季節は巡り、恋も巡る、四季折々の恋愛短編集

 この世界には、音がある。学校の朝のチャイム。カツカツと響く革靴の音。話し声や笑い声。世の中は声で溢れている。けれど彼女は、その声を聞くことができない。
 初めて彼女を見たのは僕が所属している保健福祉委員会でのことだった。
 新年度初回の委員会、並べられた横長の机の一番端に彼女は座っていた。誰とも話すことなく、一人で座って、ノートだけを見つめていた。
 まるで彼女の周囲だけ音を消しているみたいだった。
「えーと……、まず、今日から一緒に活動する櫻井さんを紹介します」委員長の声に対して、彼女は「どうぞよろしくお願いします。櫻井詩織です」と柔らかな文字で書かれたノートを掲げ、軽く会釈した。文字が彼女にとっての声だった。
 その後、委員長が彼女の代わりに、耳が聞こえないことを説明した。その他にも車椅子の人や目の見えない人などが紹介された。必要に応じてサポートして欲しいことがあったら、事前に連絡し、サポートすることになった。誰が誰をサポートするかはくじ引きをすることになり、その結果僕が彼女の学校生活を支えることになった。耳の聞こえない彼女をしっかり支えることはできるのか? コミュニケーションはどうするか? 不安に押しつぶされそうだが、責任を持って彼女を支えようと彼女の横に立とうと強く思った。
 委員会が終わり、先生や委員長に促され、ペア同士で集まることになった。僕は少し緊張しながら、彼女の隣に座った。「えっと……、よろしくお願いします」そう言ってからハッと気づく。彼女は耳が聞こえないんだった。慌てて、鞄からノートとペンを出し、小刻みに震える手で「よろしくお願いします。僕の名前は佐倉晴人です。一緒に頑張りましょう!」と書いて、見せた。それに対し、彼女は「改めてよろしくお願いします。櫻井詩織です」と書かれたノートを差し出した。
 自己紹介を終えた二人は、中庭を散歩することにした。彼女にそっと歩幅を合わせながら歩いた。少し、歩き桜の木の下のベンチで腰掛けた。桜を見上げると花びらが少しだけ枝先に残っていた。
 少しの間、静寂が落ち、気まずい空気が流れる。僕は咄嗟に、「桜、綺麗ですね」と書いて見せた。それに対して彼女は、小さく頷き「そうですね」と返してくれた。僕は桜を見上げ、「もう直ぐ全部散ってしまいそうですね」と続けた。「でも散るからこそ儚くて美しいですよね」「そうですね。あっ、そういえば櫻井さんの名前桜ですね」
「佐倉さんも、漢字は違えど、同じ桜ですね」
 意外な共通点もあり、少し嬉しくなった。
 この陽だまりのように柔らかく、暖かな時間がこれからも続けば良いとさえ思った。
 そこから、「好きな食べ物は何ですか?」「私はパスタ。」「僕も。麺類ではパスタが一番好き」
「部活何入ってますか?」「文芸部。本を読んだり書いたり」お互いの好きな本、嫌いな教科、はたまた学校での何気ない日常の話や将来の夢まで。意外と会話が弾み、30分近く色々な話をした。ノート見開き1ページびっしり埋まった。筆談でも、思ったより、ちゃんと言いたいことは伝わるし、こんなにも沢山話せるんだと思った。ふと空を見上げると、空は夕焼けに染まり、風が頬を撫でた。
「そろそろ帰りますか。今日はありがとうございました。一人で帰れますか?」僕がそう切り出すと、彼女も同意し、「大丈夫です。今日は一日ありがとうございました」と、ノートに書き、それを見せ、その日は別れた。

 次の日の休み時間彼女に会いに行くと、彼女は図書館にいた。耳が聞こえない彼女にとって本は彼女と世界を繋げる音の無い声なのだろう。
 僕に気づいた彼女は本を持って立ち上がり、急いで本を本棚に戻し、僕の方に駆け寄ってきた。「今日もよろしくお願いします」と書かれたノートを見せてきた。                        図書館を後にし、ベンチに腰掛けた。ほんの少しだけ、彼女の横顔が近くなる。声をかけるのが怖かった。文字でさえ、どこか慎重になってしまう。
 彼女の世界に、僕はちゃんと入れているだろうか。足跡を残せているのだろうか。そんなことを思いながら、僕はノートを開いた。
「本、好きなんですね」とノートに書いて見せた。
 彼女は少し驚いたように目を見開き、それから、ふわりと笑って、ノートにこう書いた。
「はい。音がなくても、言葉が届くから」
 その返事に、僕は、なんと返せばいいのか迷った。僕の声は、彼女には届かない。
 でも、こうして筆談ならちゃんと伝えられる。
 そんなことを思いながら、僕はノートを開いた。
「本、好きなんですね」とノートに書いて見せた。
 彼女は少し驚いたように目を見開き、それから、ふわりと笑って、ノートにこう書いた。
「はい。音がなくても、言葉が届くから」
 その返事に、僕は、なんと返せばいいのか迷った。
 僕の声は、彼女には届かない。
 でも、こうして筆談ならちゃんと伝えられる。
 僕は、ゆっくりと文字を書いた。
「よかったら、何の本読んでたか聞かせてください」
 彼女は頷いた。少し照れたように、笑いながら。
「星の王子様」と答えた。
 それに対して、僕は「あー聞いたことある。有名だよね」
 それから、星の王子様について話した。その後、僕達はそれぞれ授業に戻った。

 櫻井さんを支え続けて、あれからニ週間が経ち、また委員会の招集が掛かった。月に二回ある活動報告会らしい。
 車椅子の段差を通る時、スムーズにいかないなどそれぞれのペアやチームの報告が淡々と進んでいった。
 委員会の休み時間、僕は福祉担当として彼女の今日の様子を確認しようとノートを差し出した。
「今日の体調はどう?」
 彼女はペンを取り、静かに文字を書き始める。
「朝は少し疲れがあったけど、今は大丈夫。ありがとう」
「無理はしないでね。授業で困ったことはない?」と切り出すと、櫻井さんは「筆談や手話でほとんど問題ないけど、音のする授業は少し難しい」と返してきた。「なるほど。例えばどんなとき?」と続けると、「理科の実験で先生が説明するとき、声が聞こえないと何をしているか分からなくて戸惑う」と返してきた。「それは困るよな。僕ができることは何かある?」と続けると、「佐倉くんがそばにいてくれるだけで安心するよ。ありがとう」
 その言葉に胸が熱くなる。
「あーじゃあ、次の理科の実験の時、一緒に行こうか。付き合うよ」と提案すると
「いいの? よろしくお願いします」と笑みを浮かべた。
「じゃあ、明日の2時間目よろしくね」
 文字でのやり取りはゆっくりだけど、いつのまにか敬語が解け、確かな信頼が育っている気がした。

 次の日、僕は櫻井さんのいる隣のクラスに向かった。櫻井さんは荷物を両手で抱え、ドアの前で待っていた。
「今日って何の実験するんですか?」と書いたノートを見せると、櫻井さんは「確か炎色反応って言ってたような……」と返してくれた。その他にも授業のことを話しながら実験室へと向かった。
 実験室に着くと、何人かの視線を感じたが、先生は僕について、櫻井さんのサポート役とだけ軽く触れ、授業に入った。
「薬品AとBを混ぜてから5秒後に火をつけて」と先生が説明するのを聞いて、僕は急いでノートに「AとB混ぜたあと5秒数えてから火つける」と書いて、彼女に見せた。
 彼女は驚いた顔でノートを見て、それから小さく笑って頷き、僕に、手を合わせ、軽く会釈をし、感謝のジェスチャーをしてくれた。無事授業も終わり、僕達はそれぞれの教室に戻り、授業を受けた。
 昼休みになると、突然サイレンがけたたましく鳴り響いた。今朝予告していた地震の避難訓練だ。教室にいた僕は、とっさに隣のクラスの彼女の方へ向かい、視線を向けた。音は聞こえない。でも、周囲がざわつき立ち上がるのを見て、彼女も状況を察したようだった。けれど不安そうな表情のまま、立ち尽くしている。
 僕は急いでメモ帳を取り出し、簡潔に走り書いた。
「地震の避難訓練。外のグラウンドに出るよ。僕と一緒に来て」
 彼女はノートを見て、少しだけホッとしたように頷いた。ざわめく廊下の中、彼女の手首をそっと引いて僕は歩き出した。手を繋ぐのではなく、触れるか触れないかの距離で。彼女の歩幅に合わせて、ゆっくりと。
 グラウンドでは点呼が行われ、ざっとした空気の中で彼女は他のクラスメイトと少し離れたところに立っていた。きっと、どこに並べばいいのか分からなかったのだろう。
 僕は迷わず彼女の隣に立ち、「ここで大丈夫」とノートに書いて見せた。彼女は、少し照れたように笑って、頷き、手を合わせ軽く会釈をし、感謝のジェスチャーをしてくれた。見つめられると、目を逸せなくなる。

 あの日の避難訓練から、二週間が過ぎた。あの日以来、日常に彼女が入り込んでからは、晩御飯の時も、風呂に入る時も、寝る前も、登下校中も気づけば彼女のことだけを考えていた。会話をするたびに胸が妙にざわざわして落ち着かない。彼女の笑顔が、僕の中で少しずつ大きくなっていくのを感じていた。これはもしかして……。
 どうしても、伝えたい言葉がある。そう思った僕は、放課後の屋上に彼女を呼び出した。空を見上げると、空が茜色のグラデーションに染まっていた。ガチャとドアノブを開ける音がし、ギィとドアを開ける音がした。後ろを振り向くと、櫻井さんがいた。
 緊張と静寂が流れ、春の暖かい風が静かに頬を撫でる。「僕は僕は……」緊張してるせいか声が震える。思いっきり想いをぶつけるんだと拳を固く握りる。
「好きだぁぁ!」
声が風に紛れていく。
それでも、まだ届くと信じて叫び続けた。
声が枯れても愛を叫んだ。
 彼女は、大きく目を見開いた。その後、僕を見つめ、そっと手を握ってきた。そして、満面の笑みで頷いた。
 きっと想いは届いたのだろう。僕は彼女の世界に足跡を残せているのだろう。