アスファルトを踏むたび、地面に落ちていた桜の花びらが軽やかに弾む、なんてことはない。私の通学路に桜の木はないから。ただ春だからそんな気分でいたかっただけ。そんな街並みを歩いてゆくと、一人の男の子を見つける。
「行流、おはよう」
小さめの単語帳から顔を上げると、彼は口の箸を緩く曲げて。
「おはよう。朝から元気だな」
「元気元気! 桜並木想像しながら歩いてたから」
「相変わらずそういうの好きだよな」
「うん! 綺麗な景色って自然と元気もらえるんだよね」
「へぇ」
「けいはほんとに興味ないんだね」
「うん。どうでもいい。単語帳眺めてたほうがよっぽど面白いよ」
とりあえず行こう、と行流が歩き出したから、私もついてゆく。春の風とはまた違う、内側から暖かくなってゆくような心地がする。好きな人と歩くことにまだ慣れてなくて。
「じゃあさ、けいには見えてるんだね。桜」
「え、あ、うん。こう花びらがひらひらって」
手首でそのジェスチャーをしてみせるとくすっと彼が笑った。馬鹿なことしてるな、の笑いだろうけどそれでも嬉しい。彼が笑うなら、どんな理由だって。
「そっか。なら今度……」
彼の声が尻すぼみになって消えてゆく。気になって視線を横に向けると、彼の頬が桜と同じ色になっていて。どうしたの、と口を開く前だった。
「週末、お花見行かない?」
彼が急にこっちを向いて目がぴたり結ばれた。きっと今の私も彼と同じ頬の色をしている。
桜はないはずなのに、花吹雪が二人の間をさらさらと流れた気がした。
もちろん行きたい。だけど。
「いいの? いくる、こういうの興味ないのに」
「まぁ、桜はな」
「桜はって……あっわかった! 私のお弁当目的だ」
「自分のお弁当への自己評価高くない?」
「え、そういうことじゃないの?」
「まぁ、そういうことにしておくよ」
他になにがあるのと思いつつ、彼がお花見を退屈に過ごす心配はなさそうで安心する。と、同時に湧き上がる興奮でいっぱいになって。
「はしゃぐなって」
「だって楽しみなんだもん」
歩調がおかしくなって、ジャンプするように歩いた。速く歩かずにはいられない。大好きな彼とのデートだから。
そんなペースで歩いていたら、いつの間にか私たちの通う中学校が目の前にあった。さすがに登校中の生徒が多くなってきたから、普通の歩調に戻す。
校門を抜けて、校舎までもう少しのところで足をぴたり止める。まだ葉のない一本の木と、石像のない台座の前で。
「けい、早くしろよ」
「待ってよ」
もう少しだけその場所に留まってから、彼の待つ昇降口へと駆ける。
行流は場所とか風景にまったく興味がないことを私はよく知っている。だから彼の分まで私は思っていたい。この場所が特別だと。
だって、ここは行流と交われた場所だから。
「受験生という意識を持ってこの一年間、勉強に励んでください」
これ、さっきも聞いたようなと思わずにはいられない。新しい担任の先生が、怠い話をするだけの時間。唯一救いなのは。
キーンコーンカーンコーン
「では、今日は放課になります」
太陽がまだ空高く昇っている時間帯。そんな早く帰れるのは新学期初日の大きな魅力。クラスメイトが足早に出てゆく。みんななにかに急かされているみたい。
「けい」
クラスの半分くらいが帰った頃、教室の出入り口付近で行流は私を呼んだ。とろい私はまだ帰り支度をしていたところ。
「ごめん、遅くなっちゃって」
「いいよ、いつものことだし」
「いつもで悪かったね」
お花見に誘われてせっかく高揚していた気分が台無しだ。余計な一言すぎる。
三年生のテキストをなるべく早くリュックに入れようと腕を伸ばすと、思いのほか強く当たってしまい、テキストの山が崩れた。
「あぁ、もうなにしてるの?」
先生がいないことを確認してから行流が教室へとやってきて、テキスト拾いを手伝ってくれる。
「ごめん。早くしようと思って」
「そんな慌てなくても」
「いくるが遅いって言うから」
「おれ、遅いなんて一言も言ってないけど」
「言ってるようなものだよ、いつもだなんて。……早く行ったら? 塾もうすぐ始まるんじゃないの?」
ついそんなことを口にしてしまった。すぐに後悔が襲ってくると。
「……わかったよ」
待って。そう言いたかったけれど声には出なくて。私よりも大きいはずの背中が小さくなってゆく。比例して自分の中で渦巻く後悔が大きくなる。
せっかく今週末デートに行けることになったのに。些細なことで頭に来たりして。
でもさっきの行流だってひどかった。確かにとろいのは自覚してるつもりだけど、それを面と向かって。自分で思うのと他人に言われるのは違う。ましてや彼氏だよ?
はぁ、とため息をこぼす。もう急ぐ必要がなくなってゆっくり鞄に荷物を詰めた。
「けい、暇ならおつかい行ってきてくれる?」
「今勉強してるとこ」
なんて嘘をつく。本当はごろごろしてるだけ。だって面倒なんだもん。
すると階段を上る音が聞こえてきた。まずい、部屋の様子を見に来たのだと慌てて机に座ろうとするも、すぐにガチャリと自室の扉は開かれて。
「やっぱり。ただ転がってるだけだと思ったよ」
「むぅ……」
買い物用のエコバッグを差し出される。行けってことだ。
「わかったよ」
なにを買うかのメモを受け取ると、お母さんは出て行く。それからまたため息をつくと軽く着替えを済ませ、重い足取りで家を出た。
さっきとは違い、外は暖色系に包まれていて、まるで別世界を歩いているよう。まだ春になったばかりだからか、ひゅっと風が吹くと身体が少し震える。
通学路とは反対の道をしばらく歩くと、大きなスーパーマーケットが見えたところだった。
「けい」
瞬時に振り向くと、行流がメモ用紙を片手に立っていた。
「いくる……」
そうだった。ここは彼の帰り道だ。
「はい、これ」
メモ用紙を渡してくれる。それから何事もなかったように彼は私の前を通りすぎてしまう。どうしよう、このままでいいわけない。ちゃんと話さないとお花見なんて行けない。明日は入学式でわたしたちの登校日じゃないから。
彼の後ろをついていく。スーパーの前まで来たら謝ろうと決意して。
後ろを歩くと、改めて彼の背中が大きいことを実感する。そして同時に思う。彼の隣を歩けなくて切なさがこみ上げることに。いつもだったら耐えられるのに今はこの静けさが怖い。
スーパーがついに目の前に現れてしまう。言わなくちゃ。早く言わないと彼は帰ってしまう。
「あ、いく……」
「ごめん」
お互いの言葉がかぶる。ごめんって、どういう意味? さっき遅いって言ったこと? それともすごい怒ってるからお花見には行けないってこと?
後者だとしたら、終わり……。
「けいのこと、傷つけるようなこと言って」
「ううん、わたしこそ。些細なことで熱くなっちゃって」
よかった、前者だった。
「ほんとごめん。でも悪意があって言ったわけじゃないんだ」
「うん。わかってるよ、とっさに口に出しちゃうことってあるよね」
「そうじゃなくて。おれ、けいのそういうところ好きだから」
「そういうところ?」
「どんくさいところ」
身体が大きく震えた。どんくさいところ、今まで自分の悪い側面だと思っていたのに。家族にも、もっときびきび動きなさいって言われてたくらいで。だけどそれを好きって言ってくれた。しかも好きな人に。こんなに嬉しいことってない。
「ありがとう」
「え、いや。けいが傷つくならもう言わないし」
「言って」
「え?」
「好きなんでしょ。どんくさいところ。なら、もっとたくさん言って」
「……わかった。じゃあ、さっそく。おつかい、付き合うよ。けいってば、どんくさいんだから」
「うん、ありがと!」
彼の隣に行き、二人で買い物をした。まるで新婚の夫婦になれたみたいで胸を弾ませながら。
スーパーに入ると草原に来た気分になった。目の前に陳列されている野菜の匂いが鼻腔をくすぐって。
「じゃあ、俺野菜とか肉選んどくから」
「え、いくるなに買うかわかるの?」
「買い物のメモ、渡す前に目通したから。でもけいの家がどういう銘柄とか産地の食材使ってるかわからないから、それだけ教えて」
「う、うん。わかった。ほんと助かる」
まさか、拾ってから全部覚えてしまうとは。でも確かに毎日通学路で単語帳を開いてるわけだし、思えば当たり前のことかもしれない。
一通りのことを教えてから、私は彼とは違うコーナーへと足を運んだ。乳製品や惣菜、どれも選ぶことが簡単そう……そっか。
後ろを振り返る。このスーパーの構造は複雑に入り組んでいて野菜を選んでくれている彼の姿は見えない。だけど確実にその先に彼はいる。
きっと私が選ぶのに時間がかかりそうな商品を彼が代わりに選んでくれているんだ。野菜もお肉も大きさとか色とか見るところがたくさんあるから。
ありがとう。
改めて言う。ここはお店の中だからもちろん心の中で。卵コーナーへとやってきたとき、そうだといいアイデアが浮かんだ。週末のお花見に持っていくお弁当の材料を買おうと。卵はなんにでも使うし、お弁当のおかずの定番、卵焼きに欠かせない。特にこれといった取り柄はないけれど、料理はそれなりに作れる。両親が共働きで家を空けていることが多いから。
他にどんなおかずを作ろうか考えてみるけど、それじゃ独りよがりなお弁当になってしまう。足は野菜やお肉の並ぶコーナーへと動いた。彼になにが食べたいかを聞くのが一番だと思って。だけどそこへ着く前に彼とばったり会った。
「俺は終わったけど、けいは? こっち来ようとしたってことは、けいも終わったの?」
彼の買い物かごの中にはメモに書かれていた食材が見事に入っていた。対して私は。
「一応、選べたよ。でも考えたら、週末のお弁当の材料も買わないとって」
「週末ってお花見の? わざわざ作ってくれるの?」
「うん。そのつもりだよ」
「楽しみだなぁ~」
珍しく行流の声質が高くなる。私の料理に期待してくれているのかな、なんて。長年食べてきたお母さんの味に叶うはずないのに。
「おかず、なに食べたい?」
好きなおかずなら、多少味が劣っていたとしても美味しく食べてもらえる。お花見にふさわしいお弁当ができると思って。
「う〜ん、じゃあクッキー」
「全然おかずじゃないじゃん」
と言いつつ、実は嬉しい。彼がクッキーを食べたいとリクエストしてくれたことに。
「だめ?」
「いいよ。言われなくても作ろうと思ってたし。それよりおかず」
「任せる……と言いたいところだけど、けいが考えてたら日が暮れそうだしな」
「もう暮れてるよ?」
「え、うそ。もうそんな時間?」
彼が慌てて時計と窓のほうを見る。今気づいたみたい。でも周りを気にしない彼らしい。
「じゃあ、もう定番のやつにしよ」
定番のおかずでいくつか彼が挙げたものの材料を私たちは買い物した。会計を終えて彼が詰めてくれた荷物に手を伸ばそうとしたら。
「いいよ。家まで持ってく」
「え、大丈夫だよ。いくるの家反対でしょ? 帰り遅くなったら怒られるよ」
「お金払ってくれたのはけいだろ? せめて持たせてくれよ」
「そんな、わたしのお金じゃないんだから気にしなくてもいいのに」
「おれは気にするの。暗い中けいを一人歩かせること」
ドキッとした。もう付き合って何ヶ月も経っているのに、まだ告白前の恋する女の子な気分。
「……わかった」
荷物は二つあるから一つ持とうと思ったけどそれも断られた。どこまでも優しい人。知ってるけど。
スーパーを出ると春なのに少し空気はひんやりとしていた。きっと夜のせい。彼に目を向けるとまた視線が結ばれた。お互い慌てて違うほうを向いた。いつもだったらそんなことしないのに、今は普段の彼に見えなくて。どうやら夜は人を綺麗にさせる魔法を持っているんだ。そう思えるほど、今の彼はかっこよく見えた。いつもかっこいいけど。
「ねぇ、いくるはわたしの料理でなにが一番好き?」
たまたま目がエコバッグにいっていたから聞いてみた。というか、おかずなに食べたいと聞いたとき、一緒に質問すればよかったな、なんて思っていたら。
「クッキーだよ」
同じ答えだった。なにが食べたいかも、好きな私の手作り料理も。
「そっかぁ。じゃあ、たくさん作らないとだね」
「楽しみにしてる」
朝の登校みたいに二人並んで歩いてゆく。それは私の家までという期限付きだけど、いい。偶然会えたのだから。会えなかったら仲直りできなくてお花見に行けなかっただろうし、なによりこんな胸弾む時間は訪れなかったはずだから。
朝の目覚めは最悪だった。スマホから流れる軽快なリズムのアラームじゃない。地面を叩きつける大粒の雨のせい。
桜色の自室のカーテンに触れる。でもなかなかそれを引けない。現実を知りたくなくて。
隣の家の人が窓を開けて大音量の音楽を流している。それも集中力を高めてくれる雨音。今ならそんな想像で片付けられる。
カーテンから手を離し、階段を降りた。ここに行けば音もなくなって心の中の不安が一気に晴れてゆくと信じていたのに。
「お母さんおは……」
居間に入りかけていつもの挨拶も途中で止まってしまう。そこにはいつも外に干してあるはずの洗濯物たちが吊るされていたから。自分の醜い想像は一瞬にして風化してしまった。
「あ、おはよう。朝ごはん、もうできてるよ」
「え……ううん。今日はいらない」
「そう……」
なにか言いたげなお母さんを残して部屋に戻る。それから布団の上で体育座りをして膝に顔面を預けた。ううん、目から流れそうな雫を。
行きたかった。せっかくのお花見デートだったのに。そのために昨日張り切ってお弁当を作った。もちろん行流が食べたがっていたクッキーも。
彼と満開の桜を見たかった。でも雨のせいで行けない。雨のせいで散っちゃうから、もう見れない。ううん、違う。それも理由だけど、本当は。
「けい」
呼ばれて顔を上げると、いつの間にかお母さんが立っていた。きっと雨の音にかき消されて階段を上る音が聞こえなかったんだ。
「朝ごはん、大丈夫だから……」
「そうじゃなくて。いくるくん、来てるよ」
「え?」
いくるくんが? でもまさか。雨音がうるさくて自分に都合よく聞こえたに違いない。雨でお花見なんてできるはずないのに。
「いくるくん、来てるよ」
今度は身体がビクッとした。さっきよりも大きくその都合よく聞こえていた一文が響いて。
「……ほんと、なの?」
「ほんとだよ。だから早く身支度して、会いに行ってあげて。居間で待たせてるから」
最後のほうは聞こえなかった。その頃にはもう、洗面所へ直行していたから。
「いくる……本当にいくるなんだよね?」
「なに、おれは幽霊かなにか?」
軽く支度をして居間に来てみたら、本当に彼がいて。自分でもおかしな台詞だとわかっているけど、言わずにはいられなかった。
「どうして来たの?」
「来てほしくなかった?」
「あ、違うの。ただ雨降ってるからお花見なんて行けないのに」
「だから?」(桜なんてただの口実。本当はけいに会いたかったから)
挑発するように彼が聞いてきて、私は黙り込んでしまう。彼がなにを言おうとしているかわからなくて。
彼は居間の大きな窓へと視線を外す。そこには雨で室内に干されている洗濯物が……。
「ちょっと、こっち来て!」
そう命令する前に彼の腕を引っ張った。せっかく来てくれたのに追い出すわけにもいかず、そのまま階段を上がり自室へ連行する。
「なにするの?」
彼が珍しく戸惑った顔をしている。私はもっと。下着を見られて、こんな強引な態度を取っている自分に。
「とりあえず、ここにいて。居間はだめ」
「どうして?」
「どうしてって。さっき見てたでしょ、洗濯物」
服やズボンならまだいい。だけど下着、はね……。
「下着、なんの話?」
「え、だってさっき……」
言いかけて口を閉ざす。そっか、彼は。
「さっきって、視線外しただけなんだけど」
やっぱり。彼は洗濯物の下着を見ていない。ううん、見ていないんじゃない。関心がなさすぎて気づいていないだけ。
「そうだよね。ごめん、手なんか引いちゃって」
それなら、なおさら恥ずかしい。周りに無関心な彼からしたら、突然手を引っ張って自室に連れて行った私は、ヤバい女だ。そんな人、私だって近寄れない。
嫌われちゃったかな。私にとってなにより恐ろしいことが起きてしまったかもしれない。そう思っていたら。
「別に、謝ることじゃないだろ。ちょっと驚いただけで」
「ほんとに?」
よかった、気にしてなさそうで。安堵したのも束の間、今度は別の緊張感が身体を駆けた。
「そういえば、わたしの部屋に入るの初めてだよね……」
付き合ってもう何か月も経っているのに、今日まで彼をこの部屋に入れたことはなくて。自分の一番の生活圏に彼がいることが違和感だらけで、それでいてくすぐったい。
「初めて、だな」
「珍しいね、いつも見回すことなんてしないのに」
彼がきょろきょろと部屋に視線を散らし始めたから思わず。彼女の部屋だから、って思いたいな、なんて。
「これ、もはや桜じゃない?」
「え、桜?」
どういうことだろう? この部屋に桜なんてないのに。
ほら、と彼が指をさす。その先には……そっか、確かにこれは。
「桜みたいだね」
「だよな。俺からしたら”みたい”じゃなくて、桜そのものだと思ってるんだけど」
「それはさすがに違うよ」
彼が桜だと指をさしたのはカーテンだった。桃色で外からの光で部屋全体をその色に染め上げているから。
これなら桜だと、一応は思えるかもしれない。でも彼みたいに本物の桜だとは断言できない。それでも彼は諦められないらしく。
「いけると思うけどな。皆、ピンクのカーテン買ってさ」
そしたら外に出なくても、いつでもお花見ができるだろ、と。風景に興味のない彼らしい発想。でも、世の中そんな人ばかりじゃない。むしろ綺麗な景色に喜びを感じる人のほうが多いと思う。私もその一人、のはずだった。
「確かに。わたしも、これでいいかも」
どうしてだろう。ただの桃色のカーテンなのに私には目の前で咲き誇る美しい桜に見えた。決して本物じゃないのに。
「そっか。じゃあ、お花見は毎年ここでやっていいってこと?」
「え~、それは困るよ。そりゃあ、やっぱり本物見たいよ?」
「なんだそれ。おれはほんとどっちでもいいんだよな」
「でも今年はこの部屋でいいよ」
「ふ~ん。なら準備しないと。本来のお花見みたいに」
「あ、そうだね。じゃあお弁当持ってくる!」
「やった、お弁当だ。楽しみにしてたやつ」
今日一番のご機嫌な声。私の料理を楽しみにしてくれていたという嬉しさの反面、ちょっと悲しかった。
「持ってくるね」
今度は控えめに言ってから、部屋の扉を静かに開閉した。階段を降りる間、ずっと考えてた。彼がわざわざここままで来たのはお弁当が理由なんじゃないかって。自分に会いに来てくれたと少しでも思った自分が馬鹿みたいだ。
今日は行けないと諦めていたから、まだおかずがお重に詰められてなくて急いで盛りつけをする。でも彼に食べてもらうものだからできるだけ丁寧に。
意味はないけど桜に合わせた桃色の風呂敷でお重を包んで持ってみると、意外に重かった。(自分の心に重ねている)
ゆっくり階段を上り、部屋の前に着くと一旦止まってしまう。いつもと違って、部屋に人が、それも彼がいるから。息を一つしてから、片方でお重を持ち、片方でドアノブを持つ。
「おまたせ。持ってきたよ」
「お、ありがと。って、めっちゃ本格的じゃない?」
「へへ、つい気合が」
一つのお重のふたを開けるとさらに彼が嬉しそうな顔をする。やっぱりお弁当が楽しみだったんだ。そう思わせる表情。
「あれ、こっちは開けないの?」
「うん。こっちはあとでだよ」
納得したのかしてないのかわからない感じで曖昧に頷きながら開けたほうのお重に再び目を向ける彼。
いただきます、と声が重なる。おにぎりやハンバーグ、卵焼き、ポテトサラダ。どれもおかずの定番だけど、それらを口にするたび美味しい、と頬を綻ばせてくれた。やがてそれぞれの二口、三口目になると黙り込んで。
よかった、美味しいって言ってもらえた。暇つぶしに料理してたことが無駄じゃないと認められた気がして。
「ごちそう……」
「ちょっと待って」
一つのお重が空になってもう食事が終わったと思っている彼を制す。まだあるのだから、もう一つのお重が。それを開けてみせると、さらに彼の表情が輝いた。
「クッキーだ!」
「食べたいって言ってたでしょ」
「食べていい?」
「もちろん!」
表情を煌めかせながら、指を伸ばす彼。普段は落ち着いていて大人びているのに、今はおやつが目の前にあって興奮する小さな子どもみたいだった。
手に取ったクッキーをかじった瞬間、部屋中にサクッと鋭い音が響く。と、同時に彼の表情も一番の輝きを放つ。
「美味しい! やっぱけいのクッキーが一番だ」
「ほんと? よかった」
「けいは食べないの? さっきから眺めてるだけだから」
「今はいいかな。ごはん食べてお腹いっぱい」
なんて、本当は彼の顔が見たいだけ。そうなんだ、と彼はまたクッキーに手を伸ばし始めた。晴れていて本物の桜を前にしても、きっと彼はこうやって食べることに夢中だったんだろうな。ならどうして?
「ねぇ、いくる」
「うん?」
口に入れようとしたクッキーをすんでで止める。ちょっと申し訳ないと感じながらも。
「どうしてデートにお花見を選んだの? いくる、いつも言ってるじゃない。花とか綺麗な風景に興味ないって」
「だって。けいは好きでしょ、そういうの」
「そうなんだけど……でもいくるが楽しくないでしょ?」
「楽しいよ」
「どうして?」
すると途端に視線を外した。どうして今照れたときの仕草をするのかわからないでいると。
「けいがいるから」
温かい陽だまりに包まれる心地がした。雨が降っているからお日さまが顔を覗かせているはずないのに。もう十分なのにまだ彼は追い打ちをかけて。
「正直いうと、桜なんてただの口実だから」
なんの口実とは言わない。でも、もうわかっている。自分の身体がぽかぽかしているのがなによりの証拠。
そして気づいてしまった。どうしてこのカーテンが本物の桜に劣らないほど、綺麗に見えることに。
「わたしも、いくるさえいればそれでよかっただけなのかも」
熱くなりすぎてつい本音を、と後悔しかけたけれどすぐにどこかへ消えた。彼の頬が桜の花びらのように薄い紅色に染まっていたから。
ふわふわと時間がすぎてゆく。お菓子を食べて、私の卒業写真を見て笑い合って、うたた寝した。何十センチも積もった桜の絨毯を歩くようだった。
「じゃあ、おれそろそろ帰るよ」
「え~、もう帰っちゃうの? 早くない?」
「最後のほう、ほとんど寝てたからだよ。ちゃんと起きてないと」
「はい……」
なにも言い返せない。てっきり二人で寝ていたものだと。まさか彼が起きいたとは。
「じゃあ、行くから」
「あ、ちょっと待って。途中まで送るよ」
「いいよ、暗いから危ないよ?」
「ちょっとだけでいいから」
少しでも彼といたい。その想いが伝わったのか、ちょっとだけなら……と折れてくれた。
満開の桜が咲き誇る場所、と思うことにした部屋を出て、階段を下りてゆく。上るときとは違ってのんびりと。居間を横目でちらっと見たら、にやにやしたお母さんが視界に入る。彼女の下着が干された部屋に通したこと、あとで文句言わなきゃと思いながら視線を彼に戻す。
「うわ、寒いな。けい、送りいいから。風邪引くとか笑えないから」
家を出たら、急に冷たい風に吹かれて。春らしさなんてまるで感じない。幸い雨は降っていないけれど。
「ううん。行くの」
それでもいたいから。そう、と諦めたように肩を落として歩き始める。その隣に並ぶと、どうしてか風が温かく感じた。気温が数秒で変わるなんて絶対にありえないから、考えられる理由はただ一つ。わかりきっているけど。
曇り日の夕暮れどきは薄暗い。どこを見たって映えているものはないはずだった。
「あれ、桜の花びらじゃない?」
彼の隣を離脱してそれを拾ってみた。
「すごいね。こんな暗いのに」
「だって、今日この本物を見るはずだったんだよ?」
しまった。それじゃ、彼よりも桜のほうが大事みたいに聞こえてしまう。
「けいはやっぱそういうの好きだよな」
暗がりでもわかる小さな笑みに安堵して頬が緩む。そうやっていつもの私を肯定してくれたことに。
手のひらにある花びらをじっと眺める。ここに桜並木はない。そんな場所でこれが見つかるのなら、相当な雨や風に木はさらされてしまったのだろう。きっとほとんど散ったに違いない。
「ここら辺でそろそろ」
「いくる、あのね。次は……」
桜はもうない。でもこれから芽吹くのは。
「紅葉、見に行こう。秋に」
ちょこっと未来のデートの約束。表情のよく見えない薄暗さを利用して。これなら頬の色は見えない。彼の色がわからないのが残念だけど。
「うん、今度は観に行こう。約束する」
秋が近くなったら俺が誘おうって決めてたのに、とつけ加えて。彼の表情は見えないけれど、熱い吐息が胸下まで伸びる私の髪の一房を掠めた気がした。
「わかった。今度こそは絶対、ね」
約束。それを交わしたことで、そのときまで恋人でいられることが許された気持ちになってむずがゆくなる。考えたくもない受験は近づくけれど、その日が訪れないかと今から待ち遠しい。
早く紅葉を観に行きたい。黒くなった雲の下、小さくなってゆく大好きな彼と。
「行流、おはよう」
小さめの単語帳から顔を上げると、彼は口の箸を緩く曲げて。
「おはよう。朝から元気だな」
「元気元気! 桜並木想像しながら歩いてたから」
「相変わらずそういうの好きだよな」
「うん! 綺麗な景色って自然と元気もらえるんだよね」
「へぇ」
「けいはほんとに興味ないんだね」
「うん。どうでもいい。単語帳眺めてたほうがよっぽど面白いよ」
とりあえず行こう、と行流が歩き出したから、私もついてゆく。春の風とはまた違う、内側から暖かくなってゆくような心地がする。好きな人と歩くことにまだ慣れてなくて。
「じゃあさ、けいには見えてるんだね。桜」
「え、あ、うん。こう花びらがひらひらって」
手首でそのジェスチャーをしてみせるとくすっと彼が笑った。馬鹿なことしてるな、の笑いだろうけどそれでも嬉しい。彼が笑うなら、どんな理由だって。
「そっか。なら今度……」
彼の声が尻すぼみになって消えてゆく。気になって視線を横に向けると、彼の頬が桜と同じ色になっていて。どうしたの、と口を開く前だった。
「週末、お花見行かない?」
彼が急にこっちを向いて目がぴたり結ばれた。きっと今の私も彼と同じ頬の色をしている。
桜はないはずなのに、花吹雪が二人の間をさらさらと流れた気がした。
もちろん行きたい。だけど。
「いいの? いくる、こういうの興味ないのに」
「まぁ、桜はな」
「桜はって……あっわかった! 私のお弁当目的だ」
「自分のお弁当への自己評価高くない?」
「え、そういうことじゃないの?」
「まぁ、そういうことにしておくよ」
他になにがあるのと思いつつ、彼がお花見を退屈に過ごす心配はなさそうで安心する。と、同時に湧き上がる興奮でいっぱいになって。
「はしゃぐなって」
「だって楽しみなんだもん」
歩調がおかしくなって、ジャンプするように歩いた。速く歩かずにはいられない。大好きな彼とのデートだから。
そんなペースで歩いていたら、いつの間にか私たちの通う中学校が目の前にあった。さすがに登校中の生徒が多くなってきたから、普通の歩調に戻す。
校門を抜けて、校舎までもう少しのところで足をぴたり止める。まだ葉のない一本の木と、石像のない台座の前で。
「けい、早くしろよ」
「待ってよ」
もう少しだけその場所に留まってから、彼の待つ昇降口へと駆ける。
行流は場所とか風景にまったく興味がないことを私はよく知っている。だから彼の分まで私は思っていたい。この場所が特別だと。
だって、ここは行流と交われた場所だから。
「受験生という意識を持ってこの一年間、勉強に励んでください」
これ、さっきも聞いたようなと思わずにはいられない。新しい担任の先生が、怠い話をするだけの時間。唯一救いなのは。
キーンコーンカーンコーン
「では、今日は放課になります」
太陽がまだ空高く昇っている時間帯。そんな早く帰れるのは新学期初日の大きな魅力。クラスメイトが足早に出てゆく。みんななにかに急かされているみたい。
「けい」
クラスの半分くらいが帰った頃、教室の出入り口付近で行流は私を呼んだ。とろい私はまだ帰り支度をしていたところ。
「ごめん、遅くなっちゃって」
「いいよ、いつものことだし」
「いつもで悪かったね」
お花見に誘われてせっかく高揚していた気分が台無しだ。余計な一言すぎる。
三年生のテキストをなるべく早くリュックに入れようと腕を伸ばすと、思いのほか強く当たってしまい、テキストの山が崩れた。
「あぁ、もうなにしてるの?」
先生がいないことを確認してから行流が教室へとやってきて、テキスト拾いを手伝ってくれる。
「ごめん。早くしようと思って」
「そんな慌てなくても」
「いくるが遅いって言うから」
「おれ、遅いなんて一言も言ってないけど」
「言ってるようなものだよ、いつもだなんて。……早く行ったら? 塾もうすぐ始まるんじゃないの?」
ついそんなことを口にしてしまった。すぐに後悔が襲ってくると。
「……わかったよ」
待って。そう言いたかったけれど声には出なくて。私よりも大きいはずの背中が小さくなってゆく。比例して自分の中で渦巻く後悔が大きくなる。
せっかく今週末デートに行けることになったのに。些細なことで頭に来たりして。
でもさっきの行流だってひどかった。確かにとろいのは自覚してるつもりだけど、それを面と向かって。自分で思うのと他人に言われるのは違う。ましてや彼氏だよ?
はぁ、とため息をこぼす。もう急ぐ必要がなくなってゆっくり鞄に荷物を詰めた。
「けい、暇ならおつかい行ってきてくれる?」
「今勉強してるとこ」
なんて嘘をつく。本当はごろごろしてるだけ。だって面倒なんだもん。
すると階段を上る音が聞こえてきた。まずい、部屋の様子を見に来たのだと慌てて机に座ろうとするも、すぐにガチャリと自室の扉は開かれて。
「やっぱり。ただ転がってるだけだと思ったよ」
「むぅ……」
買い物用のエコバッグを差し出される。行けってことだ。
「わかったよ」
なにを買うかのメモを受け取ると、お母さんは出て行く。それからまたため息をつくと軽く着替えを済ませ、重い足取りで家を出た。
さっきとは違い、外は暖色系に包まれていて、まるで別世界を歩いているよう。まだ春になったばかりだからか、ひゅっと風が吹くと身体が少し震える。
通学路とは反対の道をしばらく歩くと、大きなスーパーマーケットが見えたところだった。
「けい」
瞬時に振り向くと、行流がメモ用紙を片手に立っていた。
「いくる……」
そうだった。ここは彼の帰り道だ。
「はい、これ」
メモ用紙を渡してくれる。それから何事もなかったように彼は私の前を通りすぎてしまう。どうしよう、このままでいいわけない。ちゃんと話さないとお花見なんて行けない。明日は入学式でわたしたちの登校日じゃないから。
彼の後ろをついていく。スーパーの前まで来たら謝ろうと決意して。
後ろを歩くと、改めて彼の背中が大きいことを実感する。そして同時に思う。彼の隣を歩けなくて切なさがこみ上げることに。いつもだったら耐えられるのに今はこの静けさが怖い。
スーパーがついに目の前に現れてしまう。言わなくちゃ。早く言わないと彼は帰ってしまう。
「あ、いく……」
「ごめん」
お互いの言葉がかぶる。ごめんって、どういう意味? さっき遅いって言ったこと? それともすごい怒ってるからお花見には行けないってこと?
後者だとしたら、終わり……。
「けいのこと、傷つけるようなこと言って」
「ううん、わたしこそ。些細なことで熱くなっちゃって」
よかった、前者だった。
「ほんとごめん。でも悪意があって言ったわけじゃないんだ」
「うん。わかってるよ、とっさに口に出しちゃうことってあるよね」
「そうじゃなくて。おれ、けいのそういうところ好きだから」
「そういうところ?」
「どんくさいところ」
身体が大きく震えた。どんくさいところ、今まで自分の悪い側面だと思っていたのに。家族にも、もっときびきび動きなさいって言われてたくらいで。だけどそれを好きって言ってくれた。しかも好きな人に。こんなに嬉しいことってない。
「ありがとう」
「え、いや。けいが傷つくならもう言わないし」
「言って」
「え?」
「好きなんでしょ。どんくさいところ。なら、もっとたくさん言って」
「……わかった。じゃあ、さっそく。おつかい、付き合うよ。けいってば、どんくさいんだから」
「うん、ありがと!」
彼の隣に行き、二人で買い物をした。まるで新婚の夫婦になれたみたいで胸を弾ませながら。
スーパーに入ると草原に来た気分になった。目の前に陳列されている野菜の匂いが鼻腔をくすぐって。
「じゃあ、俺野菜とか肉選んどくから」
「え、いくるなに買うかわかるの?」
「買い物のメモ、渡す前に目通したから。でもけいの家がどういう銘柄とか産地の食材使ってるかわからないから、それだけ教えて」
「う、うん。わかった。ほんと助かる」
まさか、拾ってから全部覚えてしまうとは。でも確かに毎日通学路で単語帳を開いてるわけだし、思えば当たり前のことかもしれない。
一通りのことを教えてから、私は彼とは違うコーナーへと足を運んだ。乳製品や惣菜、どれも選ぶことが簡単そう……そっか。
後ろを振り返る。このスーパーの構造は複雑に入り組んでいて野菜を選んでくれている彼の姿は見えない。だけど確実にその先に彼はいる。
きっと私が選ぶのに時間がかかりそうな商品を彼が代わりに選んでくれているんだ。野菜もお肉も大きさとか色とか見るところがたくさんあるから。
ありがとう。
改めて言う。ここはお店の中だからもちろん心の中で。卵コーナーへとやってきたとき、そうだといいアイデアが浮かんだ。週末のお花見に持っていくお弁当の材料を買おうと。卵はなんにでも使うし、お弁当のおかずの定番、卵焼きに欠かせない。特にこれといった取り柄はないけれど、料理はそれなりに作れる。両親が共働きで家を空けていることが多いから。
他にどんなおかずを作ろうか考えてみるけど、それじゃ独りよがりなお弁当になってしまう。足は野菜やお肉の並ぶコーナーへと動いた。彼になにが食べたいかを聞くのが一番だと思って。だけどそこへ着く前に彼とばったり会った。
「俺は終わったけど、けいは? こっち来ようとしたってことは、けいも終わったの?」
彼の買い物かごの中にはメモに書かれていた食材が見事に入っていた。対して私は。
「一応、選べたよ。でも考えたら、週末のお弁当の材料も買わないとって」
「週末ってお花見の? わざわざ作ってくれるの?」
「うん。そのつもりだよ」
「楽しみだなぁ~」
珍しく行流の声質が高くなる。私の料理に期待してくれているのかな、なんて。長年食べてきたお母さんの味に叶うはずないのに。
「おかず、なに食べたい?」
好きなおかずなら、多少味が劣っていたとしても美味しく食べてもらえる。お花見にふさわしいお弁当ができると思って。
「う〜ん、じゃあクッキー」
「全然おかずじゃないじゃん」
と言いつつ、実は嬉しい。彼がクッキーを食べたいとリクエストしてくれたことに。
「だめ?」
「いいよ。言われなくても作ろうと思ってたし。それよりおかず」
「任せる……と言いたいところだけど、けいが考えてたら日が暮れそうだしな」
「もう暮れてるよ?」
「え、うそ。もうそんな時間?」
彼が慌てて時計と窓のほうを見る。今気づいたみたい。でも周りを気にしない彼らしい。
「じゃあ、もう定番のやつにしよ」
定番のおかずでいくつか彼が挙げたものの材料を私たちは買い物した。会計を終えて彼が詰めてくれた荷物に手を伸ばそうとしたら。
「いいよ。家まで持ってく」
「え、大丈夫だよ。いくるの家反対でしょ? 帰り遅くなったら怒られるよ」
「お金払ってくれたのはけいだろ? せめて持たせてくれよ」
「そんな、わたしのお金じゃないんだから気にしなくてもいいのに」
「おれは気にするの。暗い中けいを一人歩かせること」
ドキッとした。もう付き合って何ヶ月も経っているのに、まだ告白前の恋する女の子な気分。
「……わかった」
荷物は二つあるから一つ持とうと思ったけどそれも断られた。どこまでも優しい人。知ってるけど。
スーパーを出ると春なのに少し空気はひんやりとしていた。きっと夜のせい。彼に目を向けるとまた視線が結ばれた。お互い慌てて違うほうを向いた。いつもだったらそんなことしないのに、今は普段の彼に見えなくて。どうやら夜は人を綺麗にさせる魔法を持っているんだ。そう思えるほど、今の彼はかっこよく見えた。いつもかっこいいけど。
「ねぇ、いくるはわたしの料理でなにが一番好き?」
たまたま目がエコバッグにいっていたから聞いてみた。というか、おかずなに食べたいと聞いたとき、一緒に質問すればよかったな、なんて思っていたら。
「クッキーだよ」
同じ答えだった。なにが食べたいかも、好きな私の手作り料理も。
「そっかぁ。じゃあ、たくさん作らないとだね」
「楽しみにしてる」
朝の登校みたいに二人並んで歩いてゆく。それは私の家までという期限付きだけど、いい。偶然会えたのだから。会えなかったら仲直りできなくてお花見に行けなかっただろうし、なによりこんな胸弾む時間は訪れなかったはずだから。
朝の目覚めは最悪だった。スマホから流れる軽快なリズムのアラームじゃない。地面を叩きつける大粒の雨のせい。
桜色の自室のカーテンに触れる。でもなかなかそれを引けない。現実を知りたくなくて。
隣の家の人が窓を開けて大音量の音楽を流している。それも集中力を高めてくれる雨音。今ならそんな想像で片付けられる。
カーテンから手を離し、階段を降りた。ここに行けば音もなくなって心の中の不安が一気に晴れてゆくと信じていたのに。
「お母さんおは……」
居間に入りかけていつもの挨拶も途中で止まってしまう。そこにはいつも外に干してあるはずの洗濯物たちが吊るされていたから。自分の醜い想像は一瞬にして風化してしまった。
「あ、おはよう。朝ごはん、もうできてるよ」
「え……ううん。今日はいらない」
「そう……」
なにか言いたげなお母さんを残して部屋に戻る。それから布団の上で体育座りをして膝に顔面を預けた。ううん、目から流れそうな雫を。
行きたかった。せっかくのお花見デートだったのに。そのために昨日張り切ってお弁当を作った。もちろん行流が食べたがっていたクッキーも。
彼と満開の桜を見たかった。でも雨のせいで行けない。雨のせいで散っちゃうから、もう見れない。ううん、違う。それも理由だけど、本当は。
「けい」
呼ばれて顔を上げると、いつの間にかお母さんが立っていた。きっと雨の音にかき消されて階段を上る音が聞こえなかったんだ。
「朝ごはん、大丈夫だから……」
「そうじゃなくて。いくるくん、来てるよ」
「え?」
いくるくんが? でもまさか。雨音がうるさくて自分に都合よく聞こえたに違いない。雨でお花見なんてできるはずないのに。
「いくるくん、来てるよ」
今度は身体がビクッとした。さっきよりも大きくその都合よく聞こえていた一文が響いて。
「……ほんと、なの?」
「ほんとだよ。だから早く身支度して、会いに行ってあげて。居間で待たせてるから」
最後のほうは聞こえなかった。その頃にはもう、洗面所へ直行していたから。
「いくる……本当にいくるなんだよね?」
「なに、おれは幽霊かなにか?」
軽く支度をして居間に来てみたら、本当に彼がいて。自分でもおかしな台詞だとわかっているけど、言わずにはいられなかった。
「どうして来たの?」
「来てほしくなかった?」
「あ、違うの。ただ雨降ってるからお花見なんて行けないのに」
「だから?」(桜なんてただの口実。本当はけいに会いたかったから)
挑発するように彼が聞いてきて、私は黙り込んでしまう。彼がなにを言おうとしているかわからなくて。
彼は居間の大きな窓へと視線を外す。そこには雨で室内に干されている洗濯物が……。
「ちょっと、こっち来て!」
そう命令する前に彼の腕を引っ張った。せっかく来てくれたのに追い出すわけにもいかず、そのまま階段を上がり自室へ連行する。
「なにするの?」
彼が珍しく戸惑った顔をしている。私はもっと。下着を見られて、こんな強引な態度を取っている自分に。
「とりあえず、ここにいて。居間はだめ」
「どうして?」
「どうしてって。さっき見てたでしょ、洗濯物」
服やズボンならまだいい。だけど下着、はね……。
「下着、なんの話?」
「え、だってさっき……」
言いかけて口を閉ざす。そっか、彼は。
「さっきって、視線外しただけなんだけど」
やっぱり。彼は洗濯物の下着を見ていない。ううん、見ていないんじゃない。関心がなさすぎて気づいていないだけ。
「そうだよね。ごめん、手なんか引いちゃって」
それなら、なおさら恥ずかしい。周りに無関心な彼からしたら、突然手を引っ張って自室に連れて行った私は、ヤバい女だ。そんな人、私だって近寄れない。
嫌われちゃったかな。私にとってなにより恐ろしいことが起きてしまったかもしれない。そう思っていたら。
「別に、謝ることじゃないだろ。ちょっと驚いただけで」
「ほんとに?」
よかった、気にしてなさそうで。安堵したのも束の間、今度は別の緊張感が身体を駆けた。
「そういえば、わたしの部屋に入るの初めてだよね……」
付き合ってもう何か月も経っているのに、今日まで彼をこの部屋に入れたことはなくて。自分の一番の生活圏に彼がいることが違和感だらけで、それでいてくすぐったい。
「初めて、だな」
「珍しいね、いつも見回すことなんてしないのに」
彼がきょろきょろと部屋に視線を散らし始めたから思わず。彼女の部屋だから、って思いたいな、なんて。
「これ、もはや桜じゃない?」
「え、桜?」
どういうことだろう? この部屋に桜なんてないのに。
ほら、と彼が指をさす。その先には……そっか、確かにこれは。
「桜みたいだね」
「だよな。俺からしたら”みたい”じゃなくて、桜そのものだと思ってるんだけど」
「それはさすがに違うよ」
彼が桜だと指をさしたのはカーテンだった。桃色で外からの光で部屋全体をその色に染め上げているから。
これなら桜だと、一応は思えるかもしれない。でも彼みたいに本物の桜だとは断言できない。それでも彼は諦められないらしく。
「いけると思うけどな。皆、ピンクのカーテン買ってさ」
そしたら外に出なくても、いつでもお花見ができるだろ、と。風景に興味のない彼らしい発想。でも、世の中そんな人ばかりじゃない。むしろ綺麗な景色に喜びを感じる人のほうが多いと思う。私もその一人、のはずだった。
「確かに。わたしも、これでいいかも」
どうしてだろう。ただの桃色のカーテンなのに私には目の前で咲き誇る美しい桜に見えた。決して本物じゃないのに。
「そっか。じゃあ、お花見は毎年ここでやっていいってこと?」
「え~、それは困るよ。そりゃあ、やっぱり本物見たいよ?」
「なんだそれ。おれはほんとどっちでもいいんだよな」
「でも今年はこの部屋でいいよ」
「ふ~ん。なら準備しないと。本来のお花見みたいに」
「あ、そうだね。じゃあお弁当持ってくる!」
「やった、お弁当だ。楽しみにしてたやつ」
今日一番のご機嫌な声。私の料理を楽しみにしてくれていたという嬉しさの反面、ちょっと悲しかった。
「持ってくるね」
今度は控えめに言ってから、部屋の扉を静かに開閉した。階段を降りる間、ずっと考えてた。彼がわざわざここままで来たのはお弁当が理由なんじゃないかって。自分に会いに来てくれたと少しでも思った自分が馬鹿みたいだ。
今日は行けないと諦めていたから、まだおかずがお重に詰められてなくて急いで盛りつけをする。でも彼に食べてもらうものだからできるだけ丁寧に。
意味はないけど桜に合わせた桃色の風呂敷でお重を包んで持ってみると、意外に重かった。(自分の心に重ねている)
ゆっくり階段を上り、部屋の前に着くと一旦止まってしまう。いつもと違って、部屋に人が、それも彼がいるから。息を一つしてから、片方でお重を持ち、片方でドアノブを持つ。
「おまたせ。持ってきたよ」
「お、ありがと。って、めっちゃ本格的じゃない?」
「へへ、つい気合が」
一つのお重のふたを開けるとさらに彼が嬉しそうな顔をする。やっぱりお弁当が楽しみだったんだ。そう思わせる表情。
「あれ、こっちは開けないの?」
「うん。こっちはあとでだよ」
納得したのかしてないのかわからない感じで曖昧に頷きながら開けたほうのお重に再び目を向ける彼。
いただきます、と声が重なる。おにぎりやハンバーグ、卵焼き、ポテトサラダ。どれもおかずの定番だけど、それらを口にするたび美味しい、と頬を綻ばせてくれた。やがてそれぞれの二口、三口目になると黙り込んで。
よかった、美味しいって言ってもらえた。暇つぶしに料理してたことが無駄じゃないと認められた気がして。
「ごちそう……」
「ちょっと待って」
一つのお重が空になってもう食事が終わったと思っている彼を制す。まだあるのだから、もう一つのお重が。それを開けてみせると、さらに彼の表情が輝いた。
「クッキーだ!」
「食べたいって言ってたでしょ」
「食べていい?」
「もちろん!」
表情を煌めかせながら、指を伸ばす彼。普段は落ち着いていて大人びているのに、今はおやつが目の前にあって興奮する小さな子どもみたいだった。
手に取ったクッキーをかじった瞬間、部屋中にサクッと鋭い音が響く。と、同時に彼の表情も一番の輝きを放つ。
「美味しい! やっぱけいのクッキーが一番だ」
「ほんと? よかった」
「けいは食べないの? さっきから眺めてるだけだから」
「今はいいかな。ごはん食べてお腹いっぱい」
なんて、本当は彼の顔が見たいだけ。そうなんだ、と彼はまたクッキーに手を伸ばし始めた。晴れていて本物の桜を前にしても、きっと彼はこうやって食べることに夢中だったんだろうな。ならどうして?
「ねぇ、いくる」
「うん?」
口に入れようとしたクッキーをすんでで止める。ちょっと申し訳ないと感じながらも。
「どうしてデートにお花見を選んだの? いくる、いつも言ってるじゃない。花とか綺麗な風景に興味ないって」
「だって。けいは好きでしょ、そういうの」
「そうなんだけど……でもいくるが楽しくないでしょ?」
「楽しいよ」
「どうして?」
すると途端に視線を外した。どうして今照れたときの仕草をするのかわからないでいると。
「けいがいるから」
温かい陽だまりに包まれる心地がした。雨が降っているからお日さまが顔を覗かせているはずないのに。もう十分なのにまだ彼は追い打ちをかけて。
「正直いうと、桜なんてただの口実だから」
なんの口実とは言わない。でも、もうわかっている。自分の身体がぽかぽかしているのがなによりの証拠。
そして気づいてしまった。どうしてこのカーテンが本物の桜に劣らないほど、綺麗に見えることに。
「わたしも、いくるさえいればそれでよかっただけなのかも」
熱くなりすぎてつい本音を、と後悔しかけたけれどすぐにどこかへ消えた。彼の頬が桜の花びらのように薄い紅色に染まっていたから。
ふわふわと時間がすぎてゆく。お菓子を食べて、私の卒業写真を見て笑い合って、うたた寝した。何十センチも積もった桜の絨毯を歩くようだった。
「じゃあ、おれそろそろ帰るよ」
「え~、もう帰っちゃうの? 早くない?」
「最後のほう、ほとんど寝てたからだよ。ちゃんと起きてないと」
「はい……」
なにも言い返せない。てっきり二人で寝ていたものだと。まさか彼が起きいたとは。
「じゃあ、行くから」
「あ、ちょっと待って。途中まで送るよ」
「いいよ、暗いから危ないよ?」
「ちょっとだけでいいから」
少しでも彼といたい。その想いが伝わったのか、ちょっとだけなら……と折れてくれた。
満開の桜が咲き誇る場所、と思うことにした部屋を出て、階段を下りてゆく。上るときとは違ってのんびりと。居間を横目でちらっと見たら、にやにやしたお母さんが視界に入る。彼女の下着が干された部屋に通したこと、あとで文句言わなきゃと思いながら視線を彼に戻す。
「うわ、寒いな。けい、送りいいから。風邪引くとか笑えないから」
家を出たら、急に冷たい風に吹かれて。春らしさなんてまるで感じない。幸い雨は降っていないけれど。
「ううん。行くの」
それでもいたいから。そう、と諦めたように肩を落として歩き始める。その隣に並ぶと、どうしてか風が温かく感じた。気温が数秒で変わるなんて絶対にありえないから、考えられる理由はただ一つ。わかりきっているけど。
曇り日の夕暮れどきは薄暗い。どこを見たって映えているものはないはずだった。
「あれ、桜の花びらじゃない?」
彼の隣を離脱してそれを拾ってみた。
「すごいね。こんな暗いのに」
「だって、今日この本物を見るはずだったんだよ?」
しまった。それじゃ、彼よりも桜のほうが大事みたいに聞こえてしまう。
「けいはやっぱそういうの好きだよな」
暗がりでもわかる小さな笑みに安堵して頬が緩む。そうやっていつもの私を肯定してくれたことに。
手のひらにある花びらをじっと眺める。ここに桜並木はない。そんな場所でこれが見つかるのなら、相当な雨や風に木はさらされてしまったのだろう。きっとほとんど散ったに違いない。
「ここら辺でそろそろ」
「いくる、あのね。次は……」
桜はもうない。でもこれから芽吹くのは。
「紅葉、見に行こう。秋に」
ちょこっと未来のデートの約束。表情のよく見えない薄暗さを利用して。これなら頬の色は見えない。彼の色がわからないのが残念だけど。
「うん、今度は観に行こう。約束する」
秋が近くなったら俺が誘おうって決めてたのに、とつけ加えて。彼の表情は見えないけれど、熱い吐息が胸下まで伸びる私の髪の一房を掠めた気がした。
「わかった。今度こそは絶対、ね」
約束。それを交わしたことで、そのときまで恋人でいられることが許された気持ちになってむずがゆくなる。考えたくもない受験は近づくけれど、その日が訪れないかと今から待ち遠しい。
早く紅葉を観に行きたい。黒くなった雲の下、小さくなってゆく大好きな彼と。



