恋煩いの処方箋

 梅雨の晴れ間が続いたある日、職場の内線電話を取った同僚が険しい顔で私を呼ぶ。
「間宮(まみや)さん、保育園から」
 熱でも出したのだろうかと、気負うことなく電話に出る。
「お電話変わりました、間宮です」
 すると電話の先生の声はいつも以上に切迫していた。
『もしもし、和花ちゃんのお母さんですか? ひだまり保育園の遠藤です。実は……』
受話器を持つ手が震える。和花がお友達とトラブルを起こして滑り台の上から落ち、救急車で市内の総合病院に運ばれたという。 
「それで娘は無事なんですか⁉︎ ……はい、はい」
 間の前が真っ暗になる。異変を察知した同僚たちが集まってくる。電話を切るとへなへなその場にしゃがみこんでしまった。
「間宮さん、大丈夫ですか? のんちゃんに何かあったんですね」
「はい。総合病院に運ばれたって……」
「すぐ行きましょう。俺、車出します!」
 そう申し出てくれたのは同僚の杉崎さん。私とは同期だけれど大卒なので四歳年が上だ。大柄で強面だけれど、話せばすぐ人の良さがわかる。
「でも、仕事が」
「そんな状態で運転できないだろ? いいですよね、課長!」
 杉崎さんの勢いに押し負けるように課長は何度も頷く。私は杉崎さんに引きずられるようにして彼の黒いミニバンに乗り込む。
遠藤先生は『詳しいことは病院の先生から聞いてください』と言っていた。悪い予感で胸が埋め尽くされていく。
「出来るだけ急ぎます!」
 杉崎さんはアクセルを踏む。私は助手席でただ祈ることしかできない。どうか、無事でいてと。
「間宮さん、着きましたよ」
 ハッと顔を上げると車は病院の正面玄関の前に停まっていた。
「先に降りてください。俺は駐車場に車置いてきますから」
「はい、わかりました」
 私はお礼も言わず、車から飛び出す。受付で聞いて救急外来へと走る。倒れそうになりながらも足を前に出す。
「もしかして間宮和花ちゃんのお母さんですか?」
 廊下で看護師さんに声を掛けられて立ち止まる。
「はい、そうです。娘は、無事ですか?」
 泣きそうになりながら必死に聞く。すると看護師さんは安心させるような顔で「落ち着いてください」と言った。
「和花ちゃん保育士さんと元気におしゃべりしていますよ。今、ご案内しますね」
「おしゃべり、ですか? ……ああ、よかったぁ」
 安堵と共に全身の力が抜けていく。処置室に入ると和花の元気な声が聞こえてくる。私はようやく息が吸えた気がした。ずっと暗い海の底でもいるようだったから。
「お母さん到着されましたよ」
カーテンを開けると遠藤先生が椅子から立ち上がる。園からずっと和花に付き添ってくれていたのだろう。だいぶ疲れが滲んでいる。
「あ、ママ!」
「のんちゃん!」
 私は和花を抱きしめる。額には大きなガーゼが張られている。それ以外はとても元気で普段となにも変わりがなさそうで安心する。
「間宮さん、申し訳ございませんでした」
 遠藤先生は強張った顔で深々と頭を下げた。私も同じように頭を下げる。
「先生、病院に連れてきてくださってありがとうございました。相手のお友達に怪我は?」
「ありません。でも和花ちゃんが……本当に申し訳ございませんでした」
 気の毒になるほど先生は何度も頭を下げる。彼女はまだ二年目の保育士さんで、きっと必要以上に責任を感じているのだと思う。でもこれは不慮の事故だ。もしかしたら娘に非があるかもしれない。それはおいおい確かめなければならないのだけれど。
「お話し中失礼します。間宮さん、先生からお話があるのですが」
 看護師さんがせわしなくそう言った。私は遠藤先生に和花を任せて処置室を出ると診療室と書かれたドアの前まで連れて行かれる。看護師さんがドアをノックして言う。
「有馬先生、間宮和花ちゃんの保護者がお見えです」
その名前に一瞬体が硬直する。でも別人だろうと思い直す。私の知る“有馬先生”は東京の病院で働いているはずで、こんな田舎の総合病院にいるわけがない。