朝から大雨だった。
警報級だとテレビで言っている通りで、莉子はレインブーツを出して履いた。
駅までの道を歩いただけで、その選択が正解だったと分かるほどの雨だった。
【今日、夜ごはんどう?】
電車の中は、暖房がよく効いているわけでもないのに、むわりとした空気に満ちていた。窓ガラスは曇り、誰かの手の跡がついている。
人の流れに揺られながら、乗り換えの駅でそのメッセージに気づいた。
【今日は遅くなりそうなの】
加瀬からのメッセージに、莉子はそう返信をする。
遅くなる予定があるわけでもない。けれど、会ったら、また揺れてしまうから。
【土日は?予定あり?】
【今週は、ちょっとゆっくりしたいかも】
レインブーツがペタペタとコンクリートに着くたびに、少しの水が跳ねる音がする。
加瀬と会いたくないわけではないけれど、会ったら、揺れて、流されて、そうして答えの出ないまま過ぎていくだけで、それがとても嫌だった。
既読がつくのを見届ける勇気はなかった。そのままスマホをポケットに仕舞った。
少し離れてみる。近すぎると、息がつまる。
どこにいると、綺麗に見えるのか。
あえて時間を置いて離れると、違った正解が出てくることもある。
静の言葉を反芻する。
同じようにしてみることで、自分の気持ちに変化が起こるかもしれないと思ったのだ。
【分かった】
加瀬から、淡白な返信が来て、そのまま画面を閉じる。
駅を出ると、自宅の最寄駅と同じくらいの雨量だった。
大きな傘を持ってきて良かった、そう思いながら傘を開こうとすると、背後でエレベーターが開く音がして、莉子は軽く後ろを向く。
「あ…」
「おはよう、南。今日すごい雨だね」
「おはようございます…」
片倉は莉子の隣に並び、空を見上げて黒い傘を差した。
「入る?俺の傘大きいやつだけど」
「あ、大丈夫、です」
「そ?じゃあ一緒に行こう」
「…はい」
片倉の後に続いて、莉子も傘を差した。大通り沿いの歩道は広くて、傘を差した大人が二人並んで歩いても、まだまだ余裕がある。足元で水がぴしゃりと音を立て、跳ねてはどこかへ飛んでいく。
「…今日、夜ご飯でもどう?」
「え、」
「…仕事じゃないけど。ただ俺が、夜も会いたいだけ」
「……やめて、おきます」
「そっか。大雨だしね。早く帰ろっか、今日は」
片倉は莉子を見ずにそう言った。
気まずさも抱えながら、莉子も片倉を見なかった。
先輩と会わないのは無理だけど、ただ流されるだけになることは辞めよう。
それ以上、片倉は何も言わなかった。
優しさなのか、距離なのか、分からないまま、会社に着いて、仕事を始める。
先日の静の言葉をまた反芻しながら、仕事に取り掛かる。
こういう日に限って、スムーズに仕事は進んだ。
会社でも、雨だからとリモートに切り替えた人が多いのか、そもそも人の数も少なく、早く帰る人が多かった。
残業するほどの仕事が残っているわけでもなく、定時を少し過ぎたところで莉子は会社を出た。
片倉はもう少し残るようだった。軽く挨拶をして、少しだけ後ろ髪引かれる気持ちで帰路に着いた。
その日の夜、雨はさらに強くなった。
窓を閉めていても響いてくる雨音をかき消すように、莉子はテレビの音量を上げる。
何気なくテーブルに置いていたスマホを見ると、メッセージの通知が出ていた。
時間は十五分前で、開くと、加瀬からだった。
【ちょっとだけ、会える?今】
え?どういうこと?と思った莉子は、すぐに既読をつけて返信する。
【どうしたの?】
【今、南の家のとこにいる】
その文字を見て、莉子は急いで鍵と傘を持って玄関を開けた。
共用の廊下は冷たく、三月とは思えないほど寒い。
共用玄関を開けると、目の前の電柱のところに大きな傘が見えた。
雨粒が街灯の光をにじませて、輪郭をぼかしていてよく見えない。
玄関の音で気づいたのか、傘が上がったその下には、加瀬が立っていた。
「加瀬!?」
莉子は階段を降りて、加瀬の元に近寄った。
電柱の光が差して、黒いコートが反射してきらりと雨粒を写し、裾から水がぽたりと落ちている。
「なんでいるの!?どうしたの?」
加瀬はぼうっとこちらを見ていた。
いつものようにすぐに反応があるわけでも、笑うわけでもない。
「…ごめん、急に」
「いいけど…濡れてるし、とりあえず家入って!」
「いや、」
「いいから、寒いし!」
莉子は加瀬の腕を取って、玄関に向かった。
しまった、足元をブーツにすれば良かった。
コンビニに行く時用のサンダルを咄嗟に履いてきてしまっていた莉子の足元は、この短時間でもぐしょりと濡れていた。
共用廊下に、先ほどよりもペしゃり、ぐしゃりと湿った足音が二つ分響く。
何も言わず大人しく手を引かれる加瀬に違和感を抱きつつも、莉子は玄関を開けて、家に入れた。
遠くで車が水を切る音がしている。
軽量鉄骨の賃貸アパートの玄関は、そう広くない。
莉子はサンダルを脱ぎ捨てるようにして部屋に上がり、振り返った。
「なんで、ていうか、ごめん気づかなくて、電話してくれれば良かったのに…」
「いや、俺が勝手に来たし…」
加瀬は連れてこられた場所から動かず、先ほどと表情も変わらず、莉子を見ている。
玄関を上がった莉子は、少し高い位置にいて、加瀬との身長差もいつもより小さい。
「どうしたの…」
「いや…」
歯切れの悪い返事に、いつもとは違う様子。
莉子は加瀬の顔を覗き込むようにして、肩に触れ、じわりと濡れた感触に思わず手を離す。
「すごい濡れてるじゃん!ちょっと待って、タオル持ってくる!上がってて!」
莉子が洗面所にタオルを取りに行って戻ってきても、加瀬は先ほどと同じ位置にいた。
ただぼうっと、玄関で立ち尽くしている。
黒のコートが蛍光灯に照らされて、つやつやと雫を浮かび上がらせている。
「ちょっと待ってね。コート、拭いてから脱ごっか」
「ん…」
莉子がコートを拭いている間、加瀬は棒立ちで、されるがままだった。
莉子はたまにチラリと顔を見て様子を伺うも、加瀬の表情は変わらない。大方拭き終わり、莉子が加瀬のコートに手をかけると、加瀬がコートを脱いだ。
莉子はそれを受け取って、玄関のハンガーレーンにかけた。
「…歩いてきたの?どうしたの?」
外で見た時、加瀬がいつも使っている自転車はなかった。
自転車ではすぐだが、歩くと十五分以上はかかる。この雨の中を歩いてきて、返事を待っていたのだろうか。莉子が気づいたのも十五分ほど後だったことから、だいぶ雨の中にいたのだろうということが分かる。
「いや…なんか、会いたくて」
「…とりあえず、中おいでよ」
莉子がそう言って、リビングへ向かおうとすると、後ろから手を引かれた。
「なんで?」
「え?」
「なんで、俺を家にあげんの?」
「え、」
ハンガーにかけたコートから、取りきれていなかった雫がぽたりと落ちた。
「俺のことなんて、意識してないから?」
いつの間にか玄関を一歩上がった加瀬は、いつも通りの身長差になっていた。
引かれた手は氷のようで、温度を感じられなかった。
「え、ちが、風邪ひくと思って…」
「先輩と上手くいったの?」
「え?」
「こないだ、美術館に誘われたって言ってたじゃん」
「あ、えと、」
「付き合うことになった?」
「なって、ない」
加瀬は莉子の方を見ない。自分から手を引いたくせに、後悔しているような顔をして繋がった手を見つめている。
いつもはカラリと笑う加瀬の表情がずっと変わらなくて、それがとても、怖くて、どうしていいか分からない。
「俺とは、友達だから?」
「…ちが、」
扉の奥から、つけっぱなしのテレビの音がする。
外の雨音が少しだけ鈍く聞こえて、濡れた靴の跡が、点々と床に残っている。
「…なぁ、もう友達は、やめよ」
遠くで、雷みたいな低い音がしてトラックが通り過ぎていった。
加瀬の濡れて束になった前髪が、空を切って、雫を飛ばした。



