二人で決めた部屋は、もともと自分には全くない選択肢だった。
望実が決めた候補の中から、無難そうな場所を選んだ。
前の家は、社会人二年目になってから引っ越した場所。
会社まで電車で五十分ほどの距離だったが乗り換えも一回で良く、座れることも多かったので気に入っていた。
駅前に広がる商店街はなく、高級住宅が並ぶ。
職場まではバスで十五分の距離になった。
『一緒に暮らせて嬉しい!』
『俺も、色々分担してやっていこうね』
窓一面に、午後の光が流れ込んでいる。
高層階らしく、視界を遮るものはなく、ガラス越しには都心のビル群が静かに佇んでいる。生活圏から一段引いた位置にある景色。
まさか自分が、こんなところに住む人生があるとは思っていなかった。
金銭的には背伸びしたが、やっていけないこともない。
望実とのこれからの生活に、胸が弾んでいた。
『洋太くんは、どうしたい?』
ただ、たまに聞かれるこの問いには、うまく答えられない。
『望実さんは?』
『私はこっちだけど、洋太くんは?』
『じゃあそれにしよう、俺もいいと思う』
望実が不満そうにしているのは分かっていた。
どうしたい?と聞かれてもよくわからない。
どっちでもいいと言うほど投げやりな気持ちがあるわけではない。
ただ、本当にどちらでも良くて、どちらでも構わない。
望実がしたいことがあるなら、そうするのが一番いい。
それの何がいけないのか、どうしたら良いのかがわからない。
『洋太くん、今度の日曜どこに行く?』
『うーん、どうしようね…こないだはスイーツ食べに行ったよね』
『そうだよね!この間お客さんに教えてもらったレストランがあるから、そこ行ってみたいなぁ』
『いいね、なんてところ?予約しておこうか』
『望実さん、ご飯何食べたい?スーパー行くよ』
『洋太くんの得意料理は何?』
『何だろう…天ぷらとか?』
『天ぷらお家で作れるの!?作ってほしい!』
『いいよ、そしたら一緒に材料買いに行く?』
『うん!』
順調だと、思っていた。
彼女といるのは楽しくて、新しくて、眩しくて、意見を率直に伝えてくれていた。
『私ばっかり、やりたいことを言ってる』
『そんなことないよ』
『何がしたい?って聞いても、いつの間にか私がやりたいって言ったことに話がすり替わってる』
『別に俺はそれで良いと思ってるんだけど…』
『我慢してほしくないの、洋太くんには洋太くんがやりたいと思ったことを、ちゃんと言って欲しい。対等でいたいの』
対等じゃないか。
お互い好きで、一緒にいて楽しくて、一緒に住んでいて、満足していて。
我慢なんてしていない。やりたいと思ったことをしているつもりで、ストレスなんてない。
そう伝えても、うまく伝わらない。
軽いトーンだった話も、回数を重ねるにつれて、重い雰囲気を伴ってくる。
女の子のして欲しいことを察するのは得意だった。
それをしてあげることに、何の苦もなかったし、それで良かった。
自分がないわけでもない。
ただ、相手の意見を覆してまで、強く主張したいことなどない。
俺の中に、そんなに強い気持ちはそもそも、きっと存在していない。
『考えないで、思ったことをそのまま言ってよ』
考えないで思ったことを言うなんて出来ない。
どうしていいか分からない。それはもうきっと癖になっている。
小学生の頃、母が病死した。
父は優しかったが消防士で、いない日も多かったので同じ敷地内に住む祖父母と一緒にいることが多かった。
中学の時に父が再婚した相手は、優しくて良い人で、今も家族仲もいい。
翌年に生まれた双子の妹と弟の面倒を、積極的に見ていた。自分の気持ちを言葉にするなんて、してきていない。でもそれを、不幸だなんて思ったことは一度もない。
上京してから、誰にも話したことがない。望実も知らない。
話し合わなきゃ。望実はそう思っている。
話し合って、お互い意見を出し合って、解決できると思っている。
恵まれて育ってきたがゆえの、揺れない輪郭。
自分の意思で掴み取ってきたがゆえの、自信と迷いの無さ。
ー「俺はちゃんと自分が思ったことをやってる」
「合わせてるつもりなんかないって!」ー
会うと、話すと、その話が出て来てしまう。
望実に悪気なんかないのは分かっている。俺も困らせたいわけじゃない。
でも、できない。
そんな時に、君が、俺を一生懸命気遣うから。
新卒で入ってきて、俺の言うことを素直に吸収するただの後輩が、だんだんと、いつの間にか垢抜けて、大人になって、綺麗になって、真っ直ぐに慕ってくるから。屈託のない笑顔を向けて、警戒心のない顔で、仕草で、
俺が育てた、小さな花。
だから、見たくなくて、自分でそれを汚してしまいたくなくて、視線を背けたくて、アプリに登録したのに。
寝室の窓を少し開けると、外の音がかすかに入ってくる。
車の走行音も、人の声も、直接届かない。代わりに、都会特有の、低く均されたざわめきだけが、遠くで鳴っている。
この街は、賑やかさを誇らない。
気取らず、けれど洗練されていて、急がない人たちが多い。
道沿いのカフェも、ベーカリーも、声を張り上げることはない。外国語が混じることもあるけれど、それも日常の一部として溶け込んでいる。
「…もしもし、急にごめんね」
もうリングは、嵌められない。
そんな気持ちには、今はならない。
彼女がここを選んだのは、成功を見せびらかすためでもない。
ただ、ここで当たり前に日々を重ねていくための場所。
俺一人では、とてもじゃないけど使いこなせないよ。
生活感が薄いのに、冷たくはない。
この街に暮らし始めて、そう思っていた。
けれど、半年前の賑やかさがとても恋しい。
「…距離、置こう。一人でしばらく考えたい」
電話口で、静かに分かったと言われた。
太陽の隣に立てたと思っていたのに、俺にはそこは、眩しすぎた。
