「姉上……」
上座にまでは聞こえない程度の、ごく小さな声で呼びかけてくる弟の顔が、青ざめている。
三歳年下の彼は、父方の祖母によく似た容姿の長男長女とは違い、父親と同じ栗色の髪にスカイブルーの瞳をした、精悍な風貌の少年だ。
十五歳とは思えないほど背の高い彼は、普段からよく体を動かしていることもあって、兄よりもよほど逞しく頼りがいがある姿をしている。
幼い頃からエレオノーラとスタンリーにとって、お互いだけがこの家で信頼できる存在だった。
彼のことはできる限りの愛情を掛けて育ててきたつもりだが、エレオノーラが他家に嫁いでしまえば、今後弟はこの屋敷でひとりぼっちになってしまう。
いつかはそんな日が来ると覚悟していたけれど、実際に不安げな弟の姿を目の当たりにすると、やはり胸がひどく痛んだ。
できるだけ毅然とした表情で頷き返したものの、こんな家に弟をひとり残していかなければならないことが、呼吸がしにくくなるほどに辛かった。
そんな自分たちのことなど、とうに意識の外へやってしまったらしい三人の、呑気な会話が腹立たしい。
(お兄さまにどれほど立派な装備を揃えて差し上げたところで、今までろくに魔獣討伐に携わったこともない方が、まっとうな働きをできるものではないでしょうに……)
マクシミリアンは、髪の長さこそ違うものの、エレオノーラをそのまま男性にしたようなほっそりとした姿をしている。
彼は幼い頃には本当に体が弱く、ベッドにいることのほうが多い生活をしていた。
そのため兄は、領地を統(す)べる貴族の義務である魔獣討伐、そのための訓練をほとんど受けていない。
貴族の家に生まれた子どもたちは、みな十歳にもなれば魔獣討伐の現場に赴き、その様子を自らの目で見て学んでいくのが普通である。
もちろん、安全の確保には細心の注意が払われてのことだし、はじめのうちは本当にただ護衛たちに守られて『見ているだけ』だ。
それでも相当にショッキングな経験であることはたしかだが、いずれ領地の安全を担う者としては、必ず通らなければならない道である。何より、そういった経験から得られるものは計り知れない。
実際、エレオノーラもスタンリーも、七歳の頃からそのために必要な訓練を受け、十歳になるとすぐに現場に入って、さまざまなことを学んできた。
魔獣の種族ごとの生態、特徴、弱点や討伐方法。その出現の予兆。
いくつもの獣を組み合わせたような姿をしている魔獣たちは、それぞれの繁殖期ごとに豊富な栄養を求め、人々の生活を脅かす。
農地や果樹園を持つ者、そして家畜を育てる者たちは、常に魔獣たちの襲来に怯えているのだ。
そして、魔力を孕む頑丈な毛皮や鱗で守られている彼らの肉体を破壊できるのは、同じく魔力による攻撃が可能な人間だけ。古くから魔獣たちと戦い、人々を守ってきた者たちが、やがて王となり貴族となり、それぞれの国の礎を作ってきたのだ。
だからこそ、貴族の中でも最高位の公爵家に生まれたエレオノーラもスタンリーも、生まれ持ったその務めをまっとうするべく、幼い頃から必死に努力を重ねてきた。
しかし――。
「行きましょう、スタンリー」
食後の団らんを、両親と兄だけで過ごすのもいつものことだ。
一応の礼儀として、スタンリーとともに彼らに挨拶はしたけれど、一顧(いっこ)だにされないのもいつものこと。いつの間にか、自分よりもずっと大きくなった弟と並んで歩く。
スタンリーが、低く抑えた声で口を開いた。
「姉上。兄上は、魔獣討伐どころか魔導武器の訓練すら、ろくにされていないではありませんか。姉上の縁談がなかなか決まらないのは、そんな兄上の代役を押しつけるためだと思っていました」
そうね、とエレオノーラは頷く。
オルブライト公爵家で唯一の女子である彼女には、国内の有力貴族からだけでなく、他国の王家からの縁談も多くあったと聞いている。
政略結婚の駒として、エレオノーラにはそれだけの価値があるのだ。普通に考えるならば、とうの昔に婚約者が定められていてもおかしくない。
にもかかわらず、十八歳になるまでエレオノーラの縁談がまとまっていなかったのは、おそらくスタンリーの推察した通り、兄の身代わりとして働かせるためだったのだろう。
貴族の家に生まれた子どもたちが、幼い頃から魔獣討伐に従事するのは当然とはいえ、やはり体力に劣る女児は男児よりも軽い任務を与えられるのが通常である。
しかし、オルブライト公爵家の嫡男として生まれながら、幼い頃のマクシミリアンは体が弱く、厳しい訓練に耐えられるような子どもではなかった。
一方、年子で生まれたエレオノーラは健康そのもので、また持って生まれた魔力保有量も、兄を遥かに超えていたらしい。
そのため、エレオノーラがマクシミリアンに代わって、『公爵家に生まれた子ども』の務めを果たすようになったのは、ある意味当然だとは思う。
「お兄さまも、来年には二十歳になりますもの。さすがに、そろそろ覚悟をお決めになられる頃かしら、と思ってはいたのですけれど……」
エレオノーラは、小さく息を吐いた。
兄の体が弱かったのはたしかだが、彼が十四歳になる頃には、その体質もだいぶ改善されていたはずだ。ちょっとした外気温の変化で寝込むこともなくなり、食欲も年相応の少年らしく旺盛で、両親とともに旅行へ出かけることも増えていた。
その時点できちんと訓練に取り組みはじめていれば、五年という月日があったのだ。
多少、周囲の同年代の子どもたちに後れを取っていようとも、マクシミリアンが魔獣討伐のスキルを身につけることは、決して不可能ではなかっただろう。
だが、それまで散々両親から甘やかされて育った兄は、地道な努力とは縁遠い人間だった。
エレオノーラがマクシミリアンの代役として、魔獣討伐の現場に出ていれば問題ない、とでも考えていたのだろうか。
彼は魔導武器の扱いこそ屋敷の訓練場で一通り学んでいたようだけれど、今まで実戦に出たことはない。
護衛に囲まれたうえでの見学任務でさえ、一度もしたことがないのだ。
「お父さまも、わたしが現場に出るようになってからは、まるで討伐任務にいらっしゃらなくなってしまいましたもの。これからお兄さまをご指導しようにも、お父さまの体のほうがついていかないのではないかしら」
「こう言ってはなんですが……。正直、今のオルブライト公爵領の治安維持が叶っているのは、姉上の魔獣討伐スキルがあってこそです。姉上が嫁がれてしまっては、すぐに手が回らなくなるのは目に見えています」
真剣な眼差しで言うスタンリーは三年前、エレオノーラが本格的に魔獣討伐任務に従事するようになったときから、彼女の補佐としてずっとそばにいてくれた。
幼い彼に武器を持たせ、その扱い方を教えてきたのはエレオノーラだ。
思えばあのときにはすでに、無意識のうちに理解していたのかもしれない。
――両親が愛しているのは兄だけであり、自分たちは兄のスペアですらないことに。
エレオノーラが弟を指導してやれる時間は、そう長くないとわかっていた。公爵家の娘として生まれた彼女は、結婚適齢期を過ぎる前には、必ず他家へ嫁ぐことになるからだ。
だからこそ、幼い彼には過酷な現実だとわかっていても、自分が教えてやれることはすべて教えておきかった。
「……そうかもしれません。ここ数年、魔獣の出現数もその規模も、どんどん上がってきていますもの。お父さまが現場に戻ってくださればなんとか、とは思いますが……。たとえそれが叶ったとしても、お父さまの勘が戻られるまでは、相当厳しいことになるでしょう」
知らず、声が低くなる。
――エレオノーラとスタンリーに興味のない父が、ふたりからの報告書にきちんと目を通していたとは思えない。
公爵家の抱える騎士や私兵、自警団の者たちは、エレオノーラの指揮に従って、本当によく働いてくれている。いつも必死に綱渡りをしているような日々だったけれど、彼女を的確に補佐してくれるスタンリーと彼らのお陰で、領内の平穏はどうにか保つことができていたのだ。
だがそれは父公爵にとって、彼が一線を退いてからも領内の様子が変わることなく、平穏が維持され続けてきたということでもある。
魔獣被害のレベルが以前と変わらぬ低水準に抑えられている以上、税収も減ることはなく、彼は己の領地にはなんの問題もないと信じ続ける。
彼にとって道具でしかない娘と息子が、そのためにどれほど努力を重ねてきたのかも知らぬまま。
スタンリーが、押し殺した声で言う。
「姉上。我がオルブライト公爵領の今後も気がかりではありますが、今は姉上のことです。グラッドストン伯爵のご次男――クリストファーさま、でしたか。ろくな貴族教育もされていない、傭兵上がりの男性に姉上を嫁がせようなど、いくらなんでもひどすぎます」
やるせない響きの弟の言葉に、エレオノーラはどう答えたものか、束の間迷った。
魔獣討伐任務の中で、フリーの傭兵たちと契約して共闘したことは何度もある。スタンリーが心配しているのは、そのときの彼らの態度が、非常に粗野で荒々しいことが多かったからだろう。
伯爵家の嫡男が駆け落ち騒動で除籍されるまで、貴族社会の誰もクリストファーの存在を知らなかったということは、彼は本当に貴族としての教育を一切受けていないに違いない。
今まで接したことのある傭兵たちの中には、文字を書けない者も多くいた。
社交界での振る舞い方など当然何も知らないだろうし、何より彼自身の出自が出自だ。公の場に出れば、注目の的になることは間違いない。
そういったさまざまな点を鑑みれば、たしかにスタンリーの言う通り、嫁ぎ先としては少々面倒くさい相手だろうとは思うのだが――。
「あなたがわたくしを気遣ってくれる気持ちは、とても嬉しいわ。スタンリー。でもね、クリストファーさまのお兄さまであるチャーリーさまは、たしか二十四歳でいらしたはずよ。そして、クリストファーさまご本人がすでに傭兵として立派に働いていらっしゃるということは、未成年ということもないと思うの」
軽く頬に指先で触れながら、エレオノーラは続けた。
「お兄さまはわたくしのことを、ずっと生意気でかわいげがないと嫌っていらっしゃいましたもの。もしお兄さまがわたくしへのいやがらせとして、クリストファーさまとの縁談を進めていらしたのだとしたら、随分生ぬるいことだと思いますわ」
何しろフィニッシングスクールで聞いた話によれば、嫁ぎ先が父親どころか祖父のような年代の相手だったり、離婚歴が二桁以上という相手だったり、果ては十歳以上も年下の相手だったりという不運すぎる少女たちが、結構いたのだ。
そういった事例を思えば、少なくとも婚約者が同世代の健康な男性で、しかも立派にひとりで生活できるほど甲斐性のある相手だというのは、かなりの幸運だと思う。
そう言うと、弟はものすごくしょっぱいものを食べたような顔を片手で覆った。
「姉上は……幸運を判定するラインが、低すぎだと思います……」
上座にまでは聞こえない程度の、ごく小さな声で呼びかけてくる弟の顔が、青ざめている。
三歳年下の彼は、父方の祖母によく似た容姿の長男長女とは違い、父親と同じ栗色の髪にスカイブルーの瞳をした、精悍な風貌の少年だ。
十五歳とは思えないほど背の高い彼は、普段からよく体を動かしていることもあって、兄よりもよほど逞しく頼りがいがある姿をしている。
幼い頃からエレオノーラとスタンリーにとって、お互いだけがこの家で信頼できる存在だった。
彼のことはできる限りの愛情を掛けて育ててきたつもりだが、エレオノーラが他家に嫁いでしまえば、今後弟はこの屋敷でひとりぼっちになってしまう。
いつかはそんな日が来ると覚悟していたけれど、実際に不安げな弟の姿を目の当たりにすると、やはり胸がひどく痛んだ。
できるだけ毅然とした表情で頷き返したものの、こんな家に弟をひとり残していかなければならないことが、呼吸がしにくくなるほどに辛かった。
そんな自分たちのことなど、とうに意識の外へやってしまったらしい三人の、呑気な会話が腹立たしい。
(お兄さまにどれほど立派な装備を揃えて差し上げたところで、今までろくに魔獣討伐に携わったこともない方が、まっとうな働きをできるものではないでしょうに……)
マクシミリアンは、髪の長さこそ違うものの、エレオノーラをそのまま男性にしたようなほっそりとした姿をしている。
彼は幼い頃には本当に体が弱く、ベッドにいることのほうが多い生活をしていた。
そのため兄は、領地を統(す)べる貴族の義務である魔獣討伐、そのための訓練をほとんど受けていない。
貴族の家に生まれた子どもたちは、みな十歳にもなれば魔獣討伐の現場に赴き、その様子を自らの目で見て学んでいくのが普通である。
もちろん、安全の確保には細心の注意が払われてのことだし、はじめのうちは本当にただ護衛たちに守られて『見ているだけ』だ。
それでも相当にショッキングな経験であることはたしかだが、いずれ領地の安全を担う者としては、必ず通らなければならない道である。何より、そういった経験から得られるものは計り知れない。
実際、エレオノーラもスタンリーも、七歳の頃からそのために必要な訓練を受け、十歳になるとすぐに現場に入って、さまざまなことを学んできた。
魔獣の種族ごとの生態、特徴、弱点や討伐方法。その出現の予兆。
いくつもの獣を組み合わせたような姿をしている魔獣たちは、それぞれの繁殖期ごとに豊富な栄養を求め、人々の生活を脅かす。
農地や果樹園を持つ者、そして家畜を育てる者たちは、常に魔獣たちの襲来に怯えているのだ。
そして、魔力を孕む頑丈な毛皮や鱗で守られている彼らの肉体を破壊できるのは、同じく魔力による攻撃が可能な人間だけ。古くから魔獣たちと戦い、人々を守ってきた者たちが、やがて王となり貴族となり、それぞれの国の礎を作ってきたのだ。
だからこそ、貴族の中でも最高位の公爵家に生まれたエレオノーラもスタンリーも、生まれ持ったその務めをまっとうするべく、幼い頃から必死に努力を重ねてきた。
しかし――。
「行きましょう、スタンリー」
食後の団らんを、両親と兄だけで過ごすのもいつものことだ。
一応の礼儀として、スタンリーとともに彼らに挨拶はしたけれど、一顧(いっこ)だにされないのもいつものこと。いつの間にか、自分よりもずっと大きくなった弟と並んで歩く。
スタンリーが、低く抑えた声で口を開いた。
「姉上。兄上は、魔獣討伐どころか魔導武器の訓練すら、ろくにされていないではありませんか。姉上の縁談がなかなか決まらないのは、そんな兄上の代役を押しつけるためだと思っていました」
そうね、とエレオノーラは頷く。
オルブライト公爵家で唯一の女子である彼女には、国内の有力貴族からだけでなく、他国の王家からの縁談も多くあったと聞いている。
政略結婚の駒として、エレオノーラにはそれだけの価値があるのだ。普通に考えるならば、とうの昔に婚約者が定められていてもおかしくない。
にもかかわらず、十八歳になるまでエレオノーラの縁談がまとまっていなかったのは、おそらくスタンリーの推察した通り、兄の身代わりとして働かせるためだったのだろう。
貴族の家に生まれた子どもたちが、幼い頃から魔獣討伐に従事するのは当然とはいえ、やはり体力に劣る女児は男児よりも軽い任務を与えられるのが通常である。
しかし、オルブライト公爵家の嫡男として生まれながら、幼い頃のマクシミリアンは体が弱く、厳しい訓練に耐えられるような子どもではなかった。
一方、年子で生まれたエレオノーラは健康そのもので、また持って生まれた魔力保有量も、兄を遥かに超えていたらしい。
そのため、エレオノーラがマクシミリアンに代わって、『公爵家に生まれた子ども』の務めを果たすようになったのは、ある意味当然だとは思う。
「お兄さまも、来年には二十歳になりますもの。さすがに、そろそろ覚悟をお決めになられる頃かしら、と思ってはいたのですけれど……」
エレオノーラは、小さく息を吐いた。
兄の体が弱かったのはたしかだが、彼が十四歳になる頃には、その体質もだいぶ改善されていたはずだ。ちょっとした外気温の変化で寝込むこともなくなり、食欲も年相応の少年らしく旺盛で、両親とともに旅行へ出かけることも増えていた。
その時点できちんと訓練に取り組みはじめていれば、五年という月日があったのだ。
多少、周囲の同年代の子どもたちに後れを取っていようとも、マクシミリアンが魔獣討伐のスキルを身につけることは、決して不可能ではなかっただろう。
だが、それまで散々両親から甘やかされて育った兄は、地道な努力とは縁遠い人間だった。
エレオノーラがマクシミリアンの代役として、魔獣討伐の現場に出ていれば問題ない、とでも考えていたのだろうか。
彼は魔導武器の扱いこそ屋敷の訓練場で一通り学んでいたようだけれど、今まで実戦に出たことはない。
護衛に囲まれたうえでの見学任務でさえ、一度もしたことがないのだ。
「お父さまも、わたしが現場に出るようになってからは、まるで討伐任務にいらっしゃらなくなってしまいましたもの。これからお兄さまをご指導しようにも、お父さまの体のほうがついていかないのではないかしら」
「こう言ってはなんですが……。正直、今のオルブライト公爵領の治安維持が叶っているのは、姉上の魔獣討伐スキルがあってこそです。姉上が嫁がれてしまっては、すぐに手が回らなくなるのは目に見えています」
真剣な眼差しで言うスタンリーは三年前、エレオノーラが本格的に魔獣討伐任務に従事するようになったときから、彼女の補佐としてずっとそばにいてくれた。
幼い彼に武器を持たせ、その扱い方を教えてきたのはエレオノーラだ。
思えばあのときにはすでに、無意識のうちに理解していたのかもしれない。
――両親が愛しているのは兄だけであり、自分たちは兄のスペアですらないことに。
エレオノーラが弟を指導してやれる時間は、そう長くないとわかっていた。公爵家の娘として生まれた彼女は、結婚適齢期を過ぎる前には、必ず他家へ嫁ぐことになるからだ。
だからこそ、幼い彼には過酷な現実だとわかっていても、自分が教えてやれることはすべて教えておきかった。
「……そうかもしれません。ここ数年、魔獣の出現数もその規模も、どんどん上がってきていますもの。お父さまが現場に戻ってくださればなんとか、とは思いますが……。たとえそれが叶ったとしても、お父さまの勘が戻られるまでは、相当厳しいことになるでしょう」
知らず、声が低くなる。
――エレオノーラとスタンリーに興味のない父が、ふたりからの報告書にきちんと目を通していたとは思えない。
公爵家の抱える騎士や私兵、自警団の者たちは、エレオノーラの指揮に従って、本当によく働いてくれている。いつも必死に綱渡りをしているような日々だったけれど、彼女を的確に補佐してくれるスタンリーと彼らのお陰で、領内の平穏はどうにか保つことができていたのだ。
だがそれは父公爵にとって、彼が一線を退いてからも領内の様子が変わることなく、平穏が維持され続けてきたということでもある。
魔獣被害のレベルが以前と変わらぬ低水準に抑えられている以上、税収も減ることはなく、彼は己の領地にはなんの問題もないと信じ続ける。
彼にとって道具でしかない娘と息子が、そのためにどれほど努力を重ねてきたのかも知らぬまま。
スタンリーが、押し殺した声で言う。
「姉上。我がオルブライト公爵領の今後も気がかりではありますが、今は姉上のことです。グラッドストン伯爵のご次男――クリストファーさま、でしたか。ろくな貴族教育もされていない、傭兵上がりの男性に姉上を嫁がせようなど、いくらなんでもひどすぎます」
やるせない響きの弟の言葉に、エレオノーラはどう答えたものか、束の間迷った。
魔獣討伐任務の中で、フリーの傭兵たちと契約して共闘したことは何度もある。スタンリーが心配しているのは、そのときの彼らの態度が、非常に粗野で荒々しいことが多かったからだろう。
伯爵家の嫡男が駆け落ち騒動で除籍されるまで、貴族社会の誰もクリストファーの存在を知らなかったということは、彼は本当に貴族としての教育を一切受けていないに違いない。
今まで接したことのある傭兵たちの中には、文字を書けない者も多くいた。
社交界での振る舞い方など当然何も知らないだろうし、何より彼自身の出自が出自だ。公の場に出れば、注目の的になることは間違いない。
そういったさまざまな点を鑑みれば、たしかにスタンリーの言う通り、嫁ぎ先としては少々面倒くさい相手だろうとは思うのだが――。
「あなたがわたくしを気遣ってくれる気持ちは、とても嬉しいわ。スタンリー。でもね、クリストファーさまのお兄さまであるチャーリーさまは、たしか二十四歳でいらしたはずよ。そして、クリストファーさまご本人がすでに傭兵として立派に働いていらっしゃるということは、未成年ということもないと思うの」
軽く頬に指先で触れながら、エレオノーラは続けた。
「お兄さまはわたくしのことを、ずっと生意気でかわいげがないと嫌っていらっしゃいましたもの。もしお兄さまがわたくしへのいやがらせとして、クリストファーさまとの縁談を進めていらしたのだとしたら、随分生ぬるいことだと思いますわ」
何しろフィニッシングスクールで聞いた話によれば、嫁ぎ先が父親どころか祖父のような年代の相手だったり、離婚歴が二桁以上という相手だったり、果ては十歳以上も年下の相手だったりという不運すぎる少女たちが、結構いたのだ。
そういった事例を思えば、少なくとも婚約者が同世代の健康な男性で、しかも立派にひとりで生活できるほど甲斐性のある相手だというのは、かなりの幸運だと思う。
そう言うと、弟はものすごくしょっぱいものを食べたような顔を片手で覆った。
「姉上は……幸運を判定するラインが、低すぎだと思います……」
