「南はどこのスコーン買うの?」
「んー焼き菓子屋さんのと、英国ホテルシェフのやつと、英国王室専属シェフのやつ」
「同じ人二人いた?」
「違う人だねー」
土曜日の昼、加瀬とそんな話をしながらエレベーターで百貨店の催事場へと向かった。休日の百貨店は当然いつもより人が多い。
会場に入ると、人気の催事なだけあって、完全にイベント仕様の熱を帯びていた。焼き菓子特有のバターの香りが一気に押し寄せてくる。
「俺が好きそうなヤツある?」
「スコーンサンドとか?クリーム入ってるよ。あとセイボリースコーンっていうお食事系とか」
「クリーム入ってるのいいな」
「じゃあ周りながら決めよっか」
気をつけて。頷きながら、短く加瀬が言った。
声を張らないと普通に聞き逃されそうな雑踏。
通路の両側にはガラスケースがずらりと並んでいて、その上には店名の書かれたポップが吊り下げられていた。
「すごい人だね」
「な、平日なら混んでないのかもな」
「でも平日はなー、まったりスコーン選べる余裕ないよー」
「前考えてたやつは落ち着いた?」
駅のファーストフードでのことを言っているのだろう、莉子は頷いた。加瀬は良かったな、と言って笑って前を向いた。細い通路なので、自然と一列になる。
一旦店をぐるりと周り、気になるものを買うために列に並んだ。莉子は事前にチェックしていたスコーンを数点、クロテッドクリームも購入し、加瀬は甘い系のスコーンサンドなど、莉子が勧めたものを同じ店で数店買っていた。
人混みに会話はかき消され、話題もあちこち逸れてしまうので、催事場での話はそこそこに終わり、遅めの昼食を取ることになった。
百貨店を出て、そこからそう遠くない、駅直結の商業施設の中のカフェに入った。二十代向けの服なども売っている場所なので、白を基調とされたおしゃれな空間だった。
「加瀬は最近忙しいの?」
「まー今の時期は春夏商戦の最終調整って感じで普通に忙しいよ」
「帰りも遅い?」
「そこそこだな」
加瀬は注文したハンバーグランチを頬張りながら難しい顔をして言う。メッセージのやり取りは普段から何となくしているが、あまり加瀬は忙しさを表に出さないので莉子はよくわからない。
「あのさ、…前言ってたやつなんだけど」
「…どれ?」
「その…先輩のやつ。加瀬も、今更だなって言ってたでしょ」
「よく覚えてんな」
「それがさ、…」
そう言いかけたところで、莉子の頼んだデリランチが運ばれてきて、店員にドリンクの有無なども聞かれたことで話は中断された。
店員が去った後も、再度その話を自分から蒸し返すのは何となく憚られ、加瀬もしてこなかったので世間話で終わるランチとなった。
ランチを終え、二人は莉子の最寄り駅に帰って来ていた。
加瀬は今日も莉子を送るつもりだったらしく、莉子の駅まで自転車で来ていたようで、いつもの愛車を引いている。
加瀬が、莉子の買ったクロテッドクリームを気になると言ったため、莉子の家の近くの小さな公園のベンチで二人は座っていた。
一月下旬、まだまだ寒いが午後三時の日差しは暖かい。風もほとんどなく、外で座っていても苦痛ではない。
髪型、ハーフアップにしなければ良かった。
剥き出しの耳が、少しだけ冷たい。
「ごめんなわざわざこんな所で」
「いいよー、加瀬がスコーン沼にハマってくれたら私は嬉しいから」
加瀬が買ったノーマルなスコーンに、莉子は瓶を開けて、付属していたスプーンでクリームを掬って乗せる。
バターと小麦の香りが少しだけその空間に漂っている。
「加瀬と公園って、前のこと思い出すね」
「鼻水事件な」
「やめて、もっとエモい表現つけてよ」
「大事件すぎるだろ」
加瀬はクロテッドクリームが乗ったスコーンを頬張った。
ずっしりとして表面がひび割れているそれの上に乗った、曖昧な白。
うま。と加瀬が短く言ったのに莉子は喜ぶ。
「でしょ!ジャムつけても美味しいんだよー」
「バターみたいな感じかと思ったけどそんなに重くないんだな」
「そうなのー!これをたっぷりつけるのが美味しいの」
うま、と感想を短く何度か呟きながら、加瀬はそのスコーンを一個食べきった。ハンバーグランチのご飯も大盛りにしていたくせに、どこにその重たいスコーンを食べ切れる容量があるんだ。高校生なの?
「あの鼻水事件のさ、」
「自分で言うんだ」
「あれで加瀬に気持ちぶっちゃけれたから、ちょっと進めたっていうか」
「…それなら良かった」
「だからさ、」
公園のベンチは少し冷たい。日差しがさっきまで照っていたのに、いつの間にか太陽の位置が下がって来ている。冬の夕方はあっという間だ。
「どうしてもモヤモヤしちゃって」
「…」
仕事で何も考えずにいられた時は良かった。
少し落ち着いて、頭の中のキャパが空くと、追いやっていた感情が戻ってくる。
意味が大してないかもしれないのはわかっている、期待がしたいわけじゃない、先輩と彼女の中に割って入りたいなんて一ミリも思っていない。でも、あの時の先輩の距離と行動は、明らかにいつもの空気ではなかった。
「もうこれ以上、先輩のことで乱したくないのに、あの時、加瀬に話して気持ちの整理つけたのに」
「…」
そのうち、何となく忘れていけたらいいと思っていた。
ただの先輩として、純粋にそれだけの気持ちで慕えたらいいと思っていたのに。
先輩は、いつも通りで何も変わらない。気まぐれだったらそう教えてほしい。
「同じ男として、わかる?」
「…男としてね」
芝生の色は失われていて、少しだけ生えている木々も枝だらけになっている。
遠くで子どもの声と、自転車のベルの音が混ざって聞こえた。
「うん」
「俺のことちゃんと男だと思ってんだ」
「当たり前じゃん」
加瀬が少しおどけたように言う。
これ以上はぐらかされたくなくて、真面目な表情で返した莉子に、その様子を見た加瀬は少し黙る。そうして、ぽつりと言った。
「…なにも」
「ん?」
莉子の隣に座っていた加瀬が、静かにこちらに位置を寄せた。
少しだけ向き合うような形になって、加瀬の指が、莉子に近づく。
莉子から見て、逆光になっていて加瀬の表情は見えづらい。
あの時、みたいだ。眩しいくらいのネオンに隠された先輩の、何も読み取れない表情。
加瀬の指が、莉子の耳に触れた。
莉子は動けない。
先輩の時のように、滑らかには動かなかった。
指先だけではなく、加瀬の大きな手全体が莉子の耳を大きく包む。
加瀬の指は、暖かかった。少し冷えた莉子の耳との温度差が熱い。
「なにも、考えなくていいよ」
「…か、せ」
優しく、怯えるような手つきで加瀬の指が莉子の耳たぶに触れた。
一瞬だけ触れた箇所を柔らかく包むようにして撫で、熱い指は離れていった。
「意味なんてないから」
そう言った加瀬は、少しだけ口角を上げていた。
こちらに向けられる目線が、自分と似た温度を感じたのも、夕方の冷たさのせいに違いなかった。
