ひとつの秩序

 
 
あれから二日。
何となく、避けられている気がする。

片倉は莉子よりも会議も外に出ることも多いので、隣のデスクにいないことも元々それなりにあるのだが、それにしても顔を合わせない。仕事の必要なチャットはしっかり送られてくるので何か支障があるというわけではないのだが。

あの時のことが関係してるのかな?
それとも普通に忙しいだけの勘違い?
彼女さんとの間に何があったのかな?

そんな思いを頭に巡らせて、莉子はため息を吐く。


あの時、確かに先輩は焦って出ていったような気がする。
ただ、だからと言って自分を避けるほどの出来事だとも思わない。「可愛い」にはいろんな意味が存在することくらい分かっているし、そういう意味で自分は片倉に「可愛がられている」存在であることも知っている。

社内カレンダーで片倉の予定を見て、ここの時間は空いてるんだなと莉子が思っていても、いつの間にか別の予定でブロックされている。片倉が余裕のあるスケジュールを好むことを知っているだけに、莉子は違和感を覚えざるを得ない。

莉子の会社は必ず仕事はデスクでしなければいけないわけではなく、シェアスペースでパソコンを開いていたり、在宅、打ち合わせ帰りに外で仕事をしてくることも問題ないので、デスクにいないからと言って何というわけでもなく、誰も不審になど思わない。


「あ、それで大丈夫だと思いますよ」

昼休みから戻ってくる時に聞こえた。片倉の声だった。
今日は何度かデスクに戻ってきてはいたので社内にいることは知っていたが、まだ社内にいたらしい。

「この方向なら、もう少し柔らかくしてもいいかもですね」
「ああ、確かに。じゃあそこだけ調整してみます」

いつものように仕事の話をして、朗らかに対応している片倉。
手には折り畳まれたパソコンがあるので、どこか違うところにいたのだろう。
その様子はいつもと変わらなかった。
声をかけようとも思ったが、あまりにもいつも通りに見えて、莉子は立ち止まったままその場を見送った。
 
 
 
 
 
 

「あ、先輩…」
「…お疲れ様」

夕方、六時近く。外よりも社内の方が明るい。
大きな窓にはカーテンが閉められていた。

先日の会議の内容、「今」表現する理由、というものが莉子はあまり掴めておらず、莉子の直接の担当部分ではないものの、片倉に意見を聞きたかった。

デスクに戻ってきた片倉の手には相変わらずノートパソコン。
今日の片倉のデスクのパソコンモニターはほとんど真っ暗のままだった。

「あの、先輩」
「ごめん、今日は予定あって」

片倉の表情はいつも通りだ。ごめんね、と手をあわせる仕草も違和感はない。
ただ何となく、踏み入らせてもらえないような、関わることを拒否されているような、そんな雰囲気があるような。

「ごめんね、また明日聞くから」
「わかりました」

今緊急で聞くべきことでもないし、莉子の直接関わる部分でもない。
明日でも問題なかった。

荷物をまとめてオフィスを出ようとした片倉を見送った数秒後、反射で莉子もパソコンを畳んでいた。そのままお疲れ様ですと周囲に声を何となくかけてエレベーターの方へ向かう。

分からないことは聞いてしまおう。そんな単純な自分に今だけは感謝だ。
 

 
「先輩!」
「…どうした?」
「私も帰ります」
「そう。明日も頑張ろうね」
「はい」

滑り込みで片倉が乗るエレベーターに乗れた。中は二人きりだった。

「あの、もし違ったら申し訳ないんですけど」
「…」
「なんか、いつもと違う気がして心配です」
「…」
「プライベートなことだったらごめんなさい!どうしても気になってしまいました!」
「…うん」

ごめんね、と片倉は言った。エレベーターが開いて、片倉がどうぞと手で莉子に促す。一緒に駅までいいですか、と言うと、うん。と短く返ってきた。

「…最後言いかけてたこと、何だった?」
「あ、あれは、こないだの会議でクライアントが言ってた「今」って言うのについて先輩の意見を聞きたくて…」

でも定時間際に呼び止めることじゃなかったです、ごめんなさい。と莉子は言った。今思い返してみると、あの時の自分はムキになっていた気がする。何か話しかけたくて無理やり自分の中で作ったような話題だったかもしれない。

「…ごめんね」
「いえ、こちらこそ予定があるのにごめんなさい」
「…そういう素直なところがね」
「え?」

会社から駅まではすぐ。片倉はコートのポケットから手を出し、駅の改札へ向かう地下行きのエレベーターのボタンを押した。そうしてまた手を仕舞う。
莉子はそのまま片倉の隣に並んだ。

「素直すぎて、眩しいよ」
「?」
「俺の醜いところ、全部暴かれそうな気がする」
「なん、ですか?」

素直だと褒められることは今までもあった気がする。自分のことを言われているのは伝わるが、何を意図してなのかよくわからない。

「こないだ、可愛いって言ってごめんね」
「…なんで謝るんですか?」
「セクハラかなって」
「……私、嬉しかったです」

嘘ではない。あの後、何度か脳内で反芻した。意図は分からずとも、その言葉は莉子の気持ちを舞い上がらせるには十分だった。

「嬉しかったか。そりゃ良かった」

エレベーターが来ると、片倉はどうぞと言って莉子を促した。
莉子は中に入るも、片倉が続いてこないことに疑問を持ち片倉を見た。

「俺、今の家はバスなんだ」
「あ、そうなんですか…」

うん、だからまた続きの話はまた今度。
片倉はそう柔らかく言った。
そういえば、同棲したと聞いてから一回も一緒に帰ってなかったな。昔は、よく駅まで一緒に行っていたのに。

「わかりました…」
「お詫びに、ご飯でも行こうか。奢るよ」
「なんのお詫びですか?」
「今日、最後の質問遮っちゃってごめんね」

莉子が返事をする前に、片倉はボタンを押す手を離した。
長く開かれていたエレベーターはすぐに扉が閉まりかける。

「いえっ」

ドアが閉まる直前、お疲れさま。と片倉は諭すように言った。
ネイビーのマフラーを優しく首元に巻いている片倉の表情は、莉子には読めない。
エレベーターの中は暖房が効いていて、もわりと下から上がってくる熱気に、莉子は思わず肩をすくめた。