悪徳のススメ

「──とは言え、悪行って何からしたら良いのかしら」

 七回目の逆行した朝を慣れた様子で迎え、起こしに来た侍女の手伝いで身支度を整えて軽めの朝食を済ませたビアンカは、部屋で一人考え続けた。
 悪事というのは大なり小なりあれど、上手くやるにはまずは順序というものを考えて経験を積まなければならない。
 何のビジネスもしてない自分にいきなり横領だとか出来るはずもない、という事だ。

「あ、そうだわ」

 そして何をしようかと思案する中で、ふと前世の自分に掛けられた冤罪の数々を思い出した。
 それはビアンカが友人だと思っていた人間だったり、まったく名も知らぬ相手だったりと、実に色々な人間の口から語られるもので、皆、悪行の裏付けのようにビアンカが普段からどれだけ傍若無人で手の付けられない我儘な令嬢であったか実に熱心に説明するのだ。
 さすがに六回も裁判で同じ話を聞かされたら内容だってすっかり覚えている。
 当然それらについて身に覚えはかけらもないが、時系列でいえばあと二ヶ月程で学園に入学する頃合いであるし、せっかくだからそこから事実にしてしまうとしよう。
 悪行を重ねると決めたが、何からやるか一から考えるのは面倒くさい。
 学生相手にやる事などたかが知れているとはいえ、手頃な悪行を積むにはちょうど良いだろう。
 学園を牛耳る悪女リンハルト侯爵令嬢。うん、いかにも悪行を重ねそうで語感だってなかなか良い。
 そうだわ。ついでに悪女っぽいメイクや髪型も研究してみようかしら。
 ビアンカはつらつらとそんな事を考えて、入学式の日をそれなりに楽しい気分で待ったのだった。


 ──そして迎えた学園入学式の当日。
 ビアンカは、今生でも変わることなく一ヶ月前に正式に婚約者となったヴィルヘルム・ヨアヒム・クラインベック王子殿下と共に、王家の専用馬車で学園へと向かっていた。
 毎回の事だが、この時点ではヴィルヘルムはまだキャロルと出会っておらず、ビアンカにも婚約者として節度ある態度で接してくれる。
 緊張していないかだとか、馬車に酔っていないかだとか、気遣う言葉も度々掛けてくれるのだ。
 ビアンカは待ちに待った入学式への興奮からわずかに頬を紅潮させながら、王子からの言葉の一つ一つに律儀に頷いては気遣いに感謝する言葉を述べる。
 初回以外の学園入学を免れなかった人生では、学園への道中といえば、これからの展開に対する緊張からかひどく胃痛がしていて王子が心配して馬車を停めようと言い出すほどの顔色だったが、今回のビアンカはピカピカツヤツヤの健康そのものである。
 強いて不満点をいうのなら、この日の為に研究を重ねた悪女メイクを試してみたかったのに、色素の薄いビアンカは柔和な顔立ちもあいまってキツ目のメイクが全く似合わなかった事だ。
 見た目から悪女オーラを出す事が叶わなかった点は非常に悔やまれる。
 けれど、そんな事よりもまず目の前の現実だ。

(あぁ! わたくし、もう何月何日のどのタイミングで誰に会って何をするとか、キャロルに接触しようと手を回したり奔走したりだとか、そんな事一切やらなくて良いのだわ!)

 悪行の証拠捏造を回避する為のアリバイ証明や周りの人間との関係性の改善にと、学園内をあれこれ駆け回っては一喜一憂する必要がないのは素晴らしい事だ。
 とはいえ、そんな努力をしたところで、あの忌々しい裁判では魔法による偽証だと言われて無かった事にされてしまうのだが。
 それをさて置いても、ビアンカは週の半分は学園での授業を終えたらすぐに王子の伴侶となる為の勉強、通称・妃教育を受けに行かねばならないという、なかなかに忙しい身の上だ。
 これまでの人生で同じ事を何度もやったので、これから受ける事になる妃教育の内容はしっかり記憶しているが、悲しいかなそれはビアンカにしか通じない事情であり、今生でも結局拘束時間は変わらない。
 でも今回はこれまでの人生とは違い、少ない自由時間をやりくりしてあくせく過ごす必要はなく、学園での時間は自分の好きにしていいというのはビアンカにとって希望の光だった。
 これまでの人生であれだけ駆けずり回ってあれこれ手を回したというのに、最後に用意されるのが処刑台では時間効率もコストも悪過ぎるし、疲れるばかりで絶望しかない。
 やらなくて良いならそれに越した事はない。
 思いきり伸び伸びと学生生活を送らせてもらうとしよう。

 さぁ、今回の学園生活は何をしようか。
 学生用のカフェでゆっくりするのも良いし、図書館で読書を楽しむのも良いだろう。
 とりあえず在学中に機会を作ってキャロルを二、三発平手打ちくらいはしてやりたい。
 何せ今生のビアンカは悪女になると決めたので、悪女らしく暴力沙汰を起こしても良心は何ら咎めない。
 そうそう、友人のふりをして後にビアンカを裏切るあの間者共には、こちらも気を許すふりをして、裏でさっさと実家の家業を破綻させてやろう。
 ついでに後々キャロルの取り巻きになる令嬢達の実家の立ち位置をほんの少し危うくさせて、学園に残れるかどうかの瀬戸際にいる姿を見物するのも楽しいかもしれない。
 その程度の事なら自分の持つ権力だけでどうとでもなる。
 ビアンカは王家の次に権力を持つ侯爵家の令嬢であり、現時点では王子の婚約者だ。
 そもそも既に個人の資産だけでもそれなりのものである。
 今までは貴族たるもの資産や権力を私利私欲のために振りかざすべきではないと、そのような悪辣な手段は一切取らなかった。
 だが、悪行を重ね悪役に徹すると決めた今では、これまでの鬱憤を晴らす為だけに悪意をそのまま形にする事だって厭いはしない。むしろ今生では推奨される行為である。
 品行方正でいる必要もなければ、貴族としての義務を果たす必要も、淑女として理性的に上品に慎み深く振る舞う必要もない。
 そもそも、どうして今までの自分は、身の程を弁えない愚か者共に情けなど掛けていたのか。

 ──ビアンカ・コルドゥラ・リンハルト侯爵令嬢は、普段表にこそ出さないが、しっかりばっちり悪女の素質を持つ、実に上位貴族らしい考えと冷徹さを持つ令嬢であった。

(ふふ、持つべきものは地位と権力と資産ね!)

 他者の顔色を窺う事なく好き放題にやれる学園生活なんて初めてだと、くふくふと機嫌良さそうに笑うビアンカに、向かいの座席に座っていたヴィルヘルムもつられたように小さく笑う。
 その笑顔を見て、ビアンカはあらと目を瞬かせた。
 ヴィルヘルムがこんな風に笑ったのを見たのは、七度目の人生にして初の事だった。
 自分に向かって優しく微笑みかけるヴィルヘルムがなんだか眩しく見えて、ビアンカはそっと長い睫毛を伏せたのだった。

 その後、二人は恙無く入学式を終え、事前に配られていたクラス表に従って同じ教室へと向かう。
 二人で歩いてはいるが、校内には身を潜めた護衛がそこかしこにいるし、校外には周囲への牽制を込めた警備兵がこれ見よがしに配置されている。
 ビアンカとヴィルヘルムのクラスが同じなのも警備の関係だろう。
 そんな事を思いながら勝手知ったる校内をスタスタと歩くビアンカに、ヴィルヘルムが驚いた顔をした。

「君は建物内の地図がもう頭に入っているのか?」
「え?」

 そりゃあもう何年もここに通っておりますもの。
 喉まで出かかった言葉を笑顔で飲み下し、ビアンカは令嬢らしくふわりと微笑んで答えた。

「えぇ。殿下を案内して差し上げたくて」

 心にも無い全くの嘘だったが、悪を貫くと決めたビアンカは嘘をつく事に全く抵抗がなかった。
 感心した様子のヴィルヘルムを連れてそのまま進めば、キャロルと邂逅する曲がり角が見えて来る。
 何度かタイミングを変えてみても絶対にここで邂逅するので、ビアンカは諦めてヴィルヘルムと共に廊下を進んだ。嫌な事はさっさと済ませてしまうに限る。
 感知魔法を使用し、見慣れたふわふわの金髪が飛び出して来るのを察知するのと同時に身体強化魔法を展開する。
 そしてビアンカはさっとヴィルヘルムの一歩前に出て、キャロルに偶然を装った渾身の体当たりをかました。
 ぶふぅ!と奇妙な声を上げてキャロルが吹っ飛び、ビアンカはビアンカでそれっぽくよろめいて見せたりなどすれば、ヴィルヘルムがパッと手を伸ばしてビアンカの身体を支えてくれる。

「ビアンカ! あ、いや、リンハルト侯爵令嬢。大丈夫か」
「え、えぇ」

 今、名前を呼ばれた? まだそんな時期ではないはずだが一体何故?
 特大のクエスチョンマークを頭上に何個も浮かべたビアンカは、キャロルがまだ廊下に倒れているのを見て一気に冷めた目になった。
 廊下に倒れているキャロルの姿は、何だか手負の虫が蠢いているような不様なものであったからだ。あれだ。芋虫に似ている。
 ふ、と冷笑を浮かべてビアンカは口を開いた。

「まぁ。学園内の廊下をそのように走るだなんて、とても元気のよろしい方ね。ところで入学前に規則の類は確認していらっしゃらないのかしら? 随分と危機管理への認識が穏やかな方なのね」

 ビアンカの言葉に、キャロルは顔を上げてキッとビアンカを睨み付ける。

「何よ。危ないのはそっちじゃない。私はあなたにぶつかって倒れたのよ」

 謝りなさいよと言外に滲む言葉に、ビアンカはますます笑みを強めて言った。

「だから何だと仰るのかしら。規則を守らず廊下を走り、結果あなたが勝手に転んだのでしょう。自業自得だわ。それに、たまたま私は倒れなかったけれど私でなければ殿下にぶつかっていたし、もしかしたら殿下がお怪我をなさったかもしれない。そうなったら一大事よ。ほら、理解したなら己の軽率な行動を恥じて謝罪なさい。わたくしは寛大だから、この場はそれで許して差し上げてよ?」

 前回までのビアンカだったら、こんな高圧的な言い方をしたりなどしなかった。
 けれど相手の好感度や周りにどう見られるかなんてもう関係ない。言いたい事を言ってやる。あぁ、何てスッキリするのかしら!
 ビアンカはしばらくキャロルからの謝罪を待っていたが、キャロルは唇を震わせながらビアンカを睨むばかりだったので、小さく溜め息を吐いておろおろと一部始終を眺める事しか出来なかったヴィルヘルムへと振り返った。

「お待たせして申し訳ありません、殿下。この方どうやら上位貴族への謝罪の言葉をご存知ないようですわ。これ以上は時間の無駄ですから教室へ参りましょう」
「あ、あぁ」

 我に返ったヴィルヘルムがビアンカに腕を差し出しエスコートしながら歩き出せば、廊下に座り込んだままのキャロルがすかさずヴィルヘルムに縋ろうと腕を伸ばす。
 だが、それを許すビアンカではない。
 ビアンカはダンスのステップでもなぞるかのように、キャロルの伸ばしたその腕を軽やかに蹴り上げて優雅に笑った。
 こういう時コルセットの要らない学園の制服というのは、ドレスよりもずっと軽くて動き易い。
 厳密に言うのなら、あのウエストをギチギチに締め上げるコルセットの代わりに、柔らかいボーンを入れたビスチェを装着している。
 コルセットのようにはいかないが、それでもそれなりにウエストラインを美しく見せてくれるのだ。
 こんなに機能的だなんて制服とは素晴らしい叡智の結晶だわ、としみじみと感じたビアンカだったが、やるべき事はやらねばとキャロルへと視線を向けた。

「あらあら、ごめんあそばせ。わたくし脚が人より長いものですからぶつかってしまったけれど、勿論わざとではないのよ。わかって下さるわよね?」

 最早悪意しかない言葉にキャロルは怒鳴り返そうと口を開きかけ、しかしすかさずビアンカが控えていた護衛に合図を送り彼らがビアンカ達とキャロルの間に割って入ったため、結局彼女はこの時ヴィルヘルムと言葉らしい言葉を交わす事が出来なかった。
 これはビアンカにとっては快挙である。
 キャロルの初邂逅を台無しにしてやったし、平手打ちは出来ずとも腕を蹴り上げてやったのは本当にスッキリした。
 初夏の高原の風のようにこの上なく爽やかな気分で、ビアンカは改めてヴィルヘルムのエスコートを受けて教室へと向かう。

(ふふ、わたくしったら自分で思っているよりずぅっとあの娘のことが嫌いだったのね)

 考えてみれば、正直苦い記憶しかないのだからそれも当然だ。
 学園生活後半、ヴィルヘルムの腕に自らの腕を絡ませて笑顔を浮かべるキャロルの姿が脳裏に蘇る。
 あれは絶対にビアンカに見せつけるための行動だった。

(大体平民上がりの小娘が、このわたくしにあんな態度を取るだなんて、到底許されることではなくてよ)

 身分の高いものが声を掛けてはじめて挨拶が許される、というのが貴族の基本的なマナーである。
 学園内では身分を問わず学友となる事が許されるとはいえど、それは身分差やマナーを蔑ろにして良いという事ではない。

(ふん。弁える事を覚えるのね。あぁ、でもあの方お勉強は苦手だったわね。小鳥のような可愛らしい大きさの脳みそでは覚えるのも少々難しいかしら)

 くすりと喉の奥で笑うビアンカに、ヴィルヘルムは歩みを止めないまま真剣な表情で言った。

「リンハルト侯爵令嬢。今後、先程の娘のように君に絡んでくる令嬢がいるかもしれない。どうか充分注意してほしい。君は美しくて聡明だから、いらぬやっかみを受ける事もあるだろう」
「え?」

 幻聴かとビアンカはぱちりと薄紫色の目を瞬かせてヴィルヘルムを見遣った。
 今、ヴィルヘルムは何と言った?
 そんな事これまで一度だって言われた事がない。
 きょとんとしているビアンカに、ヴィルヘルムは焦れたように眉を寄せ、ビアンカの手を握って続けた。

「この学園内には護衛も配置されているが、くれぐれも油断しないでくれ。そして出来る事なら私の側にいてほしい。……私が君を守れるように」

 そこまで聞くとビアンカはこれが幻聴でないと判断出来たが、思わずぽかんと口を開けてしまった。
 この人は本当にヴィルヘルムだろうか。
 これまでの人生において、婚約者でありつつもビアンカにさしたる興味を見せず、ビアンカという婚約者がありながらキャロルとよろしくしていた、あのヴィルヘルムだろうか。

「リンハルト侯爵令嬢、何故私の額に手を当てている?」
「……失礼しました。お熱でもあるのではと思ってしまって」
「体調は良好だが」
「そのようですわね」

 いっそ熱でもあってくれたらわかりやすくて良かったのに。
 ビアンカは思ったが口にはしなかった。
 そしてそこでふと気が付いた。

(そうだわ。キャロルと接触するまではヴィルヘルム様はわたくしを婚約者として扱って下さっていたのだから、キャロルと接触しなかった今回はいつもより婚約者モードが持続しているのね)

 なるほど、とビアンカは自己解決して小さく頷き、その頷きをヴィルヘルムは己の言葉に対する了承と受け取った。
 いっそ見事ともいえるレベルのすれ違いである。

 兎にも角にもビアンカは、七度目の人生での学園生活をなかなか幸先良くスタートしたのだった。