君と巡り逢えたあの景色になれるのなら

 家の灯りが見えてくると、やっとだ、という想いが強くなる。おぼつかない足を引きずり、少し痛む下腹部を抑えながら。
 「ただいま」
 「おかえり。実行委員お疲れ様」
 玄関をすぎて廊下から台所へ挨拶すると、お母さんも返して早くお風呂入ってきなよ、と勧めてくれた。
 「うん。そうする」
 正直、疲れた。身体が石のように硬くて重い。自分で選んだことだから仕方ないけど。
 とにかく癒したい、ほぐしたい。気合を入れてアレンジした髪を一度下ろして、今度はお団子にまとめる。それから体操着を脱いで下着をわずかに上げたときだった。
 「なに、……これ……」
 洗面所には一人しかいないのに、そう漏らしてしまう。ううん、漏れずにはいられない。
 最近痛いと思ってた下腹部。本来なら橙色だったり、白に近いベージュ色だったりする場所、のはず。
 私の目がおかしいんだ。だって、ありえない。明らかにそんな色とは違う、灰色か黒の肌が十円玉くらいの範囲で広がっているなんて。見た目はまるで本当に石みたいで。
 まさか、そんなこと……。目を疑った私は、恐る恐る指をその灰色に見える肌へ近づける。
 柔らくてしっとりした感触が待ってる、はずだった。普段通りの、肌の感触。でも触れたのは。
 「いやー」
 「なに、どうしたの!」
 「……おかあさん、これ……」
 下腹部を指さす。この状況を一発で理解してもらえる的確な説明のはず。言葉にすらできない。もう口でこの事実を認めたくなくて。だけど指さしたところに触れたお母さんのリアクションが、そうさせた。
 「ちょ、ちょっと待ってて。今、保険証とか色々準備するから。とりあえずリビングで安静、ね?」
 すぐさまリビングへと手を繋ぎながら連れて行かれ、ソファで寝かされる。あ、とさっき脱いだ体操着のジャージを持ってきてくれた。
 もう一度、指が下腹部へと伸びてゆく。確かめたくないのに。認めたくないのに。だけど懲りず、触れてしまう。硬くてざらついたものに。
 私は急いで着込む。下腹部を視界に入れなくない。
 「さ、行くよ。立てる?」
 「さっきまで歩いてたから大丈夫。そんな心配しないで」
 「心配するよ!」
 荒く強いお母さんの声がリビングに響く。その余韻が消えてから、ごめん大声出しすぎた、と玄関へ向かった。私も黙ってついてゆく。
 お母さんのあのセリフのあとに、けいは重病人なんだから、と続いた気がした。それは私の勝手な想像でしかないけど、そう思わずにはいられなくて。
 
 
 気づけば外壁がクリーム色の、お城のように大きな病院の前にいた。どこかで見覚えが、と思ったら来たことあった。
 かつて彼のお見舞いに赴いていた病院だと。
 車で移動したのだろうけれど、まったく記憶にない。徒歩や交通機関で来たと言われても、多分頷くほどに。
 色んな入り口がある中、私たちは救急外来と大きく書かれた自動ドアから院内へ入った。同じ世界?と思うほどに空気の匂いが違う外と院内。
 「すぐに診てもらいたいのですが……」
 お母さんが受付の人と長々話している。私の様子を時々受付の人がちらっとみては、また明日でもいいのでは、と返してくる。正直、私もそのほうがいい。ここにいると、本当に自分が重病人だと思ってしまうから。それに、明日になればそれも消えてかもしれない、という甘い考えで。
 「お願いします。どうか、診てください……」
 頭を下げるお母さん。そこまでしなくていいよ。帰ろうよ、と待合スペースにあった椅子から立ち上がったときだった。
 「わかりました。すぐに診察できるかわかりませんが、それでもいいなら……」
 「はい、構いません。何時間でも」
 「それ、本気?」
 いやだ。病気だって知りたくない。
 「本気って、お腹見たでしょ。石みたいになって」
 あ、とすぐにお母さんは口を噤んだ。申し訳なさそうに。
 「いいよ、ほんとのことだから。うん、検査受けるよ」
 それで特に異常がなければいいだけの話。でもこのお腹を診て異常なしなんてきっとありえない。そう診断されるとしたらその人はヤブ医者だ。
 それから意外にもすぐに私たちは診察室へと通された。さっきまでいた廊下よりも診察用具なんかが置かれてて、より病院らしさが増す。そこに白髪交じりの初老の白衣を着た男性が座っていた。黒くてふかふかそうな椅子に。
 「どうぞ、二人ともおかけになってください」
 男性の前には二つの椅子が並べられている。一つは男性の目の前に、もう一つはその脇に。当然私は前者のほうに腰をかけた。
 「えぇ、今日はどういう症状で? 見たところ、緊急性があるようには見えないのですが」
 ここは救急外来だからそれなりに緊急性のある症状が出ないといけない。診察を待ってる間もストレッチャーで大きな扉の部屋へ運ばれてゆく患者さんたちを何度も見てきた。だからこそ、自分がここにいることが間違っていると思えてくる。だけど。
 「いいえ、あります。娘の下腹部をみればわかると思います」
 強引なお母さんの物言いに、納得のいってないような難しい顔をするお医者さん。だけど職務上、患者には平等に診察しなければならない医者は、とりあえず聴診しますね、と服をめくるよう指示した。
 正直嫌だった。行流じゃない男性にお腹を見せるのも、あの異様な色と感触の肌がむき出しになるのも。だけど医者に義務があるように、患者はその義務を全うできる行いをしなければならない。
 運動会でも来ていたジャージとその下のTシャツを仕方なくめくったときだった。
 「え?」
 聴診器の冷たさが伝わってくるのかと思いきや、そんな間の抜けた声が届く。しかも長年色んな病気を治療してきた人のそれ、なわけで。
 それから下腹部に触れたり、血液検査をしたり、レントゲン検査をしたり、とにかく今までしたことない検査をたくさんした。正直、今日の運動会よりも疲労が溜まる。
 検査は一通り終了しました、と若い看護師が告げるのを聞いてやっと帰れると思ったのに。
 「桜庭さん、こちらは入院手続きの書類ですので、記入をお願いいたします」
 え、入院? 私、そんなに重い病気なの……。
 呆然と立ち尽くす私に、お母さんがすぐに駆け寄ってきて。
 「大丈夫。検査に時間がかかるから一応、ね。だから、そんな身構えなくていいの」
 いつもと同じ口調に、恐怖でばくばく音を鳴らしていた鼓動が少しずつ凪いでゆくのを感じた。そっか、ただの検査入院なんだと。
 でもそれがもし、悪い結果だったら? なんて考えていたらもっとうるさくなりそうだからやめる。
 「わかった、ありがとう。ちょっとだけ安心したよ」
 心の底からの安心じゃないけど、少しでもお母さんが私のことで滅入らないように。ううん、私自身がそうなりたくて。
 今まで固い表情をしていたお母さんがわずかに頬を緩ませる。
 「そう、ならよかった。入院初めてだと思うけど、大丈夫?」
 「うん、頑張る!」
 力強く首を縦に振る。不安を表に出すのは、お母さんを心配させるだけだから。
 看護師に呼ばれると、軽く手を揺らしてお母さんと別れる。できるだけいつもの寝るときの挨拶を意識して。
 通された病室は四人部屋だった。もう消灯時間を過ぎているみたいで部屋の中は真っ暗。電気を点けたいところだけど、カーテンでそれぞれ仕切られてるから、既に人がいる。なるべく音を立てないように自分のベッドへ向かった。
 狭くて、真っ暗な空間。ベッドのそばにある小さな電気のスイッチを押すと、自分のベッドの敷地だけ光が放たれる。
 看護師さんも他の患者さんに配慮して小声で、簡単な説明をしてくれた。これに着替えてください、とテレビでしか観たことがなかった入院服を渡される。わからないことがあったらナースコールで呼んでください、と看護師さんは出ていった。
 カーテンを閉め切ってベッドに乗り、残された入院服を手に取る。薄い青が下地で、赤や桃色のラインがまっすぐにいくつも伸びた柄だった。
 はぁ、と深いため息を吐く。今日何度目かもわからない。
 一旦布団の上にそれを置いて、ジャージやTシャツを脱いでゆく。下腹部を目に映さないように。置いていた入院服に腕を通すと、冷たい肌触りだった。病院の空気をそのまま吸ったみたいな、そんな温度。
 一通り着替えを終え、ベットに散らばるジャージに手を伸ばしかけたそのとき、灯された光がぼやけて汚くなる。その元凶がベットのシーツの上にぽたり垂れた。
 ちょっとずつ私の体温に近づいてく入院服。と、同時に遠く離れてく行流との思い出たち。恋に気づいた瞬間、告白されたとき、一緒に歩いた通学路、テスト前の教師顔の彼、偽物のお花見、懸命に走る彼の姿、全部が。
 きっと治る。そう信じたい気持ちともしかしたらが複雑に絡み合って、気づけば涙が溢れてた。考えちゃいけないのに、脳は不都合に最悪な事態を思考させる。
 明かりを消して布団に潜ると、光がないから余計に不安が募ってゆく。運動会が遠い昔に思える。
 下腹部のこととか、いつもの布団じゃないこととかで意識は現実に向いたまま。生まれて初めて、部屋の中で夜が明けてゆく過程を見た。
 重い病気だったら、治らない病だったらという残酷なもしもを想像して。仮にそうだったら、この先どうなってしまうのかって。
 部屋が暗くなって明るくなるのを二回繰り返したお昼どき。扉がゆっくりと開く。
 もしかしたら行流かも、と甘い想像はすぐに消える。しかも、いつもの両親、じゃない。まだ数日しか経ってないけど、調子は?とか元気にしてる?とかそんな和やかな挨拶から始まるのに、今日は二人とも静かで。まるでお葬式みたいな空気感だった。ベッドのそばに椅子を並べて座った二人。
 「検査結果、聞いてきたんだけど」
 お母さんがそこで止める。結果、どうだったの?って聞きたい。すぐ治る病だから、心配しなくても大丈夫と言ってほしかったのに。
 「……落ち着いて聞いてくれる?」
 重々しい口調。喉に石が詰まっているかのように話しづらそうにするその様子が、ずっと危惧してたもしもを予感させる。だって、それじゃまるで。
 「体石病。けいの病名」
 知らない病気だった。知らなすぎて、反応すらできずただ黙って頷く。
 「名前のとおり、体が石になっていく病気で……」
 また途切れた。お母さんの黒目が右と左を高速で往復する。よく見るといつもより目が小さく見えた。それが瞼の腫れのせいだと気づいたとき。
 「けいの様子だと……夏休みがぁっ、はぁ、終わるまでにぃっ……」
 それきり言葉はなくなった。代わりに嗚咽混じりの泣き声が耳にじんじん届いてゆく。目の前でお母さんがそう泣いていて、隣にいるお父さんですら瞳が潤んで光に反射している。二人がそうやって泣いている姿を初めて見た。その光景が淡く滲んでゆく。
 冷たいものが手の甲を弾く心地がする。それが何度も。傘から手を出したときのよう。
 最後まで聞けなくても、わかってしまって。二人がなにを伝えようとしているのか。
 夏の終わりと私の命の終わりは同じだということ。滲む視界でお母さんの泣き声を聞いたことですべてを悟った。


 入院を続けるか、石化の症状が軽いうちは日常生活を続けるか、その二択を私に委ねたところで二人は病室を出た。今まで解いてきたどんな問題よりも難しい問いを残して。
 今日言われたことを一つ一つ整理した。
 体石病。最後には全身が石になる。それは絶命を意味する。いなくなる、自分が。体石病。最後には……。
 ぐるぐると同じ言葉が回る。整理なんてできるわけない、私がなくなる、いなくなる。もうなにもできなくなる。しかもすぐの未来で。
 もうすぐ失う時間ばかりが浮かんだ。家族とのなにげない団らんの時間。教室で友人とどうでもいい話をする時間。そして、恋人と。行流といる時間。
 『紅葉、見に行こうね』
 あの日の約束が頭の中を突き抜けた。一緒に見れない。約束を守れない。夏の終わりにいなくなる私じゃ。
 止みかけた涙がまたこぼれ落ちる。
 永遠、じゃないけど、永く続くと思ってた。でも違う。
 ずきり痛むお腹がそれを告げた。
 なのに涙は乾ききってしまう。暗い病室でベッドで横になる頃に。味の薄い病院食を食べたこともお風呂に入ったことも記憶にない。
 このまま入院するか、今までみたいな学校生活を送るか。今までどおりにはいかないだろうけど。
 どうしよう、と悩めるくらいには頭も冷えていた。両親のことを考えたら、入院のほうがいいかもしれない。でも、少しでも終わりを意識せずに済むかもしれないのは、退院して日常生活を送ること。でもそれも以前のようにはいかない。
 クラスメイトを見て、この人たちは私と違って永く生きられるのかな、なんて考えてしまう。友人、そして行流に会ったら、どう話せばいいかきっとわからない。
 考えれば考えるほどに見えなくなってゆく。自分がどうするべきか。
 『好きだ』
 窓は開いてないはずなのに、彼の声か生暖かい風に乗って吹いた気がした。
 彼に会いたい。そう思ってしまう。でも仮に会ったとして、この事実を打ち明けるべきなのだろうか。私の終わりを。
 

 振り返ると大きな病院が待ってるよ、という出で立ちで高くそびえていた。
 「けい、ほんっとうに今から学校行くの……」 
 「うん! 早くみんなに会いたいもん!」
 不安しかない瞳でそう投げかけるお母さんに、私は自分の意思をはっきり伝える。
 そう、と弱々しくお母さんは下を向きながら歩く。私もそうしたいけれど、そんなことをしたら不安でいっぱいになって学校へ行くのを禁じられるかもしれない。無理やりに胸を張って歩いてみせる。
 正直、まだ受け止めきれてない。不安とか言葉では表せない現実に。
 石化してゆく病気。普通信じられないし、私もこの間そうだった。でも実際なってるわけだから信じるしかないわけで。しかも、見たくないのに好奇心でつい見てしまうたび、その石化面積が大きくなっているような気がしてならなかった。
 ふわっと風で胸元のリボンがなびく。昨日まで入院服を着ていたから、中学生に戻れたんだと気づけて嬉しくなった。
 行流とおんなじだって。


 「じゃあ、気をつけて。なにか少しでも異変があったらすぐ先生にいうのよ?」
 「わかったよ」
 車を降りると、懐かしの校舎、といっても数日前まで通ってた学校が目の前にあった。
 校門をくぐり、彼との出会いのきっかけである石像のない台座まで来たとき、足を止めた。
 グラウンドのほうからボールを蹴る音、歓声が聞こえてきて。いつものことだけど、どうしてか足は自然とその音のほうへ向かう。
 グラウンドが視界に入ったときだった。辺りが光で満ち始める。と同時に胸の高鳴りがひどくなった。
 彼がいて。しかもかつての部活仲間たちと。その中にはこの間まで一緒に仕事をしていたあの人気者の姿も。二人仲直りしたんだと安心しつつ、今の自分が場違いのように思えた。先の短い私と先の長い彼ら。
 すぐ近くにいるのに、みんなが遠く見える。靴と砂が擦れる音もボールを蹴る音もすべて。さらにその姿も音も小さくなる。足が校舎へと動いて。
 会いたかったはずなのに。あの顔にほほ笑みかけられたいのに、どうしても話しかけられなかった。
 教室に入ると、立っている人も座っている人もみんなが私を見た。実行委員に立候補したときみたいに。でもすぐに各自のグループでおしゃべりが再会された。
 「けい、大丈夫だった?」
 友人が駆け寄ってきた。これまでに見たことがないほど不安げに眉を下げて。事実を伝えたらどうなってしまうのか、恐ろしくてもちろん。
 「うん、もう平気。ごめんね、心配かけちゃって」
 さらりと嘘をつく。石で叩きつけられるような鈍い痛みが胸に響いた。
 「ほんとだよ。こういうときスマホあれば便利なのに。高校デビューとか古すぎ」
 「そうだよね。待ち合わせとか困っちゃうよ」
 「ちょっと、さりげなく彼氏いますよアピールやめてもらえません? いいなぁ〜いくると順調みたいで」
 いつも通りの会話。まったくもって生産性はない。でもそんな他愛もない会話こそがかけがえのない大切な日常だと、今は思う。
 失うと知ってから、どうして気づいてしまうのだろう。早くわかっていたら、もっと大切にできてたのに。
 何気ない日常会話だけど、その一つ一つ神経を研ぎ澄ませてこなした。聞くことも話すことも。予鈴が鳴ったときは、少し息が荒くなるほどに。
 授業も真面目にした。いつもそれなりに真面目にやってきているつもりだけど、今日はもっと。黒板の文字を書き写すだけじゃなくて、先生の言葉もノートに記したり発言を積極的にしたり。
 「今日は一緒に帰る?」
 集中していたのか、授業があっという間に終わり帰り支度をしていると、友人が話しかけてきた。きっと心配して。でも。
 「ううん。いくると帰るよ」
 「なんだ、病み上がりで彼氏と帰るだなんてすごい元気だね。羨ましいわー」
 「ふふ、いいでしょ」
 なんて軽口を叩く。ばいばい、と彼女が去ったあと、ふいに泣きそうになるのを堪えた。
 いけない。早く支度して、彼に会わないと。しばらく休んでいたから、多分今日もいないだろうと、彼にスルーされてしまうだろうから。
 「けい」
 教室が騒がしいにも関わらず、しっかりと聞こえてきた。顔を上げるとやっぱり。
 「いくる!」
 つい数日前まで一緒にいたのに、まるで何年ぶりに再会したかのよう。すごく懐かしく思えた。だけど同じくらいに自分が彼にとって遠い場所に行ったんだと痛く実感する。胸が張り裂けそう。
 とにかく急がないと。そう慌てて指を動かすも、上手く曲げれず小さな参考書の山が床へ崩れた。
 「もう、なにやってんだよ」
 辺りをきょろきょろしてから、彼は教室へ足を踏み入れ、私のところまで来ると拾ってくれた。
 「ありがとう」
 「いいって。いつものことだし」
 しまったと、彼はすぐに口を閉ざした。前に口論になった一言だから。けれど。
 「そういうところも好き、なんだよね。前に言ってくれた」
 「あ、あぁ花見の弁当の材料買ったときか。よく覚えてるな」
 「そりゃ、覚えてるよ。春だよ、つい最近のことでしょ」
 なんて偉そうに言いながらこの間まではすっかり忘れてたけど。病室で色んなことを思い返していた一つにそのエピソードがあっただけ。
 「じゃあ、帰ろうか」
 「うん!」
 リュックを背負って彼の隣を歩く。久しぶりな感じで嬉しいのに、苦しくもあった。軽いはずの足が重く感じて。彼の足音がやけに遠くから聞こえて気がした。
 校舎を抜けると、陽が強く照って無意識に目を細める。私たちが出逢ったあの石像のない台座に差し掛かったときだった。
 「体調は? もう大丈夫なのか?」
 「あ、えっと……」
 「え、まさか体調悪いのに学校来たとかいわないよな?」
 険しい表情で彼が顔をじっと見つめてきた。どうしよう、打ち明けるべきか、しないべきか。心の中で頭を抱える。一番危惧していたことが目の前で起きてしまって。病室でずっと迷ってたこ都で、今も答えを出せずにいる。
 自分がいなくなって彼が悲しむから言わないまま姿を消す? でもそれって自惚れすぎな気がする。そもそも悲しいって本人の主観だから私が勝手に決めていいことじゃない。
 ふと初めて彼と会話した日のことを思い出す。行流が自分の過去を、まだ見ず知らずだった私に話してくれたこと。
 そうだよ、彼だって打ち明けてくれた。自分にとって大切なことを。しかも見ず知らずの女の子に。
 ましてや、今の私は彼女。少なくともクラスメイトより少しは彼にとって特別な立場。なら。
 「具合は悪くないけど……」
 「けど?」
 台座の前で足を止める彼に合わせるように、私も歩くのを中断する。覗き込むように彼が顔を近づけてくるから、恥ずかしさでいっぱいになって。でも、いけない。ちゃんと話さないと。
 「……わたし、病気なの。体が石になる病」
 言えた。ひとまず達成感に浸っていると、それを取り除くように、は?と冷たい声が返ってきて。
 「なにそれ。ふざけてるの?」
 「ふざけてないっ! ほんとだよ?」
 ふざけてなんか……。むしろ、おふざけだったらって何度思ってきたか。
 「じゃあ、見せて? 石になってるところ」
 「え……」
 もちろん見せたい。行流に信じてもらえるなら。でも私が石になってる部分はまだあそこしかないから。
 ワイシャツの下腹部付近のボタンへ指が行ったり来たりを繰り返していると。
 「やっぱり。ふざけてたんだな」
 「だからふざけてないってば!」
 「見せられないのが証拠だろ! どうせ勉強したくないから、適当な嘘ついたとか……」
 「いいよ、もうそれで」
 私は勢いよく走った。おい、と後ろから聞こえてけど、無視して。早鐘を打つ胸が、もうすぐ終わりだというのに、まだ生きていると訴えかけているようで違う苦しさがこみ上げてくる。
 いつも彼と待ち合わせしてるところで足は止まった。苦しい。痛い。少し屈んで息を整えようと努める。
 思えばそうだと、呼吸がマシになって頭が冷えた頃に至った。皆が知る有名な大病だったら信憑性は高いかもしれないけど、私が患っているのは体石病。私が耳を疑ったくらいだから、病気になってない彼が信じるなんて無理にもほどがある。
 でも、それでも、信じてほしかったと思う自分がいる。わがままで強欲な私。
 乱れが減ったはずの呼吸が、苦しい。信じてもらえなかったのもそうだけど、なにより明日からは彼と普通に関われないことに。
 辛いのには変わりないけど、彼とならこの数カ月を乗り越えられると思ってた。倒れても、病室でおしゃべりして、食べれたら売店で買った安いお菓子を一緒に口にして。そんな夢みたいなことを思い描いてた。
 陽が沈みかけの空はやけに明るくて眩しすぎる。そんな世界から目を背けるように、彼がいつも待ってくれている場所を離れた。


 朝起きたら身体が異常に重く感じた。寝起きだからとか、一般人が感じるそれどころじゃない。
 起き上がるための手をつこうとするも、その腕自体が重くて、上体を起こすのに随分時間がかかった。
 恐る恐る左腕を覗く。右腕はいつも通りだったから異常があるとするなら、こっち側だと。見たくないけれど目は情報としてはっきりと脳に届けてしまう。
 左手首に、あの灰色が歪に広がっていて。袖をまくると、さらに灰色はまだら模様に左腕を支配していた。
 指でその部分をなぞると、ざらりと嫌な感触が伝わってきて悲鳴を上げたくなる。
 普通の身体が少しずつ蝕んでいくのが、視覚と触覚でわかってしまって精神的ダメージが重くのしかかった。
 これを何度も続けてゆくことで、私は石になって終わりを迎える。終わりが来ることは怖いけれど、その恐怖を続ける日々のほうがもっと恐ろしく感じた。
 いきたくない。
 唐突に湧いた本音。自分が石になってゆくのを静かに見守るのも、そのたびに両親が涙を浮かべるのを眺めるのも、彼のいない日々を過ごすのも、全部が嫌だ。
 「けい、大丈夫?」
 いつの間にか、お母さんが部屋の中にいた。扉が開く音も階段を上る音も聞こえなくて、それだけ考え込んでいたんだと自分に呆れる。
 「大丈夫だよ」
 「ほんと?」
 「うん、大丈夫。すぐ行くから」
 まくっていた袖をすっと伸ばして、なんともないよとでも言うように素早く立ち上がってみせた。
 「それならいいけど……」
 首を傾げながらも納得してくれたのか、お母さんは部屋を出ていった。
 大丈夫。自分の中でそう唱えながら、身支度を整えてゆく。服を脱いだときは気をつけて。
 「朝ごはんは?」
 「ううん、大丈夫。いってきます」
 食べる気が起きなくて。そもそも遅い時間だから食べてる余裕がない。
 玄関を抜けると、雨が細い糸になって勢いよく地面を叩きつけていた。水色の傘を差すと、ぱちぱちとまるで花火の弾けたような音が響く。昨日の帰り道はあんなに明るくて静かな通学路だったのに、と思いながら歩いてゆく。
 途中信号が赤に変わって足を止める。向こう側にあの待ち合わせ場所が見えたけど、そこに行流はいなかった。
 やっぱり、いない。昨日のこともあるし、いつもより遅い登校だからいなくて当たり前。それなのに、視界が滲んでゆくのはどうしてだろう。ワイパーで雫を除く前の車窓みたいに。
 私の目の前を車たちはどんどん通りすぎていった。一旦車が走らなくなり、でも遠くからタイヤとアスファルトが擦れる音が聞こえてくる。しかも勢いがありそうな、いきのいい音。
 今飛び出したら、終われる? 危ない思考がよぎって慌てて首を振るも、でも、と思ってしまう自分がいる。
 この恐怖から解放されて楽になりたい。たとえ今走ってきている車の運転手さんに迷惑をかけるとしても。
 指示もなにもしていないのに、片足が前へ動く。その流れでもう片方も。それが連続して、私の体は赤信号の横断歩道の真ん中付近で立っていた。勢いのある車のヘッドライドが雨粒に乱反射して、辺りを眩しくさせる。
 目を瞑って終わりを覚悟したそのとき、突然体が後ろへ倒れた。ううん、正確には自分じゃない誰かが腕を掴んでそのまま引っ張られて。いきなりすぎて、傘を落としてしまって次の瞬間。
 グシャ
 鈍い音が耳に突き刺さる。もちろん自分の音じゃない。うっかり落としてしまった傘が、原形をとどめていない。それよりも。
 「なにしてんだよ!」
 「ど、どうして……今ここに」
 振り向くと、眉をぎゅっと真ん中に寄せた行流がいて。
 「それより、今の説明して」
 「……いなくなろうと思って」
 「はぁ? なに考えてんの?」
 「ごめんなさい……」
 もう見ていられなくなって視線を外すと、ごめんと同じセリフが聞こえてきて顔を上げる。そこにもう怖い顔はなかった。
 「とりあえず一緒に来て。色々話したいから」
 困ったように目尻を下げながらも、こっちへ手を伸ばしてくれる。遠慮がちに指先だけ乗せて立ち上がると、なぜか彼は。
 「そっちいくるの家のほうだよ? 学校は?」
 「学校どころの話じゃないだろ。いいから」
 腕を絡ませて、相合傘で歩き始める。石化している左腕だけど彼の温もりを感じていたら。
 「あ、ごめん。痛くないか?」
 「え、ううん」
 一瞬左腕を絡める力が弱まったけど、首を振ってまた力が戻る。ふわふわと疑問符が浮かぶ。私の病気のこと、信じていないはずなのにどうしてそんな気遣いするのだろうと。
 それきり静かになる。ぱちぱちという音だけしか聞こえない。
 彼の家に行くのかな、と思っていたらその途中にある建物へと彼は向かう。私も行ったことがある場所。
 いつか、お花見の買い出しを一緒にしたスーパーマーケットだった。そういえば休憩所もあるんだったと思い出す。
 「ちょっと飲み物持ってくるから座ってて」
 「わかった」
 無料で利用できる給茶機からお茶を汲んで、持ってきてくれた。ごくり一口飲むと、雨で冷えた身体にしみわたって、たったこれだけのことなのにすごく幸せに感じた。
 「昨日、調べたんだ。けいがいってた病気のこと」
 「調べて、くれたの? あんな疑ってたのに」
 「そりゃ、いきなり信じられないよ。聞いたことないし。だからごめん。病気のこと、打ち明けてくれたのに……」
 「いいよ。むしろ嬉しい。病気のこと、信じてくれてたんだって」
 「でも、あんな態度取って。すごい悩んだだろ? おれに話すか話さないか」
 「それは……うん、悩んだよ。たくさん」
 休憩所の窓を叩く音が強くなる。おかげで外の景色がぼやけていた。
 お茶の入った紙コップを回しながら、彼は次の言葉を探しているようだった。そして。
 「……短いんだよな。先」
 胸がまた痛んだ。石でえぐられているよう。
 「ごめん。はっきりこんなこといって」
 「ううん、ほんとのことだから」
 その刹那、彼の表情が固まった。眉も目尻も下げて。
 「色々調べて知った。体石病っていう病名で」
 「うん」
 「どういう病気なのか、生存率とか、どれくらい生きられるのか全部調べた。でも全部おれにとっても、けいにとっても望ましくないじょうほうばっかりで」
 「うん。先生もいってた」
 「でも諦めきれなくて、治療法とかも片っ端から検索したんだけど、どれも効果は保証できないとか、不確実なのしかなくて」
 「あったら、医師がとっくに試してるよ。それより」
 伝わってくる。彼がどれだけ私を想っているか。
 「ありがとう。いっぱい調べてくれて」
 「調べただけ。なにもできてない」
 「そんなことない。十分だよ」
 「なにが? けいの未来を守れないのに?」
 「いくるは医師じゃないでしょ」
 はっきりと口にする。怖いけど一番言いたいことを伝えるために大きく息を吸って吐いた。そして。
 「わたし、いくるが好きだよ。……だからこそ好きなように生きてほしい」
 「わかった」
 あまりにもあっさり言われて目の開閉を何度もした。確かに私のことは気にしないでと言ったつもりだけど。
 内心ショックを受けていると、急にコップを持っていた手が熱くなった。火を通しているわけじゃないからお茶が熱くなるなんて考えられない。だとしたら。
 「好きなように生きる」
 見ると手は私じゃない大きな手に包まれていて、その先には真剣で輝きを隠したような目をした彼がいて。
 「けいのそばにいる」
 それがおれの好きなよう、と続けてくれる。窓から聞こえてた音はなくなり、心に降っていた雨も幾分か弱くなった気がした。


 それから、行流は本当に私のそばにいてくれた。塾をやめて全部の放課後を私にくれて。嬉しいけれど、彼の未来を奪っているようで、素直に喜べなかった。
 休日もたくさん約束を取り付けてくれて、勉強したりデートしたり。ずっと望んできたことのはずなのに素直に喜べない。
 「いってきます」
 「いってらっしゃい……」
 病気が判明してから、当たり前のことだけど両親の挨拶一つ一つに心配が込められている。それが余計に怖かった。あと自分のワイシャツの袖を見たときにも感じる。
 外に出ると、当然歩いている生徒たちがたくさんいて、みんな肘から先が見えるくらいの袖の短さ。一方私は手首まで伸びているワイシャツを着ているわけで。
 些細なことかもしれないけれど、そんなところにまでみんなと違う箇所があると思うと、朝から気分が沈むけれど。
 外を出た瞬間、そんな憂鬱さなんてすぐに吹き飛んでしまった。行流がいる。ただそれだけで。
 最近はいつもの待ち合わせ場所じゃなくて、私の家の前で彼は待ってくれるようになって。それも彼に無理させている、そう感じずにはいられないけれど。
 「おはよう」
 単語帳を持ちながらも、まっすぐに視線を私に向けてくれて。
 「おはよう」
 嬉しい。その気持ちが前のめりになって、早足で歩くと。
 「危ないって」
 バランスを崩して身体が前方へ傾く。転んじゃう、と目を閉じて痛みを覚悟するけれど、いくら経ってもその瞬間は訪れなかった。ゆっくり目を開けると、大好きな男の子の顔が近くにあって。
 「ごめん……」
 「せっかく忠告したのに、まったく」
 もう、普通の身体じゃないのに無理して彼に迷惑をかけてしまった。そりゃ、怒るよねと反省したとき。
 「でも嬉しい。おれを見つけてすぐ駆け寄ってくれるところ」
 だけど気をつけろよ、と念を押される。きっと次も同じ過ちをおかしてしまうだろうなと思った。だって今のこの抱擁がずっと続いてほしいと願ってしまっているから。
 「そろそろ行こ」
 「うん。そうだね……」
 すっと彼が離れて行くのと同時に私たちの間に溜まってた熱が解放される。密着してたところが風で冷やされてゆく。雨も降らなくなって今は夏の入り口に立っているはずなのに、すごく冷たく感じた。
 「暑くなってきたな」
 「そうかな」
 彼が私の制服姿を見て不思議そうに首を傾げる。それもそのはず、夏だというのに手首まである袖のワイシャツを着ているから。
 以前の待ち合わせ場所に行くと、たくさんの生徒たちが歩いていた。行流も含めてみんな肘から先が見える袖の短さで、そんな些細なところにもみんなとは違うんだと、後ろ向きな気持ちになる。白かったり小麦色だったり。嫌でもそれが目に入ってしまう。
 そのとき単語帳で前が見えなくなり。
 「ほら、ここ受験頻出単語だから覚えたほうがいいよ」
 「……ありがとう」
 彼なりの優しさが伝わる。視界から、少しでも私の病を連想させるものを消そうとしてくれて。でも苦しくもなる。受験が始まる頃、私はもうここにいないから。
 石化の進行が特に進んだ左のほうの手が優しくつつみ込まれる。単語帳で前の見えない私に配慮して。
 ページにずっしり並ぶ単語を目で往復してみると、途中あたりからただの暗号にしか映らなくなり。
 「なんか、ふらふらしてるけど」
 ごめん、と彼はなにも書いてない最後のページを開いて再び私に見せる。
 彼の気遣いはありがたい。でもそれすら、今の私には病気を連想させるもので。
 「だい、じょう……」
 「けい、け……」
 声が聞こえなくなってゆく。彼の声が小さく、ううん。違う。私がどうかしてしまったんだ。
 視界が暗くなってなにも感じなくなった。
 次に光を見たのは、病室だった。白い天井とベッド、それに自分のじゃない枕の感触がなによりの証拠。
 「けい!」
 その声に今まで自分が手を握られていたことに気づく。その先には瞳に涙を浮かべたお母さんがいて。
 「よかった、意識が戻って」
 「わたし、今まで……」
 「今朝、登校中に倒れたんだって? いくるくんから聴いたよ」
 「いくるが」
 そうだ、半袖姿の生徒を見せないように単語帳を開いてくれて、でもそこから意識が薄れてって、それで……。
 思い出せば出すほど、顔から血の気が引いてゆくのを感じた。今の室内はオレンジ色に染まっていて、窓から西日を受けているはずなのに、むしろ寒く感じる。
 「あのね、けい。落ち着いて聴いてほしいんだけど」
 「うん……」
 前にも聴いたセリフ。その後に続いたセリフは、私に地獄を見せた。なら、次ももちろんいい話なわけなくて。
 「石化がね、色んなところで進行してるみたいで足とか特に」
 「足?」
 急いで確認してみる。思えば歩きにくかったけど、実際石化してなかったはず、なのに。
 「なにこれ……」
 左の足首からふくらはぎまでの石化がすさまじかった。昨日まではなかったのに。表のほうはまだ石になっている部分が少なかったものの、裏は肌よりも断然灰色の面積のほうが広くて。
 「それでね、このままだと日常生活を送るのは厳しいからお医者様に……入院したほうがいいってはっきりいわれたの。だから」
 「入院するよ」
 「え?」
 知ってる。形では普通の生活を送っていても、自分がもう普通じゃないことに。だから普通の、私と同い年の人を見るのがたまらなく辛かった。そしてその形を維持するために、どれだけ大切な人に迷惑をかけてきたか。目の前にいるお母さん、今もどこかで働いているお父さん、そして大好きな行流に。
 みんな普通に接しようとしてくれている。それでも演技だとわかってしまうときのほうが多かった。
 なら、もういっそのこと普通じゃない生活をしたほうが両親も行流も安心するんじゃないかって、思ってたから。だからいい。これでいい。
 それよりも腑に落ちていないことを訊いてみた。
 「ねぇ、お母さん。倒れたのはわかったけど、どうして意識まで失ったの?」
 足だけなら動かなくなるだけで、意識とは無関係のはずだから。でもお母さんはその答えをわかっているようで、すぐに口を動かした。
 「けい、最近まともに眠れてないでしょ? 今日もそうだった。目の下とか黒くなってて」
 「そんなのあたりまえだよ!」
 望んでいないのに声とセリフが荒れてしまう。一度そうこぼしてしまったら、もう止められなかった。まるで来たと思ったらすぐに行ってしまう濁流みたいに。
 「お母さんにはわかんないよ。普通じゃなくなって、もう形だけでも普通じゃいられなくなって、できないことが増えてって、それで夏が終わる頃には……」
 そんなことを永遠に繰り返した。どうしようもないことなのに、それは確実に人を傷つける言葉たち。目の前のお母さんは、手で顔を覆ってしゃくり上げているのに、それでも続けた。止めたい、でも止められない。
 最低な人間だ。どうして私が病気にならないといけないのって、嘆く資格、そもそも私にはない。悪いのは全部私。この病気にした神様じゃない。いくら病気だからって、大事な人を傷つけたり、迷惑をかけたり。こんな私だから、病気になったんだ。
 一通り言い終えて、場が静まる。それからただ。
 ごめんね。
 かすれがすれにそうこぼしてから、お母さんは病室を出ていった。とんっと扉が完全に閉まってから。
 「ごめんね」
 それじゃ、許されないことはわかっている。それを発するが遅すぎることも。でも、どうしても言いたかった。そして伝えたくなかった。ごめんねできっとお母さんは許してしまうから。
 下着を干した居間に行流を通してお母さんのことを怒ったあのときが懐かしい。二度とあんなふうに怒って、でも最後には笑って許す、そんな何気ないやりとりもできなくなるんだと、唐突に感じた。
 「ごめんね」
 それじゃ、許されないことはわかっている。それを発するが遅すぎることも。でも、どうしても言いたかった。そして伝えたくなかった。ごめんねできっとお母さんは許してしまうから。
 下着を干した居間に行流を通してお母さんのことを怒ったあのときが懐かしい。二度とあんなふうに怒って、でも最後には笑って許す、そんな何気ないやりとりもできなくなるんだと、唐突に感じた。
 「ごめんね」
 沈みゆく太陽に、もう一度こぼした。今度は自分を大事にしてくれた人みんなを思い浮かべながら。
 そのまま夜が訪れた。入院食は喉を通らなかったし、お風呂も入れなかった。ベッドに身体を沈めても一向に眠れる気がしない。その通りに頭が冴えたまま明るくなる過程を眺めて。
 「けい」
 二人の声がして、顔を上げると両親だった。お母さんは瞼を真っ赤に腫れていて、でも表情だけは笑みを浮かべて。偽物の。私のせいで。
 体調のこと以外にも、違う話題を懸命に挙げてくれる二人。だけど、どの話題も記憶に残らない。左耳から入って右耳から抜けてゆく、そんな感覚。
 「けい」
 両親がいなくなってしばらく経った頃、ビクッと身体が震えるのを感じた。身体でこんな反応を出せるのはあの人しかいない。
 頑張って眠ろうと閉じていた目を開けるとやっぱり、行流がいて。
 「よかった。目が覚めたんだな」
 「ごめん。昨日は……」
 「全然迷惑じゃないから、気にするな。それより、ちゃんと食ってる?」
 「……食べてるよ」
 「今の間なに? 絶対嘘だな」
 「ごめん」
 昨日の夜も今日の朝もお昼も、結局丸一日食べてないことになる。でも色んなことを考えてたらどうしたって喉に通りそうになくて。
 「だと思ったよ。はい、これ」
 急になにかを差し出されてきょとんとする。歪な球体。白と黒の模様で白のほうが面積が広い。黒のほうは長方形の形をしていて。
 「けいみたいに料理得意なわけじゃないけど、おにぎりくらいは作れたから」
 「え、これいくるが作ってくれたの?」
 「そうだよ。時間かけたから、ちゃんと食えよ」
 「食べる」
 まさか、行流の手料理が食べれるなんて。歪なんて言ってしまったけど彼が作ったと思えば、どんなお店のおにぎりよりも美味しそうだった。ううん、絶対美味しいに決まってる。
 いただきます、と手を合わせてから口にしたら、やっぱり。
 「おいしい」
 「そう。ならよかった」
 運動も勉強もできるのに、料理までできちゃうなんて、私もう彼に勝てっこない。それくらいに美味しくて。
 「ごちそうさまでした」
 「お、ちゃんと完食してる」
 「だっておいしかったもん」
 「じゃあ、また持ってきてやるよ」
 「ほんと? でも……」
 「大丈夫、迷惑じゃないし。むしろ勉強の息抜きになってるから気にするな」
 「うん、ありがとう」
 嬉しい……でもやっぱり迷惑をかけてしまっている。そう思わずにはいられない。
 「じゃあ、なにが食べたい?」
 「う~ん、えっとね全部」
 「それ、難しすぎるって」
 「だって、それぐらいおいしかったんだもん。選べない」
 「おれシェフじゃないから。そんな凝ったもの作れない」
 「え~、う~ん……」
 なにがいいかなって悩み続けていたら、ふと気づく。いつの間にか、病気のことが頭から離れていたことに。
 食べたいものとか、息抜きに読んでた漫画の話とか。話も一区切りついてふと彼が。
 「なんか、変な気分だよ。けいのお見舞いにきてるなんて」
 「わたしもだよ。前はいくるが患者さんだったもんね」
 あれからもうそんなに経つんだと感傷にふけっていると。
 「あ、そろそろか」
 「え、もうそんな時間?」
 短い時間に感じてつい疑ってしまうけれど、日の長い今の時期で、もう陽が沈みかけていて。
 すると手にふわっと温もりが重なった。ベッドに横たわっている私の手を彼が固く握ってくれて。まるで彼も離れるのを拒んでいるよう、なんて自惚れにもほどがある。でもそう思ってくれていたらって、夢みたいなことを考えてしまう。
 「じゃあな。また明日」
 「うん。きてくれてありがとう」
 また明日。それさえも今の私には不確定な未来。それでも信じたい。
 病気であっさりと裏切られた未来だけれど、明日とか明後日とかそんな近い未来くらいなら。