「これ、着て。」
「やだ。」
「やだじゃない。」
即答だった。
朝ごはん(という名の焦げた目玉焼きとトースト)を食べ終えたあと、私はクローゼットの前で腕を組んでいた。
目の前には、パーカー姿のクロスケ。
…いや、そのパーカーもどこから持ってきたのかは謎だけど。
「だってこれ、落ち着かない」
「今のほうが問題だからね?」
黒い耳に黒い尻尾。完全にアウトである。
どう見てもアウト。外に出たら通報されるレベル。
「人間として生活するなら、まず“普通の格好”を覚えて。」
「普通ってなに。」
「耳としっぽを隠すこと!」
「……」
クロスケはむっとした顔で、自分の耳に触れる。
瞬間、ぴくりと動いた。
「これ、なくならない。」
「うん、それは見ればわかる。」
「じゃあ無理。」
「無理じゃないの!」
思わず声が大きくなる。
朝からなんでこんなに疲れてんの私。
「ほら、これかぶって」
棚の奥から引っ張り出したのは使っていなかったニット帽。
それをクロスケの頭にぽすっとかぶせる。
「……」
耳が、もぞもぞと中で動いているのがわかる。
「……変。」
「いいから我慢!」
次に問題なのは尻尾だ。
ちらりと見れば、ゆらゆらと楽しそうに揺れている。完全に隠れる気がない。
「それもどうにかするから、じっとして。」
「やだ。」
「なんで!?」
「触られるの、あんまり好きじゃない…。」
そっぽを向いてぼそっと言う。
…ああ、猫だった。
納得しそうになる自分が嫌だ。
「でも隠さないと困るの、お願い。」
「……」
少しだけ間があり、しぶしぶこちらを見てくる。
「……ちょっとだけ。」
「ありがとう!」
勢いよくクローゼットを漁り、適当に見つけた大きめのニットセーターを取り出す。
女物だけど、クロスケなら入るはず。
「これ着て、その中に尻尾入れて。」
「えー…。」
「えーじゃない!」
渋々着替え始めるクロスケ。
その途中で、ぴたりと動きが止まった。
「…なに?」
「これ、どうやって着るの。」
「は…?」
見れば、セーターを上下逆に持っている。
「いや、それはさすがにわかるでしょ!?」
「わかんない。」
「嘘でしょ…!?」
この子、服の着方も知らないの…?
いや元々猫だから当然なのかもしれないけど、現実として目の前に突きつけられるとしんどい。
ていうか、だとしたらその黒パーカーは一体どうやって着たんだ…人間になったとき既に身に付いてたのかな…?
「貸して。こうやって、頭通して…腕はここ。」
「…狭い。」
「サイズ合ってないのは我慢して!」
なんとか着せ終えた頃には、すでに朝の余裕は消えていた。ふと時計を見る。
「やばっ…!」
完全に遅刻コース。
「私、仕事行かなきゃだから。」
「え、やだ。」
「またそれ!?」
「ひとりやだ」
また、即答だった。
そして、袖をつかまれる。ぎゅ、と。
「……」
言葉が詰まる。
どうしよう、困る。すごく困る。
でも、その顔は反則だと思う。
昨夜と同じ、あの不安そうな目。
「…すぐ帰るから。」
「どれくらい。」
「夕方?」
「長い。」
「長いけど!」
はあ、と息をつく。
ここで甘やかしてはダメだ。
「いい?家から出ないで。鍵も開けない、知らない人が来ても無視、火は使わない。」
「うん。」
「ほんとにわかってる?」
「…たぶん?」
「たぶんじゃ困る!」
頭を抱えたくなったがもう時間がない。
「とにかく大人しくしてて、帰ってきたらちゃんと話聞くから。」
「……」
クロスケはしばらく黙っていたけど、やがて小さく頷いた。
「…待ってる。」
その一言に、また心が揺れる。
ほんとに、この子はずるい。
「…行ってきます。」
玄関のドアを閉める直前、もう一度振り返ると、クロスケはそこに立ったまま「気をつけて」と言うようにこちらを見ていた。
まるで、本当に“家族”みたいに。
――その日、私は仕事中ずっと落ち着かなかった。
ちゃんと家にいる?
勝手に外に出てない?
ガス使ってないよね?
ていうかそもそもなんなのあれ。夢じゃないよね?
ミスをしないのが精一杯だった。
「どうしたんだ今日、ぼーっとしてるぞ。」
「す、すみません…。」
上司の声もどこか遠い。
時計ばかり気にして仕事は全然進まない。
結局、定時ぴったりに退社してほぼ走るように帰った。
「ただいま!」
勢いよくドアを開ける。
すると――
「おかえり」
すぐに返事があった。
リビングの真ん中、クロスケが座っている。
…床に。そして。
「…なにしてるの。」
「待ってた。」
「それは見ればわかる!」
部屋の様子を見て、私は絶句した。
テーブルの上には開けられたパンの袋、とカス。
床にはクッションがいくつも転がり、カーテンは半分外れかけている。
「これ、全部クロスケ?」
「うん。」
「うんじゃないの!」
「あと、お腹すいた」
「さっき食べたでしょ!?」
「それ朝。」
「あぁ…それはそうだけど〜!」
頭が痛い。二回目。
でも、クロスケは悪びれる様子もなく、こちらを見上げる。
「待ってた。」
またそれを言う。
その一言で、怒る気が少しだけ削がれるのが悔しい。
「…はあ。」
深く息を吐いて、キッチンに向かう。
「とりあえず、ごはん作るから。」
「ほんと?」
「ほんと。」
ぱっと顔が明るくなる。
…ほんとに猫みたい。いや、猫なんだけど。
「人間のごはん、ちゃんと食べ方教えるから。変なことしないでよ?」
「変なことってなに。」
「それはこれから教える!」
フライパンを手に取りながら、私は思った。
この子との生活、絶対大変だ。
でも…少しだけ、楽しいかもしれない。
そう思ってしまった時点で、もう手遅れなのかもしれない。
「やだ。」
「やだじゃない。」
即答だった。
朝ごはん(という名の焦げた目玉焼きとトースト)を食べ終えたあと、私はクローゼットの前で腕を組んでいた。
目の前には、パーカー姿のクロスケ。
…いや、そのパーカーもどこから持ってきたのかは謎だけど。
「だってこれ、落ち着かない」
「今のほうが問題だからね?」
黒い耳に黒い尻尾。完全にアウトである。
どう見てもアウト。外に出たら通報されるレベル。
「人間として生活するなら、まず“普通の格好”を覚えて。」
「普通ってなに。」
「耳としっぽを隠すこと!」
「……」
クロスケはむっとした顔で、自分の耳に触れる。
瞬間、ぴくりと動いた。
「これ、なくならない。」
「うん、それは見ればわかる。」
「じゃあ無理。」
「無理じゃないの!」
思わず声が大きくなる。
朝からなんでこんなに疲れてんの私。
「ほら、これかぶって」
棚の奥から引っ張り出したのは使っていなかったニット帽。
それをクロスケの頭にぽすっとかぶせる。
「……」
耳が、もぞもぞと中で動いているのがわかる。
「……変。」
「いいから我慢!」
次に問題なのは尻尾だ。
ちらりと見れば、ゆらゆらと楽しそうに揺れている。完全に隠れる気がない。
「それもどうにかするから、じっとして。」
「やだ。」
「なんで!?」
「触られるの、あんまり好きじゃない…。」
そっぽを向いてぼそっと言う。
…ああ、猫だった。
納得しそうになる自分が嫌だ。
「でも隠さないと困るの、お願い。」
「……」
少しだけ間があり、しぶしぶこちらを見てくる。
「……ちょっとだけ。」
「ありがとう!」
勢いよくクローゼットを漁り、適当に見つけた大きめのニットセーターを取り出す。
女物だけど、クロスケなら入るはず。
「これ着て、その中に尻尾入れて。」
「えー…。」
「えーじゃない!」
渋々着替え始めるクロスケ。
その途中で、ぴたりと動きが止まった。
「…なに?」
「これ、どうやって着るの。」
「は…?」
見れば、セーターを上下逆に持っている。
「いや、それはさすがにわかるでしょ!?」
「わかんない。」
「嘘でしょ…!?」
この子、服の着方も知らないの…?
いや元々猫だから当然なのかもしれないけど、現実として目の前に突きつけられるとしんどい。
ていうか、だとしたらその黒パーカーは一体どうやって着たんだ…人間になったとき既に身に付いてたのかな…?
「貸して。こうやって、頭通して…腕はここ。」
「…狭い。」
「サイズ合ってないのは我慢して!」
なんとか着せ終えた頃には、すでに朝の余裕は消えていた。ふと時計を見る。
「やばっ…!」
完全に遅刻コース。
「私、仕事行かなきゃだから。」
「え、やだ。」
「またそれ!?」
「ひとりやだ」
また、即答だった。
そして、袖をつかまれる。ぎゅ、と。
「……」
言葉が詰まる。
どうしよう、困る。すごく困る。
でも、その顔は反則だと思う。
昨夜と同じ、あの不安そうな目。
「…すぐ帰るから。」
「どれくらい。」
「夕方?」
「長い。」
「長いけど!」
はあ、と息をつく。
ここで甘やかしてはダメだ。
「いい?家から出ないで。鍵も開けない、知らない人が来ても無視、火は使わない。」
「うん。」
「ほんとにわかってる?」
「…たぶん?」
「たぶんじゃ困る!」
頭を抱えたくなったがもう時間がない。
「とにかく大人しくしてて、帰ってきたらちゃんと話聞くから。」
「……」
クロスケはしばらく黙っていたけど、やがて小さく頷いた。
「…待ってる。」
その一言に、また心が揺れる。
ほんとに、この子はずるい。
「…行ってきます。」
玄関のドアを閉める直前、もう一度振り返ると、クロスケはそこに立ったまま「気をつけて」と言うようにこちらを見ていた。
まるで、本当に“家族”みたいに。
――その日、私は仕事中ずっと落ち着かなかった。
ちゃんと家にいる?
勝手に外に出てない?
ガス使ってないよね?
ていうかそもそもなんなのあれ。夢じゃないよね?
ミスをしないのが精一杯だった。
「どうしたんだ今日、ぼーっとしてるぞ。」
「す、すみません…。」
上司の声もどこか遠い。
時計ばかり気にして仕事は全然進まない。
結局、定時ぴったりに退社してほぼ走るように帰った。
「ただいま!」
勢いよくドアを開ける。
すると――
「おかえり」
すぐに返事があった。
リビングの真ん中、クロスケが座っている。
…床に。そして。
「…なにしてるの。」
「待ってた。」
「それは見ればわかる!」
部屋の様子を見て、私は絶句した。
テーブルの上には開けられたパンの袋、とカス。
床にはクッションがいくつも転がり、カーテンは半分外れかけている。
「これ、全部クロスケ?」
「うん。」
「うんじゃないの!」
「あと、お腹すいた」
「さっき食べたでしょ!?」
「それ朝。」
「あぁ…それはそうだけど〜!」
頭が痛い。二回目。
でも、クロスケは悪びれる様子もなく、こちらを見上げる。
「待ってた。」
またそれを言う。
その一言で、怒る気が少しだけ削がれるのが悔しい。
「…はあ。」
深く息を吐いて、キッチンに向かう。
「とりあえず、ごはん作るから。」
「ほんと?」
「ほんと。」
ぱっと顔が明るくなる。
…ほんとに猫みたい。いや、猫なんだけど。
「人間のごはん、ちゃんと食べ方教えるから。変なことしないでよ?」
「変なことってなに。」
「それはこれから教える!」
フライパンを手に取りながら、私は思った。
この子との生活、絶対大変だ。
でも…少しだけ、楽しいかもしれない。
そう思ってしまった時点で、もう手遅れなのかもしれない。
