「おはよう」
「おはようございます…」
次の日、片倉はいつもの様子だった。昨日莉子が感じた違和感は何となくなくなっているようで、もしかしたらそれすらも気のせいだったかもしれないと思うほどだった。
朝の支度を終えて、ちょっと待ってねと片倉は莉子に言ってしばらくパソコンに向かっていた。何がちょっと待ってねなのか莉子は分からなかったが、しばらくは話しかけないでほしいということかなと解釈し、莉子もメールやチャット、スケジュール、納期の確認などをしていく。複数の案件が同時進行していくことが当たり前なので、こまめにチェックをしないと忘れてしまいそうで怖い。
「昨日の話の続き、しようか」
「あ、はい」
よし、と片倉はモニターを見て言うと、椅子をくるりと莉子の方に向けて言った。
こないだの資料出して、と言われて莉子はマウスを操作してモニターに広げた。
「よし、まず…俺は、「今」じゃなくても成立するって言われたの、別にダメ出しじゃないと思うんだよね」
「はい…」
「今回のクライアントは地方の老舗漆器メーカーだったよね。課題は見せ方が古くてSNSにも載らない、って話」
「はい」
「で、ブランドを主張するんじゃなくて、今の生活の中に自然に置かれている見せ方をって言う感じで南にキービジュアルとかお願いしてたでしょ?」
「はい」
「今じゃなくても成立しませんかって言うのは、いつやってもいい展示じゃないかってことかなと思うの」
「…なるほど」
頭の中がぐるぐる回転して答えを導き出そうとしている莉子に、片倉は画面を見つめながら言う。そこには莉子の作ったデータが映されている。
「生活に溶け込むって言うのは間違ってない、だから南の作ったものも良かった」
「はい…」
「けど、みんながみんなこのビジュアルみたいな丁寧な暮らしができるわけじゃない。綺麗な生活をしたいし、憧れはあるけど、そうじゃなくて、今日も何とか終わったなって言う疲れた空間にもちゃんと置いてあげたい」
「はい…」
「この器があることで、生活が「よく」見えるんじゃなくて、生活が「救われて」見える。そういう感じがいいんじゃないかなって」
片倉の言ったことがすんなり自分の中に落ちていく。良かったと言葉では褒められたのだと分かる。でも自分が作ったものと、片倉が言ったものは合致していていないことも分かる。
「私、よく見せよう、綺麗に見せようってことを考えてばっかりで…」
「もちろんそれは大前提で間違ってない。けど漆器は、使用するものだからね」
飾って終わりではない、生活感に「今」を含める必要がある。
綺麗な雰囲気だけで終わらないようにするには。
片倉の言葉を考えていると、片倉は莉子の肩を軽く叩いた。
莉子が詰まっている時、パニックになりそうな時、新人の時もそうしてくれていた。
「向こうのオーダーが抽象的だったから、それぞれの解像度がズレちゃっただけの話だからね。南は言われたことをちゃんと完璧にやったよ」
「でも…」
「そもそも、生活に溶け込むってめちゃくちゃ意味が広いでしょ。丁寧な生活、雑多な生活、憧れ、全部ある。方向性をもう一段深掘りしたいって思ったんだと思うよ」
このへんは、俺の仕事。
俺もクライアントに言われて気づいたから、まだまだ。
そう言って、片倉は眉を少ししかめて笑った。
莉子の気持ちも少し軽くなる。
「それで、南には追加で、今日しんどかった人の生活っていうのも足して欲しくて」
「疲れて帰ってきた夜みたいな…?」
「そう、器が「映える」んじゃなくて、「救う」瞬間」
「なるほど…じゃあSNS用には二軸にするとか?綺麗な昼の生活と、疲れた夜の生活」
「いいね!よしよし、じゃあその方向で一旦行こうか」
そう言って、片倉は椅子ごとコロコロと自分のデスクに戻って行った。
よし、次の会議は前回から一週間後の火曜日。今日は金曜。
土日も挟むし、きっと片倉は上にも確認するだろうから、今日中に作って帰りまでには見せるぞ、と莉子は意気込んだ。
就業時間間際、やらなくてはいけない他の案件や急に回ってきたものにも手をつけていたらギリギリになってしまった。
片倉が定時に帰らなくとも、時間外に確認を迫ることはしたくない。
【お手隙の際にご確認お願いいたします】とデータを添付したチャットはすぐに既読になった。右隣の片倉を視界の中で意識してしまう。いや、でも私は自分なりにやれることはやったし、精一杯だ、大丈夫だ。心の中でそう言い聞かせていると、片倉は莉子の方を見た。急に感じた視線に、莉子も思わずそちらを見る。
「いい感じだね、これで来週見せよう」
「ほんとですかー!」
莉子は気が抜けたように椅子の背もたれにもたれた。メッシュの生地がぎしりと鈍い音を立てる。張り詰めていた背中が、ようやく椅子に預けられた気がした。
「よし、もう上がる?」
「はい、何とか…」
「じゃあご飯でも行こうか?」
「え」
「集中してて昼しっかり食べてないでしょ。お腹空いてない?」
「空いてますっ!」
この間行こうって言ってたしね、と片倉はモニターの電源を切った。
「先輩も今日は上がりでいいんですか?」
「俺は先週けっこう時間いってるから調整もしとかないと。金曜だし」
莉子の会社はフレックスの精算型で、残業した日があればその分他の日に早く帰ることも良し、コアタイムは十時から十五時で月末の総合勤務時間で調整してあれば細かく言われることもない。定時までまだ三十分ほどあるが、莉子も今日早く帰ったところで問題はない。
莉子もいそいそとパソコンをカバンの中に仕舞い、コートを取りに行く。安心したら急にお腹が空いてきた気がする。机の中に入っていたお土産などで頂いたお菓子とカバンの中に常備している干し梅だけで凌いでいたからなぁ。今日は外に出る時間すらも億劫なくらい集中していた。
「何食べたい?」
「えー、そしたら寒いし、おでんとか食べたいです」
「いいね、和食系ね」
エレベーターを待ちながら莉子は片倉と楽しく会話をする。
昨日のこの場所とは全く違う温度に、胸の支えが取れたようなすっきりしたような気持ちだった。
