店内は、ほどよく賑わっていた。
仕事終わりの人たちで埋まるカウンター席に、並んで座る。
「とりあえず、生でいい?」
「うん」
お決まりのやりとりも、どことなく噛み合ってない気がする。
「……で、なんの話だよ」
グラスを受け取りながら、和巳が言う。
「呼び出したんだろ」
「うん」
喉を通るビールの冷たさが、やけに心地いい。
「……あたしさ」
「関西、行くことになった」
和巳の手が、止まる。
そのまま、飲まずにしばらく動かなかった。
「……は?」
顔は上げないまま、続ける。
「出向。二年」
「……二年?」
和巳が聞き返す。
その二文字だけで、現実がいっそう重くなる。
「新規プロジェクトで、広報メインなんだって」
できるだけ、感情が乗らないように、淡々と話していく。
「……そうか」
(なんでそんな反応なのよ)
耐えきれなくて、もう一口、飲む。
「まぁ、あたししかいないって言われたし」
軽く笑ってみせる。
「エースだから、しょうがないでしょ」
軽い調子で言ったのに。
「……そうだな」
和巳は静かにグラスの縁を、指でなぞる。
やっぱり、それだけでの反応しかない。
(なによ、それ)
「ねぇ」
グラスを置いて、和巳を見る。
「もっとなんかないの?」
「……何が」
「二年よ?」
思ったより、声が強くなる。
「……長いな」
その一言に、思わず本音を期待してしまう。
「で?」
(ああ……やっぱり)
「もぅ、いいや」
なにもかも忘れて、飲み倒したい。
あたしは、ピッチをあげておかわりを頼んだ。
「お前、飲みすぎ」
「いいの。今日くらい」
渋い顔の和巳に止められる前に、もう一口。
(……どうせ、変わらないなら)
「……あたし、関西でガンガン働いて出世するっ!」
「おぅ」
「で、良い人見つけて結婚するっ」
笑う。
でも、うまく笑えてないのはわかる。
和巳が、わずかに眉を寄せる。
「……なんだよ、それ」
低く落ちた声に、ほんの少しだけ棘が混じる。
「なによ……その顔」
「もう決めたんだから……」
グラスを持つ手が、少しだけ震える。
(ほんとは)
「……終わらせようって、思ってたのに」
自分でも気づかないくらい、小さな声。
「は?」
「なんでもない」
すぐに打ち消して、勢いそのままにグラスを空ける。
「ほら、飲もっ」
背中を叩きつつ、おかわりを頼む。
自分のペース配分とか、話したかった本音とか。
すべてはビールの泡と一緒に、弾けとんでいた。
***
部屋のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
「……歩けるか?」
支えられたまま、曖昧に頷く。
足元がふらつくのに、体温だけは妙に近くて。
(……ふわふわする)
初めて訪れた和巳の家に、喜ぶ余裕はなくて。
泥のように重たい体と瞼が、ソファに沈みこんでいく。
「おい、ソファで寝るな」
「んー……」
引き起こされて、コップを受け取る。
冷たい水が、少しだけ理性を呼び覚ます。
「寝るならベッド行け」
「……え?」
「俺はここにいるから」
「…………は?」
和巳はソファをぽんっと叩いた。
こっちの気も知らないで、涼しい顔してるから崩してやりたい。
「……ちょっとはうろたえろ、ばか」
言い終わる前に、指先で顎をすくわれる。
視線を逸らす隙もなく、捕まった。
――逃げられない。
和巳が見つめたまま、静かに言う。
「……俺は、たぶん」
「雪乃が、好きだ」
「…………は?」
逃げようとした頬が、さらに強く絡め取られる。
曖昧な答えなのに、行動は分かりやすすぎて。
「雪乃、離すかよ」
「……なんで、今なのよ……」
絞り出した声は、自分でも驚くくらい震えていた。
でも次の瞬間、勝手に言葉が飛び出る。
「和巳のばかっ!きらい……大嫌いっ!!」
(……こんなことを言いたかったわけじゃないのに)
「ちがう……」
「……どっちなんだよ」
溜め息混じりの呆れた声に、こわくて顔を見れない。
「八年よ?」
「あんたの隣で、ずっと恋してきた時間よ」
(他の女と付き合って、別れるたびに隣にいたのはあたしだったのに)
「今さらそんなこと言われても……遅いわ」
自分の視界が、ぐにゃりと歪む。
堪えていた雫が、ひとつだけこぼれ落ちた。
「……そうだな」
そう言ったあと、沈黙がひろがる。
肯定した和巳は悪くない。
素直になれないあたしが悪い。
――だから、落ち込むのは虫がよすぎる。
一瞬だけ、和巳の手の力が緩む。
(ああ、終わりだわ……)
そう思った、その瞬間。
ぐい、と引き寄せられた。
「でも」
耳元に落ちてくる、掠れた声。
「遅いとか、関係ない」
背中に回された腕が、逃げ場をなくすみたいに強くなる。
「俺が欲しいのは、今の雪乃だ」
低く、甘く、逃げ場を塞ぐ声。
時間が止まったみたいに、何も考えられない。
(……わかってないくせに、ずるい)
和巳に届いてしまいそうなくらい、心臓がうるさい。
「……離して」
「無理だ」
かろうじて絞り出した抵抗も、全く効いていない。
それどころか、詰められる距離に息が詰まる。
触れそうで、触れない。
(やめて)
(それ以上来たら――)
「……一回だけでいい」
掠れた声が、自分でも信じられないくらい弱い。
「……今日だけ……なかったことにするから」
逃げだって、わかってる。
でも。
これ以上、踏み込んだら――終われなくなる。
和巳の指が、ぴくりと止まる。
「……それ、本気で言ってんのか」
責めるでもなく、ただ確かめるみたいに。
感情が見えない視線も、もう逸らせない。
「……本気」
嘘。
でも、本当。
背中に回された腕が、後戻りできないと伝えてくる。
「……あたし、もう三十歳よ」
でも、それだけは、ちゃんと伝えたくて。
震える指先で、和巳のシャツを掴んだ。
「中途半端なのは、いらない」
一瞬だけ、空気が張り詰めた。
――次の瞬間。
和巳の目が、はっきりと変わる。
抱き上げられて、和巳の歩幅にあわせてふわふわ伝わる体温。
そんなわずかな揺れやあたたかさが、心地よくて目を閉じる。
何も言わないまま、ベッドの上に降ろされた。
「……雪乃」
いつもより低く、静かに。
――初めてみたいに、丁寧に名前を呼ばれた。
そのまま、距離がゆっくりなくなっていく。
(キスしたら、終われなくなる)
それだけは、わかる。
だから――
「……やっぱ、」
言いかけた瞬間、視界が、ぐらりと揺れた。
「あ……」
力が抜けて、そのまま、和巳の胸に預かるみたいに崩れ落ちた。
「……おい、雪乃?」
ぼんやりとした意識の中で、名前を呼ばれる。
(ああ……あったかい……)
「……ほんと、タイミング最悪」
呆れたような、でも、その手は優しくて。
「煽るだけ煽っといて……寝んなよ」
そう言いながら、離そうとしないくせに。
(ずるいのは、そっちでしょ……)
最後にそう思ったところで、意識が途切れた。
***
雪乃の寝息が、規則正しく響く。
腕の中で、大人しくなった体温。
「……はぁ」
深い息が、静かな寝息と重なる。
(なんだ……これ)
さっきまでの距離。
言葉。
目。
全部、頭に残ってる。
(……無理だろ)
静かに、視線を落とす。
何度か見たことがある寝顔が、俺のベッドにある違和感。
無防備で、何も知らないみたいに。
「……呑気だな」
(こっちの気も知らずに……)
(……は?……こっちの気も……って何だそれは)
自問自答しながら、小さく首をふる。
触れようとしていた手を止めた。
(自分で自分の感情がわからない……)
でも。
(……離せるかよ、こんなの)
それだけは、確かな感情だった。
仕事終わりの人たちで埋まるカウンター席に、並んで座る。
「とりあえず、生でいい?」
「うん」
お決まりのやりとりも、どことなく噛み合ってない気がする。
「……で、なんの話だよ」
グラスを受け取りながら、和巳が言う。
「呼び出したんだろ」
「うん」
喉を通るビールの冷たさが、やけに心地いい。
「……あたしさ」
「関西、行くことになった」
和巳の手が、止まる。
そのまま、飲まずにしばらく動かなかった。
「……は?」
顔は上げないまま、続ける。
「出向。二年」
「……二年?」
和巳が聞き返す。
その二文字だけで、現実がいっそう重くなる。
「新規プロジェクトで、広報メインなんだって」
できるだけ、感情が乗らないように、淡々と話していく。
「……そうか」
(なんでそんな反応なのよ)
耐えきれなくて、もう一口、飲む。
「まぁ、あたししかいないって言われたし」
軽く笑ってみせる。
「エースだから、しょうがないでしょ」
軽い調子で言ったのに。
「……そうだな」
和巳は静かにグラスの縁を、指でなぞる。
やっぱり、それだけでの反応しかない。
(なによ、それ)
「ねぇ」
グラスを置いて、和巳を見る。
「もっとなんかないの?」
「……何が」
「二年よ?」
思ったより、声が強くなる。
「……長いな」
その一言に、思わず本音を期待してしまう。
「で?」
(ああ……やっぱり)
「もぅ、いいや」
なにもかも忘れて、飲み倒したい。
あたしは、ピッチをあげておかわりを頼んだ。
「お前、飲みすぎ」
「いいの。今日くらい」
渋い顔の和巳に止められる前に、もう一口。
(……どうせ、変わらないなら)
「……あたし、関西でガンガン働いて出世するっ!」
「おぅ」
「で、良い人見つけて結婚するっ」
笑う。
でも、うまく笑えてないのはわかる。
和巳が、わずかに眉を寄せる。
「……なんだよ、それ」
低く落ちた声に、ほんの少しだけ棘が混じる。
「なによ……その顔」
「もう決めたんだから……」
グラスを持つ手が、少しだけ震える。
(ほんとは)
「……終わらせようって、思ってたのに」
自分でも気づかないくらい、小さな声。
「は?」
「なんでもない」
すぐに打ち消して、勢いそのままにグラスを空ける。
「ほら、飲もっ」
背中を叩きつつ、おかわりを頼む。
自分のペース配分とか、話したかった本音とか。
すべてはビールの泡と一緒に、弾けとんでいた。
***
部屋のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
「……歩けるか?」
支えられたまま、曖昧に頷く。
足元がふらつくのに、体温だけは妙に近くて。
(……ふわふわする)
初めて訪れた和巳の家に、喜ぶ余裕はなくて。
泥のように重たい体と瞼が、ソファに沈みこんでいく。
「おい、ソファで寝るな」
「んー……」
引き起こされて、コップを受け取る。
冷たい水が、少しだけ理性を呼び覚ます。
「寝るならベッド行け」
「……え?」
「俺はここにいるから」
「…………は?」
和巳はソファをぽんっと叩いた。
こっちの気も知らないで、涼しい顔してるから崩してやりたい。
「……ちょっとはうろたえろ、ばか」
言い終わる前に、指先で顎をすくわれる。
視線を逸らす隙もなく、捕まった。
――逃げられない。
和巳が見つめたまま、静かに言う。
「……俺は、たぶん」
「雪乃が、好きだ」
「…………は?」
逃げようとした頬が、さらに強く絡め取られる。
曖昧な答えなのに、行動は分かりやすすぎて。
「雪乃、離すかよ」
「……なんで、今なのよ……」
絞り出した声は、自分でも驚くくらい震えていた。
でも次の瞬間、勝手に言葉が飛び出る。
「和巳のばかっ!きらい……大嫌いっ!!」
(……こんなことを言いたかったわけじゃないのに)
「ちがう……」
「……どっちなんだよ」
溜め息混じりの呆れた声に、こわくて顔を見れない。
「八年よ?」
「あんたの隣で、ずっと恋してきた時間よ」
(他の女と付き合って、別れるたびに隣にいたのはあたしだったのに)
「今さらそんなこと言われても……遅いわ」
自分の視界が、ぐにゃりと歪む。
堪えていた雫が、ひとつだけこぼれ落ちた。
「……そうだな」
そう言ったあと、沈黙がひろがる。
肯定した和巳は悪くない。
素直になれないあたしが悪い。
――だから、落ち込むのは虫がよすぎる。
一瞬だけ、和巳の手の力が緩む。
(ああ、終わりだわ……)
そう思った、その瞬間。
ぐい、と引き寄せられた。
「でも」
耳元に落ちてくる、掠れた声。
「遅いとか、関係ない」
背中に回された腕が、逃げ場をなくすみたいに強くなる。
「俺が欲しいのは、今の雪乃だ」
低く、甘く、逃げ場を塞ぐ声。
時間が止まったみたいに、何も考えられない。
(……わかってないくせに、ずるい)
和巳に届いてしまいそうなくらい、心臓がうるさい。
「……離して」
「無理だ」
かろうじて絞り出した抵抗も、全く効いていない。
それどころか、詰められる距離に息が詰まる。
触れそうで、触れない。
(やめて)
(それ以上来たら――)
「……一回だけでいい」
掠れた声が、自分でも信じられないくらい弱い。
「……今日だけ……なかったことにするから」
逃げだって、わかってる。
でも。
これ以上、踏み込んだら――終われなくなる。
和巳の指が、ぴくりと止まる。
「……それ、本気で言ってんのか」
責めるでもなく、ただ確かめるみたいに。
感情が見えない視線も、もう逸らせない。
「……本気」
嘘。
でも、本当。
背中に回された腕が、後戻りできないと伝えてくる。
「……あたし、もう三十歳よ」
でも、それだけは、ちゃんと伝えたくて。
震える指先で、和巳のシャツを掴んだ。
「中途半端なのは、いらない」
一瞬だけ、空気が張り詰めた。
――次の瞬間。
和巳の目が、はっきりと変わる。
抱き上げられて、和巳の歩幅にあわせてふわふわ伝わる体温。
そんなわずかな揺れやあたたかさが、心地よくて目を閉じる。
何も言わないまま、ベッドの上に降ろされた。
「……雪乃」
いつもより低く、静かに。
――初めてみたいに、丁寧に名前を呼ばれた。
そのまま、距離がゆっくりなくなっていく。
(キスしたら、終われなくなる)
それだけは、わかる。
だから――
「……やっぱ、」
言いかけた瞬間、視界が、ぐらりと揺れた。
「あ……」
力が抜けて、そのまま、和巳の胸に預かるみたいに崩れ落ちた。
「……おい、雪乃?」
ぼんやりとした意識の中で、名前を呼ばれる。
(ああ……あったかい……)
「……ほんと、タイミング最悪」
呆れたような、でも、その手は優しくて。
「煽るだけ煽っといて……寝んなよ」
そう言いながら、離そうとしないくせに。
(ずるいのは、そっちでしょ……)
最後にそう思ったところで、意識が途切れた。
***
雪乃の寝息が、規則正しく響く。
腕の中で、大人しくなった体温。
「……はぁ」
深い息が、静かな寝息と重なる。
(なんだ……これ)
さっきまでの距離。
言葉。
目。
全部、頭に残ってる。
(……無理だろ)
静かに、視線を落とす。
何度か見たことがある寝顔が、俺のベッドにある違和感。
無防備で、何も知らないみたいに。
「……呑気だな」
(こっちの気も知らずに……)
(……は?……こっちの気も……って何だそれは)
自問自答しながら、小さく首をふる。
触れようとしていた手を止めた。
(自分で自分の感情がわからない……)
でも。
(……離せるかよ、こんなの)
それだけは、確かな感情だった。



