あのクリスマス以来、自分ばかりが和巳を意識してしまう。
それは年が明けて、ますます深刻になっていた。
「なんか……悔しい……」
「え?……資料変でしたか?」
後輩の声に、ここがどこだか思い出す。
仕事中にありえない失態、重傷すぎる。
「……ごめん、ちょっと頭冷やしてくるわ」
糖分補給と仕切り直しのため、休憩室に逃げ込んだ。
いつもは飲まないカフェオレの甘ったるさが、今は妙に心地よい。
「染みるー……」
「珍しいな、雪乃がカフェオレ飲むとか」
「ひゃぁ!!」
今一番聞きたくない声が、背後から落ちてきた。
振り返らなくても分かりきってる。
「そんなに驚くか?」
「……うるさい」
なんとなく顔を合わせられないでいると、ほのかに香る煙の匂い。
「あれ?珍しいわね」
「あぁ、ちょっとな……」
和巳が煙草を吸うときは、決まってストレス過多のときだ。
それくらい分かる付き合いなのに――
今はどうしてか、和巳の仕草にいちいちざわめいてばかり。
(……あたしばっかり……なんか腹立つ)
「雪乃?」
怪訝な顔で覗きこむのを、制して立ち上がる。
「……先に行くわ、お疲れっ」
結局、心休まらず、余計に疲労感が増してしまった。
***
フロアに戻ると、課長にミーティングルームへ来いと呼ばれた。
室内の空気は、いつもより少しだけ張り詰めている。
差し出された一冊の資料を受け取り、目で追っていく。
すると課長が、口を開いた。
「関西支社主導で、この四月から新規事業を立ち上げる」
「今回は“広報主導”で立ち上げる案件だ。
ブランド設計も含め、対外発信まで一貫してやる」
(……広報主導、なるほど)
会社が力を入れてるプロジェクトだと、資料からも読み取れる。
「本社から数名、出向という形で入ってもらう」
「その中核に――八千草、お前を入れたい」
課長の視線が、まっすぐに向けられる。
「……私、ですか?」
「ああ」
「お前は“創る広報”ができる。
ただ伝えるだけじゃない。企画の段階から噛んで、物語を生み出すのが抜群にうまい」
「広報のエースは、お前だろ」
贔屓目なしの言葉が、まっすぐ胸に刺さる。
「今回のプロジェクトはそこが要になる。
関西と本社、両方を繋いで、外に出す“顔”を作る役だ」
(……評価、されてる)
「期間はどれくらいですか?」
「二年だ」
――長い。
胸の奥が、かすかに軋む。
「……断ることも、できますか?」
静かに問うと、部長はわずかに目を細めた。
「できる」
はっきりと言われたが、すこしだけ間があいて。
「ただ――」
「この役割は、お前にしか任せられない」
逃げ道はあるけど、選べる余地はない。
(……答えが用意された言い方だわ)
「……わかりました」
自然と、口が動いた。
「お受けします」
部長が、「期待してる」と小さく頷いた。
ミーティングルームを出ると、小さく息を吐いた。
廊下の窓から差し込む光が、やけに眩しい。
(二年……)
口の中で、そっと転がす。
(二年って……今のあたしには長すぎる)
考えたくないのに、浮かぶのはひとつだけ。
(……和巳)
(あいつ、どう思うんだろ)
口にするのは怖いくせに、頭の中では何度も名前を呼んでしまう。
(……でも、逃げる理由には、したくない)
ぎゅっと、小さく拳を握る。
これは、自分で選んで決めた仕事だ。
だから、
――ちゃんと、行く。
それでも。
「……長いなぁ」
ぽつりと零れた声は、誰にも届かずに消えた。
***
マンションのドアを閉めた瞬間、力が抜けた。
「……はぁ」
靴も脱がずに、その場にしゃがみ込む。
(二年……関西支社……広報課のエース)
口の中で転がすたび、現実を突きつけられる。
(……和巳)
無意識にスマホを手に取っていた。
一瞬、躊躇ったけど、
――今、話したい。
数コールのあと、「……どうした」と聞こえてきた。
カチカチとリズミカルな打撃音が混じる。
「今、時間ある?」
『無理』
間髪入れずに返ってくる。
『ちょっと今、素材集めに忙しい』
(ああ、ゲームか)
思わず、苦笑が漏れそうになる。
いつもなら、「は?また?ちょっとくらい付き合いなさいよ」って、無理やり連れ出すのに。
「……そっか」
それだけで、会話を終わらせようとする。
『……おい』
「また今度でいい、ごめん、邪魔して」
自分でも驚くくらい、あっさりした声で切った。
暗くなった画面を暫く見つめる。
(……言えなかった)
喉の奥が、少しだけ詰まる。
(……無理に言うことじゃないわ)
そう思った、そのとき。
画面に表示された名前に、息が止まる。
『今、どこ』
さっきより少しだけ低い声に、鼓動が早くなる。
「……家」
『出れるな、行くぞ』
「え?」
『飲み行くんだろ、付き合ってやる』
『お前が変な切り方するから、気持ち悪い』
ぶっきらぼうに返ってくる。
(……なにそれ)
笑いそうになるのを、こらえる。
でも、和巳らしい優しさに、心がふるえる。
「……ありがと」
小さく呟くと、『いいから、準備しろ』と通話が切れる。
スマホを握ったまま、少しだけ立ち尽くす。
(……ほんと、ずるい)
こんなときだけ、ちゃんと来るんだから。
それは年が明けて、ますます深刻になっていた。
「なんか……悔しい……」
「え?……資料変でしたか?」
後輩の声に、ここがどこだか思い出す。
仕事中にありえない失態、重傷すぎる。
「……ごめん、ちょっと頭冷やしてくるわ」
糖分補給と仕切り直しのため、休憩室に逃げ込んだ。
いつもは飲まないカフェオレの甘ったるさが、今は妙に心地よい。
「染みるー……」
「珍しいな、雪乃がカフェオレ飲むとか」
「ひゃぁ!!」
今一番聞きたくない声が、背後から落ちてきた。
振り返らなくても分かりきってる。
「そんなに驚くか?」
「……うるさい」
なんとなく顔を合わせられないでいると、ほのかに香る煙の匂い。
「あれ?珍しいわね」
「あぁ、ちょっとな……」
和巳が煙草を吸うときは、決まってストレス過多のときだ。
それくらい分かる付き合いなのに――
今はどうしてか、和巳の仕草にいちいちざわめいてばかり。
(……あたしばっかり……なんか腹立つ)
「雪乃?」
怪訝な顔で覗きこむのを、制して立ち上がる。
「……先に行くわ、お疲れっ」
結局、心休まらず、余計に疲労感が増してしまった。
***
フロアに戻ると、課長にミーティングルームへ来いと呼ばれた。
室内の空気は、いつもより少しだけ張り詰めている。
差し出された一冊の資料を受け取り、目で追っていく。
すると課長が、口を開いた。
「関西支社主導で、この四月から新規事業を立ち上げる」
「今回は“広報主導”で立ち上げる案件だ。
ブランド設計も含め、対外発信まで一貫してやる」
(……広報主導、なるほど)
会社が力を入れてるプロジェクトだと、資料からも読み取れる。
「本社から数名、出向という形で入ってもらう」
「その中核に――八千草、お前を入れたい」
課長の視線が、まっすぐに向けられる。
「……私、ですか?」
「ああ」
「お前は“創る広報”ができる。
ただ伝えるだけじゃない。企画の段階から噛んで、物語を生み出すのが抜群にうまい」
「広報のエースは、お前だろ」
贔屓目なしの言葉が、まっすぐ胸に刺さる。
「今回のプロジェクトはそこが要になる。
関西と本社、両方を繋いで、外に出す“顔”を作る役だ」
(……評価、されてる)
「期間はどれくらいですか?」
「二年だ」
――長い。
胸の奥が、かすかに軋む。
「……断ることも、できますか?」
静かに問うと、部長はわずかに目を細めた。
「できる」
はっきりと言われたが、すこしだけ間があいて。
「ただ――」
「この役割は、お前にしか任せられない」
逃げ道はあるけど、選べる余地はない。
(……答えが用意された言い方だわ)
「……わかりました」
自然と、口が動いた。
「お受けします」
部長が、「期待してる」と小さく頷いた。
ミーティングルームを出ると、小さく息を吐いた。
廊下の窓から差し込む光が、やけに眩しい。
(二年……)
口の中で、そっと転がす。
(二年って……今のあたしには長すぎる)
考えたくないのに、浮かぶのはひとつだけ。
(……和巳)
(あいつ、どう思うんだろ)
口にするのは怖いくせに、頭の中では何度も名前を呼んでしまう。
(……でも、逃げる理由には、したくない)
ぎゅっと、小さく拳を握る。
これは、自分で選んで決めた仕事だ。
だから、
――ちゃんと、行く。
それでも。
「……長いなぁ」
ぽつりと零れた声は、誰にも届かずに消えた。
***
マンションのドアを閉めた瞬間、力が抜けた。
「……はぁ」
靴も脱がずに、その場にしゃがみ込む。
(二年……関西支社……広報課のエース)
口の中で転がすたび、現実を突きつけられる。
(……和巳)
無意識にスマホを手に取っていた。
一瞬、躊躇ったけど、
――今、話したい。
数コールのあと、「……どうした」と聞こえてきた。
カチカチとリズミカルな打撃音が混じる。
「今、時間ある?」
『無理』
間髪入れずに返ってくる。
『ちょっと今、素材集めに忙しい』
(ああ、ゲームか)
思わず、苦笑が漏れそうになる。
いつもなら、「は?また?ちょっとくらい付き合いなさいよ」って、無理やり連れ出すのに。
「……そっか」
それだけで、会話を終わらせようとする。
『……おい』
「また今度でいい、ごめん、邪魔して」
自分でも驚くくらい、あっさりした声で切った。
暗くなった画面を暫く見つめる。
(……言えなかった)
喉の奥が、少しだけ詰まる。
(……無理に言うことじゃないわ)
そう思った、そのとき。
画面に表示された名前に、息が止まる。
『今、どこ』
さっきより少しだけ低い声に、鼓動が早くなる。
「……家」
『出れるな、行くぞ』
「え?」
『飲み行くんだろ、付き合ってやる』
『お前が変な切り方するから、気持ち悪い』
ぶっきらぼうに返ってくる。
(……なにそれ)
笑いそうになるのを、こらえる。
でも、和巳らしい優しさに、心がふるえる。
「……ありがと」
小さく呟くと、『いいから、準備しろ』と通話が切れる。
スマホを握ったまま、少しだけ立ち尽くす。
(……ほんと、ずるい)
こんなときだけ、ちゃんと来るんだから。



