「模試、見せ合いっこしよ」
「うん、いいよ」
桜が散ってもう一ヶ月が経った頃。受験が刻一刻と迫る中、模試の成績表が配られて。
「やった、勝った」
ほとんど同じような点数だけど、若干。
「勝ったって、ちょっとだけじゃん」
と言いつつ、目の前の友人は不満げな表情を浮かべている。同じずつ勝ったり負けたりしているから、一つ負けただけでも相当悔しいのだと思う。事実、私もそうだったときがあるし。
「それでも今回勝ったのは私だもん」
「う~。でもその成績じゃ、彼氏と同じ高校に行けないよね」
「え……」
「紅葉、行流? さんだよね。なに、知らないの? 彼氏が頭いいの」
「知ってるよ、彼女なめないで!」
知ってる。彼が頭いいことぐらい。毎日の登校に単語帳は必ず開いているし、放課後だって塾に通ってる。そんな姿をずっと見てきたのだから。
ただ、そうやってずっとそばで彼を見れなくなってしまうことを知らなかっただけ。それも近い未来に。
「あ、ごめん。けいより点数悪いわたしが言うことじゃないよね? でもこれだけは覚えてて。今ある風景って変わるから」
「え?」
「今回の国語の模試。問題にそんな一文あったでしょ? ほら、国語だけ、けいより点数上だからさ。アピールしたくなっちゃった」
次のチャイムが鳴って、友人がじゃあねと自分の席へと戻ってゆく。
『今ある風景って変わるから』
そのフレーズが頭から離れない。知っていたことなのに。高校で離れてしまうかもしれないことを。
このままそこそこの点数を取ってるだけでいいのかな。そうだとしたら彼とは……。
「え~、今日は運動会の役割分担をします。まずは一番大変な実行委員から」
実行委員。聞いただけで意識から除外される単語、のはずだった。
「やりたい人いますか?」
誰もやらないだろう、と諦めたように控えめに聴く先生。
「はい!」
だけどそれを覆す生徒がいる。今腕をめいいっぱいに挙げている私。
クラスメイト全員の視線が私めがけて注がれる。
「じゃ、じゃあ実行委員は桜庭さんお願いしますね」
「はい」
本当はやりたくない。でも、これはチャンスだから。
重要な役職に就くと、内申点がもらえるから。成績がダメならという考えだ。
彼とまだ一緒にいたい。来年も再来年も。
「女子は決まったので、男子でやりたい人いますか?」
「はい、ぼくやります」
一瞬行流の声に聞こえた。でも彼は隣のクラスだからそんなはずはなくて。
クラスメイトの視線が次に集中したほうを私も向くと、やっぱりと心の中で呟いた。
手を挙げていたのはクラスの中心人物で、明るい男子生徒だった。行流とは違う華やかさを持っているけれど、私は正直苦手。
と、彼がこっちを向いた。軽く会釈してすぐさま視線を逸らす。どうしよう、ずっと見てたって思われたかもしれないと不安が込み上げる。
「わかりました。もっと時間がかかると思っていましたが、予想以上にすんなりと決めれましたね。じゃあ、次の係を決めていきましょう」
そうやって話は進んでいき、全部の係が決まったところでタイミングよくチャイムが鳴った。
どうか話しかけられませんようにと、祈っていたのに一番来てほしくなかった生徒がやって来てしまう。
「桜庭さんだよね? 実行委員よろしく」
「こちらこそ」
よかった、見られてたことは言及してこなくて。と思っていたら。
「ねぇ、どうして実行委員やろうと思ったの? 桜庭さんって、そういうのやらない人だと思ってたから」
「え、別に深い意味はないよ。ただ内申点上げたいなって思っただけで」
心の中で手を合わせる。これ以上突っ込まないで、と願って。その祈りが届いたのか、友だちが彼の名前を呼んで。
「じゃあね。あ、そういえば今日集まりあるらしいから、また」
それだけ言い残すとすぐに彼を呼んだ友人のほうへと走って行った。まるで嵐みたいな人。
どっと疲れた。これからあのノリで話しかけられるのかと思うとなおさら。
「けい、帰ろう」
いつも通り、彼が教室まで迎えにきてくれる。今日は塾がない日だから。
「あ、いくる。うん、帰ろ……」
荷物を詰めていた手が止まる。すっかり忘れてた。せっかく彼と帰れると思ったのに。
「ごめん、今日用事あって」
「用事? 塾通い始めたとか?」
「ううん。あのね、今度の運動会で実行委員やることになって。今日はその集まりなの」
「え、けい、実行委員になったの? ちゃんと嫌っていった?」
「へ?」
思わず変な声を出してしまう。なんの話をしているのかわからなくて。
「だから、誰かからやれっていわれたんだろ。それで断れないまま今に至って」
「違うよ。わたしが立候補したの」
彼が目を見開く。付き合って以来、最大の驚いた表情を彼は見せた。
「誰と?」
しばらく沈黙が続いてぼそっと彼が呟く。身体が冷えてゆくのを肌で感じる。あの男の子の名前を言うと、今度は難しい顔になって。
「なんでよりによって……」
「よりによって?」
予想外のセリフに呆気にとられる。どういうことだろうと考えている間に彼は顔の力を緩めて。
「あ、ごめん。問い詰めるようないい方して」
「ううん、驚くよね。わたしが立候補したなんて」
「ほんと驚くよ。でもだれかにいわれたわけじゃないんだもんな」
「うん」
「なら、頑張れよ。困ったらいつでも力になるから」
「ありがとう」
落ちた一冊のノートを拾ってから、彼は教室を去ってゆく。もし立候補してなかったら今頃はあの隣を歩いていたんだろうなぁ、と感傷的になりながら身支度を整える。
そのとき、また左の指の力が抜けたみたいで、ぱさっとノートが落ちた。
指定された場所へ向かうと、既に大勢の生徒が集まっていた。自分の遅さを痛感する。でもまだ室内がざわついているから、会は始まっていないのだと安心する。
実行委員の集まりとあって、みんなできそうな雰囲気が出ていた。実際みんな優秀なんだろうけれど。
「桜庭さん、こっち」
教室の窓際で彼が手招きをしてきた。その仕草が余計に苦手意識を助長させる。
ちょこんと座って存在感を消そうと努めたけれど、無駄だった。
「遅かったけど、どうしたの? なにかあった?」
「いや、なにも。準備遅くなって」
「そうなんだ。でも気をつけたほうがいいよ。今日はいいけど、ある程度人が集まったら会が始まるとかよくあるから」
「気をつけます……」
さすが、こういうのに慣れてる人。勝手がわかりすぎてて逆に怖い。
いや、怖いのはそれだけじゃない。もっと踏み込んだことを……。
「それでさ、さっき内申点上げたいから実行委員になったっていってたじゃん。どうしてなの?」
ほら、思ったそばから。絶対言いたくない。成績が普通だから内申点で点を稼いで彼と同じ高校に行きたいなんて。でも拒否したらノリ悪いやつだとかよくない噂が広まりそうだし……。
「あ、いいたくなさそうな顔してる」
「え、してませんよ」
顔に出てしまったのかと思って両頬を触っていると。
「まぁ、いわなくてもなんとなくわかるけど。あれでしょ。内申点で彼氏と同じ高校に行きたいとか」
嘘でしょ。まるで人の心の中を覗いて話しているみたい。それほどに私が思っていたことを口にしていたから。
「黙ってるってことは図星、でいいんだよね?」
なにも返事をしていないのに一人勝手に頷かれる。やっぱりこの人、苦手。
「いいね、いくるとラブラブなんだ」
「え、どうしていくるのこと……」
「そろったみたいですので、これから始めたいと思います」
実行委員長と思しき人物が淡々と話し始めたことで、聴くタイミングを失う。もやっとしたまま会は進んでゆく。
だけどその霞は微かに晴れた。自己紹介の時間で彼が部活はサッカー部です、と答えて。
サッカー部。懐かしくて、だけど今でも胸の奥がチクリと痛む響き。
そっか、だから行流のこと……。
「……さん、桜庭さん?」
「あ、はい」
委員長の声で自分の思考から現実に引き戻される。と、同時にこの場にいる生徒全員の視線が集まってることを肌で感じた。
「ずっと呼んでたんだけど」
「すみません」
「じゃあ、自己紹介して」
「はい、わかりました……」
口ぶりから何度も呼ばれてたんだと、恥ずかしさでいっぱいになった。正直、目立つタイプじゃないからこういうときすごい困る。隣の男の子と行流との繋がりが少し見えたことよりも、今はこっちのほうが重要だった。
「桜庭さんって、家どこ?」
「なんの話ですか」
「暗いから家まで送るよって話」
「いえ、一人で帰れるので大丈夫です」
一時間ほどの集まりが終わり、やっと帰れると席を立ったら五十嵐さんに話しかけられて。他の女の子だったら目がハートになるんだろうけど、私はそうはいかない。代わりに冷ややかな視線を彼に送った。
「そんなこといわずにさ。とにかく一緒に帰ろう」
「いやです」
なのにしつこく絡んできて。確かにもう暗くて危なそうだけど、行流以外の男の子と帰るなんて、ありえない。
だけど玄関で靴を履き終えてもまだ彼はいて。
「じゃあ、言い方を変えよう。ぼくと帰って」
行くよ、と突然手首を掴まれた。どうしてこんなことをするのだろう。こんな強引なこと、行流にだってされたことないのに。今すぐにでも振りほどきたいけど、力が強くてできない。そのまま石像のないただの台座の前まで来たときだった。
「なにしてんの?」
昇降口から漏れる灯りが不機嫌そうな声の主を照らす。鏡はないのに自分の顔が青くなってゆくのがわかる。と、同時に手首に加わっていた力が消えた。さすがの五十嵐さんも足を止めて、掴むのをやめたから。
「……いくる」
今、この状況を一番見られたくない人の名前がこぼれる。これじゃ、まるで……。
「心変わりしたんだな」
「ち、違うよ。これは……」
「違うって、なにが? よくいうよ。手なんか繋いで」
じゃ、のかけ声もなく無言で校門へと彼は消えて行こうとして。
「待ってよ」
おいてかないで。そう叫んだけれど、止まってくれる気配はまったくなくて。
「ごめん……」
手首を緩めた彼と目が合う。その瞬間、怒りが沸き立つのを肌で感じた。
「あなたのせいだよ」
それだけ吐き捨てて、私は走った。彼に追いつくために。でもいくら駆けても、彼の姿はどこにもなくて。
足が言うことを聞かなくなってこける。幸い怪我はなかったけど、それ以上に痛い場所があった。
誤解だよって、伝えたい。私の一番はいくるだからって。
いつも会いたいのも、手をつなぎたいのも、全部君なのに。
でも、もう夜の闇にのまれてしまった彼には届かない。ただ彼が去ったであろう道の先を見つめることしかできなくて。
それから、朝の待ち合わせ場所に行流は来なかった。学校で見かけても、あからさまに避けられて。とても誤解だよって言える雰囲気じゃなかった。そのうち学校で見かけることも……。
一目見たくて、彼のクラスの前に立ったこともあった。でもそれだけだった。楽しげに友だちと話している彼の表情を崩してしまう気がして。
おかげで仕事は手につかなかった。運動会で使う備品を落としたり、転んで重要な資料をばらまいてしまったり。とにかく色々。
このまま関わらなくなって、恋人じゃなくなる。そう思ったら、どんなことも一生懸命になれなかった。
いやだ。これからも行流の彼女でいたいよ。
毎日会いたいし、たくさんおしゃべりしたいし、笑顔だってもっと見たい。
出逢う前になんて戻りたくない。あの場所で出逢う前に。
ふと蘇る。古いアルバムをめくったように、彼と、行流との出逢いが。
かっこいい。クールだよね。告白してきた人に冷たいらしいけど、そこもかっこいいよね。そんな女の子たちと一緒に校舎から彼を眺めていた。
サッカーボールを懸命に追う彼は、背景の夕陽が相まって、彼は一段と輝いて見えて。
好きかどうかはわからない。ただこれだけは確信できる。ずっと彼を、紅葉行流さんを見ていられるって。永遠に、は無理だと思ってたけど、卒業までは見れると当たり前に思っていた。
中学二年の夏前。市の大会とかで部活が忙しくなる放課後、廊下にいる女の子たちが少なかった。
あの女の子たちも自分たちの部活で忙しくなったんだ、と最初は思っていて。むしろ人がいないから静かでラッキーくらいに。
だけど、いつもどおり夕陽の差す窓を見た途端、違和感に襲われて。いや、違和感というよりなにか重要なものが決定的に欠けている。そしてわずかにいる女の子たちが、その事実を確かにした。
「やっぱり、いくるくんいないと寂しいね」
「仕方ないよ、怪我しちゃったんでしょ。同クラだけど、今日松葉杖してたもん」
「大会前にかわいそう。辞めないといいんだけどね」
視界から光が消えた。夕焼けが照る窓辺から離れたのもあるけれど。
そのまま階段を下りてゆく。夏前なのに光が届かないだけで、暗くて肌寒い。そんな空間で、彼女たちの声とあのグラウンドの風景が蘇る。私の好きだった背中が見えない景色。
紅葉さんがいなくなった。その事実がたまらなく苦しい。胸だけじゃなくて、身体ごと締め付けられるような、そんな痛み。
どうして。ただ傍観者として見ていただけなのに、こんな辛いんだろう。今日は彼を見ていないはずなのに、頭の中で彼がプレーする情景がこびりついているのだろう。
見れなくなって気づくなんて馬鹿みたい。ずっと見ていられる、なんてあの感情でしか説明できないのに。
好き。たったその二文字に、私は一年以上気づけなかったんだ。
それきり、彼を見かけることはなかった。放課後の窓枠の中で。
人気者に対しては、噂が回るのが早い。彼が怪我をしたこと、そして彼が部活を辞めたこと。
放課後に廊下を通るたび、その事実を突きつけられる。あの窓を見たって、彼はもういないんだって。たとえ遠くからでも彼の姿を追えた頃がかけがえのない時間だったと。以前のように視界は夕陽で色づいているはずなのに、白黒で埋め尽くされて見えた。彼がいない、それだけで。
でも、楽しいことがずっと続かないように、悲しいこともさほど続かなかった。
彼のプレーしている姿が見えてた窓を素通りすることも慣れた秋の中盤。通学路を歩いていれば、一度は香る金木犀の季節。私の好きな季節だ。
不吉なことが起こりそうな暗い階段を下りて、玄関へ来たとき。目に映った人物に、ここにはないはずの金木犀の香りがした。
片手で内履きを持ち上げてそれを下駄箱に片付ける所作がスローに見える。間違いない。彼、紅葉行流だった。
窓際で眺めていたときよりも肌が白くなっていて、サッカーを離れてからの時間の経過を感じる。なにより、あの頃よりも大人びた様子で、一瞬は別人なんじゃないかと思った。でも胸を張って言える。目の前にいる彼が本物だと。一年以上ずっと見てきたから。
彼の手によって通学用の靴が床に置かれる音さえも鮮明に聞こえた。と、同時に不安になる。靴の音さえ聞こえるんだから、自分の鼓動の音も彼の耳に届いてしまうのでは、と。それほどに距離は近くて。今までは遠くからしか彼を見ていなかったのに。
話しかけてみたい。こんなに至近距離で彼を見つけることは今日限りかもしれない。そんな想いが足を一歩、二歩進める。でもそれだけだった。
床に置いた靴に足を通すと、すたすたと玄関の向こうへ行ってしまって。タイミングを失った私は、ただその後ろ姿を眺めることしかできなかった。校門と校舎の間にある石像と同じ角度で。
でも、それからチャンスは何度も訪れた。帰るときに彼を見かけることが多くなって。なのに、一向に声をかけられずにいる。前にどこかで聞いた女の子の噂で。
『告白してきた人に冷たいらしい』
告白をしようとは思ってない。そりゃ、恋人になって一緒にいられたら、最高だけど。でも、話しかけて嫌な顔されたらって。
考え出したらきりがないことを永遠に繰り返して、気づけば街から金木犀の香りは消えていた。
朝は暖かかったのに、帰るときは肌寒くなっていて、上着を羽織っていなかった私は指と指を擦りながら玄関を出る。寒いから早く帰ろう、と歩みを加速させたけれど、急にブレーキがかかった。校門と校舎のちょうど真ん中で。
目の前には石像。自分と同じ制服の女の子だった。彼女は斜め四十五度に顔を上げている。その目線の先は真っ赤に染まった紅葉があった。それは夕陽に負けないくらいの赤さと明るさを放っている。そして私の顔も同じ角度で上げていた。
すごく綺麗で、目が離せなくて。紅葉自体もそうだし、紅葉の隙間から漏れる夕陽も。たった一本しかないのに、不思議と吸い寄せられる。
石像の少女も、そうなのかな。ずっと見ていたくて、あの角度で……って、なわけない。石像が動くなんてそんなファンタジックなこと。
だけどそう思わせるほどの力が、この紅葉の木にはある。足を止めてまで眺めるなんて、紅葉さん以来なかったから。
しばらく眺めていると、石と石が擦れ合うような、鈍い音が近くでしてきょろきょろ辺りを見回すと。
「危ない!」
そう叫ぶ声と、身体全体に大きな力が加わったのはほとんど同じだった。明らかに鬼気迫る状況だと頭で理解したときには倒れていて。しかも近くで尋常じゃない音がした。半径一メートル以内に雷が落ちたような衝撃。
痛みはなくて、すぐに音のしたほうを向いた。さっきまで自分が立っていた場所だ。自分の手のひらサイズの破片がそこら中に散らばっていて。しかも全部石で。そして倒れていたのは、それだけじゃなかった……。
「も、紅葉さん⁉」
どうして……どうして彼が。まさか私のことを庇って……。
「紅葉さん、紅葉さん」
何度も繰り返す。今まで呼べなかった名前を。それでも彼の身体は微塵も動かなくて。
固く閉ざされた瞳。ついこの間まではグラウンドの上できらきらと輝いていたのに。
私のせいで……。そもそもどうして私のことを助けたの?
上着を忘れた自分を呪った。もし上着を持ってきていたなら、まだ教室でとろとろ着替えていたはずだから。
「え、紅葉くん……大丈夫」
「誰か、救急車!」
「あぁ、すぐ呼ぶ」
辺りが騒がしくなる。なのにどうしてか、どの声も壁一枚挟んだ向こうのように聞こえた。それほどに静かで。
人命救助とか授業でちょっと聞いたことがあるくらいで、実際にはできない。どうしよう、このまま彼が……。
すると微かにだけど、胸が動いているのが見えた。控えめに上へ下へ。
全身石になったように硬くなっていた自分の身体が、人らしい柔らかさを取り戻す。生きていると知って。だけどすぐに身体はまた重くなる。
すぐに救急車は来て、彼を連れてゆく。お医者さんが彼の体調を確認するところ、ストレッチャーに運ばれるところ、救急車の後ろの扉が閉ざされるところ、目の前で起こっている一つ一つの出来事をただ見ていることしかできなかった。
救急車が校門を過ぎて見えなくなって、やっと視線は違うところを向いた。こんな事件が起きたのに、今もなお美しく彩りをみせる紅葉と消えた石像を。
その夜は眠れなかった。身体が右へ左へ寝返ってを繰り返す。頭に浮かぶのは、ずっとあの光景。石像の欠片が散らばった地面に、赤く色づきすぎた紅葉の木の下で横たわった彼の姿が。
息はしてた。でも怪我は相当で。至るところから流血していた彼の姿が鮮明に思い出せる。生きてさえいればいいなんて、綺麗事。怪我をしていたら、全然大丈夫なんかじゃない。
私のせい。全部……。そんな私に、好きなんて気持ちを抱く資格はない。
でも、とふと思う。だからといってこのまま謝らないでいるのもどうかと。好きとか、そういう気持ちは置いといて、せめて人として謝らないといけないのでは?
せめて一度くらいお見舞いに行くのが常識、そう思った。無理に目を閉じても、眠れないのなら。
かけ布団をぱっとはがすと、晩秋らしいひんやりと、でも凍えるほどではない空気が余計に自分の目を覚ます。
好きな人を傷つけてしまった。自分に、そんな彼と会う資格はこれっぽっちもないとわかっている。それでも。今の私が彼にできることをしたい。
それが終わったら潔く諦める。一年以上続いた初恋を。
彼の担任に頼み込んでなんとか教えてもらった病院の前に着くと、途端に緊張で身体が震えた。両手で抱える小さな紙袋もそれに合わせて揺れる。もう目の前に彼がいるかと思うくらいに。
意を決して一歩踏み出す。病院の中へと繋ぐ自動ドアが開かれると、消毒の匂いが強く鼻腔を刺して、本当に病院に来たんだと実感した。
彼が入院している四階に着き、エレベーター近くのナースステーションで面会許可をしてもらおう、と思って足が急に重くなる。今さらだけど本当にお見舞いに来ていいのかと。それにもし両親と鉢合わせでもしたらって。
「あの、どうされましたか?」
立ち止まっていたら看護師さんに話しかけられた。きっと不審がられて。
「え、えっと……紅葉行流さんと同じクラスで、配られたプリントを届けに……」
もごもごさせながら、咄嗟に嘘をつく。信じてくれたみたいで看護師さんが部屋の番号をすんなり教えてくれた。
ありがとうございます、と一礼して私は歩き始める。
一歩進むたびに、不安と期待で足が重くなってゆく。彼に拒絶されたらという不安と、彼と対面で話せるという期待で。でも後者はエッセンス。前者のほうが断然大きい。彼をあんなに傷つけてしまったのだから。
そしてついに教えてもらった番号の部屋の扉が目の前に。この先に彼がいるんだと思ったら、なかなか開けられなかった。
横へ引こうにも色んな感情が邪魔をしてほんの少しの隙間を作るのさえ難しくて。でもやがてそれは開いてしまい、ベッドの上の人物と即座に目が合ってしまう。
くっきりとした二重瞼の大きな瞳。それは窓から絶妙に差す夕陽に照って、宝石の集合体みたいに煌めいていた。ううん、目だけじゃない。全部、顔のパーツ全てが彼を綺麗にさせている。
遠くから見ていたあの頃の何倍も彼はかっこよかった。
「だれ?」
綺麗な顔が困惑した表情を作る。ですよね、意識を失う直前にしか会っていないから。だから彼が覚えていないのは百も承知。でも今日ここに来た目的ははっきりしていたから。
「同じ中学校の桜庭景です。今日は謝りにきました。本当にごめんなさい」
深く頭を下げた。私を庇って怪我をさせてしまったことを。どんなに謝ったって、怪我は癒えないし時間は戻せない。それでもこれしか、今の私にはできることがなくて。
「だからおれ、ケガしたのか?」
「う、うん……」
その口ぶりから、紅葉さんはあのときの意識がないみたいだった。なら、今この瞬間、彼は私に対して怒りを覚えたってことになるわけで。
「顔、上げて」
低くて、落ち着いた声で怒っているようには聞こえなかった。でも絶対怒ってるよ。自分の怪我の原因が目の前にいるのだから。
「お願いだから上げて」
どうしよう。顔を上げるのが怖くて。怒った彼の表情が自分に向いているという事実を知ってしまうから。だけどこっちは加害者。二度も言われたことに従うしかない。
心の準備ができて首を上げると、予想外にも彼は怖い表情をしていなかった。なんの色もない真顔で。
「つまり桜庭さんを庇ってケガしたわけだよな、おれ。じゃあ、聞かせて。どういうシチュエーションで事故は起こったんだ?」
「石像の近くの紅葉が綺麗でつい見入ってたら、石像が崩れてきちゃって。そのときに紅葉さんが助けてくれたの」
「そっか、おれ役に立てたんだ……」
「え、なんの話?」
「いや、こっちの話。てか、そんな気にすることじゃないだろ?」
「き、気にするに決まってるよ! わたしのせいでケガしちゃったんだよ」
「……いいんだよ、別に」
「よくないよ!」
「だから、いいんだってば!」
彼のあまりに大きくて強い声に、なにも返せなくなる。それがわかって彼もごめん、と控えめに呟いた。それからさらに小さくため息をついたあとで。
「おれ、今すごい達成感でいっぱいなんだ」
「え?」
思いもよらない一言にそう漏らさずにはいられなかった。だって、それじゃあ怪我したことがいいことみたいで。
「おれ、サッカーが好きだったんだ。小さい頃から大好きで、部活もサッカー部で」
「うん。知ってるよ」
「知ってるって、なんで? 初対面だよな?」
「あ、ごめん。廊下でサッカーやってるの見かけたことあったから」
しまった、つい口が滑ってしまって。これじゃ、ストーカーみたいになっちゃう、と思ったけどふーんで流されて一安心。そのまま気にせず彼は夢を語り始めた。小さい頃からの大切な夢を。
「おれ、サッカー選手になりたかったんだ。だってそうだろ。好きなことを大人になっても続けられるから」
沈みゆく夕陽とは対照的に、彼の目は煌めき出す。グラウンドでサッカーボールを追いかけてた、以前のように。だから、でも、と彼がこぼした二音は、太陽のいない夜のように暗くて。
「大事な大会の前日だった。でもなんの変哲もない普通の日だった。だから想像すらしてなかった。まさか試合中に石につまずいてケガをするだなんて」
「ケガ……」
まさか、そんなことがあったなんて。だから、その日以降彼を見かけなかったんだと合点がいった。
なら、聴かなくてもわかる。そのあとの彼になにが起きたかを。だけど聴かずとも彼は話し始めた。
「医者に診てもらったけど、明日の試合は無理だと言われた。部活の成績とか推薦も視野に入れた大会だったのに。それにいくら治ったって、部員たちはその間も練習してる。もう追いつけないって、そのまま……」
サッカーを辞めた。その一言がすごく重くて、石で胸を叩かれているような痛みが全身に響く。
たった一つの怪我。それだけで、好きなこと、夢を諦めることになるだなんて。痛くて、辛くて、苦しくて、きっと生きることさえも……。なのに彼は、今はなんとも思ってない、と口にした。
「生きることさえ億劫になったこともあったし、これまでの努力は全部無駄だったって実際嘆いてた。でも今は、それも必要なことだったって誇れる」
「え、どういうこと?」
わからなかった。夢を絶たれた上に、今なんて怪我をして入院しているのに。しかも多分大会前よりもひどい怪我なはずで。
すると彼は表情を和らげた。強い西日じゃなくて、今くらいの日没直前の弱い夕陽みたいな。
「意識はないけど、助けられたんだろ? あ、ケガとかしてない?」
「う、ううん大丈夫」
「なら、よかった。意味はあったんだな」
「そんな。簡単に許さないでほしいよ」
たとえ、これが今までの彼の努力が報われた出来事になったとしても。それでも彼をケガさせたことに変わりない。夢どころか、今ある学校生活も絶たれることになるから。
「本当に気にしてないから」
戸惑った表情をする彼。もしかしたら、困らせてしまっているのかも、と思い始めたとき。
「それ、なに?」
私に人差し指が向けられる。私というより、私の手元に。
「お見舞いの、品、です……」
中身は、と訊かれてクッキーと伝えたら。
「食べたい!」
途端に目を光らせた。正直自分のいないところで食べてほしかったけど、仕方なくそれを手渡す。
シンプルな紙袋。どんなデザインのものがいいか悩んだ昨日のことを思い出す。中からは透明なものに包まれたクッキーが現れる。お店のみたいに完璧な包装じゃないから。
「これ、手作り?」
「う、うん……」
やっぱり、突っ込まれた。手作り嫌かな、と急に不安が押し寄せていると。
「わざわざ作ってくれてありがと」
ふわっとまた表情を和らげてくれる。その顔を見るのが恥ずかしくなって、咄嗟に床を見た。ほとんど光がないから、何色かもわからない床を。
見ていなくても、聞こえてくる。袋を開ける音が。もうすぐ自分の作ったものが彼の口に。初めて好きになった人に。
美味しい、なんて贅沢すぎる。せめてまずい、と言われないことを願った。
クッキーだから、食べた瞬間がすぐにわかる。サクッとクリアな音が鼓膜を貫く。最後まで床を見ていようと思ったけど、やっぱり彼がどんな反応を示しているか気になって、結局顔を上げてしまう。
目がぴたっと合った。タイミング悪く。
サクッサクッ、と次々に同じ音が降ってきた。しかもそれはいつまで経っても止まない。彼がそれを口に入れ続けているから。あっという間に一枚食べたところで。
「美味しい」
褒めとそれに相応しいほどの笑み。私には贅沢すぎる反応に、なにも返せずにいると。
「これ、本当に桜庭さんが作ったの? すごいね」
信じられないといった表情で、もう二枚目にいこうとしていた。すぐにまた小気味いい音が聞こえてくる。
「いや、全然! 両親共働きで、料理とか一人で作ることが多くて。帰宅部だから、いくらでも時間はあるし。だから、すごくないよ」
すごくなんてない。料理もお菓子作りもただの暇つぶしでしていることだから。
「時間って、他にも使い道があるだろ。ゲームしたり、漫画したり、動画観たり。けど、桜庭さんはその時間を料理に使った。自分の技術を上げるために。そこがすごいって思った」
「……ありがとう」
彼のまっすぐな言葉が胸にしみる。そんなすごいっていうほどのこと、してないことはわかってる。でも嬉しくて。
彼がどんな表情をしているか気になるのに、暗くて見えない。そこでようやく気付いた。
「わたし、そろそろ帰らないと」
もう緊張のない柔らかな空間にまだ浸っていたいけど。もっとここにいたい気持ちを抑えながら、踵を返したとき。
「明日も来てくれる?」
心臓が変な音を立てた。すぐに彼のほうへ向くけれど、やっぱりどんな表情をしているかわからない。
でも確かに、今彼は私を引き留めた。彼も私といたいのだと。そう妄想すればするほど、規則正しかったはずの呼吸が乱れてゆく。
「また桜庭さんのスイーツが食べたいから」
胸が数秒くらい息の受け取りを拒んだ。自惚れにもほどがありすぎ。
そんなことあるはずないのに。彼が私といたいから、明日の約束した、なんて。
ため息の代わりにうん、と小さく頷いて今度こそ部屋を出る。
静かに彼のいる病室を閉めたところで、やっと大きく息を吐けた。
吐いて、吸ってを繰り返す。それでも呼吸の不規則さは変わらない。
今日はちゃんと謝れて、しかも明日好きな人に会える。でもその人は私の作るお菓子が目的。
こんなことは初めてだった。まったく別の感情が複雑に絡み合う、そんな経験は。
廊下は電気のおかげで、彼の病室と違って明るい。もう一度だけ深呼吸をして、でもやっぱり整わないと諦めて彼のいる扉から離れた。
それから一週間が経って、明日退院という日。
彼の言う通り、毎日欠かさずお見舞いに来た。手作りのお菓子を連れて。
美味しいっていつも褒めてくれた。本当に美味しいしか言ってくれないけど、それだけで嬉しくて。好きな人が笑ってくれている。その事実だけで。
でも、明日退院ということは。
こうやって彼と、行流と会えなくなる。
あの事件の前だったら当たり前のこと。でも、もう私は知ってしまった。大好きな彼と過ごす幸せな時間を。
もし気持ちをぶつけなければ、その時間は続かない。ぶつけたとしてもそうかもしれない。きっとその可能性のほうが高いと思う。
伝えるか、伝えないか。すると今日も笑みを浮かべながら、私の作ったお菓子を頬張る彼は。
「ちょっと散歩に付き合ってくれないか」
「え、う、うん。いいよ」
残りのお菓子を全部平らげてから、彼は立ち上がった。
カタン、カタンと彼が手にする松葉杖の音が響く夕方の廊下。緊張に震える静かな空間。
私も彼も一言も発しないまま、中庭に来たとき。
「きれい……」
思わず声が漏れてしまう。隣に彼がいるのもお構いなく。
でもそれくらいに、目の前の風景に見惚れてしまって。
あの石像のところにあったのとは比べ物にならないくらい、たくさんの紅葉が風に揺れていた。
「その顔が見たかったんだ」
「え?」
紅葉から彼に視線を移す。こんなに彼の頬って赤かったっけと不思議に首を傾げた。まるで紅葉みたいな色をしていたから。
「桜庭さん。おれと付き合ってください」
「え」
信じられない。あまりにも現実離れしたセリフを投げかけられて。
ついこの間までは遠くから見ているだけだったのに、こんなこと……。
でも彼は続けてくれた。こんな、どこにでもいるような私を選んでくれた理由を。
「怪我してから、おれずっとサッカーしてた時間は無駄だって思うようになってた。でも、一週間前。桜庭さんを助けられて、それが無駄じゃないってわかった。桜庭さんが教えてくれたんだよ。あの時間も必要だったって」
「そんな、結局紅葉さんにケガさせちゃったし……」
「言ったろ、気にするなって。むしろ、そのおかげで心のケガが治ったんだ。そのほうが重いケガだったんだから」
それに、と彼はさらに続ける。
「石像が倒れる前に紅葉見てた桜庭さん、すごいきれいな顔してた」
「きれいな顔?」
「うん。紅葉の中まで透けて見えるのかなってくらい真剣できれいで。だから……」
好きになりました。確かにそう耳に届いた。
「わたしも、好きでした。ずっと前から」
サッカーしているところを廊下から見ていたこと、その姿が目に焼きついて離れなかったこと。ストーカーチックで引かれてしまわないか不安になりながらも正直に言葉にした。彼だって理由まで話して告白してくれたから。
だけどそれは杞憂に終わった。じゃあ、付き合おうと言ってくれて。
そうやって私たちは恋人になった。名前も桜庭さんから、けいさん。けいちゃんからけいに変わってむずがゆさに襲われたもまるで昨日のことのように思い出せるのに。
「うん、いいよ」
桜が散ってもう一ヶ月が経った頃。受験が刻一刻と迫る中、模試の成績表が配られて。
「やった、勝った」
ほとんど同じような点数だけど、若干。
「勝ったって、ちょっとだけじゃん」
と言いつつ、目の前の友人は不満げな表情を浮かべている。同じずつ勝ったり負けたりしているから、一つ負けただけでも相当悔しいのだと思う。事実、私もそうだったときがあるし。
「それでも今回勝ったのは私だもん」
「う~。でもその成績じゃ、彼氏と同じ高校に行けないよね」
「え……」
「紅葉、行流? さんだよね。なに、知らないの? 彼氏が頭いいの」
「知ってるよ、彼女なめないで!」
知ってる。彼が頭いいことぐらい。毎日の登校に単語帳は必ず開いているし、放課後だって塾に通ってる。そんな姿をずっと見てきたのだから。
ただ、そうやってずっとそばで彼を見れなくなってしまうことを知らなかっただけ。それも近い未来に。
「あ、ごめん。けいより点数悪いわたしが言うことじゃないよね? でもこれだけは覚えてて。今ある風景って変わるから」
「え?」
「今回の国語の模試。問題にそんな一文あったでしょ? ほら、国語だけ、けいより点数上だからさ。アピールしたくなっちゃった」
次のチャイムが鳴って、友人がじゃあねと自分の席へと戻ってゆく。
『今ある風景って変わるから』
そのフレーズが頭から離れない。知っていたことなのに。高校で離れてしまうかもしれないことを。
このままそこそこの点数を取ってるだけでいいのかな。そうだとしたら彼とは……。
「え~、今日は運動会の役割分担をします。まずは一番大変な実行委員から」
実行委員。聞いただけで意識から除外される単語、のはずだった。
「やりたい人いますか?」
誰もやらないだろう、と諦めたように控えめに聴く先生。
「はい!」
だけどそれを覆す生徒がいる。今腕をめいいっぱいに挙げている私。
クラスメイト全員の視線が私めがけて注がれる。
「じゃ、じゃあ実行委員は桜庭さんお願いしますね」
「はい」
本当はやりたくない。でも、これはチャンスだから。
重要な役職に就くと、内申点がもらえるから。成績がダメならという考えだ。
彼とまだ一緒にいたい。来年も再来年も。
「女子は決まったので、男子でやりたい人いますか?」
「はい、ぼくやります」
一瞬行流の声に聞こえた。でも彼は隣のクラスだからそんなはずはなくて。
クラスメイトの視線が次に集中したほうを私も向くと、やっぱりと心の中で呟いた。
手を挙げていたのはクラスの中心人物で、明るい男子生徒だった。行流とは違う華やかさを持っているけれど、私は正直苦手。
と、彼がこっちを向いた。軽く会釈してすぐさま視線を逸らす。どうしよう、ずっと見てたって思われたかもしれないと不安が込み上げる。
「わかりました。もっと時間がかかると思っていましたが、予想以上にすんなりと決めれましたね。じゃあ、次の係を決めていきましょう」
そうやって話は進んでいき、全部の係が決まったところでタイミングよくチャイムが鳴った。
どうか話しかけられませんようにと、祈っていたのに一番来てほしくなかった生徒がやって来てしまう。
「桜庭さんだよね? 実行委員よろしく」
「こちらこそ」
よかった、見られてたことは言及してこなくて。と思っていたら。
「ねぇ、どうして実行委員やろうと思ったの? 桜庭さんって、そういうのやらない人だと思ってたから」
「え、別に深い意味はないよ。ただ内申点上げたいなって思っただけで」
心の中で手を合わせる。これ以上突っ込まないで、と願って。その祈りが届いたのか、友だちが彼の名前を呼んで。
「じゃあね。あ、そういえば今日集まりあるらしいから、また」
それだけ言い残すとすぐに彼を呼んだ友人のほうへと走って行った。まるで嵐みたいな人。
どっと疲れた。これからあのノリで話しかけられるのかと思うとなおさら。
「けい、帰ろう」
いつも通り、彼が教室まで迎えにきてくれる。今日は塾がない日だから。
「あ、いくる。うん、帰ろ……」
荷物を詰めていた手が止まる。すっかり忘れてた。せっかく彼と帰れると思ったのに。
「ごめん、今日用事あって」
「用事? 塾通い始めたとか?」
「ううん。あのね、今度の運動会で実行委員やることになって。今日はその集まりなの」
「え、けい、実行委員になったの? ちゃんと嫌っていった?」
「へ?」
思わず変な声を出してしまう。なんの話をしているのかわからなくて。
「だから、誰かからやれっていわれたんだろ。それで断れないまま今に至って」
「違うよ。わたしが立候補したの」
彼が目を見開く。付き合って以来、最大の驚いた表情を彼は見せた。
「誰と?」
しばらく沈黙が続いてぼそっと彼が呟く。身体が冷えてゆくのを肌で感じる。あの男の子の名前を言うと、今度は難しい顔になって。
「なんでよりによって……」
「よりによって?」
予想外のセリフに呆気にとられる。どういうことだろうと考えている間に彼は顔の力を緩めて。
「あ、ごめん。問い詰めるようないい方して」
「ううん、驚くよね。わたしが立候補したなんて」
「ほんと驚くよ。でもだれかにいわれたわけじゃないんだもんな」
「うん」
「なら、頑張れよ。困ったらいつでも力になるから」
「ありがとう」
落ちた一冊のノートを拾ってから、彼は教室を去ってゆく。もし立候補してなかったら今頃はあの隣を歩いていたんだろうなぁ、と感傷的になりながら身支度を整える。
そのとき、また左の指の力が抜けたみたいで、ぱさっとノートが落ちた。
指定された場所へ向かうと、既に大勢の生徒が集まっていた。自分の遅さを痛感する。でもまだ室内がざわついているから、会は始まっていないのだと安心する。
実行委員の集まりとあって、みんなできそうな雰囲気が出ていた。実際みんな優秀なんだろうけれど。
「桜庭さん、こっち」
教室の窓際で彼が手招きをしてきた。その仕草が余計に苦手意識を助長させる。
ちょこんと座って存在感を消そうと努めたけれど、無駄だった。
「遅かったけど、どうしたの? なにかあった?」
「いや、なにも。準備遅くなって」
「そうなんだ。でも気をつけたほうがいいよ。今日はいいけど、ある程度人が集まったら会が始まるとかよくあるから」
「気をつけます……」
さすが、こういうのに慣れてる人。勝手がわかりすぎてて逆に怖い。
いや、怖いのはそれだけじゃない。もっと踏み込んだことを……。
「それでさ、さっき内申点上げたいから実行委員になったっていってたじゃん。どうしてなの?」
ほら、思ったそばから。絶対言いたくない。成績が普通だから内申点で点を稼いで彼と同じ高校に行きたいなんて。でも拒否したらノリ悪いやつだとかよくない噂が広まりそうだし……。
「あ、いいたくなさそうな顔してる」
「え、してませんよ」
顔に出てしまったのかと思って両頬を触っていると。
「まぁ、いわなくてもなんとなくわかるけど。あれでしょ。内申点で彼氏と同じ高校に行きたいとか」
嘘でしょ。まるで人の心の中を覗いて話しているみたい。それほどに私が思っていたことを口にしていたから。
「黙ってるってことは図星、でいいんだよね?」
なにも返事をしていないのに一人勝手に頷かれる。やっぱりこの人、苦手。
「いいね、いくるとラブラブなんだ」
「え、どうしていくるのこと……」
「そろったみたいですので、これから始めたいと思います」
実行委員長と思しき人物が淡々と話し始めたことで、聴くタイミングを失う。もやっとしたまま会は進んでゆく。
だけどその霞は微かに晴れた。自己紹介の時間で彼が部活はサッカー部です、と答えて。
サッカー部。懐かしくて、だけど今でも胸の奥がチクリと痛む響き。
そっか、だから行流のこと……。
「……さん、桜庭さん?」
「あ、はい」
委員長の声で自分の思考から現実に引き戻される。と、同時にこの場にいる生徒全員の視線が集まってることを肌で感じた。
「ずっと呼んでたんだけど」
「すみません」
「じゃあ、自己紹介して」
「はい、わかりました……」
口ぶりから何度も呼ばれてたんだと、恥ずかしさでいっぱいになった。正直、目立つタイプじゃないからこういうときすごい困る。隣の男の子と行流との繋がりが少し見えたことよりも、今はこっちのほうが重要だった。
「桜庭さんって、家どこ?」
「なんの話ですか」
「暗いから家まで送るよって話」
「いえ、一人で帰れるので大丈夫です」
一時間ほどの集まりが終わり、やっと帰れると席を立ったら五十嵐さんに話しかけられて。他の女の子だったら目がハートになるんだろうけど、私はそうはいかない。代わりに冷ややかな視線を彼に送った。
「そんなこといわずにさ。とにかく一緒に帰ろう」
「いやです」
なのにしつこく絡んできて。確かにもう暗くて危なそうだけど、行流以外の男の子と帰るなんて、ありえない。
だけど玄関で靴を履き終えてもまだ彼はいて。
「じゃあ、言い方を変えよう。ぼくと帰って」
行くよ、と突然手首を掴まれた。どうしてこんなことをするのだろう。こんな強引なこと、行流にだってされたことないのに。今すぐにでも振りほどきたいけど、力が強くてできない。そのまま石像のないただの台座の前まで来たときだった。
「なにしてんの?」
昇降口から漏れる灯りが不機嫌そうな声の主を照らす。鏡はないのに自分の顔が青くなってゆくのがわかる。と、同時に手首に加わっていた力が消えた。さすがの五十嵐さんも足を止めて、掴むのをやめたから。
「……いくる」
今、この状況を一番見られたくない人の名前がこぼれる。これじゃ、まるで……。
「心変わりしたんだな」
「ち、違うよ。これは……」
「違うって、なにが? よくいうよ。手なんか繋いで」
じゃ、のかけ声もなく無言で校門へと彼は消えて行こうとして。
「待ってよ」
おいてかないで。そう叫んだけれど、止まってくれる気配はまったくなくて。
「ごめん……」
手首を緩めた彼と目が合う。その瞬間、怒りが沸き立つのを肌で感じた。
「あなたのせいだよ」
それだけ吐き捨てて、私は走った。彼に追いつくために。でもいくら駆けても、彼の姿はどこにもなくて。
足が言うことを聞かなくなってこける。幸い怪我はなかったけど、それ以上に痛い場所があった。
誤解だよって、伝えたい。私の一番はいくるだからって。
いつも会いたいのも、手をつなぎたいのも、全部君なのに。
でも、もう夜の闇にのまれてしまった彼には届かない。ただ彼が去ったであろう道の先を見つめることしかできなくて。
それから、朝の待ち合わせ場所に行流は来なかった。学校で見かけても、あからさまに避けられて。とても誤解だよって言える雰囲気じゃなかった。そのうち学校で見かけることも……。
一目見たくて、彼のクラスの前に立ったこともあった。でもそれだけだった。楽しげに友だちと話している彼の表情を崩してしまう気がして。
おかげで仕事は手につかなかった。運動会で使う備品を落としたり、転んで重要な資料をばらまいてしまったり。とにかく色々。
このまま関わらなくなって、恋人じゃなくなる。そう思ったら、どんなことも一生懸命になれなかった。
いやだ。これからも行流の彼女でいたいよ。
毎日会いたいし、たくさんおしゃべりしたいし、笑顔だってもっと見たい。
出逢う前になんて戻りたくない。あの場所で出逢う前に。
ふと蘇る。古いアルバムをめくったように、彼と、行流との出逢いが。
かっこいい。クールだよね。告白してきた人に冷たいらしいけど、そこもかっこいいよね。そんな女の子たちと一緒に校舎から彼を眺めていた。
サッカーボールを懸命に追う彼は、背景の夕陽が相まって、彼は一段と輝いて見えて。
好きかどうかはわからない。ただこれだけは確信できる。ずっと彼を、紅葉行流さんを見ていられるって。永遠に、は無理だと思ってたけど、卒業までは見れると当たり前に思っていた。
中学二年の夏前。市の大会とかで部活が忙しくなる放課後、廊下にいる女の子たちが少なかった。
あの女の子たちも自分たちの部活で忙しくなったんだ、と最初は思っていて。むしろ人がいないから静かでラッキーくらいに。
だけど、いつもどおり夕陽の差す窓を見た途端、違和感に襲われて。いや、違和感というよりなにか重要なものが決定的に欠けている。そしてわずかにいる女の子たちが、その事実を確かにした。
「やっぱり、いくるくんいないと寂しいね」
「仕方ないよ、怪我しちゃったんでしょ。同クラだけど、今日松葉杖してたもん」
「大会前にかわいそう。辞めないといいんだけどね」
視界から光が消えた。夕焼けが照る窓辺から離れたのもあるけれど。
そのまま階段を下りてゆく。夏前なのに光が届かないだけで、暗くて肌寒い。そんな空間で、彼女たちの声とあのグラウンドの風景が蘇る。私の好きだった背中が見えない景色。
紅葉さんがいなくなった。その事実がたまらなく苦しい。胸だけじゃなくて、身体ごと締め付けられるような、そんな痛み。
どうして。ただ傍観者として見ていただけなのに、こんな辛いんだろう。今日は彼を見ていないはずなのに、頭の中で彼がプレーする情景がこびりついているのだろう。
見れなくなって気づくなんて馬鹿みたい。ずっと見ていられる、なんてあの感情でしか説明できないのに。
好き。たったその二文字に、私は一年以上気づけなかったんだ。
それきり、彼を見かけることはなかった。放課後の窓枠の中で。
人気者に対しては、噂が回るのが早い。彼が怪我をしたこと、そして彼が部活を辞めたこと。
放課後に廊下を通るたび、その事実を突きつけられる。あの窓を見たって、彼はもういないんだって。たとえ遠くからでも彼の姿を追えた頃がかけがえのない時間だったと。以前のように視界は夕陽で色づいているはずなのに、白黒で埋め尽くされて見えた。彼がいない、それだけで。
でも、楽しいことがずっと続かないように、悲しいこともさほど続かなかった。
彼のプレーしている姿が見えてた窓を素通りすることも慣れた秋の中盤。通学路を歩いていれば、一度は香る金木犀の季節。私の好きな季節だ。
不吉なことが起こりそうな暗い階段を下りて、玄関へ来たとき。目に映った人物に、ここにはないはずの金木犀の香りがした。
片手で内履きを持ち上げてそれを下駄箱に片付ける所作がスローに見える。間違いない。彼、紅葉行流だった。
窓際で眺めていたときよりも肌が白くなっていて、サッカーを離れてからの時間の経過を感じる。なにより、あの頃よりも大人びた様子で、一瞬は別人なんじゃないかと思った。でも胸を張って言える。目の前にいる彼が本物だと。一年以上ずっと見てきたから。
彼の手によって通学用の靴が床に置かれる音さえも鮮明に聞こえた。と、同時に不安になる。靴の音さえ聞こえるんだから、自分の鼓動の音も彼の耳に届いてしまうのでは、と。それほどに距離は近くて。今までは遠くからしか彼を見ていなかったのに。
話しかけてみたい。こんなに至近距離で彼を見つけることは今日限りかもしれない。そんな想いが足を一歩、二歩進める。でもそれだけだった。
床に置いた靴に足を通すと、すたすたと玄関の向こうへ行ってしまって。タイミングを失った私は、ただその後ろ姿を眺めることしかできなかった。校門と校舎の間にある石像と同じ角度で。
でも、それからチャンスは何度も訪れた。帰るときに彼を見かけることが多くなって。なのに、一向に声をかけられずにいる。前にどこかで聞いた女の子の噂で。
『告白してきた人に冷たいらしい』
告白をしようとは思ってない。そりゃ、恋人になって一緒にいられたら、最高だけど。でも、話しかけて嫌な顔されたらって。
考え出したらきりがないことを永遠に繰り返して、気づけば街から金木犀の香りは消えていた。
朝は暖かかったのに、帰るときは肌寒くなっていて、上着を羽織っていなかった私は指と指を擦りながら玄関を出る。寒いから早く帰ろう、と歩みを加速させたけれど、急にブレーキがかかった。校門と校舎のちょうど真ん中で。
目の前には石像。自分と同じ制服の女の子だった。彼女は斜め四十五度に顔を上げている。その目線の先は真っ赤に染まった紅葉があった。それは夕陽に負けないくらいの赤さと明るさを放っている。そして私の顔も同じ角度で上げていた。
すごく綺麗で、目が離せなくて。紅葉自体もそうだし、紅葉の隙間から漏れる夕陽も。たった一本しかないのに、不思議と吸い寄せられる。
石像の少女も、そうなのかな。ずっと見ていたくて、あの角度で……って、なわけない。石像が動くなんてそんなファンタジックなこと。
だけどそう思わせるほどの力が、この紅葉の木にはある。足を止めてまで眺めるなんて、紅葉さん以来なかったから。
しばらく眺めていると、石と石が擦れ合うような、鈍い音が近くでしてきょろきょろ辺りを見回すと。
「危ない!」
そう叫ぶ声と、身体全体に大きな力が加わったのはほとんど同じだった。明らかに鬼気迫る状況だと頭で理解したときには倒れていて。しかも近くで尋常じゃない音がした。半径一メートル以内に雷が落ちたような衝撃。
痛みはなくて、すぐに音のしたほうを向いた。さっきまで自分が立っていた場所だ。自分の手のひらサイズの破片がそこら中に散らばっていて。しかも全部石で。そして倒れていたのは、それだけじゃなかった……。
「も、紅葉さん⁉」
どうして……どうして彼が。まさか私のことを庇って……。
「紅葉さん、紅葉さん」
何度も繰り返す。今まで呼べなかった名前を。それでも彼の身体は微塵も動かなくて。
固く閉ざされた瞳。ついこの間まではグラウンドの上できらきらと輝いていたのに。
私のせいで……。そもそもどうして私のことを助けたの?
上着を忘れた自分を呪った。もし上着を持ってきていたなら、まだ教室でとろとろ着替えていたはずだから。
「え、紅葉くん……大丈夫」
「誰か、救急車!」
「あぁ、すぐ呼ぶ」
辺りが騒がしくなる。なのにどうしてか、どの声も壁一枚挟んだ向こうのように聞こえた。それほどに静かで。
人命救助とか授業でちょっと聞いたことがあるくらいで、実際にはできない。どうしよう、このまま彼が……。
すると微かにだけど、胸が動いているのが見えた。控えめに上へ下へ。
全身石になったように硬くなっていた自分の身体が、人らしい柔らかさを取り戻す。生きていると知って。だけどすぐに身体はまた重くなる。
すぐに救急車は来て、彼を連れてゆく。お医者さんが彼の体調を確認するところ、ストレッチャーに運ばれるところ、救急車の後ろの扉が閉ざされるところ、目の前で起こっている一つ一つの出来事をただ見ていることしかできなかった。
救急車が校門を過ぎて見えなくなって、やっと視線は違うところを向いた。こんな事件が起きたのに、今もなお美しく彩りをみせる紅葉と消えた石像を。
その夜は眠れなかった。身体が右へ左へ寝返ってを繰り返す。頭に浮かぶのは、ずっとあの光景。石像の欠片が散らばった地面に、赤く色づきすぎた紅葉の木の下で横たわった彼の姿が。
息はしてた。でも怪我は相当で。至るところから流血していた彼の姿が鮮明に思い出せる。生きてさえいればいいなんて、綺麗事。怪我をしていたら、全然大丈夫なんかじゃない。
私のせい。全部……。そんな私に、好きなんて気持ちを抱く資格はない。
でも、とふと思う。だからといってこのまま謝らないでいるのもどうかと。好きとか、そういう気持ちは置いといて、せめて人として謝らないといけないのでは?
せめて一度くらいお見舞いに行くのが常識、そう思った。無理に目を閉じても、眠れないのなら。
かけ布団をぱっとはがすと、晩秋らしいひんやりと、でも凍えるほどではない空気が余計に自分の目を覚ます。
好きな人を傷つけてしまった。自分に、そんな彼と会う資格はこれっぽっちもないとわかっている。それでも。今の私が彼にできることをしたい。
それが終わったら潔く諦める。一年以上続いた初恋を。
彼の担任に頼み込んでなんとか教えてもらった病院の前に着くと、途端に緊張で身体が震えた。両手で抱える小さな紙袋もそれに合わせて揺れる。もう目の前に彼がいるかと思うくらいに。
意を決して一歩踏み出す。病院の中へと繋ぐ自動ドアが開かれると、消毒の匂いが強く鼻腔を刺して、本当に病院に来たんだと実感した。
彼が入院している四階に着き、エレベーター近くのナースステーションで面会許可をしてもらおう、と思って足が急に重くなる。今さらだけど本当にお見舞いに来ていいのかと。それにもし両親と鉢合わせでもしたらって。
「あの、どうされましたか?」
立ち止まっていたら看護師さんに話しかけられた。きっと不審がられて。
「え、えっと……紅葉行流さんと同じクラスで、配られたプリントを届けに……」
もごもごさせながら、咄嗟に嘘をつく。信じてくれたみたいで看護師さんが部屋の番号をすんなり教えてくれた。
ありがとうございます、と一礼して私は歩き始める。
一歩進むたびに、不安と期待で足が重くなってゆく。彼に拒絶されたらという不安と、彼と対面で話せるという期待で。でも後者はエッセンス。前者のほうが断然大きい。彼をあんなに傷つけてしまったのだから。
そしてついに教えてもらった番号の部屋の扉が目の前に。この先に彼がいるんだと思ったら、なかなか開けられなかった。
横へ引こうにも色んな感情が邪魔をしてほんの少しの隙間を作るのさえ難しくて。でもやがてそれは開いてしまい、ベッドの上の人物と即座に目が合ってしまう。
くっきりとした二重瞼の大きな瞳。それは窓から絶妙に差す夕陽に照って、宝石の集合体みたいに煌めいていた。ううん、目だけじゃない。全部、顔のパーツ全てが彼を綺麗にさせている。
遠くから見ていたあの頃の何倍も彼はかっこよかった。
「だれ?」
綺麗な顔が困惑した表情を作る。ですよね、意識を失う直前にしか会っていないから。だから彼が覚えていないのは百も承知。でも今日ここに来た目的ははっきりしていたから。
「同じ中学校の桜庭景です。今日は謝りにきました。本当にごめんなさい」
深く頭を下げた。私を庇って怪我をさせてしまったことを。どんなに謝ったって、怪我は癒えないし時間は戻せない。それでもこれしか、今の私にはできることがなくて。
「だからおれ、ケガしたのか?」
「う、うん……」
その口ぶりから、紅葉さんはあのときの意識がないみたいだった。なら、今この瞬間、彼は私に対して怒りを覚えたってことになるわけで。
「顔、上げて」
低くて、落ち着いた声で怒っているようには聞こえなかった。でも絶対怒ってるよ。自分の怪我の原因が目の前にいるのだから。
「お願いだから上げて」
どうしよう。顔を上げるのが怖くて。怒った彼の表情が自分に向いているという事実を知ってしまうから。だけどこっちは加害者。二度も言われたことに従うしかない。
心の準備ができて首を上げると、予想外にも彼は怖い表情をしていなかった。なんの色もない真顔で。
「つまり桜庭さんを庇ってケガしたわけだよな、おれ。じゃあ、聞かせて。どういうシチュエーションで事故は起こったんだ?」
「石像の近くの紅葉が綺麗でつい見入ってたら、石像が崩れてきちゃって。そのときに紅葉さんが助けてくれたの」
「そっか、おれ役に立てたんだ……」
「え、なんの話?」
「いや、こっちの話。てか、そんな気にすることじゃないだろ?」
「き、気にするに決まってるよ! わたしのせいでケガしちゃったんだよ」
「……いいんだよ、別に」
「よくないよ!」
「だから、いいんだってば!」
彼のあまりに大きくて強い声に、なにも返せなくなる。それがわかって彼もごめん、と控えめに呟いた。それからさらに小さくため息をついたあとで。
「おれ、今すごい達成感でいっぱいなんだ」
「え?」
思いもよらない一言にそう漏らさずにはいられなかった。だって、それじゃあ怪我したことがいいことみたいで。
「おれ、サッカーが好きだったんだ。小さい頃から大好きで、部活もサッカー部で」
「うん。知ってるよ」
「知ってるって、なんで? 初対面だよな?」
「あ、ごめん。廊下でサッカーやってるの見かけたことあったから」
しまった、つい口が滑ってしまって。これじゃ、ストーカーみたいになっちゃう、と思ったけどふーんで流されて一安心。そのまま気にせず彼は夢を語り始めた。小さい頃からの大切な夢を。
「おれ、サッカー選手になりたかったんだ。だってそうだろ。好きなことを大人になっても続けられるから」
沈みゆく夕陽とは対照的に、彼の目は煌めき出す。グラウンドでサッカーボールを追いかけてた、以前のように。だから、でも、と彼がこぼした二音は、太陽のいない夜のように暗くて。
「大事な大会の前日だった。でもなんの変哲もない普通の日だった。だから想像すらしてなかった。まさか試合中に石につまずいてケガをするだなんて」
「ケガ……」
まさか、そんなことがあったなんて。だから、その日以降彼を見かけなかったんだと合点がいった。
なら、聴かなくてもわかる。そのあとの彼になにが起きたかを。だけど聴かずとも彼は話し始めた。
「医者に診てもらったけど、明日の試合は無理だと言われた。部活の成績とか推薦も視野に入れた大会だったのに。それにいくら治ったって、部員たちはその間も練習してる。もう追いつけないって、そのまま……」
サッカーを辞めた。その一言がすごく重くて、石で胸を叩かれているような痛みが全身に響く。
たった一つの怪我。それだけで、好きなこと、夢を諦めることになるだなんて。痛くて、辛くて、苦しくて、きっと生きることさえも……。なのに彼は、今はなんとも思ってない、と口にした。
「生きることさえ億劫になったこともあったし、これまでの努力は全部無駄だったって実際嘆いてた。でも今は、それも必要なことだったって誇れる」
「え、どういうこと?」
わからなかった。夢を絶たれた上に、今なんて怪我をして入院しているのに。しかも多分大会前よりもひどい怪我なはずで。
すると彼は表情を和らげた。強い西日じゃなくて、今くらいの日没直前の弱い夕陽みたいな。
「意識はないけど、助けられたんだろ? あ、ケガとかしてない?」
「う、ううん大丈夫」
「なら、よかった。意味はあったんだな」
「そんな。簡単に許さないでほしいよ」
たとえ、これが今までの彼の努力が報われた出来事になったとしても。それでも彼をケガさせたことに変わりない。夢どころか、今ある学校生活も絶たれることになるから。
「本当に気にしてないから」
戸惑った表情をする彼。もしかしたら、困らせてしまっているのかも、と思い始めたとき。
「それ、なに?」
私に人差し指が向けられる。私というより、私の手元に。
「お見舞いの、品、です……」
中身は、と訊かれてクッキーと伝えたら。
「食べたい!」
途端に目を光らせた。正直自分のいないところで食べてほしかったけど、仕方なくそれを手渡す。
シンプルな紙袋。どんなデザインのものがいいか悩んだ昨日のことを思い出す。中からは透明なものに包まれたクッキーが現れる。お店のみたいに完璧な包装じゃないから。
「これ、手作り?」
「う、うん……」
やっぱり、突っ込まれた。手作り嫌かな、と急に不安が押し寄せていると。
「わざわざ作ってくれてありがと」
ふわっとまた表情を和らげてくれる。その顔を見るのが恥ずかしくなって、咄嗟に床を見た。ほとんど光がないから、何色かもわからない床を。
見ていなくても、聞こえてくる。袋を開ける音が。もうすぐ自分の作ったものが彼の口に。初めて好きになった人に。
美味しい、なんて贅沢すぎる。せめてまずい、と言われないことを願った。
クッキーだから、食べた瞬間がすぐにわかる。サクッとクリアな音が鼓膜を貫く。最後まで床を見ていようと思ったけど、やっぱり彼がどんな反応を示しているか気になって、結局顔を上げてしまう。
目がぴたっと合った。タイミング悪く。
サクッサクッ、と次々に同じ音が降ってきた。しかもそれはいつまで経っても止まない。彼がそれを口に入れ続けているから。あっという間に一枚食べたところで。
「美味しい」
褒めとそれに相応しいほどの笑み。私には贅沢すぎる反応に、なにも返せずにいると。
「これ、本当に桜庭さんが作ったの? すごいね」
信じられないといった表情で、もう二枚目にいこうとしていた。すぐにまた小気味いい音が聞こえてくる。
「いや、全然! 両親共働きで、料理とか一人で作ることが多くて。帰宅部だから、いくらでも時間はあるし。だから、すごくないよ」
すごくなんてない。料理もお菓子作りもただの暇つぶしでしていることだから。
「時間って、他にも使い道があるだろ。ゲームしたり、漫画したり、動画観たり。けど、桜庭さんはその時間を料理に使った。自分の技術を上げるために。そこがすごいって思った」
「……ありがとう」
彼のまっすぐな言葉が胸にしみる。そんなすごいっていうほどのこと、してないことはわかってる。でも嬉しくて。
彼がどんな表情をしているか気になるのに、暗くて見えない。そこでようやく気付いた。
「わたし、そろそろ帰らないと」
もう緊張のない柔らかな空間にまだ浸っていたいけど。もっとここにいたい気持ちを抑えながら、踵を返したとき。
「明日も来てくれる?」
心臓が変な音を立てた。すぐに彼のほうへ向くけれど、やっぱりどんな表情をしているかわからない。
でも確かに、今彼は私を引き留めた。彼も私といたいのだと。そう妄想すればするほど、規則正しかったはずの呼吸が乱れてゆく。
「また桜庭さんのスイーツが食べたいから」
胸が数秒くらい息の受け取りを拒んだ。自惚れにもほどがありすぎ。
そんなことあるはずないのに。彼が私といたいから、明日の約束した、なんて。
ため息の代わりにうん、と小さく頷いて今度こそ部屋を出る。
静かに彼のいる病室を閉めたところで、やっと大きく息を吐けた。
吐いて、吸ってを繰り返す。それでも呼吸の不規則さは変わらない。
今日はちゃんと謝れて、しかも明日好きな人に会える。でもその人は私の作るお菓子が目的。
こんなことは初めてだった。まったく別の感情が複雑に絡み合う、そんな経験は。
廊下は電気のおかげで、彼の病室と違って明るい。もう一度だけ深呼吸をして、でもやっぱり整わないと諦めて彼のいる扉から離れた。
それから一週間が経って、明日退院という日。
彼の言う通り、毎日欠かさずお見舞いに来た。手作りのお菓子を連れて。
美味しいっていつも褒めてくれた。本当に美味しいしか言ってくれないけど、それだけで嬉しくて。好きな人が笑ってくれている。その事実だけで。
でも、明日退院ということは。
こうやって彼と、行流と会えなくなる。
あの事件の前だったら当たり前のこと。でも、もう私は知ってしまった。大好きな彼と過ごす幸せな時間を。
もし気持ちをぶつけなければ、その時間は続かない。ぶつけたとしてもそうかもしれない。きっとその可能性のほうが高いと思う。
伝えるか、伝えないか。すると今日も笑みを浮かべながら、私の作ったお菓子を頬張る彼は。
「ちょっと散歩に付き合ってくれないか」
「え、う、うん。いいよ」
残りのお菓子を全部平らげてから、彼は立ち上がった。
カタン、カタンと彼が手にする松葉杖の音が響く夕方の廊下。緊張に震える静かな空間。
私も彼も一言も発しないまま、中庭に来たとき。
「きれい……」
思わず声が漏れてしまう。隣に彼がいるのもお構いなく。
でもそれくらいに、目の前の風景に見惚れてしまって。
あの石像のところにあったのとは比べ物にならないくらい、たくさんの紅葉が風に揺れていた。
「その顔が見たかったんだ」
「え?」
紅葉から彼に視線を移す。こんなに彼の頬って赤かったっけと不思議に首を傾げた。まるで紅葉みたいな色をしていたから。
「桜庭さん。おれと付き合ってください」
「え」
信じられない。あまりにも現実離れしたセリフを投げかけられて。
ついこの間までは遠くから見ているだけだったのに、こんなこと……。
でも彼は続けてくれた。こんな、どこにでもいるような私を選んでくれた理由を。
「怪我してから、おれずっとサッカーしてた時間は無駄だって思うようになってた。でも、一週間前。桜庭さんを助けられて、それが無駄じゃないってわかった。桜庭さんが教えてくれたんだよ。あの時間も必要だったって」
「そんな、結局紅葉さんにケガさせちゃったし……」
「言ったろ、気にするなって。むしろ、そのおかげで心のケガが治ったんだ。そのほうが重いケガだったんだから」
それに、と彼はさらに続ける。
「石像が倒れる前に紅葉見てた桜庭さん、すごいきれいな顔してた」
「きれいな顔?」
「うん。紅葉の中まで透けて見えるのかなってくらい真剣できれいで。だから……」
好きになりました。確かにそう耳に届いた。
「わたしも、好きでした。ずっと前から」
サッカーしているところを廊下から見ていたこと、その姿が目に焼きついて離れなかったこと。ストーカーチックで引かれてしまわないか不安になりながらも正直に言葉にした。彼だって理由まで話して告白してくれたから。
だけどそれは杞憂に終わった。じゃあ、付き合おうと言ってくれて。
そうやって私たちは恋人になった。名前も桜庭さんから、けいさん。けいちゃんからけいに変わってむずがゆさに襲われたもまるで昨日のことのように思い出せるのに。



