【最近の俺の夜ご飯見て】
【カレーばっかじゃん】
【吉川の結婚式で当たったレトルトカレー詰め合わせが激務に役立ってる】
【まさかの】
【今俺はカレーに生かされてる】
会社の昼休み、外は北風が冷たかったが気分転換をしたくて、少し歩くキッチンカーまで昼食を買いに行った。寒さに耐えきれず買い足した豚汁で暖を取りながら、加瀬とメッセージのやり取りをしていた。
最近忙しいんだな、そういえば結婚式でカレー当ててたな、なんて莉子は思いながら会社に向かう。
「俺はちゃんと自分が思ったことをやってる」
風が冷たく、大通りを避けて少し奥まった裏道を戻っていると、曲がり角の先に、電話をしている片倉がいた。電柱に寄りかかるようにして、耳にスマホを当てている。邪魔にならないように通り過ぎようと、莉子は早足になる。
「合わせてるつもりなんかないって!」
少しだけ声を荒げるようにして言った片倉の声が少しだけその場に反響する。
足早に追い越そうとしていた莉子の肩が少し揺れ、片倉もハッとしたように辺りを見渡した。
莉子と片倉の目が合い、片倉は電話の相手にボソリと何か言って、少し間を置いてから通話を切った。
どのように反応していいか、思わず足も止まってしまった莉子は気まずそうに片倉を見た。
「…ごめん、変なところ見せちゃって」
「いえ…」
「…お昼?今日寒いのに、外まで行ったの?」
「はい…気分転換、したくて」
「そっか、…ごめんね、早く中入りな」
片倉は少し目元を和らげ、へにゃりと笑った。
先に行くよう手を広げて莉子に伝えながら、再度電柱に寄りかかった。
ふう、と吐いたため息は白い。
「せっ、先輩、ご飯でも行きませんか!?」
「え?」
「ほら、先輩の好きな、…えっと何だっけ、片倉先輩いつも私に合わせてくれるから…えーっと、」
「…」
「寒いしっ、温まるものとか、何でもっ、とにかく、何が食べたいですかっ?」
「……ふ、じゃあ、和食がいいな」
「はいっ、私、お店探しておきますから!今から!」
莉子はそのままその場を去ろうとし、頭を下げて片倉を少し追い越し、ピタッと気づいたように再度振り返る。
「あの…今日で良かったですか?」
「…っふ、順番めちゃくちゃだね」
「すいません…勢いで…」
「空いてるよ、今日の夜、南がいいなら行こう」
「はいっ、後でメッセージ送りますから!」
両手で抱えたままの豚汁はさっきより少し冷めていた。
冷たく吹き付ける風が、莉子の髪の毛を巻き上げる。
そのまま次は振り返ることなく、莉子は会社に戻っていった。
片倉は先ほどと同じ位置で、電柱に背中を預けた。
風で揺られる前髪が目線を隠した。
会社の近くにはそこまで選択肢もなく、以前と同じ少し大きな駅まで移動した。
駅直結の商業施設の中にある和食屋は、落ち着いたオレンジ色の照明でまとめられていて、平日の夜らしい静けさがあった。案内されたのは店の奥、壁にくぼむように作られた二人掛けの席だった。
完全な個室ではないが、入口だけが少し絞られている。
ドアはなく、視線だけがほどよく遮られている。
席の奥にはガラス窓があり、デート向きというほどではない、商業施設らしい夜景が広がっていた。行き交う電車の光や、ビルの灯りが遠くで淡々と瞬いている。
「あっ先輩、揚げ出し豆腐好きじゃないですか?」
「そうだねー」
「だし巻きとかもありますよ!明太子入ってます!」
「…はは、俺の好きなもの知ってるじゃん」
「本当ですね、結構ご飯ご一緒させてもらってますもんね」
ボックス席の上から一つだけ吊るされているライトに照らされたメニューの中から、莉子が色々な料理を見つけて片倉に伝える。いくつかの料理と、莉子はソフトドリンク、片倉は一杯だけとビールを頼んだ。
「今日は、ありがとね」
「全然、勢いでご飯誘っただけです」
お通しですと小鉢に入った枝豆が、それぞれの席に置かれた。
同時にドリンクも到着し、グラスを合わせる。
「変なとこ見せちゃったね」
「…いえ、全然、私こそ電話聞いちゃって」
「俺が大きい声出しちゃったもんね」
店内には出汁の匂いが薄く漂っていて、空調の風に混ざっている。
店員が鰹のタタキをテーブルの中央に置いて去っていった。料理を取り分けるために、手が一瞬だけ交差する。
びっくりしたよね、と片倉が言う。
莉子は何と言っていいか分からず、首を振る。
グラスに口をつけたまま、視線だけが動く。
少し声を荒げた様子を見るのは初めてだった。
けれどそれだけ、自分が見ていた片倉は一部分でしかないのだと思わされる。
『健全っていうか、いいところしかない恋じゃん』先日、莉子に真っ直ぐにそう言った、七菜香の言葉が頭の中に蘇る。今日とは違う、暖かい昼の日だった。
「ご飯、誘ってくれてありがとう。気晴らしになったよ」
「…良かった?です」
ガラス越しに見えるのは、ビルの窓明かりと不規則に動く車の光。夜景はきれいというより、ただ生活の延長のように並んでいる。
次々と届く料理を取り皿に分ける莉子に、片倉は言う。
「あの時の新卒の子が、今は俺を助けてくれるなんて…なんか感慨深いよ」
「助けるなんてそんな、何も…先輩こそいつも助けてくださって」
「別にそんな、大したことしてないよ」
「いやほんとに、何でも解決してくれて、こないだもヒーローみたいに助けてくださって、仕事もできるし、建築の知識も豊富で、いつも優しくて…あと、…メガネも似合ってて、髭も、伸ばしてる時もない時も両方似合っててそんな人なかなかいないし…!」
「ははっ」
片倉は声をあげて笑った。
カーキのニットは少し捲られており、肩肘をついてその手は口元に当てられている。
「…ダメだよ」
もう片方の手が、ゆっくり莉子に伸びた。
今度はそれが着地したのは、耳ではなく、頬だった。
「弱ってる男にそういうこと言ったら」
莉子が少し息を飲む。
ビールが入ったグラスの側面から、水滴が机にゆっくりと落ちていく。
中身はもうほとんど入っていない。
するりと頬を撫でた指は、元の場所に戻ることなく、机の上にあった莉子の手の上に重なった。
「…」
「急に静かになって」
「…あ、の」
隣の席から、箸が器に触れる小さな音が聞こえた。
莉子の視線は、目の前の皿に注がれ、そこでは魚の皮目だけが、少しだけ光っている。
「さっきまでの勢いはどうしたの」
「…え、いや…」
湯気が上がるたび、照明に溶けていく。
頼んだ全ての料理は届けられた。
店員がこのテーブルを訪れる理由はもうない。
「…顔、赤いね」
「……」
片倉は、重なった手をするりとどかして、そのまま机の端に置いてあったボタンを押した。軽快な音が鳴って、店員の快活な声が聞こえた。
「ごめんね」
すぐに店員がやってきて、ウーロン茶を、と片倉は一言だけ頼んだ。
そのあとは、何を食べたか食べてないか、何の話をしたか、莉子の記憶には残っていない。そもそも、なんの話もしていないのかもしれない。
莉子の顔はずっと赤かったし、片倉はいつも通りだった。
莉子のスマホはカバンの中に仕舞われたままだった。
画面が明るくなって、加瀬からのメッセージが届いた。
その場の誰も、それには気づかなかった。
