行流に誤解されたまま二週間。運動会の前日で私の仕事はグラウンドの整備だった。雑草や小石をひたすら拾う、ただそれだけの仕事。でもこの仕事に私は人一倍情熱を注いだ。
行流のような怪我人を出したくない。そんな気持ちが溢れて。
近くではあの男の子も同じことをしていた。あれ以来、彼とも口を聴いていない。仕事上、必要なやり取りさえもたどたどしくなるくらいに。
このまま気まずいままなのも嫌だけど、話すのもなぁ、と思っていたときだった。
「ぼくのせいなんだ」
「え?」
突然の独白に戸惑いを隠せない。それから彼が雑草や小石の入ったビニール袋を持ちながら近づいてきて。
「いくる、転んだから大会辞退したんじゃないんだよ」
「え、でもいくるは部活中に転んだからって」
「転んでもかすり傷くらいでしょ。それくらいじゃ、辞退しないって」
確かに、行流からその話を聞かされたときも不思議だった。どうして転んだくらいで大会に出させてもらえないんだろうって。でも運動部のことなんてわからないし、きっと私が知らないだけで大会に出場するには条件があるのだろうと思い込んでた。でも、まさか。
「じゃあ、どうして?」
目の前の男の子は困ったように一度下を向いて、だけど覚悟を決めたのか素早く顔を上げて。
「いくるが転んだあとに、ぼくが彼の足を踏んじゃったんだ。まさか転ぶだなんて思わなくて、そのままのスピードで走ってたら……」
女の子を惹きつけるはずの大きな目から透明な雫が流れ出す。私もつられて泣きそうになる。
今の彼の涙の理由に強く共感できて。痛いほどに。
「今でも忘れられない。足を踏んだときの靴底から伝わる骨が砕けてゆく感触とか」
「もういいよ。そんな自分を責めないで」
「勝手に許さないでよ。ぼくが全部奪ったんだから。いくるのサッカー人生を」
「わたしもそう思ってた」
行流の人生をメチャメチャにしてしまったって。でも違った。行流が教えてくれたから、今はそう思える。
どこまでも私と似たことを話す彼にちゃんと伝えた。確かにその怪我で失ったものはたくさんあるかもしれない。でも得たものだってあるということを。サッカーが違う形で役に立てるということを。
だからね、と私は続ける。
「わたし、あなたに感謝してます」
「感謝?」
わけがわからないと首を傾げる男の子。きちんと伝わるようにはきはきと。
「不謹慎だけど、いくると出逢えたのは、あなたのおかげだからです」
すると彼は勢いよく腕で目元をこすり始める。その目はいつもより小さく見えて、失礼ながら不格好に思えた。でも表情はすっきりしていて。
「家まで送るよっていったのは、桜庭さんにもしものことがあって、いくるが傷つくのが嫌だったから」
「そうだったの?」
「大事な親友だったからね」
「今は違うの?」
不思議に思って。過去形なことに。でも察した。もしかしたら彼は。
「ケガのことがあってから話せてないの?」
「……うん」
「話さなくていいの?」
「それは……できることなら前みたいな関係に戻りたいけど」
「なら、今から話しに行けばいいよ。わたしが仕事するから」
「え、悪いよ」
「大丈夫だよ。石拾い好きだし。それに、いくると仲直りしてくれたら、わたしも嬉しいし」
しばらく口を聴いてない私が言えることじゃないけど、それでも背中を押したいって思った。きっと今の彼が私にそっくりだから。
ほんとにいいの、と繰り返す男の子に、行ってきてと今度は命令した。いつか男の子が強制的に家へ送ろうとしたときみたいに。ちょっとした仕返し。
「わかった。話してくるよ」
「うん、そうして。じゃあまた明日」
そうして彼は立ち去った。サッカー部だからものすごいスピードで。
気を取り直して私は仕事を再開した。怪我をした彼のことを想いながら。
ころっと、手に溢れた小石がグラウンドの土へ落ちる。指が上手く動かなくて。
すっかり石拾いに熱中していたのか、辺りは薄暗くなっていた。さっきまで聞こえてた実行委員や部活動に勤しむ生徒の声は皆無。
初夏とはいえ、夜が近づけば冷えるわけで、だから指もきっと動きが悪くなって。
でも諦めなかった。
もっと見つけなくちゃ。もっと取り除いてあげなくちゃ。そんなこだわりを捨てきれない。
嫌だから。もう少し探していれば、見つかったかもしれない石で、誰かが転んでしまうことは。彼のように、夢や日常を崩すなんて。
「なにしてんだよ」
低くて心地いい声が、しんとしたグラウンドに響き渡る。顔を上げると、陽がすっかり沈みきって目の前にいる人物の表情は見えなかった。でも、わかる。そこにいるのが誰かなんて。
「いくる……どうしてここに?」
「あいつ、けいと同じ実行委員のやつに聴いて。それよりずっと石拾ってたのか?」
私が気になったことに答えず、代わりに問いで返してきた。ずるい、と思うも事実だから頷くことしかできなくて。
なに考えてんだよ、と叱られる。それから辺りをきょろきょろしたかと思えば、急に彼が身長を縮めた。ううん、しゃがんだ。それから石の落ちているほうへ彼が腕を伸ばすから。
「ちょっ、なにしてるの?」
「なにって、見ればわかるだろ。石拾いだよ」
「そうじゃなくて。いくるは実行委員じゃないのに」
うん、と軽く頷く行流。なら、どうして?
「でもおれはけいの彼氏だから」
彼氏が彼女の手伝いするのなんて当たり前だ、と続けてくれる。夜だから彼がどんな表情をしているかわからない。それでも。
「ありがとう……」
声が震えてしまう。身体が沸騰するくらい熱いせいで。胸の奥で鳴らす鼓動もうるさい。
必死で手を動かす。石を拾うには邪魔になってしまう気持ちと闘いながら。だけど指が上手く動かなくて落とした石を彼が拾ったとき。
「もう、気をつけろよ。どんくさいんだから、早くやると失敗するぞ?」
彼の指と私の指が一瞬触れて、抑えていた気持ちがまた湧いてくる。もう石拾いどころじゃない。
「なんだ、疲れたのか?」
動きを止めた私に彼が訊いてきた。私が今どんな気持ちを抱えているかも知らずに。
「疲れてないよ。平気!」
「平気じゃない。ただでさえ動きが遅いけいが止まってるんだから、ただ事じゃない。とにかくもうやめよう?」
「嫌だ!」
「なんでそんな頑ななんだよ? いいから、おれはけいの体調が心配で……」
「明日の運動会でケガしてほしくないから。いくるみたいに」
運動会は学校行事の中でも大きなイベント。そこで活躍する人は皆努力をしている。だけどその努力は怪我によって簡単に壊れてしまうもの。行流のように。
私はタイムスリーパーじゃないから、過去に行って彼の怪我を未然に防げない。でも、彼の過去を知った上で未来の不幸を防ぐことは? そう考えたから。
彼もわかってくれる。自分のような人を生まないためというなら。だけど彼は。
「なら、なおさらだ。帰るぞ」
「え、なんでそうなるの?」
「ケガ以前の問題だ。体調崩して明日欠席するとか」
ふわっと体が浮く。違う、持ち上げられて。
彼の背中に温もりを感じる。私をおぶったまま、彼は歩いてゆくから。
「待って。まだ石落ちてるのに」
降りようと足を動かそうとするも、彼に掴まれてそれさえもできない。
「だからダメだって。それにけい。最近よく転んでただろ」
「なんで知ってるの?」
私が来たと思ったら避けてたのに。それくらい拒絶されてると思ってた。なのに。
「たまにグラウンドの様子見に行ったら、転んでて。だから知ってる」
「え、それって……」
心配してくれてたってこと? あんなに怒ってたのに。そう続けようとするも。
「とにかく帰るぞ」
そうやって阻まれた。でもまぁ、スルーすることにした。今はこうして彼とまた話せていることがたまらなく嬉しいから。
風景はグラウンドを過ぎ、石像のない台座の辺りへと変わる。あの頃の光景が自然と目に浮かんだ。
校舎の中に荷物があるから、下ろしてくれるのかと思ったけど、彼はそのまま校門へと向かい。
「荷物は?」
「明日運動会だろ。勉強道具置いてっても大丈夫なはずだけど。それに、けいはどうせ家に帰っても勉強しないだろ?」
「失礼だなぁ」
まったく。まぁ、図星だけど。だいたい、運動会前日に勉強する人なんているの? いや、行流ならやるかもしれない。
風がどこかの家庭からこぼれた食べ物の匂いを私の鼻の奥へと連れてくる。嗅覚がそう丁寧に情報を掬い取るほどに、静かで真っ暗な世界。と、急に明かりが灯る。街灯が現れて。
そのとき、私をおぶる彼の姿が鮮明に見えた。いつもの彼、とはちょっと違って。
「いくる、日焼けした?」
疑似花見のとき真っ白だった。雪ほどではないけれど、それでもテレビで見た目に気を遣っている芸能人並みの白さだったはず。
でも今の彼は腕や首が明らかにその色じゃなくなってるわけで。
「陽が強くなってるから、当たり前じゃない? むしろけいのほうがおかしい。あんなに外に出ているのに」
「やっぱりわたしが作業してるの、見てたんだね」
しまったと、彼は口ごもる。でももう遅い。私が作業してるのを知っているということは、そういうこと。
「……別にストーカーしようとしたわけじゃなくて」
「わたしのこと、心配してくれたんでしょ」
わかってる。無理矢理に私を帰らせるくらい、さっきも体調を気にしてくれていたから。こくり彼が頷いてくれる。
「ありがとう」
心配してくれて。彼女として大事にしてくれているんだと、歯がゆくなる。
おぶってるから彼の顔は見えない。だけどその顔が色づいていたらな、ってちょっと期待してしまう。
「おれも、いいたいことある。ごめんな」
「ごめんって?」
「え、わかんないの? おれたちそれで最近顔見せてなかったじゃん」
「そうだった! でも今いくるが来てくれたから忘れちゃったよ。だから謝らないで」
さすがに忘れてはいないけど。でも、もう気にしてないのは事実だから。行流が来てくれた。それだけでなんでもアリだ。
「ったく。まぁ、いいや」
呆れたと呟くようなため息の仕方。ふと、ずっと身体を彼に預けていることが申し訳なくなってきて。
「そろそろ下りるよ。明日運動会だから疲れるよ?」
「いいって。しばらく一緒にいなかった分、今は一番近くにいたいから」
ぴくっと指先が痺れるように震える。身体がさっきよりも熱くて、思考が鈍ってゆく。だから。
「私も」
なんて同調してしまう。でもしょうがない。彼にそんなこと言われて平常でいられるはずない。
「ねぇ、けい。どうして急に実行委員やろうと思ったの? まだそんな長く付き合ってるわけじゃないけど、けいらしくないなって」
「あれ、いってなかったっけ?」
「聞いてない。むしろだれかにいったのか?」
「いや、言ってません……」
ほんとは言ったけど。五十嵐さんに。でもその名前を口にしたらまた彼の機嫌を損ねかねないから、ごまかしておく。
「内申点上げたかったんだよね。……いくると同じ高校に行きたくて」
恥ずかしくて、でもれっきとした本音。
「はぁ?」
眉を寄せてあからさまに不機嫌な顔を見せる。せっかく勇気出して告げたのに。もしかして、嫌なの? 私と同じ高校に行くの。
それほど好きになってもらえてないことに落胆したときだった。
「内申点なんかより、本番の入試で点稼ぐほうが効率的だろ? なに考えてんだ」
「それはわかってるよ。でも勉強ってずっとやってると怠くなって辞めちゃうし」
「なら、おれが教えるよ」
「え、いくるは塾があるでしょ?」
「塾? やめよっか?」
「やめよっかって……そんな簡単な話じゃないでしょ」
「その分問題集やれば大丈夫だろ。それに人に教えるほうが理解が深めるらしいし。どうするの。やるの、やらないの?」
「や、やるよ」
まさか、彼から直々に教えてもらえるなんて。
「手加減しないから。運動会終わったら毎日勉強だからな」
「うん!」
勉強は嫌い。でも彼となら楽しめそう、そんな予感しかない。初めからこうしていれば、と小さく後悔した。
わざわざ塾をやめなくても、とは思うけれどそれほどまでに彼が私のことを気にかけているんだと考えると、勝手に心が弾んた。
そんな心持ちでいたら、いつの間にか見慣れた建物が見えてきて。
「じゃ、また明日」
自分の家に着いて、彼が下ろしてくれる。その瞬間彼の温もりがなくなって少ししんみりとした。
「うん。ありがとう、また明日」
再び来た道を歩いてゆく行流。その後ろ姿が見えなくなるまで、ずっとその道に目をやっていた。
目覚ましが鳴ると、すくっと立ち上がった。こんなこと滅多にない。いつもは何分かうとうとしてから布団を脱ぐから。でも今日は。
すぐさま洗濯したての体操着に着替えて、それから階段を急ぎ足で下り、洗面所へ直行する。
鏡に映る自分は寝起きだから仕方ないけれど、ひどい有様。寝癖だらけの髪と垢のついた目あたりが。
ペン立てのような入れ物に差し掛かっている櫛を手に取り、丁寧に梳かしてゆく。今日は運動会。中学生最後の。
アルバムにも残るし、なにより行流に自分をたくさん見てもらえる絶好の機会。とびきり可愛くしないと、とヘアアレンジを始める。
今日はツインテールにしてみようかな、と髪を二つにまとめてみる。それから綻びが出ないようにきつめに編み込んでいく。長めのりぼんも一緒に。
洗顔も念入りにすれば、自分でいうのも恥ずかしいけれど、いつもよりおしゃれな私がいた。
いくる、可愛いっていってくれるかな。でも変化に疎い彼のことだから、気づかないかもしれない。期待を裏切られたらものすごくショックを受けると思うから、後者だと思い込んでおこう。
鞄は学校に置いてきたから、違うリュックに今日の荷物を家を出た。いつもよりハイテンションで。
今日が運動会なのもあるかもしれないけれど、もっと大きな理由がある。ちょっとしたいざこざでしばらく彼とは登下校を共にしていなかったけれど、昨日和解したから。
今日はいつもの場所で待ってくれている。そう踏んでいたのだけれど。
あれ? いつもの待ち合わせ場所に彼がいない。単語帳をめくっていて、私が近づけばすぐに気づいてくれる彼が。
まだ朝で暖まりきっていない風が身体を震わす。不安がいっぱいになって。
まだ彼が怒っているかもしれない。そもそも、昨日の彼とのやり取りは全部幻だったのかもしれない。自分に都合のいい夢を見て。
昇る朝陽に色づく街とは対照に心は黒くくすんでゆく。いや、でもそんなはずない。リュックが昨日の出来事を真実にしてくれているから。
とにかく彼に、行流に会いたい。その一心で学校までの道のりを歩いてゆく。やがて目的地が顔を出し、校門に入ったとき。
「いくる……」
校門と昇降口の間、石像のない台座のあたりで出会う。その人物とここで会うとは予想していなかった。でもそれ以上に驚いたことがあって。
「石、拾ってくれてたの?」
両手に石がぎっしりと詰められた大袋を抱えていたから。
「ダサいな、おれ。けいが来る前に終わらせようと思ってたのに」
少し日焼けした彼の頬がほんのり薄紅色になっている。
「ありがとう」
ただ単に自分の代わりに仕事をしてくれたからじゃない。中学校最後の運動会という大事な行事で生徒が怪我をしないようにと、そんな想いが彼から伝わってきて。
「一袋貸して」
「大丈夫。それよりけいは他に仕事あるんじゃないの?」
「あ、プログラムの最終確認するんだった」
「早く行きなって」
二つも大きな袋を持っていて大変そうだけど、仕方ない。小走りでグラウンドへ向かおうとす
ると、けい、と後ろから叫ばれる。
「今日おれも頑張るから見てて」
すぐに振り返った。いつもみたいに照れて外している視線が今はまっすぐに私を貫く。じっと見つめられてこっちが逸らしてしまいそうになるけれど、なんとか我慢して。
コクリと頷く。本当に急がないとだから、また踵を返してグラウンドへと走り出す。安定感のない足取りで。
運動会で走っている途中、怪我してそのまま出るはずだった種目を断念するケースというものはよく聴く話。なのに今年は。
「すごいわね、今年はまだだれも来てないよ」
これじゃ私の仕事なくなるわね、と保健室の先生が表情を崩す。実行委員で怪我人が出たときにテントへ連れてゆく係として私が選ばれたため、今はテントの中にいる。
だけど保健室の先生が言うように、既に午後のプログラムも始まったにもかかわらず、まだ誰一人として怪我人は出ていなかった。それもこれも全部……。
「次は選抜リレーです。選手のみなさんは準備をお願いします」
無機質なアナウンスとともにグラウンドの中央へと流れてゆく生徒たちの群れ。
私は目を見張った。その中に彼を見つけて。たくさんいて遠目なのに。でも……。
彼には過去がある。大好きなサッカーを怪我で諦めた過去が。だから運動会という舞台でそのときのことがフラッシュバックしてしまわないかって。
と、彼がこっちを向いてくれた。手を振って、一瞬だけど笑みを作ってくれて。早くなる鼓動の動きに合わせて振り返す手が早くなってしまう。
彼がこの種目に参加するだなんて知らなかった。実行委員で、予行練習のときもいなかったから。
ピストルの音がとどろく。それに負けないくらい、選手たちの砂を蹴る音は大きく耳を射抜いた。
少しずつ彼の番が近づいてゆく。私のクラスのとは違う色のハチマキをつけて。
そして彼の前の走者が走り出す。やがてその人の持ったバトンが彼のもとへ……。
「頑張れ~」
「ちょっと、桜庭さん。違うチーム応援してどうするの?」
「いくる、頑張って」
保健室の先生に突っ込まれても怯まない。数多の声援の中、私の声だけが届く、なんて。
そんな都合のいい話はない。でも、この一声が少しでも彼の力になってくれると信じて。かつてのグラウンドでサッカーをしていた彼を応援していた自分と重なる。あの頃は恥ずかしくて、バレたくなかったから小さい声で応援していた。でも今は、彼の彼女だから。
「頑張って」
どきっと胸が騒ぐ。一瞬だけど彼と目が合って。すぐに目は次の走者へと移ったけれど。
綺麗なフォーム。陸上部じゃないのに。しかも彼にはブランクがあるというのに。
彼がバトンを渡されたときは五チーム中、三位だった。なのに、今はもう一位のチームを抜きそうで。
肘の上あたりで揺れる白い体操着の袖。それは日焼けした腕によく映えていた。
やがてバトンは次の走者へ。わずかに一位には追いつけなかったけれど。でも。
「いくる、すごいなぁ」
驚いて勢いよく隣を向くと、あの男の子がいた。そうだ、行流と話せた喜びで溢れていて、昨日彼の背中を押したことをすっかり忘れてた。
「仲直りできた。今度練習試合にも付き合ってくれるって」
「ほんと?」
よかった。男の子と行流が仲直りできて。瞼はまだ少し赤みを帯びているけれど、いつもの明るくて人気者の男の子だった。
「あ、いくる! 待っててくれたの?」
実行委員の仕事で遅くなったのに。暗い空の色がそれを証明している。昇降口で行流の姿が見えて。
「待ってたよ。それよりよかった。けいがまた他の男と手繋いでたらって」
「そんな心配はいらないよ。わたしにとって一番はいくるだもん」
ちょっぴり恥ずかしいけど、はっきり答えてみせた。もう勘違いされては困るから。
彼は薄い桃色をした頬になる。運動後の暑さじゃなくて、今のセリフにそうなっていたらなと願わずにはいられない。
「おれ、ダサいな」
「え、なにが?」
どこがそうなのか、本気で思って。まったくもってわからないから。私の目に映る行流はいつだってかっこよくて。
「今日のリレー、一位でバトン渡せなかったから」
「リレー? すごいかっこよかったよ」
今でも鮮明に思い出せる。綺麗なフォームで走ってた彼の姿を。
「まぁ、練習したから」
「やっぱり練習してたんだね」
日焼けしてたからそうだとは思ってたけど。もしかしたら私にかっこいいところを見せたかったから、なんて。
でもそうだったら嬉しいな。
あ、と口をついてから帰るぞ、と誤魔化しに入られる。
私もこれ以上は追及せず、素直に頷いて歩き出したときだった。
「あぶなっ」
転びそうになったところを彼が前方から支えてくれて。
「気をつけろよ。せっかく今日の運動会、ケガ人いなかったのに、けいがしたら意味ないだろ」
「う、うん……」
上手く声が出せない。助けてくれたからといって今私は彼に抱き締められているわけで。
遅いこともあって周りには人もいない。本来ならもう離れてもいいのに、しばらく私たちはそのままでいた。
二週間も関わっていなかった分、お互いの存在を確認するように。
こんなに幸せでいいのかな、て思うくらい心地よかった。もっと包まれていたい。彼の温かな身体に。そう思わずにはいられなかった。
行流のような怪我人を出したくない。そんな気持ちが溢れて。
近くではあの男の子も同じことをしていた。あれ以来、彼とも口を聴いていない。仕事上、必要なやり取りさえもたどたどしくなるくらいに。
このまま気まずいままなのも嫌だけど、話すのもなぁ、と思っていたときだった。
「ぼくのせいなんだ」
「え?」
突然の独白に戸惑いを隠せない。それから彼が雑草や小石の入ったビニール袋を持ちながら近づいてきて。
「いくる、転んだから大会辞退したんじゃないんだよ」
「え、でもいくるは部活中に転んだからって」
「転んでもかすり傷くらいでしょ。それくらいじゃ、辞退しないって」
確かに、行流からその話を聞かされたときも不思議だった。どうして転んだくらいで大会に出させてもらえないんだろうって。でも運動部のことなんてわからないし、きっと私が知らないだけで大会に出場するには条件があるのだろうと思い込んでた。でも、まさか。
「じゃあ、どうして?」
目の前の男の子は困ったように一度下を向いて、だけど覚悟を決めたのか素早く顔を上げて。
「いくるが転んだあとに、ぼくが彼の足を踏んじゃったんだ。まさか転ぶだなんて思わなくて、そのままのスピードで走ってたら……」
女の子を惹きつけるはずの大きな目から透明な雫が流れ出す。私もつられて泣きそうになる。
今の彼の涙の理由に強く共感できて。痛いほどに。
「今でも忘れられない。足を踏んだときの靴底から伝わる骨が砕けてゆく感触とか」
「もういいよ。そんな自分を責めないで」
「勝手に許さないでよ。ぼくが全部奪ったんだから。いくるのサッカー人生を」
「わたしもそう思ってた」
行流の人生をメチャメチャにしてしまったって。でも違った。行流が教えてくれたから、今はそう思える。
どこまでも私と似たことを話す彼にちゃんと伝えた。確かにその怪我で失ったものはたくさんあるかもしれない。でも得たものだってあるということを。サッカーが違う形で役に立てるということを。
だからね、と私は続ける。
「わたし、あなたに感謝してます」
「感謝?」
わけがわからないと首を傾げる男の子。きちんと伝わるようにはきはきと。
「不謹慎だけど、いくると出逢えたのは、あなたのおかげだからです」
すると彼は勢いよく腕で目元をこすり始める。その目はいつもより小さく見えて、失礼ながら不格好に思えた。でも表情はすっきりしていて。
「家まで送るよっていったのは、桜庭さんにもしものことがあって、いくるが傷つくのが嫌だったから」
「そうだったの?」
「大事な親友だったからね」
「今は違うの?」
不思議に思って。過去形なことに。でも察した。もしかしたら彼は。
「ケガのことがあってから話せてないの?」
「……うん」
「話さなくていいの?」
「それは……できることなら前みたいな関係に戻りたいけど」
「なら、今から話しに行けばいいよ。わたしが仕事するから」
「え、悪いよ」
「大丈夫だよ。石拾い好きだし。それに、いくると仲直りしてくれたら、わたしも嬉しいし」
しばらく口を聴いてない私が言えることじゃないけど、それでも背中を押したいって思った。きっと今の彼が私にそっくりだから。
ほんとにいいの、と繰り返す男の子に、行ってきてと今度は命令した。いつか男の子が強制的に家へ送ろうとしたときみたいに。ちょっとした仕返し。
「わかった。話してくるよ」
「うん、そうして。じゃあまた明日」
そうして彼は立ち去った。サッカー部だからものすごいスピードで。
気を取り直して私は仕事を再開した。怪我をした彼のことを想いながら。
ころっと、手に溢れた小石がグラウンドの土へ落ちる。指が上手く動かなくて。
すっかり石拾いに熱中していたのか、辺りは薄暗くなっていた。さっきまで聞こえてた実行委員や部活動に勤しむ生徒の声は皆無。
初夏とはいえ、夜が近づけば冷えるわけで、だから指もきっと動きが悪くなって。
でも諦めなかった。
もっと見つけなくちゃ。もっと取り除いてあげなくちゃ。そんなこだわりを捨てきれない。
嫌だから。もう少し探していれば、見つかったかもしれない石で、誰かが転んでしまうことは。彼のように、夢や日常を崩すなんて。
「なにしてんだよ」
低くて心地いい声が、しんとしたグラウンドに響き渡る。顔を上げると、陽がすっかり沈みきって目の前にいる人物の表情は見えなかった。でも、わかる。そこにいるのが誰かなんて。
「いくる……どうしてここに?」
「あいつ、けいと同じ実行委員のやつに聴いて。それよりずっと石拾ってたのか?」
私が気になったことに答えず、代わりに問いで返してきた。ずるい、と思うも事実だから頷くことしかできなくて。
なに考えてんだよ、と叱られる。それから辺りをきょろきょろしたかと思えば、急に彼が身長を縮めた。ううん、しゃがんだ。それから石の落ちているほうへ彼が腕を伸ばすから。
「ちょっ、なにしてるの?」
「なにって、見ればわかるだろ。石拾いだよ」
「そうじゃなくて。いくるは実行委員じゃないのに」
うん、と軽く頷く行流。なら、どうして?
「でもおれはけいの彼氏だから」
彼氏が彼女の手伝いするのなんて当たり前だ、と続けてくれる。夜だから彼がどんな表情をしているかわからない。それでも。
「ありがとう……」
声が震えてしまう。身体が沸騰するくらい熱いせいで。胸の奥で鳴らす鼓動もうるさい。
必死で手を動かす。石を拾うには邪魔になってしまう気持ちと闘いながら。だけど指が上手く動かなくて落とした石を彼が拾ったとき。
「もう、気をつけろよ。どんくさいんだから、早くやると失敗するぞ?」
彼の指と私の指が一瞬触れて、抑えていた気持ちがまた湧いてくる。もう石拾いどころじゃない。
「なんだ、疲れたのか?」
動きを止めた私に彼が訊いてきた。私が今どんな気持ちを抱えているかも知らずに。
「疲れてないよ。平気!」
「平気じゃない。ただでさえ動きが遅いけいが止まってるんだから、ただ事じゃない。とにかくもうやめよう?」
「嫌だ!」
「なんでそんな頑ななんだよ? いいから、おれはけいの体調が心配で……」
「明日の運動会でケガしてほしくないから。いくるみたいに」
運動会は学校行事の中でも大きなイベント。そこで活躍する人は皆努力をしている。だけどその努力は怪我によって簡単に壊れてしまうもの。行流のように。
私はタイムスリーパーじゃないから、過去に行って彼の怪我を未然に防げない。でも、彼の過去を知った上で未来の不幸を防ぐことは? そう考えたから。
彼もわかってくれる。自分のような人を生まないためというなら。だけど彼は。
「なら、なおさらだ。帰るぞ」
「え、なんでそうなるの?」
「ケガ以前の問題だ。体調崩して明日欠席するとか」
ふわっと体が浮く。違う、持ち上げられて。
彼の背中に温もりを感じる。私をおぶったまま、彼は歩いてゆくから。
「待って。まだ石落ちてるのに」
降りようと足を動かそうとするも、彼に掴まれてそれさえもできない。
「だからダメだって。それにけい。最近よく転んでただろ」
「なんで知ってるの?」
私が来たと思ったら避けてたのに。それくらい拒絶されてると思ってた。なのに。
「たまにグラウンドの様子見に行ったら、転んでて。だから知ってる」
「え、それって……」
心配してくれてたってこと? あんなに怒ってたのに。そう続けようとするも。
「とにかく帰るぞ」
そうやって阻まれた。でもまぁ、スルーすることにした。今はこうして彼とまた話せていることがたまらなく嬉しいから。
風景はグラウンドを過ぎ、石像のない台座の辺りへと変わる。あの頃の光景が自然と目に浮かんだ。
校舎の中に荷物があるから、下ろしてくれるのかと思ったけど、彼はそのまま校門へと向かい。
「荷物は?」
「明日運動会だろ。勉強道具置いてっても大丈夫なはずだけど。それに、けいはどうせ家に帰っても勉強しないだろ?」
「失礼だなぁ」
まったく。まぁ、図星だけど。だいたい、運動会前日に勉強する人なんているの? いや、行流ならやるかもしれない。
風がどこかの家庭からこぼれた食べ物の匂いを私の鼻の奥へと連れてくる。嗅覚がそう丁寧に情報を掬い取るほどに、静かで真っ暗な世界。と、急に明かりが灯る。街灯が現れて。
そのとき、私をおぶる彼の姿が鮮明に見えた。いつもの彼、とはちょっと違って。
「いくる、日焼けした?」
疑似花見のとき真っ白だった。雪ほどではないけれど、それでもテレビで見た目に気を遣っている芸能人並みの白さだったはず。
でも今の彼は腕や首が明らかにその色じゃなくなってるわけで。
「陽が強くなってるから、当たり前じゃない? むしろけいのほうがおかしい。あんなに外に出ているのに」
「やっぱりわたしが作業してるの、見てたんだね」
しまったと、彼は口ごもる。でももう遅い。私が作業してるのを知っているということは、そういうこと。
「……別にストーカーしようとしたわけじゃなくて」
「わたしのこと、心配してくれたんでしょ」
わかってる。無理矢理に私を帰らせるくらい、さっきも体調を気にしてくれていたから。こくり彼が頷いてくれる。
「ありがとう」
心配してくれて。彼女として大事にしてくれているんだと、歯がゆくなる。
おぶってるから彼の顔は見えない。だけどその顔が色づいていたらな、ってちょっと期待してしまう。
「おれも、いいたいことある。ごめんな」
「ごめんって?」
「え、わかんないの? おれたちそれで最近顔見せてなかったじゃん」
「そうだった! でも今いくるが来てくれたから忘れちゃったよ。だから謝らないで」
さすがに忘れてはいないけど。でも、もう気にしてないのは事実だから。行流が来てくれた。それだけでなんでもアリだ。
「ったく。まぁ、いいや」
呆れたと呟くようなため息の仕方。ふと、ずっと身体を彼に預けていることが申し訳なくなってきて。
「そろそろ下りるよ。明日運動会だから疲れるよ?」
「いいって。しばらく一緒にいなかった分、今は一番近くにいたいから」
ぴくっと指先が痺れるように震える。身体がさっきよりも熱くて、思考が鈍ってゆく。だから。
「私も」
なんて同調してしまう。でもしょうがない。彼にそんなこと言われて平常でいられるはずない。
「ねぇ、けい。どうして急に実行委員やろうと思ったの? まだそんな長く付き合ってるわけじゃないけど、けいらしくないなって」
「あれ、いってなかったっけ?」
「聞いてない。むしろだれかにいったのか?」
「いや、言ってません……」
ほんとは言ったけど。五十嵐さんに。でもその名前を口にしたらまた彼の機嫌を損ねかねないから、ごまかしておく。
「内申点上げたかったんだよね。……いくると同じ高校に行きたくて」
恥ずかしくて、でもれっきとした本音。
「はぁ?」
眉を寄せてあからさまに不機嫌な顔を見せる。せっかく勇気出して告げたのに。もしかして、嫌なの? 私と同じ高校に行くの。
それほど好きになってもらえてないことに落胆したときだった。
「内申点なんかより、本番の入試で点稼ぐほうが効率的だろ? なに考えてんだ」
「それはわかってるよ。でも勉強ってずっとやってると怠くなって辞めちゃうし」
「なら、おれが教えるよ」
「え、いくるは塾があるでしょ?」
「塾? やめよっか?」
「やめよっかって……そんな簡単な話じゃないでしょ」
「その分問題集やれば大丈夫だろ。それに人に教えるほうが理解が深めるらしいし。どうするの。やるの、やらないの?」
「や、やるよ」
まさか、彼から直々に教えてもらえるなんて。
「手加減しないから。運動会終わったら毎日勉強だからな」
「うん!」
勉強は嫌い。でも彼となら楽しめそう、そんな予感しかない。初めからこうしていれば、と小さく後悔した。
わざわざ塾をやめなくても、とは思うけれどそれほどまでに彼が私のことを気にかけているんだと考えると、勝手に心が弾んた。
そんな心持ちでいたら、いつの間にか見慣れた建物が見えてきて。
「じゃ、また明日」
自分の家に着いて、彼が下ろしてくれる。その瞬間彼の温もりがなくなって少ししんみりとした。
「うん。ありがとう、また明日」
再び来た道を歩いてゆく行流。その後ろ姿が見えなくなるまで、ずっとその道に目をやっていた。
目覚ましが鳴ると、すくっと立ち上がった。こんなこと滅多にない。いつもは何分かうとうとしてから布団を脱ぐから。でも今日は。
すぐさま洗濯したての体操着に着替えて、それから階段を急ぎ足で下り、洗面所へ直行する。
鏡に映る自分は寝起きだから仕方ないけれど、ひどい有様。寝癖だらけの髪と垢のついた目あたりが。
ペン立てのような入れ物に差し掛かっている櫛を手に取り、丁寧に梳かしてゆく。今日は運動会。中学生最後の。
アルバムにも残るし、なにより行流に自分をたくさん見てもらえる絶好の機会。とびきり可愛くしないと、とヘアアレンジを始める。
今日はツインテールにしてみようかな、と髪を二つにまとめてみる。それから綻びが出ないようにきつめに編み込んでいく。長めのりぼんも一緒に。
洗顔も念入りにすれば、自分でいうのも恥ずかしいけれど、いつもよりおしゃれな私がいた。
いくる、可愛いっていってくれるかな。でも変化に疎い彼のことだから、気づかないかもしれない。期待を裏切られたらものすごくショックを受けると思うから、後者だと思い込んでおこう。
鞄は学校に置いてきたから、違うリュックに今日の荷物を家を出た。いつもよりハイテンションで。
今日が運動会なのもあるかもしれないけれど、もっと大きな理由がある。ちょっとしたいざこざでしばらく彼とは登下校を共にしていなかったけれど、昨日和解したから。
今日はいつもの場所で待ってくれている。そう踏んでいたのだけれど。
あれ? いつもの待ち合わせ場所に彼がいない。単語帳をめくっていて、私が近づけばすぐに気づいてくれる彼が。
まだ朝で暖まりきっていない風が身体を震わす。不安がいっぱいになって。
まだ彼が怒っているかもしれない。そもそも、昨日の彼とのやり取りは全部幻だったのかもしれない。自分に都合のいい夢を見て。
昇る朝陽に色づく街とは対照に心は黒くくすんでゆく。いや、でもそんなはずない。リュックが昨日の出来事を真実にしてくれているから。
とにかく彼に、行流に会いたい。その一心で学校までの道のりを歩いてゆく。やがて目的地が顔を出し、校門に入ったとき。
「いくる……」
校門と昇降口の間、石像のない台座のあたりで出会う。その人物とここで会うとは予想していなかった。でもそれ以上に驚いたことがあって。
「石、拾ってくれてたの?」
両手に石がぎっしりと詰められた大袋を抱えていたから。
「ダサいな、おれ。けいが来る前に終わらせようと思ってたのに」
少し日焼けした彼の頬がほんのり薄紅色になっている。
「ありがとう」
ただ単に自分の代わりに仕事をしてくれたからじゃない。中学校最後の運動会という大事な行事で生徒が怪我をしないようにと、そんな想いが彼から伝わってきて。
「一袋貸して」
「大丈夫。それよりけいは他に仕事あるんじゃないの?」
「あ、プログラムの最終確認するんだった」
「早く行きなって」
二つも大きな袋を持っていて大変そうだけど、仕方ない。小走りでグラウンドへ向かおうとす
ると、けい、と後ろから叫ばれる。
「今日おれも頑張るから見てて」
すぐに振り返った。いつもみたいに照れて外している視線が今はまっすぐに私を貫く。じっと見つめられてこっちが逸らしてしまいそうになるけれど、なんとか我慢して。
コクリと頷く。本当に急がないとだから、また踵を返してグラウンドへと走り出す。安定感のない足取りで。
運動会で走っている途中、怪我してそのまま出るはずだった種目を断念するケースというものはよく聴く話。なのに今年は。
「すごいわね、今年はまだだれも来てないよ」
これじゃ私の仕事なくなるわね、と保健室の先生が表情を崩す。実行委員で怪我人が出たときにテントへ連れてゆく係として私が選ばれたため、今はテントの中にいる。
だけど保健室の先生が言うように、既に午後のプログラムも始まったにもかかわらず、まだ誰一人として怪我人は出ていなかった。それもこれも全部……。
「次は選抜リレーです。選手のみなさんは準備をお願いします」
無機質なアナウンスとともにグラウンドの中央へと流れてゆく生徒たちの群れ。
私は目を見張った。その中に彼を見つけて。たくさんいて遠目なのに。でも……。
彼には過去がある。大好きなサッカーを怪我で諦めた過去が。だから運動会という舞台でそのときのことがフラッシュバックしてしまわないかって。
と、彼がこっちを向いてくれた。手を振って、一瞬だけど笑みを作ってくれて。早くなる鼓動の動きに合わせて振り返す手が早くなってしまう。
彼がこの種目に参加するだなんて知らなかった。実行委員で、予行練習のときもいなかったから。
ピストルの音がとどろく。それに負けないくらい、選手たちの砂を蹴る音は大きく耳を射抜いた。
少しずつ彼の番が近づいてゆく。私のクラスのとは違う色のハチマキをつけて。
そして彼の前の走者が走り出す。やがてその人の持ったバトンが彼のもとへ……。
「頑張れ~」
「ちょっと、桜庭さん。違うチーム応援してどうするの?」
「いくる、頑張って」
保健室の先生に突っ込まれても怯まない。数多の声援の中、私の声だけが届く、なんて。
そんな都合のいい話はない。でも、この一声が少しでも彼の力になってくれると信じて。かつてのグラウンドでサッカーをしていた彼を応援していた自分と重なる。あの頃は恥ずかしくて、バレたくなかったから小さい声で応援していた。でも今は、彼の彼女だから。
「頑張って」
どきっと胸が騒ぐ。一瞬だけど彼と目が合って。すぐに目は次の走者へと移ったけれど。
綺麗なフォーム。陸上部じゃないのに。しかも彼にはブランクがあるというのに。
彼がバトンを渡されたときは五チーム中、三位だった。なのに、今はもう一位のチームを抜きそうで。
肘の上あたりで揺れる白い体操着の袖。それは日焼けした腕によく映えていた。
やがてバトンは次の走者へ。わずかに一位には追いつけなかったけれど。でも。
「いくる、すごいなぁ」
驚いて勢いよく隣を向くと、あの男の子がいた。そうだ、行流と話せた喜びで溢れていて、昨日彼の背中を押したことをすっかり忘れてた。
「仲直りできた。今度練習試合にも付き合ってくれるって」
「ほんと?」
よかった。男の子と行流が仲直りできて。瞼はまだ少し赤みを帯びているけれど、いつもの明るくて人気者の男の子だった。
「あ、いくる! 待っててくれたの?」
実行委員の仕事で遅くなったのに。暗い空の色がそれを証明している。昇降口で行流の姿が見えて。
「待ってたよ。それよりよかった。けいがまた他の男と手繋いでたらって」
「そんな心配はいらないよ。わたしにとって一番はいくるだもん」
ちょっぴり恥ずかしいけど、はっきり答えてみせた。もう勘違いされては困るから。
彼は薄い桃色をした頬になる。運動後の暑さじゃなくて、今のセリフにそうなっていたらなと願わずにはいられない。
「おれ、ダサいな」
「え、なにが?」
どこがそうなのか、本気で思って。まったくもってわからないから。私の目に映る行流はいつだってかっこよくて。
「今日のリレー、一位でバトン渡せなかったから」
「リレー? すごいかっこよかったよ」
今でも鮮明に思い出せる。綺麗なフォームで走ってた彼の姿を。
「まぁ、練習したから」
「やっぱり練習してたんだね」
日焼けしてたからそうだとは思ってたけど。もしかしたら私にかっこいいところを見せたかったから、なんて。
でもそうだったら嬉しいな。
あ、と口をついてから帰るぞ、と誤魔化しに入られる。
私もこれ以上は追及せず、素直に頷いて歩き出したときだった。
「あぶなっ」
転びそうになったところを彼が前方から支えてくれて。
「気をつけろよ。せっかく今日の運動会、ケガ人いなかったのに、けいがしたら意味ないだろ」
「う、うん……」
上手く声が出せない。助けてくれたからといって今私は彼に抱き締められているわけで。
遅いこともあって周りには人もいない。本来ならもう離れてもいいのに、しばらく私たちはそのままでいた。
二週間も関わっていなかった分、お互いの存在を確認するように。
こんなに幸せでいいのかな、て思うくらい心地よかった。もっと包まれていたい。彼の温かな身体に。そう思わずにはいられなかった。



