ひとつの秩序

 
 
定時まであと少し、17:40。
急に届いたクライアントからの修正依頼のメールは、先日担当したばかりの、冷凍スイーツブランドからだった。

もう少し一瞬で目を惹く要素と、SNSで見たときの強さが欲しい。
色味を足したり、情報量を増やしたり、キャッチコピーを強めてはどうか。
明日の最終提出前にそちらの方向での調整案をもう一度拝見したい。

そんな内容だった。莉子はそれを読み、深く息を吐きながら背もたれに寄りかかる。

ディレクター宛ではあったが、提出したものは莉子が作ったものだ。
CCに自分の名前もある。メールは丁寧でどこにも棘がなかった。
でも「素敵です」と言われて「ただ」と続く文章は、たいてい直さなければいけない時に使われると分かっていた。

クライアントはもう少し雰囲気を変えたい、という軽い感覚なのだろうが、こちらからすると、世界観の再定義や競合棚との見え方を再整理したり、写真や構図まで考え直さないといけなくなるので、実質設計からやり直しなのだ。

「南さん」
「あ、はい」

この案件で莉子の上のディレクターが側まで来て話しかける。
メールを見て、流石に軽くチャットで投げる話じゃないと、莉子のデスクまできたのだろう。

「メール見た?」
「見ました」
「難しいね。派手にしなくていいんだけど、ちょっと攻めたものが欲しいのかもね」
「ここ、SNSで一回バズってますもんね、そういう方向性ですかね」
「うん、テイストはこのままでいいと思うから、一案だけ違う見せ方も用意しようか」
「承知しました」
「うん、よろしくね」

そういってディレクターは自分のデスクに戻ることなく、カバンを持ってその場を離れていった。え?待ってよ帰るの?これ、最初っから一人でもう一案、今から考え直しかーーー…。

いや、ディレクターならきっとすぐ出来るからなんだ、私が未熟なのが良くない、すぐに何も思いつかないのが良くない、そんなことを考えていたって仕方がない、よし!とダラダラと垂れ流されていた思考を強制的に切り替え、莉子はパソコンに向かった。

「二十代の若年層狙い、百貨店の常設棚、今回が始めて…写真映えは必須で、でも一過性で終わりたくないもの…」

先方の要求を一旦口にボソボソと出して整理する。
自分なりにそれを解釈し、莉子が提出したものは、派手な色は使わない、スイーツそのものの質感を強調させ、手に取った瞬間の空気感、SNSように切り出せる構図などを意識して作成していた。

「んー地味に映っちゃったのかなー…」

今日はとても定時では帰れなさそうだ、と莉子は気合いを入れてモニターを見つめた。





「んー色を足すと安っぽくなるし、キャッチコピーを強めるとうるさくなる…」

二時間後、いくつか作ってみたのだがパッとしない。
一から再定義しようと思っていても自分なりに最良だと思ったものを提出しているので、その考えがどうしても邪魔をしてしまう。

オフィスの外はとっくに真っ暗だ。残っている人もほとんどいない。
吹き抜けの空間の先に見える会議室にはまだ明かりがついているから、自分だけ残っているわけではないようだが、何となく孤独を感じてしまう。

息抜きに少し立って、肩と首のストレッチをした。
スマホを見ると、いくつかメッセージが入っていて、その一つは加瀬だった。
なんてことないメッセージ。

あの日も、何事もなかったかのように解散し、何事もなかったかのようにメッセージのやり取りをしている。
莉子は何となく、既読をつけないようにしてメッセージを読んで、そのままポケットに仕舞った。


「はー…もっと映えに寄った案をあえて出せばいいのかなー」

でも明らかに比較対象ですって言う、ボツがわかってそうな映えてるだけの案は出したくない。そんな仕事はしたくない。

「南、まだ残ってたの?」

頭を抱えていると、背後から声がした。
気配に気づかなかった莉子は驚く。

「片倉せんぱい…」
「何、修正?明日じゃダメなの?」
「明日の朝までなんです…」
「えー?…あー、あの創業三年の冷凍スイーツか」

片倉は莉子の上司になるので、莉子がどの案件を抱えているかは大体把握しているので、モニターの写真を見ただけで分かったらしい。隣の椅子に腰を下ろし、莉子の方を向いた。片倉のパソコンは閉じられたままだ。

「派手にしろって言われた?」
「なんで分かるんですかぁ…」
「SNSが主戦場だからね、百貨店は初めてだからその感覚抜けないだろうなって」
「さすがすぎます…」

優しくいつものトーンで答えてくれる片倉に、莉子もつい気が抜けてしまう。
行き詰まっていた状況に差し込んだ光のようだ。
一瞬で状況を読み取ってくれる片倉がいれば一瞬で解決しそうな気がしてしまう。

「南、これいいと思ってないでしょ」
「思ってないですぅ…」

画面を一瞥し、片倉が諭すように言った。
莉子の癖も思考も、全て知っている片倉には見透かされてしまう。
元の提出したデータ見せて。そう言って片倉は莉子のデータを少し触る。

「んー俺も別に弱いとは思わないけどね」
「そうなんですよぉ」
「南、派手って言葉から一旦離れよう。クライアントは派手にして欲しいんじゃない」

片倉の言葉に、しょぼくれていた莉子の背筋が伸びる。
こう言う時の片倉は、いつも答えはくれない。
莉子の思考を導いてくれようとしている。

「負けたくないんだよ。だから要素は増やさない」
「派手にしないで、要素を増やさないで、勝つ…?」
「そうそう」

莉子にニコリと笑いかけて、片倉は椅子ごと自分のデスクに戻り、パソコンを開いた。ヒントはここで終わりらしい。莉子は片倉の言ったことを反芻する。

天井の照明は半分ほど落とされている。
今は、他の社員のキーボードを打つ音も、プリンターの作動音もない。
空調が低く唸る音だけが、均一に空間を満たしていた。

「足さない…引く…?あっ、引く?」

思考がそのまま言葉として漏れたことに、莉子は気づかない。
自分の中で少し掴んだ気がする何かを画面に表したくて、何となく頭によぎったものを、形として具現化させたくて、夢中でマウスを動かす。

ガラス張りの会議室はいつの間にか暗い。
外の街灯が、ブラインドの隙間から細い線になって床に落ちている。

「できた!どうですかね!」

あえて写真を一枚に、コピーは増やさない、レイアウトを強気に引いた角度にして、インパクトを残す、でも素材は活かす。

「ん、俺ならこれであげるかな」

莉子の言葉に、隣のデスクから片倉が莉子のモニターを見ながら優しくそういった。
いいと思う、と断定しないところが片倉らしい。明日の朝一番に確認まわしなね、そう言って、自分のパソコンに再度目を落とした。

「ありがとうございましたっ!」
「もう上がれそ?」
「はいっ」
「じゃあ一緒に帰ろうか」

もう一度元気よく返事する莉子にクスリと笑って、片倉はパソコンを閉じた。同時にモニターも暗くなる。

私の仕事が終わるの、待っててくれてたんだ。

今更ながらそう気づき、嬉しさと感謝があらためて込み上げてくる。
新人の頃からこうやって優しく教えてくれて、突き放すことはしなくて、でも自分で考えられるようにしてくれて、ずっと隣で温かく見守ってくれてて、

「本当に、すごいです」
「…ふ、違うよ」

ほら、帰るよと莉子の肩を軽く叩いた。莉子も頷き、帰る準備をする。
あの時のことなんてまるでなかったかのようだ。
きっと、一時的な気の迷いだ。それ以上は考えないようにしよう。そう思いながら、莉子はマフラーを巻いた。


オフィスを出ると、空気が一段冷たかった。
昼間の名残はもうなくて、吐く息が白くなるほどではないけれど、頬に当たる風がはっきりと冬だと分かる。

エントランスを抜けると、前の通りは思ったより暗い。車は走っているが、昼間ほどの音はない。タイヤがアスファルトを擦る音だけが、間隔を空けて流れていく。

「俺はね、南のデザイン好きなんだよ」

片倉が、マフラーに顔を埋めながら言った。
純粋に嬉しく、お礼を言うと片倉は続けた。

「南の人柄が出てて、安心する」
「人柄、ですか」
「そう」

どんなものに対して、どう解釈して、どう伝えたいのか。それを、どう落とし込むのか。その選び方が、南らしい。


南らしいって、私ってどんなふうですか。そう聞こうとしてやめた。
ネオンは今日は見えない。ここはオフィス街だ。雑踏もない。
ただ耳の後ろが冷えて、さっきまで見ていた画面の白さが、まだ目の奥に残っていた気がした。