傲慢な兄の身代わりだった公爵令嬢は、元傭兵の婚約者に一目惚れされたようです。

「あら、そうかしら。わたくしは傭兵の方々とともに討伐任務に当たったことも何度もあるし、クリストファーさまが彼らのような方だというのは、あまり気にならないわ。――それより、心配なのはあなたのほうよ。スタンリー」

 エレオノーラは、改めて弟を見上げて言う。

「わたくしがこの家を出る以上、今後のオルブライト公爵領の治安維持は、あなたの肩に掛かっているといっても過言ではないのだもの」
「はい、わかっています。でも、三年前から姉上も同じことをしていたではありませんか。姉上にはまだまだ頼りなく思われるかもしれませんが、おれだってどうにかがんばってみせますよ」

 気丈に笑ってみせるスタンリーに、エレオノーラはぎゅっと手指を握りしめる。

「いいえ、わたくしのときとはまるで違うわ。わたくしが本格的に魔獣討伐に従事しはじめたときには、必ずあなたがそばにいてくれたのだから」

 エレオノーラが、この屋敷を去るまであと十日。
 それから先、スタンリーは誰ひとり味方がいない中、ここで戦っていかなければならないのだ。
 彼はまだ、十五歳の少年なのに。

「……無駄なことかもしれないけれど、これまでの魔獣討伐の記録とともに、お父さまに訴えてみようと思うの。お父さまが現役でいらした頃と、今の状況は随分変わってしまっているのだと」

 もしそれで、父がほんの少しでも危機感を持ってくれたなら、スタンリーひとりにオルブライト公爵家の担うべき責任を押しつけるようなことには、ならなくて済むかもしれない。
 しかし、スタンリーは苦笑を浮かべて首を横に振った。

「姉上。残念ですが、それは本当に無駄なことです。――父上が、姉上やおれの言葉に耳を傾けるなど、この大陸がひっくり返ってもあり得ない」

 当然のようにそう言い切る彼の言葉を、エレオノーラは否定することができなかった。
 そう確信できてしまうだけの時間を、ふたりは幼い頃からいやというほど重ねてきたのだ。
 大丈夫ですよ、とスタンリーがほほえむ。

「兄上が魔獣討伐用の装備を新調するというのなら、少なくとも現場に出てみる心づもりはあるのでしょう。そこで兄上が、少しでも領内の現状を理解なさって、それを父上に報告してくだされば……被害を今まで通りのレベルに抑えることはできなくても、早期の対処は可能なはずです」

 父は、マクシミリアンの言うことであれば必ず耳を傾ける。
 なぜなら父にとっての彼は、この家を継ぐ大切な大切な嫡男なのだから。
 エレオノーラは、足を止めて弟を見上げた。

「スタンリー。わたくしは、オルブライト公爵家の者として恥ずべきことを言います。――もし今後、お父さまとお兄さまがご自分の責務を果たされなかったことで、あなたの安全と尊厳が損なわれるようなことになったなら、迷わずこの家から逃げなさい。そうなったときには、必ずわたくしがあなたを助けます」

 姉上、とスタンリーが呟く。

「あなたが幼い頃から、ずっと戦場を連れ回してきたわたくしが、言っていいことではないのかもしれません。ですが、この家に関する責任を第一に負うべきは、当主であるお父さまと、その後継者であるお兄さまです。それだけは、忘れないように」
「……はい。承知しました」

 頷いたスタンリーの髪が、さらりと揺れる。
 本当は、せめて彼が十八歳になるまで、そばで守ってやりたかった。
 オルブライト公爵令嬢であるエレオノーラの、貴族社会における商品価値は非常に高い。父がそれを理解し、より高く娘を『売りつけられる』相手を吟味していることも知っていた。
 だからもう少しだけ、猶予があると思っていたのだ。
 貴族女性の結婚適齢期は、十八歳から二十四歳。
 二十四歳まで、などと贅沢は言わない。
 それでも叶うことなら、あと三年という月日くらいは――弟が成人するまでは、彼の唯一の『家族』として、そばにいてあげたかった。
 スタンリーが、泣きそうな顔をしてくしゃりと笑う。

「姉上も。……グラッドストン伯爵家での暮らしが、本当に辛くて耐えられないものであったなら、ちゃんと逃げてくださいね」

 ――貴族の婚姻は、国王の裁可により定まるもの。
 一度婚約が成立してしまえば、それを一方的に破棄することは王家への反逆に等しい。
 それをわかったうえでそんなことを言うスタンリーに、エレオノーラは笑って返す。

「大丈夫よ、スタンリー。わたくしは、十八歳の健康な女性なのですもの。クリストファーさまが極端な熟女趣味や幼女趣味、あるいは男色家ではない限り、最低限夫としての義務は果たしてくださるのではないかしら」
「……そうですね。とりあえず姉上は、ご自分がとてもお美しい女性であることを、きちんと自覚なさるところからはじめるべきだと思います」

 ため息交じりのスタンリーの言葉に、エレオノーラはきょとんとした。

「わたくしは幼い頃から、淑女の嗜みとして美容にはとても気を遣ってきましたのよ。自分の容姿がそこそこ整っていることくらい、きちんと自覚しておりますわ」

 彼女の腰まで流れる癖のない銀髪とアイスブルーの瞳は、大抵の人間に『美しい』と評してもらえるものだ。
 そして、貴族社会において美しさというのは、生き抜いていくための武器になる。そのため彼女は、物心ついた頃から己の武器をしっかりと磨き続けてきた。
 ただ、エレオノーラの顔立ちは本当に兄とよく似ているらしい。
 自分ではよくわからないのだけれど、近しい人々が口を揃えてそう言うのだから、きっと客観的に見て間違いのない事実なのだろう。
 しかし、マクシミリアンは健康的な体を取り戻した頃から、弟妹たちと顔を合わせるたびに、言い掛かりのような理由で罵倒してくるばかりだった。
 そんなときの彼の顔つきはとても卑しく品がなくて、自分もこれと似たような顔をしているのかと思うと、心の底からいやになったものだ。
 おそらく、エレオノーラと兄は、それなりに美しいと言われる造形をしているのだとは思う。
 だが、マクシミリアンと似ていると言われる自分の姿を、どうしても好きになれなかった。
 貴族の家に生まれた者の義務として、できるだけ見苦しくないよう整えてはいるけれど、『しょせん、あのお兄さまと同じ顔なのですよね……』と思うと、胸の奥がどんよりとしてしまう。
 その反動なのか、父親と同じ色の髪と瞳をしているにもかかわらず、自分とまるで似ていない弟のことは、心の底からかわいらしいと思う。
 スタンリーが、そのかわいらしい顔を顰めて言う。

「まあ、いいです。姉上のそういった少々ズレた感覚に苦労する人間がいるとすれば、それは婚約者であるクリストファーさまであって、おれではないので」
「はい?」

 小首を傾げたエレオノーラに、スタンリーが深々とため息を吐く。

「……いえ、なんでもありません。もしかしたら、貴族教育の型にはまった面白みのない男性よりも、クリストファーさまのような経歴をお持ちの男性のほうが、姉上との相性はいいのではないかと思っただけです」
「あら、そうかしら。そうだとしたら、嬉しいわ」

 なんにせよ、十日後にはクリストファーの婚約者として、エレオノーラがグラッドストン伯爵家に入ることは確定している。
 ただ、先方がこれほど複雑な状況にあるというのに、顔合わせからそのまま、というのは、やはり話が性急すぎる。
 妹を毛嫌いするマクシミリアンが、一刻も早く彼女を追い出したかったのだろうけれど、先方にとってはさぞ慌ただしく迷惑な話だったことだろう。本当に、申し訳ない。
 エレオノーラの私物はマクシミリアンのそれに比べればささやかなものだが、どうしても手放したくないものもいくつかある。
 すでに自分に婚約者がいるという事実にはいまだ慣れないけれど、できるだけ早めに出立準備はしておこう、と彼女は弟とともに足を速めた。