ひとつの秩序

 
 
「まずワイシャツから見る?」
「そうだなー」

休日、秋晴れ、雲ひとつない青空。暖かくて風もほとんどありませんという天気予報の言葉通りの天気だ。ざっくり編まれたアイボリーの毛糸のニット一枚でとても気持ちいい。

「あのシャツはいくらくらいで買ったの?」
「鼻水シャツ?」
「名称が悪意ある」
「地元でまとめ買いしたからなー、一枚五千円前後じゃねーかな」
「じゃあ、とりあえずあっちの店かなぁ」

背の高いビルとビルの間に挟まれた通りを抜け、莉子が指を指していた大きな通りに出ると、少し年季の入った建物を目指す。

大通りに面したその建物は、他よりも一段と存在感があった。石造りの外壁に、無駄のない装飾が莉子はとても好きだ。入口に立っただけで、自然と背筋が伸びる気がする。

百貨店に入り、目当ての店に到着する。

「ここ、仕事着としてちょうどいいんじゃないかなあ」
「へぇ」
「うちでも営業さんもよく着てると思うよ。ちゃんとしてるけど、堅すぎないから」

そう言って、こちらに向かって来てくれた店員に、莉子が洗いやすくて、形がきれいなワイシャツをと説明し、加瀬と一緒に話を聞く。

形態安定で、シワが出にくいタイプです、襟はレギュラーカラーなので、どんなネクタイにも合うと思いますよ。などと丁寧な口調で提案してくれる品の良さそうな店員に、加瀬も素直に、じゃあそれを試着させてくださいと言った。そして、持ってて、とポケットに入っていた財布を莉子に預けた。

「いいかも」
「ネクタイ合わせてみる?」
「あー、じゃあ」

シャッとカーテンを勢いよく開けて、試着室から一歩出た加瀬のワイシャツ姿は、莉子も見たことがあるものだったが、店の品の良さか、布の上質さか、心なしかいつもよりきちんと見えて、加瀬の身体にもフィットしているように思えた。莉子は、気を利かせて持って来てくれていた店員から預かったネクタイを加瀬に見せた。

「首、きつくない?」
「…大丈夫…たぶん」
「多分ってなに」

うちの事務所にはスーツの人少ないけど、スーツっていいよなぁ、などと思いながら莉子は加瀬の首周りを少し触りながら言った。今日のニットは袖周りにボリュームがあって、それが加瀬の腕に少し引っかかる。
莉子よりも十五センチほど高い身長が、試着室の段差によっていつもより差ができていた。

「いいと思う?」
「うん、ブランドの感じも加瀬に合ってる気がする」
「そうなん?」
「うん、長く着れる感じで、落ち着いてて」
「じゃあこのサイズで、三、四枚買ってくるわ」

その辺見てていいよ、と加瀬は言って試着室のカーテンをまた勢いよく閉める。莉子が頷いていたのはきっと見えていなかっただろう。




「払うって」
「いいって」
「払うって言ったじゃん」
「その辺見てていいよって言ったじゃん」
「私がダメにした分だけでも!」
「いいって洗ったらあれも取れたし」
「洗ったの!?捨ててよ!!」

試着室から出た加瀬がワイシャツの他の色を選んでいると、莉子が近づいて来て押し問答になる。確かに、今日の当初の目的はそうだった。莉子は、さらりと編まれた着心地の良さそうな加瀬のキャメルのニットを引っ張る。

「俺、スーツもいいの欲しいんだよね」
「え?」
「それも選んで。ここの店じゃなくてもいいし」
「…それなら…あっちの百貨店にいい感じのお店あると思うけど…」
「それも付き合ってくれたらいいよ」
「えー!変わらないじゃん!!」
「南、そんなに俺に何か買いたいの?」

莉子は少し不貞腐れたような顔をして、目線を落とした。薄いブルーのストレートデニムが視界に映る。

だってあの時、すごい、加瀬に全部ぶちまけて甘えて、認めたくなかった気持ちを認めざるを得なくて、悲しくて、どうしようもなく涙が溢れて、でもすごくすごく、助かったから。あの時の自分を惨めじゃなくしてくれたのは、掬い上げてくれたのは加瀬だったから。

莉子の様子を見て、加瀬は少し諦めたかのように、目線を目の前の棚に戻す。手に取ったのは数枚のワイシャツで、買うものを決めたのだろう。

「…じゃあハンカチ買って」
「ハンカチ?」
「鼻水が目立たなさそうなハンカチ」
「あれは捨てた!?」
「洗った」
「洗わないでー!!」
「シャツ洗ったんだから一緒に洗うだろ。で、いいのある?」

鼻水がついても大丈夫そうなやつ。

そう言った加瀬に、莉子は恨めしそうな顔をした。

「もう泣かないし」
「そりゃ良かった」

加瀬は手に取ったワイシャツを持って、会計へと向かった。その場に残された莉子は、悔しい気持ちやら複雑な気持ちやら、恥ずかしい気持ちやら。スーツ、高いのを勧めてやるんだから。心の中に浮かんだ悪い気持ちは言葉に出さずに、加瀬の後をついて行った。