オレンジ色の春風

「オレンジ色の春風」


都会の喧騒と数字に疲れた私は、母に促されて里帰りすることにした。ひとときの休息を経て、やがて仕事へ戻る日がやってきた。
「無理しないで。走り疲れたらベンチで一休みしたら?」
母の台詞が頭を過ぎる。
その言葉を思い出しながら、私は無人のホームのベンチに腰を下ろした。次の電車まで、まだ十分ほどある。時計を見るのをやめたのは、いつぶりだろう。
 春風に桜の花びらが巻き上げられ、不意に私の視界を遮った。視界が晴れた途端、単線を走る1両の電車が此方へ近づいてきた。ここは田んぼと畦道に囲まれた都会のはずれだ。ほとんど乗ってないだろう。電車の中に視線を移すと、確かに誰もいなかった。
私は電車に乗り込んだ。周りにいるのは私と運転手のみだ。発車のベルも音楽も急かすアナウンスも無い。ドアを手動でボタンを押して閉める。やけに大きく響いた。
 腰を下ろすと、この場所に根を張ってしまいそうだった。立ったまま窓の外を見る。窓に映る自分の顔が、電車の揺れに合わせて歪んでいた。今のままでいいのだろうか。走り続けてどこに向かうのか。答えは、どこにも見当たらない。
「午後の会議までに資料を」
出社してすぐに投げられた言葉が、まだ耳に残っている。締切の他にも、売り上げ、達成率、営業件数。数を追い続けてきた日々が不意に蘇る。人身事故で止まる電車。時刻表とのにらめっこ。時間に急かされ、数字に酔ってきた日々。名前で呼ばれるのでは無く、担当や役職で呼ばれるようになったのはいつからだろうか。係長という管理職一歩手前の肩書き。それによる過度な期待。期待されている以上失敗できないし、止まれない。もう全てに疲れてきた。
 「無理しないで。走り疲れたら、ベンチで一休みしたら?」
母の言葉は優しい。でも私には、その優しさがどこか遠く感じられた。休むことは、負けることだと思っていた。立ち止まった瞬間、すべてが崩れてしまう気がしていた。
短い警笛の後、ドアが静かに開く。気づけば田んぼから景色が菜の花畑に変わっていた。春風が頬を掠めた。吊り革から手を離し、立ち止まりたい気持ちを振り切るように、拳を固める。頑張ろう――そうしないと、また何も変わらないまままだ。
 けれど、その暖かい風は、前に進むためのものだけではなかった。ふと、懐かしい匂いが混じる。その匂いを私は知っている。ふいに彼の名前が脳裏に浮かぶ。
 あの春の日もこんな風が吹いていた。彼はオレンジ色のスーツケースを持ち、私の横に並んでいた。私はかける言葉が見つからず俯いたまま少しの間沈黙が流れた。本当はもっと話したいことがあるのに。これが最後かもしれないのに。喉がつっかえて出てこない。そんな私は「遠くでも頑張ってね。」と絞り出した。本当はもっと一緒にいたい。行ってほしくないが、頑張ろうとする彼を止めるのは出来なかった。
 少し間をおいて、「うん。ありがとう」と彼は笑みを浮かべ返し、それからホームに視線を移した。私とは目を合わせない仕草だった。その横顔を見て、私は初めて気づいた。この人はもう、私の隣ではなく、ずっと先を見ているのだろう。それに対して私はまだ足踏みをしているままだ。
「そんなに悲しい顔するなよ」
「え、でも…。」
「またここで」
その時には、今とは少し違う自分で、目を逸らさずに立てていたらいい。
彼は少し笑って、「大丈夫、心と心」
それだけ言い残し、電車に乗り込んだ。
「大丈夫、心と心」風に溶けそうで私の中には残らない気がして怖かった。
 反対側から、電車の走る音が近づいてきた。その気配に、無意識に視線が引き寄せられる。
見覚えのある顔が目に映る。目を見開き、思わず「えっ?!」と声が小さく漏れてしまう。彼とどこか顔が似ている気がする。胸が騒めく。しかし、彼を認識した頃には電車はもう行ってしまった。
いつの間にか電車は菜の花畑を抜け、低い家並みを過ぎ、長閑な田園風景から一転、ビルの影を映すようになった。窓に映る景色が少しずつ無機質に変わっていく。窓の外を流れていく景色を、ただぼんやり眺めながら、過去のことこれからのことあれこれ考えていた。
特別な時間は、いつもあっけなく終わる。それでも、何かを抱えたまま、日常はまた動き出す。

 都会に戻り、一人暮らしの部屋でまた目覚ましを止め、時刻表と睨めっこする朝が始まった。目覚ましを切り、歯磨きを終え、目玉焼きを焼く。テレビはつけっぱなしで、朝のニュースが部屋に流れていた。海外で日本人留学生が亡くなったという短い報道が、フライパンの音に紛れて聞こえる。画面には、見知らぬ街の交差点と、黄色い規制線。その脇に、横倒しになったオレンジ色のスーツケースが一瞬だけ映った。フライパンの火を弱める。それだけのことに、少し時間がかかった。画面はすぐに別のニュースへ切り替わった。前に比べて、心や時間に余裕ができ、ゆっくり朝食を食べられる。
 スーツを身に纏い、いざ会社に復帰する。会社では相変わらず数字に追われる。それでも、前より少しだけ、資料に向かう手が震えなくなったし、数字も伸びてきた。
 水曜日の朝、ペットボトルを出しそびれてしまった。部屋の隅に袋が一つ増える。以前なら、それだけで自己嫌悪に沈んでいたと思う。でも今は、「次でいいか」と呟ける。
しばらくは、連絡が来ていた。でも、いつの間にか、それも途絶えた。未読のままだ。
 完璧にはできない。それでも私は、ちゃんと都会で生活を続けている。あの日すれ違った電車の音を、時々思い出しながら。
「大丈夫、心と心」
あの日、春風に溶けそうだった言葉は、今も胸の奥で、仄かに残っている。