「思ったよりでかいな」
「そうなの、一キロだもん」
「たっぷり入れようぜ」
「すっごいワクワクしてるじゃん」
「だってカニだぞ?」
加瀬が迎えに来てくれたのは、日曜日の夕方。
カニの入った箱を自転車のカゴに入れて、加瀬の家まで歩く。
太陽は沈む直前で、加瀬の家に行くのは初めてで少しだけ緊張する。
加瀬はグレーのパーカーにカーキのMA-1を羽織っていた。
足元は太めのデニムに黒のスニーカーだ。
莉子は白のシャツの上にアイボリーのニットを重ねて、チャコールグレーのタイトスカートに黒のショートブーツを合わせていた。
少し前、先輩と同じようにして、耳をゆっくり撫でていった男。
何も意味なんてない。その言葉をそのまま受け取っていいと、確信してしまいそうなくらい、前と態度も変わらない。
何となくメッセージのやり取りをして、休日に会うのも何度目だろう。
そういえば買い物も行こうと言っていたのに行けていない。
前とは少し違う、けれど、前と変わらない。
「〆は雑炊でいいよな?」
「すっごい楽しみにしてくれていて嬉しいよ」
「だってカニだぞ?」
「返事が再放送されてる」
話をしながら加瀬の家に着いた。
散らかってるけど、そう言いながら加瀬は少し戸惑ったように招いた。
玄関のドアを開けた瞬間、少しだけ拍子抜けした。
想像していたよりも、ずっと明るい。
オートロックでもない、三階建てで、エレベーターのないマンション。
外観もどこか年季が入っていたから、もっと生活感が前に出ている部屋を想像していたのに、室内はきちんと手入れされていて、余計なものがない。
「お邪魔します」
「こたつ、あるから」
「え!」
築三十年と聞けば頷ける間取りだけれど、壁や床はきれいにリノベーションされていて、古さよりも、落ち着いた静けさのほうが先に伝わってくる。
リビングの中央には、低めのソファと、こたつ仕様のローテーブル。
「あっためといた」
「あったかいよーー!」
「それは良かった。入ってていいよ」
いいよと促されてこたつに入ると、足元からじんわり暖かさが伝わってくる。
おばあちゃんの家を思い出すよ、と加瀬に言うと、俺んちは毎年実家でも出してたんだよと返ってくる。
加瀬と鍋の準備を手伝わなければ、と思う反面、暖かいこの場所を動きたくないという気持ちがせめぎ合う。甘えていいんだろうなと思いつつ、今回は自分の提案という引け目もあって、こたつに入ったまま莉子は言う。
「手伝う」
「…身体は手伝いたくなさそうだけど」
「外寒かったから〜」
「いいよ、入ってなって」
野菜切るだけだし。そう言いながら加瀬は段ボールをカッターで開けて、カニを取り出したりキッチンの引き出しを出したりと動いてくれている。壁付のキッチンはコンパクトだけれど、使い込まれている感じがあった。鍋やフライパンは、すぐ手に取れる位置に掛けられている。
莉子はこたつの中から部屋を見渡した。
色味は全体的に抑えられていて、木の質感が多い。
デザインに凝っているわけではないのに、不思議と居心地がいい。
「…綺麗なお部屋だね」
「一応、掃除はした」
加瀬はテキパキと準備をしながら、こちらを見ずに答えた。
一応、なんて言いながら、床には埃一つ見当たらない。
観葉植物があるのが少し意外だが、ただ置いてあるというより、ちゃんと育てられている。
「築三十年には見えないね」
「フルリノベされてるらしい」
「へえ、インテリアは加瀬が選んだの?」
「あー、このへんのランプとかは妹が選んでた」
「どうりで」
「俺がこんなおしゃれなランプ自発的に選んでくるわけないだろ」
ソファの横にはフロアランプが置かれていて、夜になれば、きっと部屋全体を柔らかく照らすのだろう。加瀬が切った野菜などを置いている、ダイニングテーブルの真上にも天井から吊るされているランプがある。きっとこれも妹が選んだのだろう。
丸みのあるシェードで、白というより少し黄味がかった色をしていた。
光は強すぎず、部屋全体を均一に照らすというより、テーブルの上だけを静かに包むように落ちている。
派手さはないのに、どこか安心する空間だった。
「準備できた」
「わーい!」
「カニ鍋の素を二袋入れた」
「天才!」
加瀬が、カセットコンロに鍋を置き、ローテーブルを挟んで、莉子の反対側に座った。加瀬を誘って良かった、一人でちまちま食べるよりも絶対に美味しいし楽しい。
そんなことを思いながらカニを二人で堪能した。
「美味しかったね」
「めちゃくちゃ美味かった…吉川に感謝」
〆までしっかり堪能し、キッチンで片付けをする加瀬の隣で、莉子は食器を布巾で拭いていた。いいよと言われたが、流石に後片付けくらいはする。
鍋を食べ終えて、火を落としたあとも、部屋はしばらく暖かかった。卓上コンロの余熱と、こたつの中の熱が、ゆっくりと残っている。
「やっぱり鍋ってみんなでするのいいよねぇ」
「南がいいなら、またやるか」
「うん」
莉子が拭いた鍋を、加瀬はキッチンの棚の上に仕舞う。チラリと見えたそこにはボールなどの調理器具がしまってあって、それなりに料理をしているんだなと思う。
「…あの先輩は、まだ彼女と仲直りしてねーの?」
「あ…うん…。なんかこないだ、電話で喧嘩みたいなのしてたよ」
「ふーん」
「なんか、弱ってたみたい」
加瀬から先輩の話を振ってくることは珍しい。
シンクには使い終わった鍋と取り皿が重ねられていて、莉子が拭く食器が触れ合う軽い音だけが一定の間隔で続く。
「気をつけろよ」
「何が?」
「…優しくすると、つけ込まれるぞ」
「なにそ、れ…」
換気扇が低く唸り、窓の外では、どこかの部屋のテレビの音が微かに混じっていた。
築年数のある建物特有の、生活が重なった気配が、壁越しに伝わってくる。
食器を拭く手が無意識に止まる。
脳裏によぎったのは、しばらく思い出していなかった、先輩の、あの時の、
居酒屋のライトに照らされた、
パーマがかけられたようなゆるりとした前髪、
触れられた頬と、
少しだけ撫でて去っていった、手の甲、
顔、赤いね。そう言って視線を逸らした。
思い出さないようにしていた。
なかったことではない。確実にあの時のことを、お互い意識している。
「……次」
「っ、え?」
加瀬に声をかけられて、ハッとした。
目線を何となく逸らす。ローテーブルの上には、拭き取られた水滴の跡がうっすら残り、こたつ布団は端だけが少しずれている。
莉子が持っていた皿を、加瀬が何事もなかったかのように受け取り、仕舞った。
「次は、何鍋にする?」
「…あ、じゃあ、キムチ」
「ふ、了解」
買っておくわ。
加瀬は柔らかく笑って言った。
時計を見ると、二十一時を少し回っている。
外はもう完全に夜で、窓ガラスに映る室内の明かりのほうが、街の灯りよりもはっきりしていた。優しくすると、つけ込まれる。その言葉の意味は、まだ考えない。
