「アンソニー! あのおっさん! アンタのご主人サマだよ! マジで何やらかしてくれてんの!? カトリーナさまがいなくなったら、いろんな意味でめっちゃヤバいだろうがー!?」
エレオノーラを笑顔で見送り、そのほっそりとした後ろ姿が見えなくなるなり、クリストファーは全力でグラッドストン伯爵家の執事、アンソニー・ジャックマンに詰め寄った。
応接間の前には、彼のほかにも数名の使用人たちがきれいに整列している。
彼らを率いる立場にあるアンソニーは、初老といえる年齢ながら、常に凜と背筋を伸ばして立つ、厳めしい雰囲気の持ち主だ。よく引き締まった細身の体躯と鋭い目つきに加え、口を開けば非常に迫力のある重低音ヴォイス。
少なくともクリストファーは、彼が孫たちから『おじいちゃん』と慕われている姿を、想像することができなかった。
白いものの交ざる金髪をきっちりと撫でつけ、クリストファーに対して常に慇懃無礼な態度を隠すことがなかった彼が、珍しく苦虫を噛み潰したような顔をして口を開く。
「どうか落ち着いてくださいませ、クリストファーさま。たしかに、旦那さまがいくらお若い頃のこととはいえ、奥さまに対して最大の侮辱ともいえる裏切りをなさったうえ、同じ男として全力で軽蔑するしかない所業をしでかしてくださった、下劣で短絡的で浅はかで姑息で救いようのないド阿呆なお方であったことについては、弁解のしようもございませんが……」
「お、おう……」
はああ、と深いため息を吐いたアンソニーは、ひょっとして主のことが嫌いなのだろうか。罵詈雑言のバリエーションが、クリストファーの想像を軽やかに超えてきた。
若干引き気味にロマンスグレーの執事を見つめていると、彼はちらりとクリストファーに視線を向けた。
「クリストファーさま。正直なところ、あなたさまにこのようなことを申し上げていいものか、少々迷いました。まあ、あなたさまの図太さ――もとい、大らかさでしたらきっと大丈夫でしょうし、ざっくりとお話しさせていただきますね」
「ねえ。なんでアンタはいつも、そうやっていちいちオレに喧嘩を売ってくる感じなの?」
半目になったクリストファーには構わず、アンソニーが続ける。
「旦那さまと奥さまは、ご婚約当初から、本当に仲睦まじいおふたりだったのですよ。絵に描いたようにお似合いの恋人同士であり、そのままのご夫婦でいらっしゃいました。家同士の関係で結ばれたおふたりとは思えないほど、お互いに心から慈しみ合っておられたのです」
「へえー」
それがどうした、と思いながら、適当に相槌を打つ。
実際、セドリックとカトリーナが似合いの夫婦であることは、初対面のときから当たり前の事実として受け止めていた。クリストファー自身が自分の目で見て確認した事実である以上、そこに疑念の余地はない。
強いて言うなら、こんなに美人で仲がよさげな奥方がいる男でも、浮気をすることがあるんだなあ、と不思議な気分になったくらいだ。
ですから、とアンソニーが苦笑を浮かべる。
「奥さまはこの家に嫁がれてから三十年近く、旦那さまに……そうですね、あなたにもわかりやすい表現で申し上げるなら、ずっとメロメロでございました」
「メロメロ」
思わず真顔で復唱してしまった。
何かの冗談かと思ったが、アンソニーは至って真面目に言っているらしい。
「はい、メロメロです。恋する乙女が、そのまま素敵な若妻から、立派な賢夫人になっていかれて……。そんな奥さまがいらっしゃる限り、この伯爵家は安泰だと、みな感謝していたものです」
恋する乙女が、素敵な若妻に進化し、最終形態が立派な賢夫人。
出世魚かな、とクリストファーは思った。
アンソニーが、くっと眉根を寄せる。
「そんなふうに、一途に旦那さまをお慕いし、支えてくださった奥さまのことを、旦那さまも本当に大切にしていらっしゃいました。ただ、今から思えば……そうですね。旦那さまは、奥さまに少々甘えすぎだったように思います」
「甘えすぎ」
いい年をしたおっさんには、まるで似つかわしくない表現が飛んできた。
一瞬、セドリックが赤ちゃん言葉でカトリーナに甘える様子が脳内に浮かびかけたが、全力で強制シャットダウンする。仮にも血の繋がった父親のそういった姿を想像して笑えるほど、クリストファーの精神は澱んでいないのだ。
危ない危ない、と冷や汗をかいている間にも、アンソニーは淡々と語っていく。
「はじめて出会ったときから、常にご自分へのご好意を隠さず、裏表なく慕ってくださる奥さまであれば、どんなことをしても許してくださる。多少のわがままも、無茶な要請も、懐深く有能な奥さまであれば、笑って受け入れてくださる。もしかしたら旦那さまは、そんなふうに思っていらしたのかもしれません」
「……いや、アンソニー。オレの立場でこんなことを言うのも、それこそどうかと思うけどな? いくらご立派な奥方さまでも、それだけ一途に支えてきた旦那に浮気されて、隠し子の存在を二十年以上隠されてました、ってのは、わがままとかそういうレベルのやらかしじゃあねェんじゃねえか?」
何しろクリストファーは、セドリックの浮気の結果生まれた子どもという、カトリーナにとってはまさに夫の裏切りの証しそのものの存在なのだ。
今から思えば、よくもまあ初対面のときに、顔色ひとつ変えずに挨拶をしてくれたものである。貴族女性のポーカーフェイスというのは、どうやら実戦経験豊富な傭兵のそれに匹敵する頑丈さがあるらしい。
さようでございますね、とアンソニーが微笑する。
「今回……と申しますか、あなたさまのお母君が亡くなられた際の旦那さまの対応は、完全な悪手でもございませんが、決して最善ではありませんでした。少なくとも、あなたさまがご幼少の頃からこの家で養育されていらしたら、今のようなご苦労をされることはなかったのですから」
クリストファーが生まれてすぐにこの家に引き取られ、正しく貴族の子どもとしてさまざまな教育を受けていたなら――。
(……まあ、少なくともこの顔の傷はなかっただろうな)
顔も見たことのない『兄』の出奔により、急遽この家を継ぐことになったとしても、なんの問題もなく対応することができていたかもしれない。
けれど、とクリストファーは苦笑する。
「オレは、ウチのじいさんとばあさんに育ててもらったことを、幸運だと思うし、誇りにも思ってる。今のオレがしてる苦労に関しては、死ぬまで衣食住に困ることがない生活を保障される対価としちゃあ、阿呆みたいに安いモンだ。別に、アンタらが気にするようなことじゃねェよ」
軽く右手をヒラヒラとさせながらそう言えば、一瞬目を瞠ったアンソニーが、ふっと目元を綻ばせた。
「はい。あなたさまのおじいさまとおばあさまにとっても、きっとあなたさまをご自身たちでお育てになることは、とても幸せなことだったのでしょう。ですから、二十一年前の旦那さまの対応をすべて否定することは、私にはできません。ただ――やはり、カトリーナさまに、その事実だけはきちんとお伝えしておくべきでした」
クリストファーは、ひょいと肩を竦める。
「まあ、浮気をするなら死ぬまで隠し通せ、隠し通せないならはじめからするな、って言うもんな」
おや、とアンソニーが片眉を上げる。
「そのようなことを、どこでお聞きになったのですか?」
「昔の仲間が、恋人に浮気がバレたときに、平手打ちを食らいながらそう言われてた。浮気のひとつも隠しきれないバカが、調子に乗ってるんじゃねえ、ってな。……でも、女ってよくわかんねえな。浮気は浮気だろ。やった時点で、一発アウトなんじゃねェのか?」
クリストファーは、首を傾げた。
バレなければどんな悪事をしても構わない、というのは、筋が通らないと思うのだ。
エレオノーラを笑顔で見送り、そのほっそりとした後ろ姿が見えなくなるなり、クリストファーは全力でグラッドストン伯爵家の執事、アンソニー・ジャックマンに詰め寄った。
応接間の前には、彼のほかにも数名の使用人たちがきれいに整列している。
彼らを率いる立場にあるアンソニーは、初老といえる年齢ながら、常に凜と背筋を伸ばして立つ、厳めしい雰囲気の持ち主だ。よく引き締まった細身の体躯と鋭い目つきに加え、口を開けば非常に迫力のある重低音ヴォイス。
少なくともクリストファーは、彼が孫たちから『おじいちゃん』と慕われている姿を、想像することができなかった。
白いものの交ざる金髪をきっちりと撫でつけ、クリストファーに対して常に慇懃無礼な態度を隠すことがなかった彼が、珍しく苦虫を噛み潰したような顔をして口を開く。
「どうか落ち着いてくださいませ、クリストファーさま。たしかに、旦那さまがいくらお若い頃のこととはいえ、奥さまに対して最大の侮辱ともいえる裏切りをなさったうえ、同じ男として全力で軽蔑するしかない所業をしでかしてくださった、下劣で短絡的で浅はかで姑息で救いようのないド阿呆なお方であったことについては、弁解のしようもございませんが……」
「お、おう……」
はああ、と深いため息を吐いたアンソニーは、ひょっとして主のことが嫌いなのだろうか。罵詈雑言のバリエーションが、クリストファーの想像を軽やかに超えてきた。
若干引き気味にロマンスグレーの執事を見つめていると、彼はちらりとクリストファーに視線を向けた。
「クリストファーさま。正直なところ、あなたさまにこのようなことを申し上げていいものか、少々迷いました。まあ、あなたさまの図太さ――もとい、大らかさでしたらきっと大丈夫でしょうし、ざっくりとお話しさせていただきますね」
「ねえ。なんでアンタはいつも、そうやっていちいちオレに喧嘩を売ってくる感じなの?」
半目になったクリストファーには構わず、アンソニーが続ける。
「旦那さまと奥さまは、ご婚約当初から、本当に仲睦まじいおふたりだったのですよ。絵に描いたようにお似合いの恋人同士であり、そのままのご夫婦でいらっしゃいました。家同士の関係で結ばれたおふたりとは思えないほど、お互いに心から慈しみ合っておられたのです」
「へえー」
それがどうした、と思いながら、適当に相槌を打つ。
実際、セドリックとカトリーナが似合いの夫婦であることは、初対面のときから当たり前の事実として受け止めていた。クリストファー自身が自分の目で見て確認した事実である以上、そこに疑念の余地はない。
強いて言うなら、こんなに美人で仲がよさげな奥方がいる男でも、浮気をすることがあるんだなあ、と不思議な気分になったくらいだ。
ですから、とアンソニーが苦笑を浮かべる。
「奥さまはこの家に嫁がれてから三十年近く、旦那さまに……そうですね、あなたにもわかりやすい表現で申し上げるなら、ずっとメロメロでございました」
「メロメロ」
思わず真顔で復唱してしまった。
何かの冗談かと思ったが、アンソニーは至って真面目に言っているらしい。
「はい、メロメロです。恋する乙女が、そのまま素敵な若妻から、立派な賢夫人になっていかれて……。そんな奥さまがいらっしゃる限り、この伯爵家は安泰だと、みな感謝していたものです」
恋する乙女が、素敵な若妻に進化し、最終形態が立派な賢夫人。
出世魚かな、とクリストファーは思った。
アンソニーが、くっと眉根を寄せる。
「そんなふうに、一途に旦那さまをお慕いし、支えてくださった奥さまのことを、旦那さまも本当に大切にしていらっしゃいました。ただ、今から思えば……そうですね。旦那さまは、奥さまに少々甘えすぎだったように思います」
「甘えすぎ」
いい年をしたおっさんには、まるで似つかわしくない表現が飛んできた。
一瞬、セドリックが赤ちゃん言葉でカトリーナに甘える様子が脳内に浮かびかけたが、全力で強制シャットダウンする。仮にも血の繋がった父親のそういった姿を想像して笑えるほど、クリストファーの精神は澱んでいないのだ。
危ない危ない、と冷や汗をかいている間にも、アンソニーは淡々と語っていく。
「はじめて出会ったときから、常にご自分へのご好意を隠さず、裏表なく慕ってくださる奥さまであれば、どんなことをしても許してくださる。多少のわがままも、無茶な要請も、懐深く有能な奥さまであれば、笑って受け入れてくださる。もしかしたら旦那さまは、そんなふうに思っていらしたのかもしれません」
「……いや、アンソニー。オレの立場でこんなことを言うのも、それこそどうかと思うけどな? いくらご立派な奥方さまでも、それだけ一途に支えてきた旦那に浮気されて、隠し子の存在を二十年以上隠されてました、ってのは、わがままとかそういうレベルのやらかしじゃあねェんじゃねえか?」
何しろクリストファーは、セドリックの浮気の結果生まれた子どもという、カトリーナにとってはまさに夫の裏切りの証しそのものの存在なのだ。
今から思えば、よくもまあ初対面のときに、顔色ひとつ変えずに挨拶をしてくれたものである。貴族女性のポーカーフェイスというのは、どうやら実戦経験豊富な傭兵のそれに匹敵する頑丈さがあるらしい。
さようでございますね、とアンソニーが微笑する。
「今回……と申しますか、あなたさまのお母君が亡くなられた際の旦那さまの対応は、完全な悪手でもございませんが、決して最善ではありませんでした。少なくとも、あなたさまがご幼少の頃からこの家で養育されていらしたら、今のようなご苦労をされることはなかったのですから」
クリストファーが生まれてすぐにこの家に引き取られ、正しく貴族の子どもとしてさまざまな教育を受けていたなら――。
(……まあ、少なくともこの顔の傷はなかっただろうな)
顔も見たことのない『兄』の出奔により、急遽この家を継ぐことになったとしても、なんの問題もなく対応することができていたかもしれない。
けれど、とクリストファーは苦笑する。
「オレは、ウチのじいさんとばあさんに育ててもらったことを、幸運だと思うし、誇りにも思ってる。今のオレがしてる苦労に関しては、死ぬまで衣食住に困ることがない生活を保障される対価としちゃあ、阿呆みたいに安いモンだ。別に、アンタらが気にするようなことじゃねェよ」
軽く右手をヒラヒラとさせながらそう言えば、一瞬目を瞠ったアンソニーが、ふっと目元を綻ばせた。
「はい。あなたさまのおじいさまとおばあさまにとっても、きっとあなたさまをご自身たちでお育てになることは、とても幸せなことだったのでしょう。ですから、二十一年前の旦那さまの対応をすべて否定することは、私にはできません。ただ――やはり、カトリーナさまに、その事実だけはきちんとお伝えしておくべきでした」
クリストファーは、ひょいと肩を竦める。
「まあ、浮気をするなら死ぬまで隠し通せ、隠し通せないならはじめからするな、って言うもんな」
おや、とアンソニーが片眉を上げる。
「そのようなことを、どこでお聞きになったのですか?」
「昔の仲間が、恋人に浮気がバレたときに、平手打ちを食らいながらそう言われてた。浮気のひとつも隠しきれないバカが、調子に乗ってるんじゃねえ、ってな。……でも、女ってよくわかんねえな。浮気は浮気だろ。やった時点で、一発アウトなんじゃねェのか?」
クリストファーは、首を傾げた。
バレなければどんな悪事をしても構わない、というのは、筋が通らないと思うのだ。
