さすがの私も、「あれってどういう意味だったんですか?」と聞けるほどではなかった。
あれから四日後。
土曜は友達との予定が入っていたので考えなくて良かった。
日曜は無理やり予定を作って、何かに没頭していたくて珍しく漫画喫茶に行って一日中漫画を読んで過ごした。そうでもしないと、頭の中を何かで満たしていないと、あの時のことを考えてしまうから。
月曜は幸いにも忙しかった。出社してすぐ別チームからの応援要請で、新規ブランドの公開直前のLPが間に合ってないということで呼ばれ、いつものデスクから移動してガヤガヤと指示が飛び交う会議室で仕事をしていたせいで、あまり考えなくて良かったし、片倉と顔を合わせても何か言葉を交わすほどのものはなかった。
今日は、例の会議もあり、昨日の続きの作業もあった。
今回の会議は静の都合もつき出席できたため、片倉と二人きりという場面もなかった。
ずっとバタバタしていて、莉子の頭の中はそれだけで満たされていて良かった。
片倉は、何事もなかったかのようにいつも通りだった。
あの日の記憶は、私しか覚えていないのかと思うほどに。
「南」
「は、い」
「別の飲料メーカーの提出してくれたやつ、色味だけもうちょっとトーン落として画面持つようにして」
「りょうかいで、す。グレー寄りにしますか?」
「うん、それで。できたらもう資料に入れ込んでいい」
「はい」
片倉も別案件の会議もあり社内を出たり入ったりしていたようで、隣で仕事をする時間も長くなかった。たまにデスクに戻ってきて仕事をしては、莉子が提出したものに声をかけたり指示をしてはまたどこかに行く。
あの件について触れられないのは莉子にとっても都合が良かったし、ありがたかった。莉子が思っていたより、あの日のことは何事もなかったかのように過ぎていって、もうそれでいいような気がしていた。
『最近の南が、可愛くて仕方がないってことだよ』
「あー」
頭の中でつい反芻してしまい、かき消すように現実で小さな低い声をつい漏らしてしまう。いけないいけない、ここは電車の中だ。あと数駅で自宅の最寄り駅に着く。
思い出さなくていいのだ。
あの時の片倉の、指が、冷気に当てられてひんやりしていたとか、耳に触れられた時の、身体に響いた、かさりとした音とか、雑踏の音と、改札の電子音とか、夜の冷えた空気ーー…。
「ゴホン」
恥ずかしさとかき消したいという気持ちからまた声が出てしまいそうになるのを咳払いで誤魔化し、顔をマフラーの中に埋める。よくない良くない、こういう時は仕事をした方がいい。
今回の会議では、片倉と考えた案は通ったし、追加で提出したビジュアルも問題ないということだった。クライアントの表情も良かったし、莉子も納得したものを出せた。会議終わり、静と片倉が内容を話している中で、莉子は会議室の片付けをしていた。
『南』
『はいっ』
『ポップアップの百貨店の展示用ビジュアル、一瞬で伝わる形に落とせる?』
『は、い』
『一枚で雰囲気が伝わるように』
『はい』
『頑張れ』
静に何の前触れもなく話しかけられ、流れるように出された指示に、莉子は短く返事をすることしかできない。
はい、と返事をしたものの、デスクに戻って考えていたのだが上手いこと自分の中でまとまらず、定時を過ぎても色々と考えていた莉子だったが、結局答えは出ないまま帰路についていた。
今までは足したり広げていたことを、一枚に削ってことだもんなー、百貨店の入り口ってことは最初の接点になるからお客様に興味を持ってもらえなかったら終わりでしょー、初見の人にブランドを定義するわけだから、分かりやすい方がー…いやでも、生活に落とし込んでないと身近に思ってもらえないからなー…この絞る作業ってすっごい悩むんだよなー、手を動かせばいいわけじゃないんだもんなー…。
ぼうっと目の前に立つ人のマフラーが暖房の風に揺られてそよめくところを一点に見つめ、そんなことを考える。デスクで座っているより動いたら気分も変わるかと思ったが、そんな単純なことでもなかった。
夕飯を作る気にもなれない。
頭が色んなことでパンクしそうで、サクッと楽にお腹を満たしたくて、改札を出たところにあるファーストフード店に入った。ガラス張りの建物のカウンター席に座り、ガラスの向こうの行き交う人々を何気なく観察する。
この人たちにもそれぞれの生活があって、でもできるだけ色んな人に手に取ってもらいたいから、共通の部分があった方がいいに決まってるけど、生活を出し過ぎても初見で魅力伝わりづらいよなー。
「よ」
「…あ、加瀬」
両手でハンバーガーを持って食べている莉子の方を軽く叩いたのは加瀬だ。ネイビーの厚手のマウンテンパーカーのようなものに大きめの黒いリュックを背負っていた。
「ここにいるってさっきメッセージで言ってたから、俺も食べたくなって来た」
「美味しいよねここ」
「南なに食べてんの?」
「あー…何だっけ、なんかアボカドの…ん?チーズのやつ」
「認識しないで食べてんのそれ」
加瀬は俺も注文してこよーと言って、レジの方に向かっていった。
「忙しい?」
「もーキャパオーバー」
「案件の数が多い?」
「なんか頭で考えなきゃいけないことが多くてー」
「…全部仕事のこと?」
「うーん、うん」
「嘘じゃん」
「頭リセットしたい、フラッと本屋に行って気になった本買ってカフェで読みたい」
「そういうことすんの」
「そう、そういう生活が憧れ。…加瀬は?どんな生活が憧れ?」
「えー俺は…たくさん寝た後に上手い飯を食う。汗かいて風呂入ってまた寝る、みたいな」
「見た目そのままで安心する」
「そんでたまにカフェでプリン食いながら小説読む」
「嘘すぎる」
「嘘じゃねーよ舐めんな」
笑いながらポテト食う?という加瀬に、大丈夫、と返す。
なるほどなー、生活っていってもなー、漆器ってなるとなー、でも加瀬みたいな人に見つけてもらうにはどういう視点がいいんだろうなー…。
気を抜くとどうしてもそちらに言ってしまう思考だったが、加瀬とくだらない話をしているだけで気は紛れたし、気分転換にもなった。加瀬はついでだから、と送ってくれた。
「仕事以外のことは、何考えてんの」
「え?」
「さっき言ってたろ」
「あー、うーん…」
さっきの仕事のことみたいに、先輩とのことも加瀬に言ったらそれはそれで新しい視点が見えてくるかも?いやもう考えないでおこうって思ったけど、まぁ話しておこう。そう思って莉子は先日の出来事を話した。加瀬は黙って自転車を引きながら聞いていた。話すたびに溢れる息が白い。
「はー…何それ」
「ね」
先ほどの賑わっていた駅前とは違って、住宅街は静かでもう眠っているようだ。
コツコツと、莉子の履いているショートブーツの音が響く。
「今更だな」
「え?どういう意味?」
「さぁ、モテる男の考えてることは俺には」
「あー」
「あーってなんだよ、同調すんな、そんなことで揺れんな」
「え?」
「着いた。…あったかくして寝ろよ」
「加瀬、お母さんみたい」
「誰がママだ、トントンして寝かせてやろうか」
ほら、と加瀬は手で早く入れと合図をした。
加瀬と一緒に帰ると、帰り道があっという間だな。
階段を登って共有玄関の前に立った。莉子の家は共有の玄関を開けると室内の廊下があり、それぞれの家の玄関に繋がっていた。このドアの先は、ここほど冷たくない。
「上がる?」
「はいはい、おやすみ」
莉子のいつもの冗談に、加瀬は呆れたようにして返す。
このやりとりが定番化して来ていて、莉子は毎回楽しくてふざけてしまう。
じゃあねと手を振って玄関に入った。帰り道、仕事のことは考えていなくて楽しかったな。そう思いながら莉子は家に入ったのだった。
