ひとつの秩序

 
莉子が次に連れて行ったお店は、先ほどよりも少し上品そうな店だった。ここのスーツかっこいいんだよなぁと過去に莉子が思っていたブランドで、先ほどの店とはまた違った落ち着き具合が加瀬に似合うと思ったのだ。

売り場に並んでいるスーツは、どれも落ち着いた色味で、一目で仕事用だと分かるものばかりだった。でも、不思議と地味には見えない。

こちらはウール100%で、通年使いやすい生地です、形はベーシックですが、肩周りがきれいに出ます、長く着ていただけるモデルですね、などとまたしても店員に勧められるがままのものを試着した加瀬。

見た感じだと正直違いがよく分かんねーけど、着ると全然違うな、と言った加瀬に、莉子も黙って隣で頷いていた。思ったよりもちゃんとしていて、似合っていて、少しだけ何とも言えない気持ちになった莉子だったが、気持ちの半分はハンカチ売り場のことを考えていたのもあって、特に気に留めなかった。






「加瀬、何食べる?」
「んー」

オーダーメイドスーツを店員にも莉子にも勧められたが、加瀬は断って既成のものを一着購入した。ハンカチは莉子が思うものを提案すると、加瀬は南の好みで決めていいと言ったので、莉子の提案がそのまま採用になり、購入した。

大きめのショッパーを持つ加瀬を莉子は気遣ったが、特に気にしていないという加瀬と、そのまま夕食を取ることにした。

そうして、家が近い方がいいよね、と莉子の最寄りの沿線上の駅に移動し、白を基調としたカフェにふらりと入った。テラス席もあると言われたが、夕方になり少し寒いかな?と店内奥のソファ席に座った二人は、店員から手渡された数枚のメニューを机に並べた。料理の写真が丁寧に印刷されラミネートされている。

「俺、チキンと緑黄色野菜のアラビアータ。大盛りにする」
「あー気になってたやつ!じゃあ、私は、桜エビとしらすのピザにする」
「うまそう」
「ねー」

店員に注文する際、取り分け用の皿をそつなく頼んだ加瀬に、ありがとうと莉子はお礼を言いながら、光沢のある木の質感の机に置かれた水を飲んだ。

「ねー、マッチングアプリ、私もやろうかなあ」
「え?」
「加瀬の二の舞になるかもしれないけど」
「それは忘れて」

加瀬も同じように水を飲みながら言った。莉子は机にコトリとグラスを置く。グラスの下に敷かれたコースターには、店名が入っている。

「どんな感じだった?」
「あー、写真とか、プロフィールとか項目とかすげー細かく入力させられて」
「うー」
「なんかシステムも複雑。いいねの上限とか、検索も細かくて、勝手に今日のおすすめの相手とか急に出てきて」
「むず」

店内の天井はそれほど高くなく、木の格子が規則正しく並び、琥珀色の照明が静かに落ちている。
コンクリート打ちっぱなしの壁に、店の手前には無垢材のカウンター。
光沢のある木肌が、グラスの影をやわらかく映す。

「出来んの?」
「何が?」
「いいねして、初めまして〜ってメッセージ重ねて、頻繁にアプリ見て、返して、いいねして、いいねされて、何のお仕事されてるんですか〜?っていうのに返して、それを繰り返して、日にち決めて、また初めまして〜って会うの」
「め、めんどい…」
「なんか営業してるみたいな気持ちにさせられてさー」
「営業じゃないけど?」
「違うけど。自分を売り込んでるみたいな感じだった」
「あー」

付け合わせのサラダです、と小さいガラスの皿に入れられたサラダが目の前に置かれた。柑橘の皮がドレッシングの上に散らされている。加瀬はカトラリーを莉子に渡しながら言った。

「俺はもう最終的には面倒で面倒で」
「そんな感じする」
「合わないタイプなんだろうな。マメじゃないと」
「私もそうかも知れない」
「なんか本人確認とかもあったわ」
「えっ」

それにしても加瀬は詳しい。さすが一度登録しただけのことはある。あの時はすぐ辞めたみたいな口ぶりだったけれど、もしかしたら私を励ますためで、本当はもうちょっとしっかりやっていたのかもしれない。

莉子は少し姿勢を起こして、目の前の加瀬をじっくり見た。

ワックスをつけたかつけてないか分からない程度の、自然体のセット。額にかかった、少し長めの前髪をかき分けた加瀬。上唇は少し薄くて、大学まで続けていたらしいバレーの影響か、筋肉はある方だろう。
今日身につけている、さらりとした生地のキャメルのニットに少し褪せた色のデニム。さりげなく左手首につけられたゴールドの時計も似合っている。普段は気にも留めていなかったが、加瀬のセンスはいい。

「意外とモテたでしょ」
「は?俺の話聞いてた?」
「最初はいいねが付かなかったとしても、そのあとはちゃんと来て、何人かと会ったでしょ」
「もう忘れたよ、四年前だぞ?」
「加瀬の今までの彼女の話とかも、そういえば聞いたことない」
「言ったことねーな」
「私ばっかり先輩の話しててズルくない?」
「南からいつも話し始めてるけど?」

そりゃ、確かに、普段から私が加瀬に声をかけて愚痴を聞いてもらってるけど。だって、加瀬って家からも近くて遠慮せずに呼べるし、仕事もホワイトだからって全然遅くまで働いてる感じしなくて、だから実際割と誘ったら来てくれるし、全部私からだけどさあ!と莉子は心の中で思う。

「加瀬の好きなタイプは?会社ではいないの?」
「いないいない、男ばっかの部署だぞ」
「スポーツメーカーでしょ?企画だっけ?」
「そー、開発と現場に挟まれてさー、商品出す前の調整みたいな感じだよ」
「何だっけ、前言ってた、横文字で言うやつ」
「プロダクトマネジメント補佐」
「ねぇ面白い、ちょっとかっこいい」
「だろ」

加瀬が変な顔をしてふざけるものだから、莉子も笑って、目の前の水が入ったグラスの氷がコロンと水面に浸かった。

騒がしさはないけれど、静かすぎもしない。グラスが触れ合う音、氷をすくう音、低い声で交わされる会話。それらが溶け合って、店全体がゆっくり呼吸しているみたいだった。

「いいよ、今日俺のことばっかり話してるじゃん」
「確かに、片倉先輩のかっこいいところでも聞く?」
「やっぱ俺の話にしない?」
「えー」

ちょうどその時、こちらにやってきた店員によって、目の前のテーブルに料理が優しく置かれた。食べるよな?と加瀬が居酒屋でいつもやるみたいに、取り皿に新しいスプーンとフォークを出して取り分ける様子を見て、莉子は笑った。

食事が終わり、加瀬は、最初からそう思ってそっちにチャリ止めたから。と莉子の最寄り駅まで一緒に来て、送ってくれた。莉子は家の前で、自転車に跨った状態の加瀬に、冗談っぽく「上がる?」と聞いた。
加瀬は一瞬だけ視線を逸らした。
眉をしかめながら鼻で笑って、「上がんねーよ」と言った。