ひとつの秩序

  
  
 

朝起きると、加瀬からメッセージが届いていた。
ベッドの中は温かくて、部屋との寒暖差を感じる。

【おはよ】

三月頭と言っても、まだ朝は寒い。
ベッドの中でその文字を見つめ、返さずに画面を閉じた。

スマホの時計を見ると、まだ少しだけ時間に余裕がある。
ゆっくりと朝ごはんが食べられそうだ、そう思って莉子は起き上がった。

テレビを見ながら冷蔵庫に残っていたスープを飲んでいると、スマホが震える。

【今日も頑張ろうねー】

そう送った相手は片倉だ。思いを告げられてから、頻繁にメッセージをするようになった。大したことない言葉なのに、昨日の熱が一瞬で蘇ってくる。

可愛いねと、言われなくとも分かる、熱を帯びた視線と、ずっと繋がれていた手の感触。耳元で囁かれた言葉は、甘いだけではなくて真剣で、じりじりと心の隅を焼かれていくようだった。

『キスでもしてみる?』

そう、言われた時に、断れないかもしれないと思った。
あの時、片倉が引いていなかったら、どうなっていたんだろう。
そして、私はあの時、一瞬だけ、過った何か。

このメッセージも返信せずに画面を閉じた。一瞬で全てが暗くなって、待受画面越しに自分の顔が映った。


加瀬と会えば、揺れる。
好きだとは言われていないけれど、温かさが、行動が、手の温度が、加瀬の全てが伝えてきているようだ。友達、だった男なのか、今でも友達なのか。

先輩と会えば、私は簡単にあの頃に引き戻される。
憧れで、追いつきたくて、キラキラしていて、何もされていないのにじわりと侵食されていって、流されてしまいたくなる。

きっと一年前だったら飛びついていた。
何も考えずに、素直に手を握り返せたはずなのに。

二人の男と会って、手を繋いで、それをただただ黙って受け入れている自分がすごく嫌だ。どちらも拒めない。どちらも嫌いになれない。選ばなければいけないと分かりつつも、選ぶ基準が、自分の気持ちが、どこまでも分からない。

少しだけ、その思考から目を逸らしたくなった。
仕事のほうが、単純だ。

莉子は立ち上がってスープが入っていた器をシンクに置いた。
縁にこびりついた塊が取れるよう、水だけ浸けてから朝の支度に取り掛かった。







その日は静に呼び出されて、会社ではなく、日本橋のギャラリースペースに出勤していた。

デザイン会社が運営するギャラリーでの短期展示。
フラワーベースとガラスプロダクトの展示で、国内作家数名の合同展示の案件だった。
莉子は直接は関わってなかったが、先週木曜日、静から資料と共に、ここに来いとの指定があった。以前話していた、配置のことを教えてもらえるのだと分かり、莉子は楽しみにしていた。

「資料、頭に入れてきた?」
「はい!」

静はギャラリースペースの中央に立っていた。莉子の返事を聞いて軽く微笑む。

「什器は決定してる、照明の位置も固定。当日はお花屋さんが入るから、その前提で」
「はい。あの、なんで今日は私を呼んでくださったんですか?」

中央には、高さが揃っていない、白い台座がいくつも並んでいる。
その上に置かれているのは、ガラスの花瓶だった。

「自分で作ったものは、こう見て欲しい、ここを見せたいっていうのがあるでしょ」
「…はい」
「でも他人の作ったものは、それを感じ取るしかない。だからあえて、途中から参加させてみようかなと思って」
「なるほど…」

今までの仕事は、パソコンの画面の中で完結することが多かった。
配置も、色も、サイズも、頭の中で自由に動かせた。

でも今日は違う。

「デザインはさ、自由なのよ、想像の中では。でも配置は現実だから」

静は淡々と言った。声に感情は乗っていない。

「ここ、立ってみて」

莉子は乳白色のフラワーベースの前に立った。思ったより大きくて、画面で見ていたサイズ感とは、全然違う。

「絶対に動かせないものがあるでしょ。それを前提に、どう見せるか考える」

莉子は無意識に一歩下がった。全体を見渡すと、花瓶同士の感覚が場所ごとに違う。
何も置かれない床を、一度見下ろした。花は、ここに入る。花瓶を生かすために、魅せるために、花瓶よりも下に置かれて、花がそこに活けられるところまで想像させないといけない。

「置けない場所も、床も、配置する」

白を基調とした空間。
壁も、什器も、ほとんど色を持たない。
足元は打ちっぱなしのコンクリートで、靴底の音が少しだけ響く。
天井は高く、配管がそのまま剥き出しになっていて、無機質なのに冷たすぎない。

ところどころに、何の装飾もないベンチが置かれている。
座るためというより、立ち止まるための場所みたいだった。


「近づきすぎると、ガラスの厚みが分からない。近づきすぎても、全体が見えなくなる。どうしたらいいと思う?」
「…一歩引いた場所で、見せる場を作る」
「そう」

静は莉子の隣に歩いて来た。コツコツとヒールの音がする。
あ、音も、響く場所だ。

「同じ花瓶でも、目線の高さで違って見える。どこに立たせるかを考えないと、破綻する」
「はい…」
「南は自分の感覚で上手にものを作るけど、これは感覚を調整しなきゃいけない。他人が作ったものと、他人が作った空間を、自分じゃなくて他人がいいと思うようにするの」
「難しいですね…」

静は莉子の手を引いて、ギャラリースペースの端に連れて行った。全体が見回せる場所であり、一番最初に見える景色だ。

「しばらく自分で好きに、いじってていいから」
「ありがとうございます!」

静はふ、と軽く笑い、バッグからパソコンを取り出して作業を始めた。見守っていてくれるということだろうと思い、莉子は全体を歩いたり、花瓶を入れ替えたり、ずらしたりしてみる。

莉子はひとつ、息を吐いた。 静かに肺が冷えていく感覚がある。

展示台の上に置かれたガラスに触れると、指先から熱を吸い取られるような感覚がした。 三月の、まだ暖房が利ききらないギャラリーの空気。 莉子の指先は、いつの間にか白く冷え切っている。

什器を、数センチだけ横にずらす。

近すぎると、息がつまる。
ここにいると、綺麗に見える。
そこに花の香りがしたら、未来が想像できる。

あの時、繋がれた手はあんなに熱かったのに。 今の自分の指は、ガラスの縁をなぞるたび、氷のように冷えていく。

莉子は首を振り、あえて音を立てるように、別のフラワーベースを持ち上げた。 持ち上げた瞬間の、掌にかかるガラスの重みと、かすかな風の揺らぎ。 そこに正解を求めて、莉子はまた、一歩下がって視線を固定する。

近づきすぎれば、自分の影がガラスに落ちて、その透明度を濁らせてしまう。 離れすぎれば、その繊細な輪郭を見失う。


先輩と、加瀬、どちらも、

「それ、可愛いと思う」

いくつか動かしたりしていると、静の声がして、莉子は視線を向ける。
パソコンから顔を上げて、静は莉子が今、動かしたものを見ていた。

「合ってますかね」
「合ってるかどうかは、私たちが決めることじゃない」
「そっか…」

静は足を組んで、頬杖をついて言った。
ブラウンレッドのリップが映えて、静のはっきりした顔立ちがよく映える。

「また明日変えてもいいのよ」
「いいんですか?」
「うん、あえて時間を置いて離れると、違った正解が出てくることもある」
「なるほど…」

透明、乳白色、光を受けると、縁だけが浮かび上がるもの。
今決めなくてもいい、変えてもいい。
間違っても、戻せる。

「そうやって、つくっていく」
「…分かりました」
「片倉とも、あの子とも同じよ」

花瓶に視線を移していた莉子は、勢いよく静を見た。
静は先ほどと違って、いつの間にかイタズラっぽい表情に変わっている。

「私は分かる。最近のあいつ、南を目で追うことを隠さなくなったなって」
「…なんの話ですかっ」
「言いたくないなら良いけどぉ、私に隠して困るのは南よぉ」
「…ランチの時で」
「はーい」
「…今日はミートソースつけてないんですねっ」
「へー、そんなこと言うと勉強に付き合ってあげないからね」

この人もこの人で、憧れなんだよな。
あの粘着さと観察眼が自分に向くと怖いけれど、でも、朝よりかはスッキリしたかも。

答えはまだない。
でも、ここに立っていると、ぐちゃぐちゃではなくなっていくのが分かる。

白い空間の中で、ガラスは静かに呼吸していた。