香りに、酔いそうになる。
「強がってるときの顔」
思わず、息を呑む。
(やめてよ)
そんなふうに、見抜かないで。
「……あたし、エースだからね」
「逃げる理由には、したくないから」
言いながら、胸の奥が少しだけ痛む。
(……ほんとは)
言いたいことは、そこじゃない。
でも。
「……ちゃんと、すごいと思ってます」
「八千草さんがやるって決めたなら、絶対うまくいきます」
松原の声は、変わらず穏やかだった。
(……こういうの)
優しさのかたまりみたいな言葉をくれる。
ちゃんと、あたしを見てくれてる人。
「……ありがと」
そのまま、少しだけ沈黙が落ちたあと。
松原が、ゆっくりと口を開いた。
「……俺、八千草さんのこと好きですよ」
「……え?」
あまりにも自然に言われて、反応が遅れる。
「でも」
「八千草さんが、真鍋さんのこと好きなのも知ってます」
その名前に触れただけで、心臓が嫌な音を立てる。
「それでも」
松原は、穏やかに笑ったまま。
「そういう八千草さんが、好きなんです」
――ずるい。
「……なにそれ」
「意味わかんない」
「ですよね」
かろうじて笑ったら、松原も小さく笑う。
「でも」
「俺なら、もっと楽にさせてあげられると思いますよ」
その一言が、胸に落ちて水面のように広がる。
(……楽)
「ちゃんと、見て」
「ちゃんと、選んで」
「ちゃんと、大事にする」
押しつけがましくなくて、ただ静かに寄り添ってくる。
欲しかったのは、きっとこういう優しさのはずなのに。
気づけば、口が動いていた。
「松原ってさ……優しいよね」
「……よく言われます」
「……だよね」
照れたように笑う松原に、少しだけ視線を落とす。
(……でも)
グラスを、強く握る。
(違う)
「……ごめん」
「やっぱり、ダメ」
顔を上げて、まっすぐに見る。
「ちゃんと選ばれたいの」
周りの音が一瞬だけ、消えたように思えた。
「……そっか」
少しだけ、寂しそうに笑って。
でも、どこか納得した顔で言う。
「やっぱり、真鍋さんなんですね」
「……うん」
想いは迷わなかった。
「知ってました」
そう言って、グラスを持ち上げる。
「だから、応援はしません」
「え?」
「でも」
少しだけ、悪い顔で笑う。
「諦めもしません」
(……ほんと、いい人だわ)
「……ありがとう」
それしか、言えなかった。
――そのときだった。
カラン、とドアベルが鳴る。
何気なく、視線を向けた瞬間。
「……は?」
低く押し殺した声が、聞こえる。
「……和巳」
見慣れた男が、そこに立っていた。



