「海帆! 小帆! ようやく来たわね! ああ、私の福の子!」
世海の実家に着くやいなや、玄関から飛び出してきた女性に海帆は抱きつかれた。
「メグさん! 久しぶりです! うわあ、懐かしい!!」
海帆も負けじと抱きしめかえし、二十数年ぶりの再会に小躍りする。
「よく顔を見せて。ああ、なんて綺麗になったの。背もこんなに大きくなって。女優さんみたいじゃない! まるで男みたいってミホコさんは言ってたけど、全然そんなことないわ! でもなんてこと! あんなに綺麗な髪の毛だったのにこんなに短くして。また伸ばしなさい。長い方が絶対にいいわ! みんなは元気? ミホコさんは元気ね! 毎日連絡してるから。コウイチロウさんやホナミちゃん。ああそうよ! 弟がいるんでしょう? 会ってみたいわ! 今度連れてきなさい!」
「母さん、そこまでにしなさい。小帆が困ってるよ」
矢継ぎ早な質問になんとか間合いをはかって答えようと努力する海帆を見かねて、メグさんの後ろから背の高い男性が話しかけてきた。
姿勢がよく、端正な顔立ちをしたシルバーグレイ。世海の父親、孫逸洋だ。
妻のメグさん、恵君と並ぶとつくづく感じるが、世海の両親なのが納得なほど美しい夫婦だった。
「お久しぶりです」
子供心に、ほのかに憧れの目で見ていたことを思い出し、海帆はかしこまって挨拶をした。
「おい、荷物」
背後から声をかけられ振り向くと、世海がこれ以上ないくらい不機嫌そうな顔で、トランクから出したキャリーケースを海帆に押し付けた。
「ああ、そうだった。ありがとう」
「……………………」
世海は海帆に目もくれず、無言で家の中へと入っていく。
恵君が憤慨して、その背中に声をかけた。
「孫世海! 家まで荷物を持って行きなさい! まったく、あの子ったら……」
「大丈夫ですよ、メグさん。忙しいのに空港まで迎えに来てくれて、助かりました」
「迎えはいいです、てあなた言ってくれたでしょう? あの子にもそう伝えたのに、せっかく休みにしたんだから行ってくるって自分から言ったのよ。だから、ああ見えて、あなたに会えるのを楽しみにしてるのかしらって思ってたのに」
ぶつぶつと文句を言う妻の背中を「まあまあ」と優しく押して、逸洋が玄関へと促しながら海帆にも声をかけた。
「疲れただろう、中に入りなさい。食事の用意ができてるよ」
「好物を用意したわ! 味覚が変わってなければいいけど」
恵君の顔が瞬時に明るくなり、海帆の手を取って家へと招き入れた。
さすが長年連れ添った夫婦だ。逸洋は妻の気のそらし方を心得てる。
「母さん! 小帆が来たわよ!」
玄関を入ってすぐに、恵君は急ぎ足で奥へと行ってしまい、海帆は逸洋に連れられて、居間へと入った。
ダイニングも兼ねてる居間は広々として明るく、十人以上は座れそうなソファセットがあり、そこに知らない顔ぶれの人が数人座っていて、海帆が現れると立ち上がって歓迎してくれた。
逸洋の紹介によると、集まっているのは孫夫婦の親戚の人たちで、世海が生まれた時にも駆けつけてきた人たちらしい。みんな海帆に会って嬉しそうにしている。
その中でただ一人、仏頂面の世海だけが、ソファに長い足を組んで座っていた。
「阿海、お客様が来てるんだぞ」
父親の逸洋の言い方は静かだったが、さすがに無視できるものではないらしく、世海は無言で立ち上がった。
表情は相変わらず硬いままだ。
気まずい空気になりかけたので、海帆は「お土産があるんです!」とことさらに明るく言った。
場の雰囲気がもとの歓迎ムードに戻り、キャリーケースから出したお土産のお菓子などを渡すと、さらに盛り上がった。
その時、恵君に伴われて一人の年配女性が現れた。
足が悪いのか、恵君に支えられながらゆっくりと歩いてくる女性を見て、海帆の胸に懐かしさが込み上げる。
林淑芬、世海の祖母で恵君の母親、リンさんリンさんとよく呼び、幼少期の海帆のことを誰よりも可愛がってくれた人だ。
思わず歩み寄って彼女の反対側の手を取り、ソファに座るのを手伝った。
「リンさん、お久しぶりです。海帆です」
「小帆、我が家の福の子」
嬉しそうに微笑みながら居ずまいを正す女性の傍らに跪くと、小さな手が海帆の頬を包んだ。
「よく顔を見せて。ああ、私の福の子だ。懐かしいね、本当に会いたかった」
優しい口調に、昔の記憶がよみがえる。
よくこうやって彼女の膝にすがって、お話しを聞いたり、時々怒られたりしていたものだ。
「ご無沙汰してしまってすみません」
「本当に。もう会えないのかと思っていたよ。神様の引き合わだね、ようやく帰ってきてくれた」
「はい、帰ってきました」
頬を撫でる手が優しくて、私はこの人の事が大好きだったな、と改めて思い出した。
「ご家族は元気?」
「両親は元気です。姉は結婚をして子供が二人います。日本に帰ってから生まれた弟がいますが、今年無事に社会人になりました」
「そう、それは何より」
「ありがとうございます。リンさんは、その……」
言い淀むと、淑芬は快活に笑った。
「気にしないで、最近少しだけ膝が痛いだけよ」
「足が痛いんですか」
思わず、彼女の膝に手を添える。膝小僧はとても小さくて、弱々しかった。
心配で眉根をよせる海帆の頬を優しく撫でて、淑芬は大丈夫よと言った。
「今日はたまたまよ。調子がいい時は一人で歩けるよ。それ以外は悪いとこなし。まだまだボケてもいない」
そんなことよりも、と淑芬は話を続ける。
「小帆、あなたはどうなの? 仕事で帰ってきたと聞いたけど、また日本に行ってしまうの?」
「まだ未定なんです。二、三年はいるつもりですが、もしかしたらもう少し長く台湾で働かせてもらうかもしれません」
最後の方は適当に言ってしまったのだが、それを聞いて曇りがちだった淑芬の表情が明るくなったので、海帆はそれでよしとした。
「ホテルの従業員をしているんでしょう。大変ではない?」
「とても楽しいです。大変な時もありますけど、世界中から来る人たちと交流ができるので、面白いし勉強になります」
その答えを聞いて、淑芬は楽しそうに笑った。
「あんたは人をもてなすのが好きだったね。よくおままごとに付き合わされたよ、阿海と一緒にね」
「そんなこともありましたね」
「水ばっかり飲まされたけどな」
昔話を懐かしがっていると、頭上から不機嫌そうな声が降ってきた。いつの間にか世海が後ろに立っていて、海帆のことをじっと見下ろしている。
「そんな床なんかに膝ついてないで、ソファに座れよ。ばあさんも、いい加減手を放しなよ。こいつが動けないだろ」
言葉はぞんざいだが、優しい話し方なので、世海が淑芬のことを大事に思っていることがよくわかる。
「あら、やだ。つい懐かしくって。いっつもこうやって顔を撫でていたから」
「私も懐かしいです」
ふふ、と微笑むと、今まで黙ってそばに立っていた恵君が、「食事の用意をしてくるわね!」と言って慌てて行ってしまった。
手伝います、と立ち上がりかけたら、ぐいっと腕を引っ張られた。
いつまでも動かない海帆にしびれを切らした世海が、なかば無理やり彼女をソファに座らせ、自分もその隣に落ち着く。
「そうやって並んでると昔のままだね」
並んで座る二人を見て嬉しそうに目を細める淑芬は、海帆の腕を見て真顔になった。
「小帆。その火傷の痕、やっぱり残ってしまったのね」
「やけど?」
世海が不思議そうに聞いてくる。
淑芬が海帆の左腕を取り、腕の内側に帯状に走る痕を優しく撫でた。火傷といっても、皮膚の色がそこだけうっすらと濃くなっているだけで、よく目を凝らさないと分からない程度のものだ。
「阿海、忘れたの? この火傷はね……」
「真夏の炎天下に転んで、そばにあったバイクのマフラーに当てちゃったんですよね。直射日光が当たっていたからすごく熱くなっていて、痕が残っちゃったって母から聞いてます。私、昔からそそっかしくて」
「そんなこと全然覚えてないぞ」
世海が眉を寄せて聞き返してくる。自分の知らない思い出があることが意外で仕方ないらしく、大きな目を丸くしている。海帆は半ばあきれた。
「世海くんは知らなくて当然だよ、私が三、四歳くらいのことだから」
「そのくらいの頃の記憶ならある」
「嘘だー」
「嘘じゃない」
本気で言ってるのか? 冗談じゃないのか。海帆は信じられなかったが、世海の目は真剣そのものだった。
「阿海の記憶力は相当なものよ。特に小帆、あんたのことはよく覚えてるわよ」
淑芬の静かな声が、二人のにらみ合いを制する。
「ずっと一緒にいたからね」
「……別にこいつのことばかりじゃない」
バツが悪そうにつぶやく世海は、淑芬が撫でる海帆の腕の痕を見て顔をしかめた。
「でもその火傷は本当に覚えてない。そんな大きな痕だったら絶対覚えてるはずなのに」
「あんたはね、小帆が怪我したことにびっくりして大泣きしてね、熱出してそのまま寝込んだのよ。覚えてないなら、熱出したのが原因じゃないかい」
「ああ! そうでしたね。私、お見舞いに行きました。一緒にプリン食べたんですよ、なんかプリンなら食べられるって言うから買ってきたんですよね」
「そうそう、あんたが食べたら阿海も食べるって言い出してね。この子は偏食で少食気味だったけど、あんたが一緒だと食べたから」
海帆は色々と思い出し、淑芬と微笑み合うが、世海は目をぱちくりさせたままだ。
どうやら本当に思い出せないらしく、ショックを受けてるようだ。
三歳頃の記憶を鮮明に覚えてる方がめずらしいと思うが。
そう慰めの言葉をかけようとした時、恵君がご飯ができたわよ、と声をかけてきた。
ぞろぞろと食卓へと向かうと、溢れんばかりの料理が置かれたテーブルに、皆が席に着く。
好物を用意したのよ、と恵君が言った通り、海帆の幼少時の味覚形成に多大な影響を与えた料理の数々に、感動で震えそうになった。
日本で食べようと思ったら、ン万円と取られるようなばかりだ。
「好きなだけ食べなさい」
「はい! 遠慮なくいただきます」
宣言通り、海帆は健啖家ぶりを大いに発揮して、恵君や淑芬を喜ばせた。特に目を輝かせながらお粥を食べてる時は、恵君は目を細めて海帆を眺めていた。
「やっぱりそのお粥なのよね。あんたはどんなにぐずっていても、お粥を食べさせたら一発で機嫌がよくなってたのよ」
「私、今でもお粥が好きです。具合が悪い時とかもですけど、普段でもお粥だけ食べたい時があるくらいです。でも、日本ではこのお粥に出会えなかったんで、今すごく懐かしいです」
「うちのは特別だから。あんたの乳離れもお粥でさせたって話し聞いた?」
「母から聞きました。三日で成功したんでしたよね」
「そうよ。乳離れするまでうちで預かるって言ってね。家を恋しがって泣いても、お粥を上げたらすぐ、にこにこしてたわ、ね、母さん」
「そうだったわね、本当に扱いやすい子だった」
「随分と楽な赤ん坊だったんですね」
海帆の言葉に、恵君と淑芬は笑った。
「そうなのよ! 小帆は全然手間のかからない子だったから、阿海が生まれた時は大変だったわ。この子はとにかく食べない、寝ない、他人に触らせない気難しい性格で、赤ん坊ってこんなに違うのかってびっくりしたわ」
「悪かったな」
海帆の向かいの席で、世海がむっとした様子でつぶやく。しばらく海帆の豪快な食いっぷりに呆気にとられていたのだが、今ようやく食事に箸をつけたところだった。
その様子を見て、恵君はもっと食べなさいと彼の取り皿におかずを取り分ける。
「相変わらず食が細いんだから。この子ったら本当に昔っから食べないのよ。よくここまで大きくなれたものね」
「そうでしたっけ? 小さい頃は一緒に同じくらい食べてたと思うんですけど」
「それはね、小帆、あんたがいたからよ。あんたがいるとこの子は何でも食べたし、寝てくれてたのよ」
「寝るのもですか?」
「そう! 阿海は本当に寝付きの悪い子だったんだけど、不思議とあんたが寝てると自分から毛布と枕を引きずって、隣に寝に行ったのよ。あれには本当に助かったわ」
「母さん……」
やめてくれよ、と世海がうめく。親戚の人達からもからかわれて、バツが悪そうだ。
「助かったと言ったら、うちの方がきっともっと助かってたと思います。母は姉の面倒で手一杯だったから、メグさんやリンさんに私を見てもらえてよかったって、今でも言ってますから」
海帆が別の話しに水を向けると、恵君はそうそうと頷いた。
「ミホコさんはね、本当に大変そうだった。ホナミちゃんがくっついて離れないのーてよく言ってたわ。ホナミちゃんは人見知りの激しい子で抱っこできなかったけど、あんたは抱っこできたから。それで腕に抱いてみたら、あんたはにこにこしてるし、なんだかもう可愛くて可愛くて。それで面倒見させてってお願いしたのよ」
そうだったんですね、と海帆は水餃子を頬張りながら相槌を打つ。皮がもちもちして、肉汁がじゅわあっと溢れ出ておいしい。
こんなおいしい料理を毎日、しかもタダで食べることができる世海がうらやましい。それなのに食が細いとか、贅沢が過ぎると思う。
当の本人は、母親が取り分けた料理に悪戦苦闘しているようで、頬袋をいっぱいにしながら、なんとか攻略しようと奮闘している。
テーブルいっぱいの料理も徐々に少なくなっていく頃には、海帆もすっかりくつろいだ気持ちになっていた。
孫家の親戚の人たちの質問に機嫌よく答えている時、一人の女性から恋人はいるのか、と聞かれた。
「もういい歳でしょ。誰かいい人はいるの?」
「結婚はまだ考えていないですけど、恋人はいます。日本に」
ぴしりっと孫夫妻と淑芬の動きが止まる。
ん? なに? とさっきと同じような戸惑いを感じ、無意識に世海へ視線を向けると、彼はあからさまにそっぽを向いていた。
「そう、恋人がいるのね。日本に。ミホコさん、なんにも言ってなかったから」
「母にはまだ紹介していないんです。彼が、あんまりプレッシャーとか感じたくないらしくて」
「家族に会うことの何がプレッシャーなのかしら。どのくらいお付き合いしているの?」
「もう四年になります」
「そんなに⁉」
恵君の驚きの声に、海帆は苦笑する。
海帆の彼氏に対して疑惑の念を頂いているのは間違いない。
「そんなに待たせるなんて」
「待ってないですよ。私もそう望んだんです」
「でも……」
「おやめ、恵君」
それまで黙っていた淑分が静かに言葉を発し、恵君を落ち着かせる。
「二十年以上も立ってるんだ、色々あるだろう」
含みのある言い方をして、淑芬は海帆に微笑みかけた。
「大丈夫。収まるべき場所にきちんと収まるもんだよ」
どういう意味なのか分からず、海帆は首を傾げたが、淑芬はそれ以上なにも言わなかった。
世海が立ち上がり、海帆にぞんざいな声をかけた。
「食い終わったんなら、もういいか。俺、この後予定があるんだ。家まで送るなら、今にしてほしい」
「あ、うん、分かった。じゃあ、リンさん、メグさん、私そろそろ行きます。ご飯ありがとうございます。本当に美味しかったです」
「ええ、もう行ってしまうの……。阿海、あんた今日は一日休みだって言ってたじゃないの」
母親の言葉にも頑なに受け付けようとしない息子の様子を見て、恵君は説得を諦め、じゃあせめて何か持っていきなさい、と残った料理を手早く詰め、帰り支度をする二人に持たせる。
「俺も?」
「あたりまえでしょ。もう少し太りなさい。もっとがっしりして男らしくならないと」
「この間もらったのがまだ残ってるのに」
ぶつぶつ言う世海に、ちゃんと全部食べるようにと念を押す恵君。二人のやり取りを海帆は微笑ましく見ていた。
「私までこんなに頂いちゃって、ありがとうございます。これから一人暮らしなのですごく助かります」
「後で家の住所教えなさいね。ご飯作って持っていってあげるから」
「本当ですか! 嬉しいです」
本気で喜ぶ海帆に、恵君は嬉しそうに笑った。
「行くぞ」
世海に促され、海帆は改めて孫夫妻と淑芬、そして親戚の方達にお礼を言ってお暇をする。
車まで行くと世海が後部座席を開けて待っていたので、差し伸べている手にお土産の包みを渡し、世海が二人分の包みを乗せている間に海帆は助手席へ行って乗り込み、乗せ終わった世海は運転席へと移動した。
今日、二十数年ぶりに再会したとは思えない、まるで長年連れ添っていた者同士みたいな二人の自然な動きを感慨深く見守ったのは淑芬と恵君だけで、当の二人は特に気にする様子もなくお見送りに来た人たちと挨拶を交わした。
「今日は本当にありがとうございました。また遊びに来ます」
「いつでもいらっしゃい、必ずよ!」
はい、必ず! と恵君に約束すると、車が静かに発進した。海帆は助手席の窓を開け、彼等が見えなくなるまで手を振り続けた。
世海の実家に着くやいなや、玄関から飛び出してきた女性に海帆は抱きつかれた。
「メグさん! 久しぶりです! うわあ、懐かしい!!」
海帆も負けじと抱きしめかえし、二十数年ぶりの再会に小躍りする。
「よく顔を見せて。ああ、なんて綺麗になったの。背もこんなに大きくなって。女優さんみたいじゃない! まるで男みたいってミホコさんは言ってたけど、全然そんなことないわ! でもなんてこと! あんなに綺麗な髪の毛だったのにこんなに短くして。また伸ばしなさい。長い方が絶対にいいわ! みんなは元気? ミホコさんは元気ね! 毎日連絡してるから。コウイチロウさんやホナミちゃん。ああそうよ! 弟がいるんでしょう? 会ってみたいわ! 今度連れてきなさい!」
「母さん、そこまでにしなさい。小帆が困ってるよ」
矢継ぎ早な質問になんとか間合いをはかって答えようと努力する海帆を見かねて、メグさんの後ろから背の高い男性が話しかけてきた。
姿勢がよく、端正な顔立ちをしたシルバーグレイ。世海の父親、孫逸洋だ。
妻のメグさん、恵君と並ぶとつくづく感じるが、世海の両親なのが納得なほど美しい夫婦だった。
「お久しぶりです」
子供心に、ほのかに憧れの目で見ていたことを思い出し、海帆はかしこまって挨拶をした。
「おい、荷物」
背後から声をかけられ振り向くと、世海がこれ以上ないくらい不機嫌そうな顔で、トランクから出したキャリーケースを海帆に押し付けた。
「ああ、そうだった。ありがとう」
「……………………」
世海は海帆に目もくれず、無言で家の中へと入っていく。
恵君が憤慨して、その背中に声をかけた。
「孫世海! 家まで荷物を持って行きなさい! まったく、あの子ったら……」
「大丈夫ですよ、メグさん。忙しいのに空港まで迎えに来てくれて、助かりました」
「迎えはいいです、てあなた言ってくれたでしょう? あの子にもそう伝えたのに、せっかく休みにしたんだから行ってくるって自分から言ったのよ。だから、ああ見えて、あなたに会えるのを楽しみにしてるのかしらって思ってたのに」
ぶつぶつと文句を言う妻の背中を「まあまあ」と優しく押して、逸洋が玄関へと促しながら海帆にも声をかけた。
「疲れただろう、中に入りなさい。食事の用意ができてるよ」
「好物を用意したわ! 味覚が変わってなければいいけど」
恵君の顔が瞬時に明るくなり、海帆の手を取って家へと招き入れた。
さすが長年連れ添った夫婦だ。逸洋は妻の気のそらし方を心得てる。
「母さん! 小帆が来たわよ!」
玄関を入ってすぐに、恵君は急ぎ足で奥へと行ってしまい、海帆は逸洋に連れられて、居間へと入った。
ダイニングも兼ねてる居間は広々として明るく、十人以上は座れそうなソファセットがあり、そこに知らない顔ぶれの人が数人座っていて、海帆が現れると立ち上がって歓迎してくれた。
逸洋の紹介によると、集まっているのは孫夫婦の親戚の人たちで、世海が生まれた時にも駆けつけてきた人たちらしい。みんな海帆に会って嬉しそうにしている。
その中でただ一人、仏頂面の世海だけが、ソファに長い足を組んで座っていた。
「阿海、お客様が来てるんだぞ」
父親の逸洋の言い方は静かだったが、さすがに無視できるものではないらしく、世海は無言で立ち上がった。
表情は相変わらず硬いままだ。
気まずい空気になりかけたので、海帆は「お土産があるんです!」とことさらに明るく言った。
場の雰囲気がもとの歓迎ムードに戻り、キャリーケースから出したお土産のお菓子などを渡すと、さらに盛り上がった。
その時、恵君に伴われて一人の年配女性が現れた。
足が悪いのか、恵君に支えられながらゆっくりと歩いてくる女性を見て、海帆の胸に懐かしさが込み上げる。
林淑芬、世海の祖母で恵君の母親、リンさんリンさんとよく呼び、幼少期の海帆のことを誰よりも可愛がってくれた人だ。
思わず歩み寄って彼女の反対側の手を取り、ソファに座るのを手伝った。
「リンさん、お久しぶりです。海帆です」
「小帆、我が家の福の子」
嬉しそうに微笑みながら居ずまいを正す女性の傍らに跪くと、小さな手が海帆の頬を包んだ。
「よく顔を見せて。ああ、私の福の子だ。懐かしいね、本当に会いたかった」
優しい口調に、昔の記憶がよみがえる。
よくこうやって彼女の膝にすがって、お話しを聞いたり、時々怒られたりしていたものだ。
「ご無沙汰してしまってすみません」
「本当に。もう会えないのかと思っていたよ。神様の引き合わだね、ようやく帰ってきてくれた」
「はい、帰ってきました」
頬を撫でる手が優しくて、私はこの人の事が大好きだったな、と改めて思い出した。
「ご家族は元気?」
「両親は元気です。姉は結婚をして子供が二人います。日本に帰ってから生まれた弟がいますが、今年無事に社会人になりました」
「そう、それは何より」
「ありがとうございます。リンさんは、その……」
言い淀むと、淑芬は快活に笑った。
「気にしないで、最近少しだけ膝が痛いだけよ」
「足が痛いんですか」
思わず、彼女の膝に手を添える。膝小僧はとても小さくて、弱々しかった。
心配で眉根をよせる海帆の頬を優しく撫でて、淑芬は大丈夫よと言った。
「今日はたまたまよ。調子がいい時は一人で歩けるよ。それ以外は悪いとこなし。まだまだボケてもいない」
そんなことよりも、と淑芬は話を続ける。
「小帆、あなたはどうなの? 仕事で帰ってきたと聞いたけど、また日本に行ってしまうの?」
「まだ未定なんです。二、三年はいるつもりですが、もしかしたらもう少し長く台湾で働かせてもらうかもしれません」
最後の方は適当に言ってしまったのだが、それを聞いて曇りがちだった淑芬の表情が明るくなったので、海帆はそれでよしとした。
「ホテルの従業員をしているんでしょう。大変ではない?」
「とても楽しいです。大変な時もありますけど、世界中から来る人たちと交流ができるので、面白いし勉強になります」
その答えを聞いて、淑芬は楽しそうに笑った。
「あんたは人をもてなすのが好きだったね。よくおままごとに付き合わされたよ、阿海と一緒にね」
「そんなこともありましたね」
「水ばっかり飲まされたけどな」
昔話を懐かしがっていると、頭上から不機嫌そうな声が降ってきた。いつの間にか世海が後ろに立っていて、海帆のことをじっと見下ろしている。
「そんな床なんかに膝ついてないで、ソファに座れよ。ばあさんも、いい加減手を放しなよ。こいつが動けないだろ」
言葉はぞんざいだが、優しい話し方なので、世海が淑芬のことを大事に思っていることがよくわかる。
「あら、やだ。つい懐かしくって。いっつもこうやって顔を撫でていたから」
「私も懐かしいです」
ふふ、と微笑むと、今まで黙ってそばに立っていた恵君が、「食事の用意をしてくるわね!」と言って慌てて行ってしまった。
手伝います、と立ち上がりかけたら、ぐいっと腕を引っ張られた。
いつまでも動かない海帆にしびれを切らした世海が、なかば無理やり彼女をソファに座らせ、自分もその隣に落ち着く。
「そうやって並んでると昔のままだね」
並んで座る二人を見て嬉しそうに目を細める淑芬は、海帆の腕を見て真顔になった。
「小帆。その火傷の痕、やっぱり残ってしまったのね」
「やけど?」
世海が不思議そうに聞いてくる。
淑芬が海帆の左腕を取り、腕の内側に帯状に走る痕を優しく撫でた。火傷といっても、皮膚の色がそこだけうっすらと濃くなっているだけで、よく目を凝らさないと分からない程度のものだ。
「阿海、忘れたの? この火傷はね……」
「真夏の炎天下に転んで、そばにあったバイクのマフラーに当てちゃったんですよね。直射日光が当たっていたからすごく熱くなっていて、痕が残っちゃったって母から聞いてます。私、昔からそそっかしくて」
「そんなこと全然覚えてないぞ」
世海が眉を寄せて聞き返してくる。自分の知らない思い出があることが意外で仕方ないらしく、大きな目を丸くしている。海帆は半ばあきれた。
「世海くんは知らなくて当然だよ、私が三、四歳くらいのことだから」
「そのくらいの頃の記憶ならある」
「嘘だー」
「嘘じゃない」
本気で言ってるのか? 冗談じゃないのか。海帆は信じられなかったが、世海の目は真剣そのものだった。
「阿海の記憶力は相当なものよ。特に小帆、あんたのことはよく覚えてるわよ」
淑芬の静かな声が、二人のにらみ合いを制する。
「ずっと一緒にいたからね」
「……別にこいつのことばかりじゃない」
バツが悪そうにつぶやく世海は、淑芬が撫でる海帆の腕の痕を見て顔をしかめた。
「でもその火傷は本当に覚えてない。そんな大きな痕だったら絶対覚えてるはずなのに」
「あんたはね、小帆が怪我したことにびっくりして大泣きしてね、熱出してそのまま寝込んだのよ。覚えてないなら、熱出したのが原因じゃないかい」
「ああ! そうでしたね。私、お見舞いに行きました。一緒にプリン食べたんですよ、なんかプリンなら食べられるって言うから買ってきたんですよね」
「そうそう、あんたが食べたら阿海も食べるって言い出してね。この子は偏食で少食気味だったけど、あんたが一緒だと食べたから」
海帆は色々と思い出し、淑芬と微笑み合うが、世海は目をぱちくりさせたままだ。
どうやら本当に思い出せないらしく、ショックを受けてるようだ。
三歳頃の記憶を鮮明に覚えてる方がめずらしいと思うが。
そう慰めの言葉をかけようとした時、恵君がご飯ができたわよ、と声をかけてきた。
ぞろぞろと食卓へと向かうと、溢れんばかりの料理が置かれたテーブルに、皆が席に着く。
好物を用意したのよ、と恵君が言った通り、海帆の幼少時の味覚形成に多大な影響を与えた料理の数々に、感動で震えそうになった。
日本で食べようと思ったら、ン万円と取られるようなばかりだ。
「好きなだけ食べなさい」
「はい! 遠慮なくいただきます」
宣言通り、海帆は健啖家ぶりを大いに発揮して、恵君や淑芬を喜ばせた。特に目を輝かせながらお粥を食べてる時は、恵君は目を細めて海帆を眺めていた。
「やっぱりそのお粥なのよね。あんたはどんなにぐずっていても、お粥を食べさせたら一発で機嫌がよくなってたのよ」
「私、今でもお粥が好きです。具合が悪い時とかもですけど、普段でもお粥だけ食べたい時があるくらいです。でも、日本ではこのお粥に出会えなかったんで、今すごく懐かしいです」
「うちのは特別だから。あんたの乳離れもお粥でさせたって話し聞いた?」
「母から聞きました。三日で成功したんでしたよね」
「そうよ。乳離れするまでうちで預かるって言ってね。家を恋しがって泣いても、お粥を上げたらすぐ、にこにこしてたわ、ね、母さん」
「そうだったわね、本当に扱いやすい子だった」
「随分と楽な赤ん坊だったんですね」
海帆の言葉に、恵君と淑芬は笑った。
「そうなのよ! 小帆は全然手間のかからない子だったから、阿海が生まれた時は大変だったわ。この子はとにかく食べない、寝ない、他人に触らせない気難しい性格で、赤ん坊ってこんなに違うのかってびっくりしたわ」
「悪かったな」
海帆の向かいの席で、世海がむっとした様子でつぶやく。しばらく海帆の豪快な食いっぷりに呆気にとられていたのだが、今ようやく食事に箸をつけたところだった。
その様子を見て、恵君はもっと食べなさいと彼の取り皿におかずを取り分ける。
「相変わらず食が細いんだから。この子ったら本当に昔っから食べないのよ。よくここまで大きくなれたものね」
「そうでしたっけ? 小さい頃は一緒に同じくらい食べてたと思うんですけど」
「それはね、小帆、あんたがいたからよ。あんたがいるとこの子は何でも食べたし、寝てくれてたのよ」
「寝るのもですか?」
「そう! 阿海は本当に寝付きの悪い子だったんだけど、不思議とあんたが寝てると自分から毛布と枕を引きずって、隣に寝に行ったのよ。あれには本当に助かったわ」
「母さん……」
やめてくれよ、と世海がうめく。親戚の人達からもからかわれて、バツが悪そうだ。
「助かったと言ったら、うちの方がきっともっと助かってたと思います。母は姉の面倒で手一杯だったから、メグさんやリンさんに私を見てもらえてよかったって、今でも言ってますから」
海帆が別の話しに水を向けると、恵君はそうそうと頷いた。
「ミホコさんはね、本当に大変そうだった。ホナミちゃんがくっついて離れないのーてよく言ってたわ。ホナミちゃんは人見知りの激しい子で抱っこできなかったけど、あんたは抱っこできたから。それで腕に抱いてみたら、あんたはにこにこしてるし、なんだかもう可愛くて可愛くて。それで面倒見させてってお願いしたのよ」
そうだったんですね、と海帆は水餃子を頬張りながら相槌を打つ。皮がもちもちして、肉汁がじゅわあっと溢れ出ておいしい。
こんなおいしい料理を毎日、しかもタダで食べることができる世海がうらやましい。それなのに食が細いとか、贅沢が過ぎると思う。
当の本人は、母親が取り分けた料理に悪戦苦闘しているようで、頬袋をいっぱいにしながら、なんとか攻略しようと奮闘している。
テーブルいっぱいの料理も徐々に少なくなっていく頃には、海帆もすっかりくつろいだ気持ちになっていた。
孫家の親戚の人たちの質問に機嫌よく答えている時、一人の女性から恋人はいるのか、と聞かれた。
「もういい歳でしょ。誰かいい人はいるの?」
「結婚はまだ考えていないですけど、恋人はいます。日本に」
ぴしりっと孫夫妻と淑芬の動きが止まる。
ん? なに? とさっきと同じような戸惑いを感じ、無意識に世海へ視線を向けると、彼はあからさまにそっぽを向いていた。
「そう、恋人がいるのね。日本に。ミホコさん、なんにも言ってなかったから」
「母にはまだ紹介していないんです。彼が、あんまりプレッシャーとか感じたくないらしくて」
「家族に会うことの何がプレッシャーなのかしら。どのくらいお付き合いしているの?」
「もう四年になります」
「そんなに⁉」
恵君の驚きの声に、海帆は苦笑する。
海帆の彼氏に対して疑惑の念を頂いているのは間違いない。
「そんなに待たせるなんて」
「待ってないですよ。私もそう望んだんです」
「でも……」
「おやめ、恵君」
それまで黙っていた淑分が静かに言葉を発し、恵君を落ち着かせる。
「二十年以上も立ってるんだ、色々あるだろう」
含みのある言い方をして、淑芬は海帆に微笑みかけた。
「大丈夫。収まるべき場所にきちんと収まるもんだよ」
どういう意味なのか分からず、海帆は首を傾げたが、淑芬はそれ以上なにも言わなかった。
世海が立ち上がり、海帆にぞんざいな声をかけた。
「食い終わったんなら、もういいか。俺、この後予定があるんだ。家まで送るなら、今にしてほしい」
「あ、うん、分かった。じゃあ、リンさん、メグさん、私そろそろ行きます。ご飯ありがとうございます。本当に美味しかったです」
「ええ、もう行ってしまうの……。阿海、あんた今日は一日休みだって言ってたじゃないの」
母親の言葉にも頑なに受け付けようとしない息子の様子を見て、恵君は説得を諦め、じゃあせめて何か持っていきなさい、と残った料理を手早く詰め、帰り支度をする二人に持たせる。
「俺も?」
「あたりまえでしょ。もう少し太りなさい。もっとがっしりして男らしくならないと」
「この間もらったのがまだ残ってるのに」
ぶつぶつ言う世海に、ちゃんと全部食べるようにと念を押す恵君。二人のやり取りを海帆は微笑ましく見ていた。
「私までこんなに頂いちゃって、ありがとうございます。これから一人暮らしなのですごく助かります」
「後で家の住所教えなさいね。ご飯作って持っていってあげるから」
「本当ですか! 嬉しいです」
本気で喜ぶ海帆に、恵君は嬉しそうに笑った。
「行くぞ」
世海に促され、海帆は改めて孫夫妻と淑芬、そして親戚の方達にお礼を言ってお暇をする。
車まで行くと世海が後部座席を開けて待っていたので、差し伸べている手にお土産の包みを渡し、世海が二人分の包みを乗せている間に海帆は助手席へ行って乗り込み、乗せ終わった世海は運転席へと移動した。
今日、二十数年ぶりに再会したとは思えない、まるで長年連れ添っていた者同士みたいな二人の自然な動きを感慨深く見守ったのは淑芬と恵君だけで、当の二人は特に気にする様子もなくお見送りに来た人たちと挨拶を交わした。
「今日は本当にありがとうございました。また遊びに来ます」
「いつでもいらっしゃい、必ずよ!」
はい、必ず! と恵君に約束すると、車が静かに発進した。海帆は助手席の窓を開け、彼等が見えなくなるまで手を振り続けた。
