「あ……いや……」
だらだらと汗を流すセドリックは、言葉もない。
「わたくしはグラッドストン伯爵夫人として、クリストファーさんの教育のための手配は、すべてさせていただきました。現在契約している家庭教師のみなさまに学んでいけば、必ずやチャーリー以上の知識と教養を身につけることができましょう。――エレオノーラさま」
カトリーナが、改めてエレオノーラに向き直る。
言いたいことをすべて夫に言うことができたのか、先ほどよりも落ち着いた表情で彼女がほほえむ。
「お騒がせしてしまい、申し訳ございません。エレオノーラさまの今後のことについては、すべて執事とメイド頭に指示してあります。わたくしはこれより『病を得て』別邸に参りますが、何かお困りのことがございましたら、いつでもお訪ねくださいませ」
「カトリーナさま……」
エレオノーラは一応行儀見習いとしてこの家に来たはずなのだが、その教師役であるはずの伯爵夫人に初日から戦線離脱されてしまうとは、ちょっとどうすればいいのかわからない。
ひたすら困惑するエレオノーラから、やはり呆然と立ち尽くしているクリストファーに視線を移し、カトリーナが淡々とした口調で告げる。
「クリストファーさん。どうぞ、よく覚えておかれませ。――貴族の妻は、決して夫にとって都合のいい付属物ではございません。手ひどい裏切りを受ければ、その心は容易く離れていくものなのだということを」
「は、はい!」
背筋を伸ばして、大変よい子の返事をしたクリストファーに、カトリーナは満足げに頷いた。
「よろしいですわ。それではみなさま、ごきげんよう」
最後に優雅な一礼をしたカトリーナが、そのまま颯爽と応接間を出ていく。
その迷いのない足取りからして、彼女が別邸に移る件についてはすでに手配済みなのだろう。
当主に一切悟られないまま、すべてを完璧に成し遂げたカトリーナこそが、この屋敷の実質的な支配者であるに違いない。
情けなく頭を抱え、ふらふらとソファに座りこんだセドリックに、クリストファーが冷ややかな視線を向ける。
「何してんだよ、おっさん。奥さん、追いかけねェのか?」
「……エレオノーラさまの前だぞ。言葉遣いに気をつけろ」
低い声で返された言葉に、クリストファーが一瞬体を硬直させた。ギシギシと軋む音が聞こえそうな動きで、エレオノーラを見る。
「あ、の……エレオノーラさま……」
「お気になさらないでくださいませ、クリストファーさま。ここは、あなたさまのお住まいなのですもの。どうぞ、お好きな話し方をなさってくださいな」
さすがに社交界で先ほどのようなしゃべり方をされては、人々から好奇の目を向けられて、クリストファー自身がいやな思いをすることになりかねない。
しかし、自宅という場でくらい、彼にとって楽な口調で話をしても、何も問題はないはずだ。
にこりとほほえんでそう言うと、彼は右手で顔面を覆って低く呻いた。……何か、気に障ることを言ってしまったのだろうか。
不安になった彼女に、一度深く息を吐いたクリストファーが、元通りの穏やかな表情を浮かべて言う。
「お気遣いありがとうございます、エレオノーラさま。ただ、私もこの家の後継者として恥ずかしくない振る舞いをできるよう、勉強中の身なのです。時折見苦しいところをお見せしてしまうかもしれませんが、今後も鋭意努力してまいりますので、お許しいただければ幸いです」
まあ、とエレオノーラは声を零した。
たしかに、何か不測の事態が起こったとき、咄嗟に出るのは『いつもの自分』だ。それを見越して、常日頃から立ち居振る舞いを律していこうという彼の覚悟に、心を打たれる。
どうやらクリストファーは、本当に真剣にグラッドストン伯爵家を継ぐことを考えているらしい。本人がそのつもりで努力しようというのなら、エレオノーラはその決意に寄り添うだけだ。
「わかりました。わたくしも、微力ながら応援させていただきます」
「はい。とても嬉しいです」
にこやかに応じたクリストファーが、再び鋭い視線をセドリックに向けた。
「というわけで、父上。改めてお尋ねしますが、カトリーナさまを追いかけなくてよろしいのですか?」
「……ちょっと、待ってくれ。いろいろと、考えなければならんことがあるんだ」
頭を抱えたままぼそぼそと言うセドリックに、クリストファーが容赦なく続ける。
「何を埒もないことを。いいですか? 私は男所帯の傭兵組織育ちではありますが、そのぶん恋人に捨てられて悲嘆に暮れる男たちの姿を、これまで数え切れないほど見てきました。――父上。こう申し上げてはなんですが、隠し子の存在を二十年以上秘匿してきたというのは、おそらく女性にとっては完全にアウトな案件です」
低く淡々と告げられた言葉に、セドリックの肩がびくりと跳ねる。
「そして、一度『コイツはダメだ』と切り捨てた女性というのは、驚くほど切り替えが早いものです。逆に男は、一度恋人関係になった女性は、いつまでも自分のことを憎からず思っているという勘違いをすることがあるようですが、それは本当に痛々しい勘違いです。にもかかわらず、自分を捨てた女性に対してつきまといなどした場合、最悪自警団に引き渡される事態に発展します」
「じ……自警団……?」
震える声で復唱したセドリックに、クリストファーは重々しく頷いた。
「ええ。大変情けない話ですが、顔見知りの傭兵の中に、ときどきそういった者がいたのですよ。別れを告げられた元恋人に、『素直になれ』などと言ってしつこくつきまとい続けた結果、女性に多大な精神的苦痛を与えたとして、罰金刑と接近禁止令を食らう者が」
「ば、罰金……接近禁止令……」
虚ろな目をして言うセドリックは、そういった者たちの存在を知らなかったのだろうか。
エレオノーラは、首を傾げた。
(わたくしでさえ、そういった勘違い系殿方の末路は、何度か拝見したことがありますのに……。傭兵のみなさんも、さすがにご領主さまの前では、そういった恥ずかしい振る舞いはなさらなかったのかしら)
「父上が何を考えているのかは存じませんが、本当にカトリーナさまに逃げられたくないのでしたら、別邸というグラッドストン伯爵家の中にいてくださる間に、とにかく頭を下げて詫びるべきです。もし今後、カトリーナさまがご実家に戻られるようなことになったなら、最悪二度とお会いすることもできなくなりますよ」
「そ、それは困る……!」
セドリックが、勢いよく蒼白になった顔を上げる。
どうやらカトリーナが別邸に移ってしまったことに、相当の衝撃を受けているらしい。
そうしてふらつきながらも立ち上がった彼は、エレオノーラに向けて深々と頭を下げた。
「遠くオルブライト公爵領からいらしていただいたばかりだというのに、このようなことになってしまい申し訳ありません。エレオノーラさま。妻のことは、私が責任を持って連れ戻してまいりますので、どうぞそれまでごゆるりと我が家でおくつろぎください」
「はい。お気遣いありがとうございます、伯爵さま」
エレオノーラは、ほっとした。
なんの生産性もない中年貴族の葛藤に付き合うほど、無駄な時間はない。そんなことに費やしている暇があるなら、今後のために少しでも動いておきたかった。
慌ただしくセドリックが出ていくのを見送り、エレオノーラはクリストファーを見上げて問う。
「クリストファーさま。伯爵さまはあのようにおっしゃってくださいましたけれど、カトリーナさまのご様子からして、今日明日中におふたりがお戻りになるということはないと思いますの。もしよろしければ、カトリーナさまのご指示を受けているという執事とメイド頭に、わたくしをご紹介いただけますか?」
一瞬、虚を突かれたような顔をしたクリストファーが、笑って頷く。
「もちろんです。ですが、今日はこちらにいらしたばかりですし、無理をなさってお疲れが出ては大変です。先にエレオノーラさまのお部屋へご案内いたしますので、まずはそちらでごゆっくりお休みください」
「まあ、ありがとうございます」
クリストファーはこんなにも細やかな気遣いをできる青年なのに、なぜその父親は長男にも妻にも逃げられる残念極まりない中年男なのだろうか。
(最初にご挨拶したときには、とても謹厳実直で有能そうな方に見えましたのに……。人というのは、本当に見かけによらないものなのですね)
だらだらと汗を流すセドリックは、言葉もない。
「わたくしはグラッドストン伯爵夫人として、クリストファーさんの教育のための手配は、すべてさせていただきました。現在契約している家庭教師のみなさまに学んでいけば、必ずやチャーリー以上の知識と教養を身につけることができましょう。――エレオノーラさま」
カトリーナが、改めてエレオノーラに向き直る。
言いたいことをすべて夫に言うことができたのか、先ほどよりも落ち着いた表情で彼女がほほえむ。
「お騒がせしてしまい、申し訳ございません。エレオノーラさまの今後のことについては、すべて執事とメイド頭に指示してあります。わたくしはこれより『病を得て』別邸に参りますが、何かお困りのことがございましたら、いつでもお訪ねくださいませ」
「カトリーナさま……」
エレオノーラは一応行儀見習いとしてこの家に来たはずなのだが、その教師役であるはずの伯爵夫人に初日から戦線離脱されてしまうとは、ちょっとどうすればいいのかわからない。
ひたすら困惑するエレオノーラから、やはり呆然と立ち尽くしているクリストファーに視線を移し、カトリーナが淡々とした口調で告げる。
「クリストファーさん。どうぞ、よく覚えておかれませ。――貴族の妻は、決して夫にとって都合のいい付属物ではございません。手ひどい裏切りを受ければ、その心は容易く離れていくものなのだということを」
「は、はい!」
背筋を伸ばして、大変よい子の返事をしたクリストファーに、カトリーナは満足げに頷いた。
「よろしいですわ。それではみなさま、ごきげんよう」
最後に優雅な一礼をしたカトリーナが、そのまま颯爽と応接間を出ていく。
その迷いのない足取りからして、彼女が別邸に移る件についてはすでに手配済みなのだろう。
当主に一切悟られないまま、すべてを完璧に成し遂げたカトリーナこそが、この屋敷の実質的な支配者であるに違いない。
情けなく頭を抱え、ふらふらとソファに座りこんだセドリックに、クリストファーが冷ややかな視線を向ける。
「何してんだよ、おっさん。奥さん、追いかけねェのか?」
「……エレオノーラさまの前だぞ。言葉遣いに気をつけろ」
低い声で返された言葉に、クリストファーが一瞬体を硬直させた。ギシギシと軋む音が聞こえそうな動きで、エレオノーラを見る。
「あ、の……エレオノーラさま……」
「お気になさらないでくださいませ、クリストファーさま。ここは、あなたさまのお住まいなのですもの。どうぞ、お好きな話し方をなさってくださいな」
さすがに社交界で先ほどのようなしゃべり方をされては、人々から好奇の目を向けられて、クリストファー自身がいやな思いをすることになりかねない。
しかし、自宅という場でくらい、彼にとって楽な口調で話をしても、何も問題はないはずだ。
にこりとほほえんでそう言うと、彼は右手で顔面を覆って低く呻いた。……何か、気に障ることを言ってしまったのだろうか。
不安になった彼女に、一度深く息を吐いたクリストファーが、元通りの穏やかな表情を浮かべて言う。
「お気遣いありがとうございます、エレオノーラさま。ただ、私もこの家の後継者として恥ずかしくない振る舞いをできるよう、勉強中の身なのです。時折見苦しいところをお見せしてしまうかもしれませんが、今後も鋭意努力してまいりますので、お許しいただければ幸いです」
まあ、とエレオノーラは声を零した。
たしかに、何か不測の事態が起こったとき、咄嗟に出るのは『いつもの自分』だ。それを見越して、常日頃から立ち居振る舞いを律していこうという彼の覚悟に、心を打たれる。
どうやらクリストファーは、本当に真剣にグラッドストン伯爵家を継ぐことを考えているらしい。本人がそのつもりで努力しようというのなら、エレオノーラはその決意に寄り添うだけだ。
「わかりました。わたくしも、微力ながら応援させていただきます」
「はい。とても嬉しいです」
にこやかに応じたクリストファーが、再び鋭い視線をセドリックに向けた。
「というわけで、父上。改めてお尋ねしますが、カトリーナさまを追いかけなくてよろしいのですか?」
「……ちょっと、待ってくれ。いろいろと、考えなければならんことがあるんだ」
頭を抱えたままぼそぼそと言うセドリックに、クリストファーが容赦なく続ける。
「何を埒もないことを。いいですか? 私は男所帯の傭兵組織育ちではありますが、そのぶん恋人に捨てられて悲嘆に暮れる男たちの姿を、これまで数え切れないほど見てきました。――父上。こう申し上げてはなんですが、隠し子の存在を二十年以上秘匿してきたというのは、おそらく女性にとっては完全にアウトな案件です」
低く淡々と告げられた言葉に、セドリックの肩がびくりと跳ねる。
「そして、一度『コイツはダメだ』と切り捨てた女性というのは、驚くほど切り替えが早いものです。逆に男は、一度恋人関係になった女性は、いつまでも自分のことを憎からず思っているという勘違いをすることがあるようですが、それは本当に痛々しい勘違いです。にもかかわらず、自分を捨てた女性に対してつきまといなどした場合、最悪自警団に引き渡される事態に発展します」
「じ……自警団……?」
震える声で復唱したセドリックに、クリストファーは重々しく頷いた。
「ええ。大変情けない話ですが、顔見知りの傭兵の中に、ときどきそういった者がいたのですよ。別れを告げられた元恋人に、『素直になれ』などと言ってしつこくつきまとい続けた結果、女性に多大な精神的苦痛を与えたとして、罰金刑と接近禁止令を食らう者が」
「ば、罰金……接近禁止令……」
虚ろな目をして言うセドリックは、そういった者たちの存在を知らなかったのだろうか。
エレオノーラは、首を傾げた。
(わたくしでさえ、そういった勘違い系殿方の末路は、何度か拝見したことがありますのに……。傭兵のみなさんも、さすがにご領主さまの前では、そういった恥ずかしい振る舞いはなさらなかったのかしら)
「父上が何を考えているのかは存じませんが、本当にカトリーナさまに逃げられたくないのでしたら、別邸というグラッドストン伯爵家の中にいてくださる間に、とにかく頭を下げて詫びるべきです。もし今後、カトリーナさまがご実家に戻られるようなことになったなら、最悪二度とお会いすることもできなくなりますよ」
「そ、それは困る……!」
セドリックが、勢いよく蒼白になった顔を上げる。
どうやらカトリーナが別邸に移ってしまったことに、相当の衝撃を受けているらしい。
そうしてふらつきながらも立ち上がった彼は、エレオノーラに向けて深々と頭を下げた。
「遠くオルブライト公爵領からいらしていただいたばかりだというのに、このようなことになってしまい申し訳ありません。エレオノーラさま。妻のことは、私が責任を持って連れ戻してまいりますので、どうぞそれまでごゆるりと我が家でおくつろぎください」
「はい。お気遣いありがとうございます、伯爵さま」
エレオノーラは、ほっとした。
なんの生産性もない中年貴族の葛藤に付き合うほど、無駄な時間はない。そんなことに費やしている暇があるなら、今後のために少しでも動いておきたかった。
慌ただしくセドリックが出ていくのを見送り、エレオノーラはクリストファーを見上げて問う。
「クリストファーさま。伯爵さまはあのようにおっしゃってくださいましたけれど、カトリーナさまのご様子からして、今日明日中におふたりがお戻りになるということはないと思いますの。もしよろしければ、カトリーナさまのご指示を受けているという執事とメイド頭に、わたくしをご紹介いただけますか?」
一瞬、虚を突かれたような顔をしたクリストファーが、笑って頷く。
「もちろんです。ですが、今日はこちらにいらしたばかりですし、無理をなさってお疲れが出ては大変です。先にエレオノーラさまのお部屋へご案内いたしますので、まずはそちらでごゆっくりお休みください」
「まあ、ありがとうございます」
クリストファーはこんなにも細やかな気遣いをできる青年なのに、なぜその父親は長男にも妻にも逃げられる残念極まりない中年男なのだろうか。
(最初にご挨拶したときには、とても謹厳実直で有能そうな方に見えましたのに……。人というのは、本当に見かけによらないものなのですね)
