恋愛百景

第1話「継承の夕暮れ」

夕方の台所は、いつも少しだけ静かだった。
父は仕事から帰ってきても、すぐには僕の方を見ない。エプロンをつけて、黙ったまま鍋に火をつける。その動きはもう慣れているはずなのに、最近はどこか違って見える。僕はその背中を見るのが、日課みたいになっていた。

母がいなくなってから、ずいぶん時間が経った。
それでも家の中のどこかに、まだ母の気配が残っている気がしていた。食器の置き方とか、カーテンの色とか、そういう小さなものの中に。

「今日さ、学校でね」

話しかけても、父は「うん」とだけ返すことが増えた。前はもう少し、ちゃんと目を見て聞いてくれた気がする。でも、その“前”がいつだったのかは曖昧になっていく。

ある日、玄関に見慣れない靴があった。
小さくて、落ち着いた色の女性の靴。母のものではない、まったく知らない形だった。

その人は台所にいた。
父と並んで、何かを話している。小さな笑い声が聞こえる。それは僕に向けられるものとは違って、少し軽くて、でも自然だった。

「こんにちは」

その人は僕にそう言った。
初めて聞く声なのに、妙に落ち着いていて、すぐに拒否できなかった。

僕はうまく返事ができなかった。ただ小さくうなずいて、自分の部屋に向かう。廊下を歩きながら、さっきの声がずっと耳の中に残っていた。

夜、布団の中で天井を見つめる。
母はいない。でも、この家から母が完全に消えたわけじゃないと思っていた。なのに今日、知らない人の声がその隙間に入り込んできた気がした。

それが「間違い」なのか「正しい変化」なのか、僕にはまだ分からなかった。