そう安堵しながら、領地の屋敷へ戻る両親を『あまりスタンリーに苦労を掛けるようなことをなさいましたら、全力で呪いますわよ……!』と思いながら、笑顔で見送ったときだった。
上品な笑顔でその場にいた伯爵夫人が、すっと表情を消して夫を見る。
艶やかな栗毛を一筋の乱れもなく結い上げた彼女は、モスグリーンの瞳を持つとても美しい女性だ。語る言葉も柔らかく機知に富んだもので、彼女が義理の母となってくれることを、エレオノーラは心から嬉しく思っていたのだが――。
「それでは、セドリックさま。大変申し訳ございませんが、わたくし急な病を得てしまいましたので、これより別邸に移らせていただきますわね」
「……は?」
伯爵が、ぽかんとして妻を見た。
エレオノーラとクリストファーも同様で、束の間なんとも言い難い沈黙が室内に落ちる。
ややあって、ぎこちなく伯爵が口を開いた。
「何を言っているんだ? カトリーナ」
「ですから、病を得たと。……エレオノーラさま。せっかく我が家にいらしてくださったばかりだというのに、このようなことになって申し訳ありません。本当に……心よりお詫び申し上げます」
深々とエレオノーラに向けて一礼した伯爵夫人――カトリーナの声が、震えている。
それから顔を上げた彼女は、一瞬苦悩に満ちた瞳でエレオノーラを見つめたあと、氷のように冷ややかな視線を夫に向けた。
「セドリックさま、ご存じですか? あなたは三ヶ月前、この家にクリストファーさんをお迎えするとおっしゃったときから、一度もわたくしに謝罪していらっしゃいませんのよ」
エレオノーラは、固まった。
クリストファーは、伯爵――セドリックの私生児だ。
それすなわち、セドリックがカトリーナではない女性と愛を育んでいたということである。
貴族の婚姻において、当人同士の感情が優先されることは非常に稀だ。結婚後も信頼関係を構築できなかった夫婦が、心から愛する相手を家の外に求めること自体は、そう珍しいことではない。
他人事ながら、随分非効率的で面倒なことをしているな、と思うことはある。
けれど、家の存続を最優先に考える貴族社会の構造がこうなっている以上、当人同士が納得しているのであれば、部外者が口出しすることに意味はない。
しかし今、カトリーナは夫の不貞に対し謝罪を求めた。
それは、グラッドストン伯爵夫妻の関係が、互いの不貞を黙認するような冷え切ったものではなかったからこその発言だ。こうして夫の不貞を咎めるカトリーナの中には、彼に対する信頼と愛情があったのではないだろうか。
そして、信頼も愛情も、一方通行で成立するようなものではない。
この夫妻の間には、おそらく結婚当初から積み重ねてきた信頼と愛情が、きちんと構築されていた。
にもかかわらず、セドリックは突然私生児をこの屋敷に連れてきたうえ、過去の裏切りについてなんの謝罪もしていないということなのか。
(え……えぇ? 伯爵さま。さすがにそれは、ひどすぎませんか?)
どん引きしたエレオノーラが、思わず隣に立つクリストファーを見上げると、彼も真剣な眼差しでセドリックを見つめている。
「……父上。どういうことですか? オレをこの家へ迎えたのは、カトリーナさまも同意くださったうえのことではなかったのですか?」
彼の低い声での問いかけに、セドリックが慌てた様子で口を開く。
「いや、もちろん彼女の同意あってのことだとも! 新たな後継者を迎えることになったなら、カトリーナが責任を持って教育してくれると言ったから……!」
「ええ、そうですわね。チャーリーがあのような形で出奔してしまった以上、あなたが選んだ新たなこの家の後継者を、あの子以上に立派なグラッドストン伯爵に育て上げる。それが、チャーリーの母であり、伯爵夫人であるわたくしの責任だと思っておりましたわ」
落ち着いた、感情をまるで感じさせない声でカトリーナが言う。
「ですがまさか、あなたご自身が外で作られた子をお連れになるなど、わたくし想像もいたしませんでしたのよ」
上品な扇で口元を覆い、にこりとほほえむ彼女に、短く息を吸ったクリストファーが問いかける。
「カトリーナさま。……その、あなたはオレの母の存在を、ずっとご存じなかったのですか?」
「ええ、クリストファーさん。セドリックさまから、あなたをこの家の後継者として迎えたいと打診されるまで、わたくしはあなたのお母さまのことも、あなた自身のことも、何ひとつ存じ上げませんでした」
その答えに、クリストファーがエメラルドグリーンの瞳を凄絶に光らせながら、きつくセドリックを睨みつけた。
「おい、おっさん。どういうことだ? オレは、あんたの奥さんが全部納得したうえでオレを受け入れてくれたっつーから、後継者の話を受けたんだぞ? 全然、話が違うじゃねェか!」
クリストファーの口調が突然崩れ、エレオノーラは驚いた。
(あら、クリストファーさま。そちらが本来の口調なのですか? ……いえ、今はそんなことを呑気に考えている場合ではありませんね)
密かに反省している間にも、狼狽しきった様子のセドリックが裏返りそうな声で反論している。
「い、いや! 私はたしかに、カトリーナに確認したんだ! 昔我が家に仕えていた娘がおまえを身ごもったことも、彼女がおまえを産んですぐに亡くなったことも、おまえを育ててくれた彼女の両親にきちんと養育費を払っていたことも! そのうえで、おまえをこの屋敷の後継者として迎えたいと、それに賛同してくれるかと確認した!」
うわぁ、とクリストファーが呆れかえった声を零す。
「つまり、昔のことを説明して確認しただけで、あんたがオレの母親と浮気したことについて、一切奥さんに謝罪していなかったんだな?」
「……え?」
セドリックが、はたと動きを止めた。
少し考えるような間のあと、彼は恐る恐る妻に問う。
「……謝って、いなかったか?」
「ええ。この件についてはなんの落ち度もないクリストファーさんでさえ、この屋敷にはじめていらしたとき、真っ先にお母さまの過去の行いを詫びてくださいましたのにね」
ふう、とカトリーナがため息を吐く。
「わたくしとて、貴族の家に生まれた女です。夫の浮気のひとつやふたつ、そう珍しいことではないと理解しておりますわ」
ですから、と声を低めてカトリーナが言う。
「わたくしが本当に怒っているのは、あなたが二十一年前、クリストファーさんをお産みになった女性が亡くなったとき、金銭ですべてをなかったことにしようとされたことです」
しん、とその場が静まり返る。
「こうして健やかにお育ちになったクリストファーさんの姿を見れば、彼のおじいさまおばあさまが、愛情をこめて育ててくださったことはわかります。あなたがお支払いになったという養育費が、その一助になったのはきっと間違いのない事実なのでしょう」
カトリーナの鋭い声が、その場に響く。
「ですが、セドリックさま。そのときクリストファーさんを我が家に引き取って、チャーリーの弟として養育したいと、一度もわたくしに相談されなかったのはなぜですの?」
「それ、は……」
青ざめたセドリックが、視線を逸らす。
そんな彼に、カトリーナは続けて言った。
「クリストファーさんのおじいさまおばあさまが、ご令嬢の忘れ形見を手放すことをよしとしなかった、というのはわかります。ただ、あなたはそれをいいことに、ご自分のお子を産んでくださった女性もろとも、クリストファーさんの存在をわたくしに隠し続けた。……二十一年間」
カトリーナが、パチンと音を立てて扇をたたむ。
「ねえ、セドリックさま。これは、わたくしたちが結婚以来築き上げてきた信頼関係が、根底から崩れ落ちて然るべき事態だと思うのですが、いかがでしょう?」
上品な笑顔でその場にいた伯爵夫人が、すっと表情を消して夫を見る。
艶やかな栗毛を一筋の乱れもなく結い上げた彼女は、モスグリーンの瞳を持つとても美しい女性だ。語る言葉も柔らかく機知に富んだもので、彼女が義理の母となってくれることを、エレオノーラは心から嬉しく思っていたのだが――。
「それでは、セドリックさま。大変申し訳ございませんが、わたくし急な病を得てしまいましたので、これより別邸に移らせていただきますわね」
「……は?」
伯爵が、ぽかんとして妻を見た。
エレオノーラとクリストファーも同様で、束の間なんとも言い難い沈黙が室内に落ちる。
ややあって、ぎこちなく伯爵が口を開いた。
「何を言っているんだ? カトリーナ」
「ですから、病を得たと。……エレオノーラさま。せっかく我が家にいらしてくださったばかりだというのに、このようなことになって申し訳ありません。本当に……心よりお詫び申し上げます」
深々とエレオノーラに向けて一礼した伯爵夫人――カトリーナの声が、震えている。
それから顔を上げた彼女は、一瞬苦悩に満ちた瞳でエレオノーラを見つめたあと、氷のように冷ややかな視線を夫に向けた。
「セドリックさま、ご存じですか? あなたは三ヶ月前、この家にクリストファーさんをお迎えするとおっしゃったときから、一度もわたくしに謝罪していらっしゃいませんのよ」
エレオノーラは、固まった。
クリストファーは、伯爵――セドリックの私生児だ。
それすなわち、セドリックがカトリーナではない女性と愛を育んでいたということである。
貴族の婚姻において、当人同士の感情が優先されることは非常に稀だ。結婚後も信頼関係を構築できなかった夫婦が、心から愛する相手を家の外に求めること自体は、そう珍しいことではない。
他人事ながら、随分非効率的で面倒なことをしているな、と思うことはある。
けれど、家の存続を最優先に考える貴族社会の構造がこうなっている以上、当人同士が納得しているのであれば、部外者が口出しすることに意味はない。
しかし今、カトリーナは夫の不貞に対し謝罪を求めた。
それは、グラッドストン伯爵夫妻の関係が、互いの不貞を黙認するような冷え切ったものではなかったからこその発言だ。こうして夫の不貞を咎めるカトリーナの中には、彼に対する信頼と愛情があったのではないだろうか。
そして、信頼も愛情も、一方通行で成立するようなものではない。
この夫妻の間には、おそらく結婚当初から積み重ねてきた信頼と愛情が、きちんと構築されていた。
にもかかわらず、セドリックは突然私生児をこの屋敷に連れてきたうえ、過去の裏切りについてなんの謝罪もしていないということなのか。
(え……えぇ? 伯爵さま。さすがにそれは、ひどすぎませんか?)
どん引きしたエレオノーラが、思わず隣に立つクリストファーを見上げると、彼も真剣な眼差しでセドリックを見つめている。
「……父上。どういうことですか? オレをこの家へ迎えたのは、カトリーナさまも同意くださったうえのことではなかったのですか?」
彼の低い声での問いかけに、セドリックが慌てた様子で口を開く。
「いや、もちろん彼女の同意あってのことだとも! 新たな後継者を迎えることになったなら、カトリーナが責任を持って教育してくれると言ったから……!」
「ええ、そうですわね。チャーリーがあのような形で出奔してしまった以上、あなたが選んだ新たなこの家の後継者を、あの子以上に立派なグラッドストン伯爵に育て上げる。それが、チャーリーの母であり、伯爵夫人であるわたくしの責任だと思っておりましたわ」
落ち着いた、感情をまるで感じさせない声でカトリーナが言う。
「ですがまさか、あなたご自身が外で作られた子をお連れになるなど、わたくし想像もいたしませんでしたのよ」
上品な扇で口元を覆い、にこりとほほえむ彼女に、短く息を吸ったクリストファーが問いかける。
「カトリーナさま。……その、あなたはオレの母の存在を、ずっとご存じなかったのですか?」
「ええ、クリストファーさん。セドリックさまから、あなたをこの家の後継者として迎えたいと打診されるまで、わたくしはあなたのお母さまのことも、あなた自身のことも、何ひとつ存じ上げませんでした」
その答えに、クリストファーがエメラルドグリーンの瞳を凄絶に光らせながら、きつくセドリックを睨みつけた。
「おい、おっさん。どういうことだ? オレは、あんたの奥さんが全部納得したうえでオレを受け入れてくれたっつーから、後継者の話を受けたんだぞ? 全然、話が違うじゃねェか!」
クリストファーの口調が突然崩れ、エレオノーラは驚いた。
(あら、クリストファーさま。そちらが本来の口調なのですか? ……いえ、今はそんなことを呑気に考えている場合ではありませんね)
密かに反省している間にも、狼狽しきった様子のセドリックが裏返りそうな声で反論している。
「い、いや! 私はたしかに、カトリーナに確認したんだ! 昔我が家に仕えていた娘がおまえを身ごもったことも、彼女がおまえを産んですぐに亡くなったことも、おまえを育ててくれた彼女の両親にきちんと養育費を払っていたことも! そのうえで、おまえをこの屋敷の後継者として迎えたいと、それに賛同してくれるかと確認した!」
うわぁ、とクリストファーが呆れかえった声を零す。
「つまり、昔のことを説明して確認しただけで、あんたがオレの母親と浮気したことについて、一切奥さんに謝罪していなかったんだな?」
「……え?」
セドリックが、はたと動きを止めた。
少し考えるような間のあと、彼は恐る恐る妻に問う。
「……謝って、いなかったか?」
「ええ。この件についてはなんの落ち度もないクリストファーさんでさえ、この屋敷にはじめていらしたとき、真っ先にお母さまの過去の行いを詫びてくださいましたのにね」
ふう、とカトリーナがため息を吐く。
「わたくしとて、貴族の家に生まれた女です。夫の浮気のひとつやふたつ、そう珍しいことではないと理解しておりますわ」
ですから、と声を低めてカトリーナが言う。
「わたくしが本当に怒っているのは、あなたが二十一年前、クリストファーさんをお産みになった女性が亡くなったとき、金銭ですべてをなかったことにしようとされたことです」
しん、とその場が静まり返る。
「こうして健やかにお育ちになったクリストファーさんの姿を見れば、彼のおじいさまおばあさまが、愛情をこめて育ててくださったことはわかります。あなたがお支払いになったという養育費が、その一助になったのはきっと間違いのない事実なのでしょう」
カトリーナの鋭い声が、その場に響く。
「ですが、セドリックさま。そのときクリストファーさんを我が家に引き取って、チャーリーの弟として養育したいと、一度もわたくしに相談されなかったのはなぜですの?」
「それ、は……」
青ざめたセドリックが、視線を逸らす。
そんな彼に、カトリーナは続けて言った。
「クリストファーさんのおじいさまおばあさまが、ご令嬢の忘れ形見を手放すことをよしとしなかった、というのはわかります。ただ、あなたはそれをいいことに、ご自分のお子を産んでくださった女性もろとも、クリストファーさんの存在をわたくしに隠し続けた。……二十一年間」
カトリーナが、パチンと音を立てて扇をたたむ。
「ねえ、セドリックさま。これは、わたくしたちが結婚以来築き上げてきた信頼関係が、根底から崩れ落ちて然るべき事態だと思うのですが、いかがでしょう?」
