土曜、会える?
加瀬からそう届いていたメッセージ。
返信をしばらく考えていたが、結局断った。
静に突きつけられた問いの答えは、自分の中でまだ出ない。そんな中途半端な気持ちで、誘いに乗っていい段階じゃないことくらい、もう分かっている。
土曜日は、気持ちを切り替えようと美術館の展示を見に行った。一人で好きな空間の中にいるのが、とても好きだ。余白や色に、自然と意識が向いていた。
夜、二十時頃。今日はいいリフレッシュになったと思いながら、ソファに腰を下ろした。テレビをつけているのにスマホで動画を見ているせいで、内容はほとんど頭に入ってこない。
画面の上部にメッセージの通知が届き、アプリを開く。
【家にいる?】
【いるけど】
加瀬から届いたメッセージだった。
すぐに返信をすると、少し間があって、また通知が届く。
【ちょっと外、出て来れる??】
加瀬は、莉子のアパートの共用玄関のすぐ外、街灯の下に立っていた。外は思ったより静かで、平日よりも外の音が少ない。
遠くで車が通る音だけが、間を置いて聞こえた。
ドアを開けると、加瀬がいた。
コートの前を軽く押さえて立っていて、夜の冷気をそのまま連れてきたみたいだった。
「急にごめん」
玄関灯の下で、影が少し長く伸びている。
「…どうしたの?」
お風呂に入って化粧を落とす前で良かった。
部屋着に慌ててコートを羽織ったから少しだけ肌寒い。
「…通りがかった」
「嘘じゃん」
「半分ほんと」
そう言って、加瀬は紙袋を差し出した。
莉子は見慣れた百貨店の袋に少しだけ躊躇い、受け取った。
「ちょっと、渡したくて」
中を覗くと、長方形の箱が入っていた。
暗くてよく見えなかったが、袋から取り出し、莉子の動きが止まる。
「これ……」
ザラっとした質感の厚紙で出来た箱。
くすんだセージグリーンの光沢がない紙の正面には、花のイラストが一つ。線は細くて色も控えめ。
横には、細いオレンジ色の紐が掛けられていて、結び目はぎゅっと強く結ばれていない。ほどこうと思えば、簡単にほどける。
タグは小さくて、余白の多い紙に、花と短い言葉だけが印刷されている。
「通りかかったらたまたま売ってたんだけどさ」
「……」
「前、仕事落ち着いたらお祝いって言ってたじゃん。お疲れってことで、可愛いし、南好きそうなデザインかなって思って」
箱を見つめたままの莉子に、加瀬が莉子の顔を覗き込むようにして見つめた。
「私が…担当したポップアップ」
「え?そうなの?」
紐を解いて蓋を少し開けると、一瞬だけ、やわらかい香りが立った。
二番人気って言ってた、ジャスミンと、シトラス、少しウッディーで、癒される森林の香り。
強くなく、甘すぎもせず、夜に溶けるみたいな匂い。
「たまたま通っただけなんだけどさ」
「…」
「なんか可愛かったから」
胸の奥が、じわっと温かくなる。キャンドルを包んでいる紙越しに、自分の手の熱が伝わる気がした。
ズッシリとしたシンプルなアイボリーのキャンドル。ブランド名が掘られていて、上質な箱がそれを格上げしている気がする。
こう、したかった。
少し原価が上がるけど、紐をつけたこと。
少しざらりとした紙の質感から、感じるもの。
この体験を、味わって欲しくて、全部、考えた。
何度も何度も、削って、足して、残して、形にした。
自分がいいと思って積み上げたものが、知らない誰かの足を止める理由になる。キャンドルなんて興味無いであろう加瀬の足を、私は止めたんだ。
「……うれしい」
言葉が、少し震える。
視界が、少しだけ滲む。慌てて瞬きをしたけれど、目の奥が熱くて、どうにもならない。
どこかの家の窓から、テレビの音がかすかに漏れている。
「ありがとう、加瀬」
「…うん」
キャンドルを大事に箱にしまって、袋に戻した。家に飾ろう。莉子がそう思っていると、加瀬は、莉子の顔をじっと見た。
「…南、めっちゃ可愛い」
そしてぼそりと言った。莉子にしか聞こえないような声だった。
「は、」
「達成感と嬉しさで泣いてる南、めっちゃ可愛い」
「…何言ってんの」
「なんか、俺も嬉しい。仕事、頑張ってるんだな」
「…やめてよ」
夜の外気の冷たさが、一瞬だけ遠のく。
滲みそうになる視界を、目を見開いてそれを防ごうとする。瞬きをしたら、溢れてしまいそうだ。
加瀬は莉子の手を取った。
長い指が、莉子の両手をすっぽりと包んだ。
少し冷えていた手に、じんわりと熱が移るのを感じる。
「…手、触っていい?」
「……もう触ってるじゃん」
「だから許可とってる」
「…遅いし」
夜風は弱い。
冷えた指先が、少しだけ熱を持つ。
「…なんでこんな手あったかいの」
「俺は心が温かいんだよ」
加瀬の言葉に、莉子が少しだけ笑った。
「わざわざありがとうね」
「…全然」
「前、お祝いしようって言ってくれてたやつだよね?」
ありがとうね、と莉子は再度お礼を言った。
まさかこんな形で、嬉しい気持ちを貰えるとは思ってなかったな。
「…南って、素直だよな」
「え?」
「こんなん、会う口実だよ」
「え、」
見つけたのも、南にあげよって思ったのも偶然だけどさ。加瀬はそう言って、少しだけ力を入れて、そうして手を離した。
「最近、警戒して会ってくんねーし」
「…警戒、してるわけじゃ…」
「いいけどさ、別に」
莉子が加瀬を少し見上げた。
遠くで、誰かのドアが閉まる音がした。
「…困った顔すんな」
「…」
「そしたら、また一日空けてよ」
加瀬は一歩下がって莉子との距離を空けた。
何もしない。そう全身で伝えられてる気がした。
「いや?」
「いやじゃ、ない」
「来週は?」
「空いてる…」
風はほとんどない。
それでも、ときどき建物の隙間を抜ける冷たい空気が、首元を撫でていく。
「じゃ、そこで」
頷く莉子に、加瀬は満足そうに笑った。
街灯の下では、影がくっきりと地面に落ちて、少し歩くだけで形を変えた。
「ごめんな寒い中、ありがと」
加瀬の方が、きっと寒いのに。
私にこれをわざわざ持ってきて、約束して、帰るの?
友達なら、家に入れて話せるし、温まっていきなよと言えるのに。
莉子はまた頷いて、加瀬の家に入れという手振りに従って、玄関の前まで行った。
振り返ると、加瀬が手を振った。
莉子も振り返すと、腕にかけた紙袋が少しだけ揺れた。
ドアを閉める直前、廊下の照明が、加瀬の影を少し長く伸ばした。
完全に一人になった莉子に残ったのは、紙袋の重さと、外の冷たい空気の名残だけだった。



