「疲れたか?」
静かに走っている車の助手席でぼーっとしていたら、世海が声をかけてきた。隣を見ると、こちらを伺うよう見ている。
また危険運転を、と思ったが、海帆は気にしないことにした。
「疲れてないよ。ちょっとぼーっとしただけ」
そうか、と言って世海は黙ってしまい、車内が静寂に包まれる。
車窓を流れる夜景を眺めながら、海帆はずっと気がかりだったことを口にした。
「リンさんの足って、いつから?」
「一昨年ぐらいかな、その前から痛みがあったみたいだけど、誰にも言わなくて。気づいたら一人で歩くのも怪しくなってた」
質問されることを予測してたのか、すらすらと淀みなく世海は答えた。その事がかえって、彼が築いてる壁の存在を感じさせる。
「そっか」
小さい頃は、よく世海と一緒に外へ連れて行ってくれた活動的な女性だった。今日はたまたまと言っていたが、触れた時に感じた足の細さはあまり歩いていない弱々しさだった。
会えなかった年月の長さを、海帆は今ひしひしと痛感している。
「…………でも最近は、杖つきながらだけど、また歩く気力が湧いてきてるみたいだけどな」
「そうなの?」
思わず隣を見ると、世海は不機嫌そうに前を睨みながらぼそっと呟いた。
「君と連絡が取れるようになってから、元気になったらしい」
まるでそうなっては困るみたいな言い方だが、海帆は嬉しかった。
「君に会うのを楽しみにしてたから、かなりはしゃいでたよ、ばあさん。母さんはいつも通りだけど、父さんがあんなにしゃべってるとこも久しぶりに見た」
「私も楽しかったよ、みんなと久しぶりに話せて。会いたいな、て思ってたし」
「言葉も忘れてたのに?」
皮肉な言い方に苦笑する。日本に帰国して言葉を完全に忘れてしまった話しを根に持っているようだ。
「思い出まで忘れた訳じゃないよ」
そう言うと、ちらっとこちらを見て世海は肩をすくめた。
「どうやってまた言葉を覚えたんだ? 大学か?」
「ううん、専攻は違うよ。あの頃はスポーツ健康科学を勉強していて、今とは全然違う将来を考えていたから」
「へえ」
意外だったらしい。世海の態度が少し柔らかくなった気がする。
「大学二年の時に、突然台湾に行きたくなったんだよね。言葉とか、もう完全に忘れちゃってたけど、三年生になったら就職活動で絶対に行けないだろうから、行くなら今だって勢いでチケット取った」
本当は一人暮らしするためにこつこつ貯めた貯金だったのだが、後悔はしていない。
「初めての一人旅だったけど、来てよかったよ。その頃はもう完全に言葉を忘れてたんだけど、夜市でぶらぶらしてる時に、いきなりぶわっと聞き取れるようになったんだよね。あれはびっくりしたなー」
自分の周囲に行き交う聞き取れない言語が、突然意味が理解できる言葉になったあの感覚は、今でも不思議な体験だった。かたく閉じていた引出しを勢いよく開けて、中身を全部ぶちまけたような感覚だった。
その経験があり、海帆はせっかく思い出した他言語を活かせる職業に就きたいと思い、今の仕事を選んだのだ。
今思えば、よく就職できたなーと少しひやひやするが。
「前に住んでたマンションも行ったけど、世海くん達はもういなかったね」
「来てたのか」
「うん、でも引っ越した後だった。予想はしてたよ」
それでもちょっと残念だった。あの可愛らしい男の子は、どんな青年に育っただろうかと少し楽しみだったのだ。
でも、今のリンさんの姿を見てしまったら、もう少し何かできたのではないかと海帆は思う。
「あの頃でも、やり方は色々あったのにね。もっとちゃんと探してみればよかったな。そしたら、リンさんが元気なうちに会えたのに」
静かな車内に、海帆のひとり言がぽつんと浮かぶ。
ちょっとしゃべりすぎたかな、と反省してると、世海は静かにつぶやいた。
「うちは、俺が中学の時にあのマンションを出たし、その後も何回か引っ越しをしてるから、あの家に落ち着いたのは割と最近なんだ。きっと君じゃ見つけられなかったと思う」
ぶっきらぼうな言い方で、ちらりと見た横顔は、これ以外の表情はできないんじゃないか、と思い始めてきた仏頂面だったが、おそらく慰めてくれてるのだろう。
「そうかもね」
微笑みかけると、世海の口がぎゅっと一文字になる。
また沈黙が続いたが、もう海帆も慣れてきて、リラックスした気持ちで車窓を眺めた。世海の様子からも、少しだが警戒心がゆるくなっているような気がする。
車は台北市内を走り続け、しばらくして「着いたぞ」と世海が車を止めた。
「君のホテルだ」
「ああ、これか。おお、結構大きいんだね」
「自分で言うか。職場だろう」
「だって初めて見るし。中入らなくていいよ、歩いていくから」
立派な外観のホテル入り口に近い場所で止めてもらい、海帆はすっかり座り慣れた助手席から降りた。
「本当にホテルでいいのか? 家まで送るぞ」
トランクからキャリーケースを取り出しながら言う世海の口調が、なんとなく名残惜しそうに聞こえる。
「ううん、職場の人に挨拶したいから、ここでいいよ」
キャリーケースとお土産の包みを持って、海帆は改めて世海に向き直った。
「世海くん、今日は迎えに来てくれてありがとう。会えて本当に嬉しかった」
「…………………………うん」
俺も、と小さく呟く声に微笑んで、海帆はまたね、と手を振った。
「仕事がんばってね。今度どこか美味しいところ連れてってね」
「うん」
少し強く、世海は頷いた。
海帆は笑って、じゃあねと手を振ってきびすを返し、ホテルへと歩いていった。
そして歩いている途中で、しまったSIMカードどうしようと思いだしたので、世海が彼女の姿が見えなくなるまで見守っていたことには、気づかなかった。
静かに走っている車の助手席でぼーっとしていたら、世海が声をかけてきた。隣を見ると、こちらを伺うよう見ている。
また危険運転を、と思ったが、海帆は気にしないことにした。
「疲れてないよ。ちょっとぼーっとしただけ」
そうか、と言って世海は黙ってしまい、車内が静寂に包まれる。
車窓を流れる夜景を眺めながら、海帆はずっと気がかりだったことを口にした。
「リンさんの足って、いつから?」
「一昨年ぐらいかな、その前から痛みがあったみたいだけど、誰にも言わなくて。気づいたら一人で歩くのも怪しくなってた」
質問されることを予測してたのか、すらすらと淀みなく世海は答えた。その事がかえって、彼が築いてる壁の存在を感じさせる。
「そっか」
小さい頃は、よく世海と一緒に外へ連れて行ってくれた活動的な女性だった。今日はたまたまと言っていたが、触れた時に感じた足の細さはあまり歩いていない弱々しさだった。
会えなかった年月の長さを、海帆は今ひしひしと痛感している。
「…………でも最近は、杖つきながらだけど、また歩く気力が湧いてきてるみたいだけどな」
「そうなの?」
思わず隣を見ると、世海は不機嫌そうに前を睨みながらぼそっと呟いた。
「君と連絡が取れるようになってから、元気になったらしい」
まるでそうなっては困るみたいな言い方だが、海帆は嬉しかった。
「君に会うのを楽しみにしてたから、かなりはしゃいでたよ、ばあさん。母さんはいつも通りだけど、父さんがあんなにしゃべってるとこも久しぶりに見た」
「私も楽しかったよ、みんなと久しぶりに話せて。会いたいな、て思ってたし」
「言葉も忘れてたのに?」
皮肉な言い方に苦笑する。日本に帰国して言葉を完全に忘れてしまった話しを根に持っているようだ。
「思い出まで忘れた訳じゃないよ」
そう言うと、ちらっとこちらを見て世海は肩をすくめた。
「どうやってまた言葉を覚えたんだ? 大学か?」
「ううん、専攻は違うよ。あの頃はスポーツ健康科学を勉強していて、今とは全然違う将来を考えていたから」
「へえ」
意外だったらしい。世海の態度が少し柔らかくなった気がする。
「大学二年の時に、突然台湾に行きたくなったんだよね。言葉とか、もう完全に忘れちゃってたけど、三年生になったら就職活動で絶対に行けないだろうから、行くなら今だって勢いでチケット取った」
本当は一人暮らしするためにこつこつ貯めた貯金だったのだが、後悔はしていない。
「初めての一人旅だったけど、来てよかったよ。その頃はもう完全に言葉を忘れてたんだけど、夜市でぶらぶらしてる時に、いきなりぶわっと聞き取れるようになったんだよね。あれはびっくりしたなー」
自分の周囲に行き交う聞き取れない言語が、突然意味が理解できる言葉になったあの感覚は、今でも不思議な体験だった。かたく閉じていた引出しを勢いよく開けて、中身を全部ぶちまけたような感覚だった。
その経験があり、海帆はせっかく思い出した他言語を活かせる職業に就きたいと思い、今の仕事を選んだのだ。
今思えば、よく就職できたなーと少しひやひやするが。
「前に住んでたマンションも行ったけど、世海くん達はもういなかったね」
「来てたのか」
「うん、でも引っ越した後だった。予想はしてたよ」
それでもちょっと残念だった。あの可愛らしい男の子は、どんな青年に育っただろうかと少し楽しみだったのだ。
でも、今のリンさんの姿を見てしまったら、もう少し何かできたのではないかと海帆は思う。
「あの頃でも、やり方は色々あったのにね。もっとちゃんと探してみればよかったな。そしたら、リンさんが元気なうちに会えたのに」
静かな車内に、海帆のひとり言がぽつんと浮かぶ。
ちょっとしゃべりすぎたかな、と反省してると、世海は静かにつぶやいた。
「うちは、俺が中学の時にあのマンションを出たし、その後も何回か引っ越しをしてるから、あの家に落ち着いたのは割と最近なんだ。きっと君じゃ見つけられなかったと思う」
ぶっきらぼうな言い方で、ちらりと見た横顔は、これ以外の表情はできないんじゃないか、と思い始めてきた仏頂面だったが、おそらく慰めてくれてるのだろう。
「そうかもね」
微笑みかけると、世海の口がぎゅっと一文字になる。
また沈黙が続いたが、もう海帆も慣れてきて、リラックスした気持ちで車窓を眺めた。世海の様子からも、少しだが警戒心がゆるくなっているような気がする。
車は台北市内を走り続け、しばらくして「着いたぞ」と世海が車を止めた。
「君のホテルだ」
「ああ、これか。おお、結構大きいんだね」
「自分で言うか。職場だろう」
「だって初めて見るし。中入らなくていいよ、歩いていくから」
立派な外観のホテル入り口に近い場所で止めてもらい、海帆はすっかり座り慣れた助手席から降りた。
「本当にホテルでいいのか? 家まで送るぞ」
トランクからキャリーケースを取り出しながら言う世海の口調が、なんとなく名残惜しそうに聞こえる。
「ううん、職場の人に挨拶したいから、ここでいいよ」
キャリーケースとお土産の包みを持って、海帆は改めて世海に向き直った。
「世海くん、今日は迎えに来てくれてありがとう。会えて本当に嬉しかった」
「…………………………うん」
俺も、と小さく呟く声に微笑んで、海帆はまたね、と手を振った。
「仕事がんばってね。今度どこか美味しいところ連れてってね」
「うん」
少し強く、世海は頷いた。
海帆は笑って、じゃあねと手を振ってきびすを返し、ホテルへと歩いていった。
そして歩いている途中で、しまったSIMカードどうしようと思いだしたので、世海が彼女の姿が見えなくなるまで見守っていたことには、気づかなかった。
