翌朝、個室に備え付けられた洗面所の鏡で私は絶望した。
頬にポツンと灰色の箇所があって。いや、汚れているだけかも。
冷水でごしごし洗った。その箇所を重点的に。でも、いくら洗ってもそれはあった。
気持ち悪い。自分の顔だけれどそんな感想を持たずにはいられなかった。もう鏡を見たくないし、ましてやこれを行流に見せるなんて。
タオルで顔を急いで拭き、マスクを装着する。もう一度鏡の前に立つと、ちゃんと隠れていて一安心。
それから両親が来て不思議がられたから仕方なく外すと、二人とも顔には出していないけれど、身体はびくっと震えていた。
おかしい。その反応からわかった客観的な感想だった。
「けい、今日はサンドイッチ持ってき……マスク、どうしたの?」
「あ、ちょっと咳出てて……コホン」
信憑性を高めるために咳真似をする。いい出来、と思ったら彼が不安げに眉を下げていて、後ろめたさでいっぱいになった。
「サンドイッチ、あとで食べてもいいかな? うつしちゃうと悪いし」
「うん。わかった……明日感想聴かせて」
「もちろん」
本当は今すぐ食べたい。こんなマスク外して。美味しいって、一秒でも早く伝えたいのに。
ごめんね。心の外にも内にも呟いたそれをまた繰り返し唱える。
それから彼が明るい話を振ってくれる。昨日と同じ距離感で。なのにどうしてか、昨日よりも遠くから彼の声が聞こえた気がした。
「じゃあね。また明日」
「うん。また明日」
まったく同じ帰り際の挨拶。でも意味合いは違う。
今度は祈りのように。神様にお願いするときみたいな。
とんっと扉の閉まる音をしっかり聞いてから、彼が置いてってくれたサンドイッチに触れた。
ふんわりとした感触が指を越えて全身に広がる。口に入れると、やっぱり美味しい。ありきたりだけど、その言葉しか浮かばない。
明日伝えたら、他に感想ないのかよって突っ込まれるかな。いや、そもそも明日があるって希望を抱いちゃいけないんだった。
私は普通じゃないから。石になってただ終わりを待つだけ。
もう、明日なんて信じられない。
そして本当にその通りだった。
次の朝、それは瞼やこめかみにも進行していて。自分が普通じゃなくなってゆくのを視覚で理解できた。
マスクでは隠せない。なら、もう……。
「けい」
夕方を感じさせない明るい放課後の時間帯、昨日、一昨日のように行流はやって来てくれたけれど。
「カーテン開けないで。お願い」
「なんで?」
「風邪、うつしちゃうから……」
「だったら、昨日みたいにマスクすればいいだろ。おれもマスク持ってきたから顔見せてくれても……」
「やめて! とにかく開けないで」
思わず声が張り上がる。わかったと小さく呟く彼の声がした。
カーテンの向こうにいるから彼の顔が見えない。今どんな表情をしているのかな。わからない。でも一つだけわかることがある。
絶対笑ってない。それだけは確信が持てた。
「サンドイッチ、おいしかったよ」
重い空気を振り払おうと、話題を変える。またその感想?って反応を期待していたけれど。
「そう。よかった」
思ってたのとは違う返しだった。かえって重い空気作りを助長させてしまったみたい。
箱を返そうと、カーテンの隙間からそれを出したとき、違う素材の感触が肌を滑った。
重みのあるそれをカーテンの中へ引き入れると、お弁当がまたそこにあった。
「明日、感想教えて」
「ちょっと待って。今食べる」
決して食事シーンを見せることはできないけれど、マスクと違って彼の前で食べることはできる。
それが今私が彼にできること。
「いただきます」
ちゃんと手を合わせて食べ始める。今日はふりかけのかかったごはんとおかずが入っていた。おかずには所々冷凍食品と疑わざるを得ないものもあったけれど、それも彼が用意してくれたものだと思うと、自然に笑みが溢れてしまう。
少なくともその冷凍食品を選んでいる間は私のことを考えてくれているってことだから。
「どう?」
「うん、おいしい!」
よかった、今日は伝えられた。やっぱりありきたりな感想しか言えないけど、すぐに浮かんだ気持ちを彼に届けられて。
「よかった」
カーテン越しでも彼が安堵しているのを想像できた。
だけど……。やっぱり会いたいな。どんな表情と仕草をしているのか、予想するだけじゃなくてその答え合わせをしたい。一目でいいから。
指が伸びてカーテンに触れたとき、我に返って慌てて引っ込める。自分の顔が今、どういう状況か思い出して。
それからまたいつも通り、他愛のない会話が始まる。声だけでしか彼を感じることができないから、耳で丁寧に音を拾ってゆく。
明るい会話ばかり。私のこととか、病気のことを避けて。いちいち思い出さずに済むけど、逆に気遣われているようで申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
思えばずっと彼に迷惑かけてばかりだった。しかももうすぐ消えてしまう私なのに、どうして。
「いくるはどうして一緒にいてくれるの? わたし、迷惑かけてばっかりだし、もうすぐいなくなっちゃうのに」
せっかく明るい話題を振ってくれているのに、彼の気遣いを一瞬で無駄にした。でも、どうしても聴きたくて。怖いけど彼の本音を。
「……好きになったから」
しばらくの沈黙のあと、ぽつりそう聴こえた。それから。
「サッカーできなくなって落ち込んでたあのとき、そばにいてくれたのはけいだった。辛いときに一緒にいてくれて好きにならないわけないだろ!」
「……いくる」
「だから今度はおれがけいのそばにいてあげたい。ううん、そうしたいんだ」
彼のまっすぐで温かな気持ちが伝わってきて身体の温度が上がるのを感じた。窓から差し込む西日よりも高い気がする。
カーテンに目がいってしまう。彼に会いたくて。でもやっぱり諦める。
病気のことも余命のことも知らせた。なのに、顔がどうなっているかはどうしても教えられない。
もうすぐ石になって私は消えてしまう。だからこそ残したかった。石になってゆく私じゃなくて、まだなんの病気にもなっていない私の記憶を。
ごめんね。
普通の彼女になれなくて
一緒に高校生になれなくて
一緒に年を取れなくて
紅葉を見る約束も守れなくて
たくさんのごめんで心が窮屈になる。逃がしてあげたいけど、彼がきっと困ってしまう。だから代わりに。
「ありがとう」
こんな私のことを大切にしてくれて。
できる限りの笑みを浮かべて。カーテンの向こうの彼も同じ表情をしていますように、と祈りながら。
「おはようご……」
看護師さんの声で目が覚める。それで、自分が久しぶりに安眠できたんだと密かに喜んだのも束の間、看護師さんの挨拶が途切れたことに疑問に思いながら返事をしようとしたとき。
『おはようございます』
それは自分にしか届かないものだった。声が……。
どうして、とも呟けない。目の前の看護師さんが慌てて病室を飛び出す。私のほうをじっと見てからのその動き。そしてなにより、声が出せないこの状況。もう、嫌な予感しかない。
「けい、今日はお菓子作りに挑戦したんだ。けいがおれに初めて作ってくれたクッキーにしてみたんだけどって……なにか返事しろよ」
すっとカーテンの隙間からルーズリーフ一枚差し出す。もうこれしか、気持ちを伝える手段がないから。
紙の感触が消える。静まりかえって、たった数分の時間のはずなのに、どうしてか私には一晩に感じた。そんな時間がすぎて。
「はぁ? なんでそうなるの?」
怒りに満ちた荒い声。彼らしくない、でも予想してた。私の病気と向き合うと決意してくれた彼ならって。
私は筆を動かした。本当は口ですぐに伝えたいけれど、私にはもうできない。
だって、私の石化は口にも及んでしまったから。
口が石化して、もうお話もできないし、ごはんも食べられない。だから行流としゃべることも、行流のお弁当を食べることもできない。
楽しかった。行流と会話するの。患者なのに行流と話しているときだけは普通の中学生になれた気がして。
美味しかった。行流のお弁当。無限にお弁当の中身が増え続けたらいいなって思うくらいに。
でも、もうできない。だからお願い。病気のこと打ち明けといてこんなこと頼むなんて自分でも最低だってわかってる。そばにいたいと言ってくれた君にひどいことだと。それでも。
もう、お見舞いに来ないでほしい。
そうルーズリーフに記した。わがまますぎるお願いだから、怒るのも当たり前。知ってた、だから。
『会うのがもう耐えられない』
最低。でも、限界で。
「……わかった」
ぽつりそう彼が呟いた。なにも話さないで起こる沈黙よりも静かな声で。とんっと音がしたことで彼がこの部屋からいなくなったことに気づいた。
視界がぼやけてゆく。頬に滝ができてクリアになると、眩しすぎる西日が目を刺した。でもそれさえも愛おしい。涙もあと何回流すことができるのだろうって考えれば。
それからもう彼が来ることはなかった。うるさすぎる蝉時雨が窓を通り越して降り注ぐだけ。
たくさん願った。もう神様に頼るしかない。都会の大きな病院をいくつも回ったけど、そこに私の病気を治せるお医者はいなかったから。
探せばもしかしたらいるかもしれないけど、そんな時間、私にはなかったらしい。蝉時雨が降り始めた頃、症状が悪化して。
最初は何箇所かが石化するという感じだったけど、もうそんな見方はできないほどに確実に。なにより、石化した場所を動かすことが困難になった。腕も指も足も、お腹や顔だって。
だからもう歩くことも、自力で起き上がることもできない。ごはんも腕を動かせなくなってから、看護師の助けが必要になった。彼が手作りのお弁当を持ってきてくれたとしても、またすぐに食べれなくなったのが辛くて、カーテンがあるからと静かに泣くこともあった。
でもそれだけなら、まだよかったよ。顔の石化が口にまで及んで動かせなくなった。それからは点滴でしか
心の中でそう呟いたから、カーテンの向こうにいる彼に届くことはない。
面会時間ぎりぎりまで彼はいてくれた。じゃあね、という挨拶が怖い。もっといてほしい。でもそれじゃあ迷惑になる。その二つが板挟みになって苦しい。
話している間に夕陽は姿を消していて、代わりに暗色が空を染めていた。この頃私が一番見ている空の色。
今日もきっとそう。暗い外を眺めながら、この現実に怯える。もう永くない命、できないことが増えてゆく毎日、大切な人と近いうちに二度と会えなくなる、私の頭にはもうそれしかないから。たとえ彼が来てくれたとしても。
私の症状は思ったよりも進行が早いらしい。夏の終わりが期限だと言われたけれど、八月に入ってほとんどの身体の部位が石で覆われた。唯一、足先と指の人差し指と親指にはまだ本来の肌色が残っているくらい。
もう歩くことも、腕を扱うこともできないから勉強だってできない。今じゃ、勉強することすら、幸せなことだったと思える。
もし元気だったなら、きっと今頃、行流と学校に通っているんだろうなぁ。夏休みに学校なんて怠いねなんて私は呟いて。そしたら彼はこうでもしないとけいは勉強しないだろ、とツッコミを入れて、それで二人して笑い合うんだ。
そんなもしもを考えて、苦しくなる。だけどそれで私はもう涙すら流せない。なぜか視覚だけは残っているから、皮肉にも自分が変わってゆくところは見えてしまう。
「桜庭さん、散歩に行きましょう」
『はい』
はきはきと話す看護師さんに心の中で言葉を吐いてから、身体を車椅子へ移される。廊下に出ると、たくさんの人が私に視線を向けた。全身石だらけで気持ちが悪い、そんな目つき。自分のように病気に苦しむ患者さんまでも。
だけどやめない。病気が始まった頃では想像できなかったこと。最初はこの症状を誰にも見られたくなかった。こうやって好奇の目にさらされるのが。
でも今は違う。少しでも目に焼きつけたくて。目に映る美しいものも、醜いものでさえも。もうすぐ見れなくなるのならって。
それから病院の中庭へ出たときだった。
「緑色の紅葉もきれいですよね。同じ緑でも濃かったり薄かったり」
看護師さんが声をかける先に紅葉があった。いつかの約束を思い出す。
『紅葉見に行こう』
彼と交わした約束。もう決して果たされない……いや。
コツコツ
車椅子の腕を置く場所を指で弾かせる。そのまま引き返そうとする看護師さんの足が止まった。
「どうしたの?」
すかさず看護師さんが紙とボールペンを渡してくる。今の私との唯一のコミュニケーション方法だから。
すらすらとは書けないけど、懸命に動かす。わがまますぎるお願い。だけど、それを書かずにはいられなかった。
「無理だよ、桜庭さん」
やっぱり看護師さんはそれを聞いてくれない。でもこっちだって引きたくない。車椅子の後ろへ移動しようとする看護師さんの服を摘んだ。
明らかに困惑して様子。さっきまでの人懐っこい笑みは浮かんでいない。
私の学校に連れて行ってください、そう書き連ねたから。念を押すためにお願いします、と書き加えてみる。すると、はぁと看護師さんはため息を漏らす。めんどくさい、ダメに決まってるでしょのサインだと思ったけれど。
「わかった。主治医とご両親に相談してみるから、とりあえず部屋戻りましょ」
それから病室でひたすら返事を待つ時間。行流に会えるかもしれないと思えば余計に長く感じた。朝早めに散歩してはずなのに、気づけば南の空に太陽は昇っていて。このまま夕方になってしまう、そう思った頃にとんっと扉の開く音がした。
さっきの看護師さんに、私に絶望を伝えた主治医、そしてお母さんとお父さん、みんな勢揃いしていて。
「けい、本当に学校行きたいの?」
開口一番、お母さんがそう訊いてきた。頷けない私は常に机の上にある紙にボールペンを走らせる。
『行きたい!』
「どうして? 見せたくないでしょ、今の姿。病院とはわけが違う。学校の生徒みんなにさらされるんだよ? いくるくんにだって……」
『それでもいくるに会いたい』
ずっと思ってたことをお母さんに伝えた。確かにこの姿を一番見られたくないのは行流。でも私が一番見たいのは行流だから。
私のことを想って彼は来なくなった。優しくて、私のことを大切にしてくれる彼だからこその行動。本当はずっとそばで支えていたかったはず、それは自惚れかもしれないけど、でも私だったらそうしたかった。大事な人が残り少ない命なら一緒にいたい。だけどそれすらも私は許さなかった。その上、今度は会いたいと。ほんと最低だ。誰もが口を揃えてそう唱えると思う。
だけど見つけたんだ。そんな私が最後に彼にしてあげられることを。
「……わかったよ。その代わりみんなで付き添うからね」
困ったように偽物の笑みを浮かべるお母さん。私も頬に力を込めてみた。形にすらならないだろうけど、わずかでも笑っているように見せたくて。
お医者さんや看護師さんまで乗せた車は窮屈で、だけどすごく新鮮だった。そもそも病院から出ること自体、久しぶりで。
お父さんが運転する間、車の窓をずっと見ていた。後ろへ後ろへ流されてゆく色とりどりの景色を。それだけで固まった胸が砕けるくらい弾んだ。でも、同時に身体の石化を実感するくらい落ち込んだ。
薄だいだい色だったり、小麦色だったり、そんな人を思わせる肌の生徒たちが目に映って。
あなたはもう人に戻れない。そう言われている気がした。
だけど、ここで怯んでいられない。行流に会いたいから。
あっという間に窓が学校を映し出す。正真正銘私の中学校。
幸か不幸か生徒が少ない。もう彼が講習を終えて帰った可能性は限りなく高い。でも、生徒の数は少ないから好奇の目にさらされる心配も低い。
「本当に行くの?」
最後の確認でお母さんが訊いてきた。膝に置いてある紙にもちろん私は。
『行く』
彼に会いたい。せっかく来たから、時間が許す限り待ちたい。
小さくお母さんが頷いてくれた。そして車の後ろのほうに乗せた車椅子を外へ出してくれて。
行流に会える。それだけで嬉しい。
お父さんやお医者さんの力で私は車椅子に乗る。それはやがてゆっくりと前へ進み始めた。
彼がまだ学校の中にいるかわからない。でも進むたびに近づいてるって、どうしてか感じた。
『ここで止めて、一人で待ちたい』
回っていた車輪が止まる。お母さんは不思議そうに、でもなにか意味があるのを悟ってくれたのか、潔く離れてくれた。
病院の中庭よりも大きな緑色の紅葉。未だに代わりの石像のない台座。どれも懐かしくて、とっても大切な場所。彼と本当の意味で出逢った場所。
だから、また出逢うとしたらここがよかった。この場所で、大好きな行流に会いたい。
どうか早く来てほしい。来て、行流。
心の中で手を合わせる。神様に祈るように。こんな最低な私だけど、どうか、と。
「ねぇ、いくる。今日もサッカー付き合ってよ」
声がした。確かに今、いくるって。
視線を昇降口へ移すと、息が止まった。
最後に見たときよりも、また少し日焼けしていた。でも間違いない、いくる。その隣は実行委員で一緒だった人気者の男の子。
よかった、本当に仲直りしたんだと安心した。
「え、なんでおれ? お前のほうが上手いだろ。おれブランクあるし」
「大丈夫だって。この間後輩がいってたぞ。いくるは教え方が上手いから、勉強になるって。試合も楽しかったからまたやりたいんだってさ」
「それは、まぁ……嬉しいけど、勉強しなきゃいけないし」
「まぁまぁ。たまには息抜きも大事だよ? はい、行こ~」
「お前はたまにが多すぎだと思うけど。まぁ、いいか。ちょっとだけな」
そう話しながら近づいてくる行流。早く刻みだす鼓動がまだ生きていると、自分が恋する女の子だと教えてくれる。
こんなに緊張したこと、一度だってなかった。
行流がどんな反応を見せるのか。
気持ち悪いって顔にも声にも出すのかな。それとも、会えたことに喜んでくれるのかな。望みはかなり薄いけど。
でも、いい。どっちだって。彼に会えさえすれば。
そして彼の姿がいよいよ目と鼻の先にまで近づいたときだった。
『え……』
どうして。待ってよ。行かないで……行流。私は、ここにいるよ。
彼の背中にそう叫ぶ。なのにそれは小さくなってゆくばかり。
そのまま校門を抜けて二人は別れた。他愛のない話をしながら。あとでグラウンドで合流ね、なんて。
もう身体のほとんどが石だというのに、夏の陽射しは容赦なく私を照りつけた。残酷な真実とともに。
行流は私に気づかなかった。
思えば、当たり前のことだったのに。
「けい。今いくるくん通ったけど、ちゃんと会えたんだね」
お母さんが嬉しそうに私に駆け寄ってきて。久しぶりに、そんな自然な笑みを見た気がした。
この笑顔を崩したくない。でも。
『お願いがあるの』
膝に乗せてた紙とボールペンを操った。
無茶苦茶なのはわかっている。でも、それでも。
緑色の紅葉を見て、決意を固める。自分を襲う石化よりも硬く。
いつか赤くなる紅葉たち。
それを一緒に見るって、約束した。
だから、私は。
『私を台座の上に乗せてください』
最後にごめんなさいと添える。
親不孝で、最後までわがままばかり。だけど、どうしても、この場所に留まりたくて。
景色に興味のない行流ことだから、きっと気づかない。でも、それでいい。
彼との約束を果たせるのなら。
君と巡り逢えたあの景色になれるのなら。
頬にポツンと灰色の箇所があって。いや、汚れているだけかも。
冷水でごしごし洗った。その箇所を重点的に。でも、いくら洗ってもそれはあった。
気持ち悪い。自分の顔だけれどそんな感想を持たずにはいられなかった。もう鏡を見たくないし、ましてやこれを行流に見せるなんて。
タオルで顔を急いで拭き、マスクを装着する。もう一度鏡の前に立つと、ちゃんと隠れていて一安心。
それから両親が来て不思議がられたから仕方なく外すと、二人とも顔には出していないけれど、身体はびくっと震えていた。
おかしい。その反応からわかった客観的な感想だった。
「けい、今日はサンドイッチ持ってき……マスク、どうしたの?」
「あ、ちょっと咳出てて……コホン」
信憑性を高めるために咳真似をする。いい出来、と思ったら彼が不安げに眉を下げていて、後ろめたさでいっぱいになった。
「サンドイッチ、あとで食べてもいいかな? うつしちゃうと悪いし」
「うん。わかった……明日感想聴かせて」
「もちろん」
本当は今すぐ食べたい。こんなマスク外して。美味しいって、一秒でも早く伝えたいのに。
ごめんね。心の外にも内にも呟いたそれをまた繰り返し唱える。
それから彼が明るい話を振ってくれる。昨日と同じ距離感で。なのにどうしてか、昨日よりも遠くから彼の声が聞こえた気がした。
「じゃあね。また明日」
「うん。また明日」
まったく同じ帰り際の挨拶。でも意味合いは違う。
今度は祈りのように。神様にお願いするときみたいな。
とんっと扉の閉まる音をしっかり聞いてから、彼が置いてってくれたサンドイッチに触れた。
ふんわりとした感触が指を越えて全身に広がる。口に入れると、やっぱり美味しい。ありきたりだけど、その言葉しか浮かばない。
明日伝えたら、他に感想ないのかよって突っ込まれるかな。いや、そもそも明日があるって希望を抱いちゃいけないんだった。
私は普通じゃないから。石になってただ終わりを待つだけ。
もう、明日なんて信じられない。
そして本当にその通りだった。
次の朝、それは瞼やこめかみにも進行していて。自分が普通じゃなくなってゆくのを視覚で理解できた。
マスクでは隠せない。なら、もう……。
「けい」
夕方を感じさせない明るい放課後の時間帯、昨日、一昨日のように行流はやって来てくれたけれど。
「カーテン開けないで。お願い」
「なんで?」
「風邪、うつしちゃうから……」
「だったら、昨日みたいにマスクすればいいだろ。おれもマスク持ってきたから顔見せてくれても……」
「やめて! とにかく開けないで」
思わず声が張り上がる。わかったと小さく呟く彼の声がした。
カーテンの向こうにいるから彼の顔が見えない。今どんな表情をしているのかな。わからない。でも一つだけわかることがある。
絶対笑ってない。それだけは確信が持てた。
「サンドイッチ、おいしかったよ」
重い空気を振り払おうと、話題を変える。またその感想?って反応を期待していたけれど。
「そう。よかった」
思ってたのとは違う返しだった。かえって重い空気作りを助長させてしまったみたい。
箱を返そうと、カーテンの隙間からそれを出したとき、違う素材の感触が肌を滑った。
重みのあるそれをカーテンの中へ引き入れると、お弁当がまたそこにあった。
「明日、感想教えて」
「ちょっと待って。今食べる」
決して食事シーンを見せることはできないけれど、マスクと違って彼の前で食べることはできる。
それが今私が彼にできること。
「いただきます」
ちゃんと手を合わせて食べ始める。今日はふりかけのかかったごはんとおかずが入っていた。おかずには所々冷凍食品と疑わざるを得ないものもあったけれど、それも彼が用意してくれたものだと思うと、自然に笑みが溢れてしまう。
少なくともその冷凍食品を選んでいる間は私のことを考えてくれているってことだから。
「どう?」
「うん、おいしい!」
よかった、今日は伝えられた。やっぱりありきたりな感想しか言えないけど、すぐに浮かんだ気持ちを彼に届けられて。
「よかった」
カーテン越しでも彼が安堵しているのを想像できた。
だけど……。やっぱり会いたいな。どんな表情と仕草をしているのか、予想するだけじゃなくてその答え合わせをしたい。一目でいいから。
指が伸びてカーテンに触れたとき、我に返って慌てて引っ込める。自分の顔が今、どういう状況か思い出して。
それからまたいつも通り、他愛のない会話が始まる。声だけでしか彼を感じることができないから、耳で丁寧に音を拾ってゆく。
明るい会話ばかり。私のこととか、病気のことを避けて。いちいち思い出さずに済むけど、逆に気遣われているようで申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
思えばずっと彼に迷惑かけてばかりだった。しかももうすぐ消えてしまう私なのに、どうして。
「いくるはどうして一緒にいてくれるの? わたし、迷惑かけてばっかりだし、もうすぐいなくなっちゃうのに」
せっかく明るい話題を振ってくれているのに、彼の気遣いを一瞬で無駄にした。でも、どうしても聴きたくて。怖いけど彼の本音を。
「……好きになったから」
しばらくの沈黙のあと、ぽつりそう聴こえた。それから。
「サッカーできなくなって落ち込んでたあのとき、そばにいてくれたのはけいだった。辛いときに一緒にいてくれて好きにならないわけないだろ!」
「……いくる」
「だから今度はおれがけいのそばにいてあげたい。ううん、そうしたいんだ」
彼のまっすぐで温かな気持ちが伝わってきて身体の温度が上がるのを感じた。窓から差し込む西日よりも高い気がする。
カーテンに目がいってしまう。彼に会いたくて。でもやっぱり諦める。
病気のことも余命のことも知らせた。なのに、顔がどうなっているかはどうしても教えられない。
もうすぐ石になって私は消えてしまう。だからこそ残したかった。石になってゆく私じゃなくて、まだなんの病気にもなっていない私の記憶を。
ごめんね。
普通の彼女になれなくて
一緒に高校生になれなくて
一緒に年を取れなくて
紅葉を見る約束も守れなくて
たくさんのごめんで心が窮屈になる。逃がしてあげたいけど、彼がきっと困ってしまう。だから代わりに。
「ありがとう」
こんな私のことを大切にしてくれて。
できる限りの笑みを浮かべて。カーテンの向こうの彼も同じ表情をしていますように、と祈りながら。
「おはようご……」
看護師さんの声で目が覚める。それで、自分が久しぶりに安眠できたんだと密かに喜んだのも束の間、看護師さんの挨拶が途切れたことに疑問に思いながら返事をしようとしたとき。
『おはようございます』
それは自分にしか届かないものだった。声が……。
どうして、とも呟けない。目の前の看護師さんが慌てて病室を飛び出す。私のほうをじっと見てからのその動き。そしてなにより、声が出せないこの状況。もう、嫌な予感しかない。
「けい、今日はお菓子作りに挑戦したんだ。けいがおれに初めて作ってくれたクッキーにしてみたんだけどって……なにか返事しろよ」
すっとカーテンの隙間からルーズリーフ一枚差し出す。もうこれしか、気持ちを伝える手段がないから。
紙の感触が消える。静まりかえって、たった数分の時間のはずなのに、どうしてか私には一晩に感じた。そんな時間がすぎて。
「はぁ? なんでそうなるの?」
怒りに満ちた荒い声。彼らしくない、でも予想してた。私の病気と向き合うと決意してくれた彼ならって。
私は筆を動かした。本当は口ですぐに伝えたいけれど、私にはもうできない。
だって、私の石化は口にも及んでしまったから。
口が石化して、もうお話もできないし、ごはんも食べられない。だから行流としゃべることも、行流のお弁当を食べることもできない。
楽しかった。行流と会話するの。患者なのに行流と話しているときだけは普通の中学生になれた気がして。
美味しかった。行流のお弁当。無限にお弁当の中身が増え続けたらいいなって思うくらいに。
でも、もうできない。だからお願い。病気のこと打ち明けといてこんなこと頼むなんて自分でも最低だってわかってる。そばにいたいと言ってくれた君にひどいことだと。それでも。
もう、お見舞いに来ないでほしい。
そうルーズリーフに記した。わがまますぎるお願いだから、怒るのも当たり前。知ってた、だから。
『会うのがもう耐えられない』
最低。でも、限界で。
「……わかった」
ぽつりそう彼が呟いた。なにも話さないで起こる沈黙よりも静かな声で。とんっと音がしたことで彼がこの部屋からいなくなったことに気づいた。
視界がぼやけてゆく。頬に滝ができてクリアになると、眩しすぎる西日が目を刺した。でもそれさえも愛おしい。涙もあと何回流すことができるのだろうって考えれば。
それからもう彼が来ることはなかった。うるさすぎる蝉時雨が窓を通り越して降り注ぐだけ。
たくさん願った。もう神様に頼るしかない。都会の大きな病院をいくつも回ったけど、そこに私の病気を治せるお医者はいなかったから。
探せばもしかしたらいるかもしれないけど、そんな時間、私にはなかったらしい。蝉時雨が降り始めた頃、症状が悪化して。
最初は何箇所かが石化するという感じだったけど、もうそんな見方はできないほどに確実に。なにより、石化した場所を動かすことが困難になった。腕も指も足も、お腹や顔だって。
だからもう歩くことも、自力で起き上がることもできない。ごはんも腕を動かせなくなってから、看護師の助けが必要になった。彼が手作りのお弁当を持ってきてくれたとしても、またすぐに食べれなくなったのが辛くて、カーテンがあるからと静かに泣くこともあった。
でもそれだけなら、まだよかったよ。顔の石化が口にまで及んで動かせなくなった。それからは点滴でしか
心の中でそう呟いたから、カーテンの向こうにいる彼に届くことはない。
面会時間ぎりぎりまで彼はいてくれた。じゃあね、という挨拶が怖い。もっといてほしい。でもそれじゃあ迷惑になる。その二つが板挟みになって苦しい。
話している間に夕陽は姿を消していて、代わりに暗色が空を染めていた。この頃私が一番見ている空の色。
今日もきっとそう。暗い外を眺めながら、この現実に怯える。もう永くない命、できないことが増えてゆく毎日、大切な人と近いうちに二度と会えなくなる、私の頭にはもうそれしかないから。たとえ彼が来てくれたとしても。
私の症状は思ったよりも進行が早いらしい。夏の終わりが期限だと言われたけれど、八月に入ってほとんどの身体の部位が石で覆われた。唯一、足先と指の人差し指と親指にはまだ本来の肌色が残っているくらい。
もう歩くことも、腕を扱うこともできないから勉強だってできない。今じゃ、勉強することすら、幸せなことだったと思える。
もし元気だったなら、きっと今頃、行流と学校に通っているんだろうなぁ。夏休みに学校なんて怠いねなんて私は呟いて。そしたら彼はこうでもしないとけいは勉強しないだろ、とツッコミを入れて、それで二人して笑い合うんだ。
そんなもしもを考えて、苦しくなる。だけどそれで私はもう涙すら流せない。なぜか視覚だけは残っているから、皮肉にも自分が変わってゆくところは見えてしまう。
「桜庭さん、散歩に行きましょう」
『はい』
はきはきと話す看護師さんに心の中で言葉を吐いてから、身体を車椅子へ移される。廊下に出ると、たくさんの人が私に視線を向けた。全身石だらけで気持ちが悪い、そんな目つき。自分のように病気に苦しむ患者さんまでも。
だけどやめない。病気が始まった頃では想像できなかったこと。最初はこの症状を誰にも見られたくなかった。こうやって好奇の目にさらされるのが。
でも今は違う。少しでも目に焼きつけたくて。目に映る美しいものも、醜いものでさえも。もうすぐ見れなくなるのならって。
それから病院の中庭へ出たときだった。
「緑色の紅葉もきれいですよね。同じ緑でも濃かったり薄かったり」
看護師さんが声をかける先に紅葉があった。いつかの約束を思い出す。
『紅葉見に行こう』
彼と交わした約束。もう決して果たされない……いや。
コツコツ
車椅子の腕を置く場所を指で弾かせる。そのまま引き返そうとする看護師さんの足が止まった。
「どうしたの?」
すかさず看護師さんが紙とボールペンを渡してくる。今の私との唯一のコミュニケーション方法だから。
すらすらとは書けないけど、懸命に動かす。わがまますぎるお願い。だけど、それを書かずにはいられなかった。
「無理だよ、桜庭さん」
やっぱり看護師さんはそれを聞いてくれない。でもこっちだって引きたくない。車椅子の後ろへ移動しようとする看護師さんの服を摘んだ。
明らかに困惑して様子。さっきまでの人懐っこい笑みは浮かんでいない。
私の学校に連れて行ってください、そう書き連ねたから。念を押すためにお願いします、と書き加えてみる。すると、はぁと看護師さんはため息を漏らす。めんどくさい、ダメに決まってるでしょのサインだと思ったけれど。
「わかった。主治医とご両親に相談してみるから、とりあえず部屋戻りましょ」
それから病室でひたすら返事を待つ時間。行流に会えるかもしれないと思えば余計に長く感じた。朝早めに散歩してはずなのに、気づけば南の空に太陽は昇っていて。このまま夕方になってしまう、そう思った頃にとんっと扉の開く音がした。
さっきの看護師さんに、私に絶望を伝えた主治医、そしてお母さんとお父さん、みんな勢揃いしていて。
「けい、本当に学校行きたいの?」
開口一番、お母さんがそう訊いてきた。頷けない私は常に机の上にある紙にボールペンを走らせる。
『行きたい!』
「どうして? 見せたくないでしょ、今の姿。病院とはわけが違う。学校の生徒みんなにさらされるんだよ? いくるくんにだって……」
『それでもいくるに会いたい』
ずっと思ってたことをお母さんに伝えた。確かにこの姿を一番見られたくないのは行流。でも私が一番見たいのは行流だから。
私のことを想って彼は来なくなった。優しくて、私のことを大切にしてくれる彼だからこその行動。本当はずっとそばで支えていたかったはず、それは自惚れかもしれないけど、でも私だったらそうしたかった。大事な人が残り少ない命なら一緒にいたい。だけどそれすらも私は許さなかった。その上、今度は会いたいと。ほんと最低だ。誰もが口を揃えてそう唱えると思う。
だけど見つけたんだ。そんな私が最後に彼にしてあげられることを。
「……わかったよ。その代わりみんなで付き添うからね」
困ったように偽物の笑みを浮かべるお母さん。私も頬に力を込めてみた。形にすらならないだろうけど、わずかでも笑っているように見せたくて。
お医者さんや看護師さんまで乗せた車は窮屈で、だけどすごく新鮮だった。そもそも病院から出ること自体、久しぶりで。
お父さんが運転する間、車の窓をずっと見ていた。後ろへ後ろへ流されてゆく色とりどりの景色を。それだけで固まった胸が砕けるくらい弾んだ。でも、同時に身体の石化を実感するくらい落ち込んだ。
薄だいだい色だったり、小麦色だったり、そんな人を思わせる肌の生徒たちが目に映って。
あなたはもう人に戻れない。そう言われている気がした。
だけど、ここで怯んでいられない。行流に会いたいから。
あっという間に窓が学校を映し出す。正真正銘私の中学校。
幸か不幸か生徒が少ない。もう彼が講習を終えて帰った可能性は限りなく高い。でも、生徒の数は少ないから好奇の目にさらされる心配も低い。
「本当に行くの?」
最後の確認でお母さんが訊いてきた。膝に置いてある紙にもちろん私は。
『行く』
彼に会いたい。せっかく来たから、時間が許す限り待ちたい。
小さくお母さんが頷いてくれた。そして車の後ろのほうに乗せた車椅子を外へ出してくれて。
行流に会える。それだけで嬉しい。
お父さんやお医者さんの力で私は車椅子に乗る。それはやがてゆっくりと前へ進み始めた。
彼がまだ学校の中にいるかわからない。でも進むたびに近づいてるって、どうしてか感じた。
『ここで止めて、一人で待ちたい』
回っていた車輪が止まる。お母さんは不思議そうに、でもなにか意味があるのを悟ってくれたのか、潔く離れてくれた。
病院の中庭よりも大きな緑色の紅葉。未だに代わりの石像のない台座。どれも懐かしくて、とっても大切な場所。彼と本当の意味で出逢った場所。
だから、また出逢うとしたらここがよかった。この場所で、大好きな行流に会いたい。
どうか早く来てほしい。来て、行流。
心の中で手を合わせる。神様に祈るように。こんな最低な私だけど、どうか、と。
「ねぇ、いくる。今日もサッカー付き合ってよ」
声がした。確かに今、いくるって。
視線を昇降口へ移すと、息が止まった。
最後に見たときよりも、また少し日焼けしていた。でも間違いない、いくる。その隣は実行委員で一緒だった人気者の男の子。
よかった、本当に仲直りしたんだと安心した。
「え、なんでおれ? お前のほうが上手いだろ。おれブランクあるし」
「大丈夫だって。この間後輩がいってたぞ。いくるは教え方が上手いから、勉強になるって。試合も楽しかったからまたやりたいんだってさ」
「それは、まぁ……嬉しいけど、勉強しなきゃいけないし」
「まぁまぁ。たまには息抜きも大事だよ? はい、行こ~」
「お前はたまにが多すぎだと思うけど。まぁ、いいか。ちょっとだけな」
そう話しながら近づいてくる行流。早く刻みだす鼓動がまだ生きていると、自分が恋する女の子だと教えてくれる。
こんなに緊張したこと、一度だってなかった。
行流がどんな反応を見せるのか。
気持ち悪いって顔にも声にも出すのかな。それとも、会えたことに喜んでくれるのかな。望みはかなり薄いけど。
でも、いい。どっちだって。彼に会えさえすれば。
そして彼の姿がいよいよ目と鼻の先にまで近づいたときだった。
『え……』
どうして。待ってよ。行かないで……行流。私は、ここにいるよ。
彼の背中にそう叫ぶ。なのにそれは小さくなってゆくばかり。
そのまま校門を抜けて二人は別れた。他愛のない話をしながら。あとでグラウンドで合流ね、なんて。
もう身体のほとんどが石だというのに、夏の陽射しは容赦なく私を照りつけた。残酷な真実とともに。
行流は私に気づかなかった。
思えば、当たり前のことだったのに。
「けい。今いくるくん通ったけど、ちゃんと会えたんだね」
お母さんが嬉しそうに私に駆け寄ってきて。久しぶりに、そんな自然な笑みを見た気がした。
この笑顔を崩したくない。でも。
『お願いがあるの』
膝に乗せてた紙とボールペンを操った。
無茶苦茶なのはわかっている。でも、それでも。
緑色の紅葉を見て、決意を固める。自分を襲う石化よりも硬く。
いつか赤くなる紅葉たち。
それを一緒に見るって、約束した。
だから、私は。
『私を台座の上に乗せてください』
最後にごめんなさいと添える。
親不孝で、最後までわがままばかり。だけど、どうしても、この場所に留まりたくて。
景色に興味のない行流ことだから、きっと気づかない。でも、それでいい。
彼との約束を果たせるのなら。
君と巡り逢えたあの景色になれるのなら。



