あれから二日。
あの時のことは、決して話題に出さないでと言われてるみたいだった。
前ほど露骨には感じなかったが、片倉はかなり一線を引いているような気がした。
隣のデスクにはいたが、ほとんど話すことはなかった。
莉子も莉子で、何かを聞くようなこともなく、必要以上にお互いが話さず、目も合わせず、たまたま話し合わなければいけないようなこともなく、そうして二日は過ぎていった。
莉子の中であの時の片倉の行動について、処理できたわけではない。
舞い上がった気持ちでいっぱいなわけでも、前ほど混乱しているわけでもなかった。
七菜香の、あの時の言葉が、何度も反芻されては消えていった。
「お疲れ」
「おつかれさまー」
職場で気を張っていた肩の力が抜けて、何となくホッとする。
仕事がひと段落したという加瀬と、久しぶりに仕事終わりに会う。
莉子の最寄り駅から数分、薬膳鍋の店でメニューを眺めていたところで加瀬が到着した。家に帰らずそのまま来たのか、コートの下にはスーツを着ている。
店に入った瞬間から、ふわっと薬草の匂いが鼻にかかる。
香りは強すぎず、知らない漢方の名前が浮かぶ前に消える。
「で、ここは何が美味いの」
「なんかね、薬膳鍋なんだけど二種類のスープが選べるみたい」
一枚のメニューを二人で覗き込みながら話す。
どこでもいいという加瀬に、莉子は前から気になっていた店として場所のみをメッセージで送っていた。特に詳細は知らないという加瀬に、莉子は店やメニューの特徴を伝えていく。
「最近仕事どうだった?」
「んーそれなりに忙しかったかなぁ」
注文をし、莉子は問いかけられて近況を話す。
そういえば、加瀬とこうして会うのも久しぶりだ
「そういえば七菜香と会ってね」
「へぇ、こっち来てた?」
「そう、出張があったみたいで…」
加瀬の話も、先輩の話もしたな、あれからまたちょっと先輩とはあったから、七菜香にはまた聞いてもらいたいな。そんなことを思いながら加瀬を見た。加瀬はメニューの裏側のドリンクメニューを見ていた。莉子の視線を感じて目が合い、不思議そうな顔をする。
「いや、何でも」
加瀬には話さなくていいや。
何となくそう思った。
あの瞬間はドキドキしたけれど…、浮かれる気持ちよりも、弱ってるという言葉や、所々で見せる思い詰めたような表情のほうが気になった。
片倉のことは前から意識してはいたが、それが強くなったわけでもない
触れてはいけない何かが、隣のデスクとの間に確実にあって、それが少し重苦しい。
「そういえば、カニが届いたの」
「ああ、結婚式の」
「結構、量があって…」
そう言って莉子は手元のドリンクから加瀬に目線をやった。
加瀬、嫌がるかな、と一瞬考えた。
「鍋、一緒にしない?嫌じゃなければ」
「嫌じゃねーけど…じゃあ…俺んちでやる?」
加瀬が少し考えて、遠慮がちに答えた。
照明は全体的に落とされていて、木のテーブルがやや赤く見える。
金曜の夜らしく、店内は満席で賑やかだ。
テーブルに置かれた鍋用のコンロが、すでに低い音を立てている。
「いいの?」
「いいよ、量があるってどれくらい?」
「段ボール一箱」
「じゃあ、チャリで迎えに行くわ。カゴに乗せられるし」
「ありがと!お野菜も持参するから!」
「いいよ、こないだ実家から野菜送られてきたから」
サラダや前菜、薬膳小籠包などが机の上に所狭しと置かれていく。
店員の説明を受け、加瀬が鍋に具材を入れていく。
「そういえば最近、鍋ばっかり食べてる」
「カレー詰め合わせは?」
「食べ切った」
「早い」
「いろんな種類食べられて良かったわ」
加瀬は、大根やかぼちゃなど、火が通るのに時間がかかるものだけを先に入れていて、この男はこういうところで意外と生活力があるんだなと莉子は思う。
「だから外で夜食うの、久しぶり」
「私もだよー、適当に作ったりお惣菜だったり」
「どんなの作んの」
「なんか適当に炒めたり、焼いたり」
「ちゃんと食ってる?」
「食べてるよお」
会話をしながら、お互い掬って食べたり、肉をしゃぶしゃぶしたり、合間は時々無言になって、スープをすくう音が一定のリズムで続く。
薬膳特有の苦味はほとんどなく、食べ進めるほど身体が温まる感じがする。
香りを嗅いで不思議そうな顔をしていた加瀬も、美味いと短く感想を言いながら食べている。
ぐつぐつと音を立てる鍋を前にして、美味しいものを食べて、体の奥がゆっくり温まっていく気がした。最近のドタバタしていた心も、何となく平穏に戻っていく。
──その頃
やらかした。
会社の、しかも後輩に、これ以上手を出す気は更々なかった。
片倉は帰宅してからソファに身体を投げ出す。
二人で借りたはずの部屋からは夜景が見えて、先ほどの窓の外とどうしてもリンクする。
ここで部屋を借りたのは三ヶ月前、付き合ってからは七ヶ月ほど。
どうも最近の俺は、いつもの調子ではない。
ポケットからスマホを出し、メッセージを見る。
届いていた文面を、既読をつけないようにして見る。
『さっきはごめん、話し合いたいだけなの』
既に同じようにして、仕事の合間にも何度か見ている文面。
電話で少し声を荒げた瞬間を見られて、あまりにも必死に、慰めてくれようとするものだから、それに思わず寄りかかりたい気持ちになって、アルコールを入れたのが良くなかったのか、それともあの状態で食事などするべきではなかったのか。
呆然とした顔を思い出し、それをかき消すように自分の顔を手で覆う。
もう一人の借主は、一ヶ月前から実家に帰っている。
広すぎる部屋が、余計寂しくさせる。
「…明日からどうしようかな」
頭に流れてきた思考が、そのまま口へ着いて出てくる。
意識しているだろうか。変に思われただろうか。幻滅されただろうか。
片倉は、顔を覆っていた手を見つめ、そのまま右手の中指からリングを外した。
電気のついていない部屋では、それの色すら分からない。
もう夜も遅いのに、カーテンを閉めていない部屋は夜景で照らされていて、それがどうにも鬱陶しい。
外したリングは、皮で出来た小物入れの中に置いた。
気に入っている時計の横に並ぶそれを一瞥し、片倉はその場を後にした。
まだ、俺のことを好いてくれていると思うのは、烏滸がましいよ。
