「じゃあ私の名前、思い出せますか?」
彼女が不安そうに首をかしげたらひんやりした風が吹いて、どこからか金木犀の香りと、シャンプーの匂いがした。
「ねぇどんなシャンプー使ってんの? なんでそんな甘い匂い……ってなんでこんな馴れ馴れしいこと言ってんだ俺は……!」
質問には答えないくせに、なんの助走もなく失礼なことだけ口走るなんて。
青ざめて頭を抱えたら、初めて彼女はくすくすと笑ってくれた。
「名前、教えてください。手のひらに書いてください。漢字、教えてほしいんです」
目の前に白い小さな花が咲いたのかと思った。緊張で胸がえぐれそう。
ドキドキしながらゆっくりと、その手に自分の名前を書いた。
名前を書き終えたら、暗い部屋にパチンと音を立てて明かりがつくくらいシンプルに、彼女のことを思い出した。
指先を見ていた彼女はふいに顔を上げて、潤んだ目でまっすぐに俺を見た。
「私、あなたの名前をずっと呼んでました。さっきの体育館でだって、心のなかでだって、夢の中でだって。璃央君にただ気づいてほしくて」
それは「思い出す」とか「忘れてた」なんてものじゃなかった。
ただひたすらに、俺が探し続けて会いたくて仕方のない人の名前だった。
「……それ聞こえてた、いつも」
その瞬間、失くした気がしてた空白の部分に、ぴったりとピースがはまった。
「俺の話も聞いてほしいんだけど、いい?」
「はい」
息を飲む。
晴れやかな顔で彼女が微笑む。
「どうしても振り向かせたい人がいたんだ。向かい合って目を見て言いたいことがあって……でも言えないのがずっと辛かった」
意識のない期間を例えるなら、それは真っ白なただの虚空だった。でもそこにはいつだって、彼女の声が響いていた気がする。
「いつか堂々と抱きしめにいくって約束したこと、今果たしたしてもいい?」
彼女の両手をゆっくり手に取った。
「抱きしめかた、知ってるの?」
「知ってるよ、教えてもらったから」
そのまま彼女をそっと抱きしめた。
「……羽奈、すっげー会いたかった」
名前ならとっくに知ってる。
抱きしめかたも誰かを想うって気持ちも、全部君に教えてもらったんだ。



