朝の光に目を細めながら部屋から洗面所に向かう。
洗顔をして。
制服に着替えて。
朝食は昨日買ってあるヨーグルトと果物。
そんなことをぼんやり考えながらドアを開けた瞬間、空気が違うことに気づいた。
リビングだけが、異様なほど整っていた。
そして……声がした。
「おはよう、奏」
久しぶりに聞く、母の声だった。
「マ……マ……」
「とりあえず顔を洗って着替えてらっしゃい。あ、制服じゃなくっていいわよ」
「はい……」
まさか、こんな朝に抜き打ちで来るなんて。
頭の中で、何を話すべきか必死に考えても、何ひとつまとまらない。
心の準備なんて、もちろんできていない。
できるわけがない。
こんなの、不意打ちにもほどがある。
ソファの真ん中に座るママ。
その真正面に、私は正座するみたいに腰を下ろした。
「で? これはどういうことか説明してくれる?」
ママの背後には、あの機材たち。
机も、椅子も、キーボードも、モニターも。
ほんの数日前までは、見ているだけで嬉しくなったはずのものばかりなのに。
今は全部、私の逃げ場を塞ぐ証拠みたいに見える。
あまりにもママの威圧感が凄くて、ラスボスにすら見えてくる……
どう言ったら理解してもらえるんだろう……
セナ君のこと。
スターライトパレードのこと。
作曲のこと。
言わなきゃいけないことは山ほどあるのに、どこから話せばいいのかわからない。
答えが見つからず黙っていると……
「先日、音楽番組に出たわ」
身体が強張る。
「誰だか覚えてないけど、奏のピアノで歌うアイドルがいたわ」
やっぱり……ママの耳は誤魔化せない……
私の子供のころからの音を、誰よりも聞いてきたママ。
私の調子が悪いとすぐに気がついて、アドバイスしてくれて。
厳しいけれど、私の音ごと私をいちばん愛してくれてるママが、私の音を聞き間違うはずなんてなくて。
「奏が弾いたのね?」
「……はい。私が作曲したの」
「作曲ですって……? 奏が? アイドルの曲を……?」
一瞬の沈黙が、何時間にも感じる……
ママの表情は大きく変わらないのに、だからこそ余計に怖い。
怒鳴られるより前の、あの静かな間がいちばん怖いって、私は昔から知っている。
「あなたの! あなたの才能は、あんな曲を作るための才能じゃないのよ!!!」
ビクッと震えて、顔を上げる。
『なんでアイドルの曲なんか作らなきゃいけないのよ!!』
……あの日、自分がセナ君に向かって吐いた言葉を思い出す……
胸が痛い。
あの時吐いた言葉は、なんて酷かったんだろう。
今になって、ようやく自分の口から出た刃物の形がわかる。
あの時の私は、悔しくて、怖くて、わからなくて。
だから傷つけていいわけじゃなかったのに。
取り消せないかな。
あの日の言葉。
今からでも、消せないかな。
「弾けるようになったなら、フランスに連れて行くわ」
「え……?」
「学校は退学届を出しなさい。今年はもう向こうの受験は終わっていて転入は無理だから、試験まで向こうで師事してくださる先生を探すわ」
フランス……?
退学……?
言葉の意味はわかるのに、頭がついてこない。
まるで突然、別の人生の話を聞かされているみたいだった。
でもママは本気だ。
それだけは、声を聞けばわかってしまう。
「ママ!? 待って! 私、人前でまだ弾けないの……!」
「なんですって?」
少し黙ったママ。
お願い……これで諦めて……
そう願ったのに。
「でも弾けるのよね? 行った後、おいおい考えればいいわ」
そんな……
「わかるわね。あなたは、まだまだ学ばなければならないことが山ほどあるのよ」
目の前が真っ暗になる。
だって……フランスにスターライトパレードはいないじゃない……
「あんなお遊びはもう終わり。作曲がしたいなら、ちゃんとした先生を用意するわ」
フランスに行ったら、みんなに会えなくなるじゃない……
フランスに行ったら、みんなに私が作った曲を歌ってもらえないじゃない……
それだけじゃない。
もう、今みたいに誰かの顔を思い浮かべながら音を選ぶことも、
あのステージを思い出しながら鍵盤に触れることも、
全部、遠くなってしまう気がした。
ちゃんとした先生。
正しい道。
それはきっと間違っていない。
でも、今の私がようやく掴みかけたものとは、あまりにも違いすぎる。
セナ君……あの日から、もう十日も会ってない。
「クラシックを捨てるなんて許さない。あなたは『本来の道』に戻るべきよ」
ぽろぽろと涙があふれる。
私は……キラキラしたみんなの姿を、近くで見たくて……
あの光の中に立つ彼らを、もう一度見たくて。
そのために曲を書きたいって、やっと思えたのに。
「友達なら、向こうでもできるわ」
「ちが……っ……!」
違う。
友達とか、そういうんじゃない。
でも、何が違うのか、自分でもまだうまく言葉にできない。
ママが手を伸ばす。
「スマホ。寄越しなさい」
おずおずと差し出すと、ママは迷いなく電源を落とした。
「ネット環境も止めるわ。食事は届けさせるから。向こうに行く日まで、家から出ることは許しません」
「ママ、お願い……ママ、聞いて……!」
スマホの電源を落としたママが、真っ直ぐ私を見る。
ああ……だめだ。
誰よりも音楽に誇りを持っているママ。
そのママに、私が説得なんてできる気がしない。
「聞かないわ。聞いた結果が今なんでしょう」
ママが背を向ける。
「今日の夜は一緒に食べましょう」
……食欲なんて、あるはずがないのに。
「パパに連絡してくるわ。部屋で待ちなさい」
リビングの扉が閉まる。
こんなにも重くて、冷たい音だったなんて……
洗顔をして。
制服に着替えて。
朝食は昨日買ってあるヨーグルトと果物。
そんなことをぼんやり考えながらドアを開けた瞬間、空気が違うことに気づいた。
リビングだけが、異様なほど整っていた。
そして……声がした。
「おはよう、奏」
久しぶりに聞く、母の声だった。
「マ……マ……」
「とりあえず顔を洗って着替えてらっしゃい。あ、制服じゃなくっていいわよ」
「はい……」
まさか、こんな朝に抜き打ちで来るなんて。
頭の中で、何を話すべきか必死に考えても、何ひとつまとまらない。
心の準備なんて、もちろんできていない。
できるわけがない。
こんなの、不意打ちにもほどがある。
ソファの真ん中に座るママ。
その真正面に、私は正座するみたいに腰を下ろした。
「で? これはどういうことか説明してくれる?」
ママの背後には、あの機材たち。
机も、椅子も、キーボードも、モニターも。
ほんの数日前までは、見ているだけで嬉しくなったはずのものばかりなのに。
今は全部、私の逃げ場を塞ぐ証拠みたいに見える。
あまりにもママの威圧感が凄くて、ラスボスにすら見えてくる……
どう言ったら理解してもらえるんだろう……
セナ君のこと。
スターライトパレードのこと。
作曲のこと。
言わなきゃいけないことは山ほどあるのに、どこから話せばいいのかわからない。
答えが見つからず黙っていると……
「先日、音楽番組に出たわ」
身体が強張る。
「誰だか覚えてないけど、奏のピアノで歌うアイドルがいたわ」
やっぱり……ママの耳は誤魔化せない……
私の子供のころからの音を、誰よりも聞いてきたママ。
私の調子が悪いとすぐに気がついて、アドバイスしてくれて。
厳しいけれど、私の音ごと私をいちばん愛してくれてるママが、私の音を聞き間違うはずなんてなくて。
「奏が弾いたのね?」
「……はい。私が作曲したの」
「作曲ですって……? 奏が? アイドルの曲を……?」
一瞬の沈黙が、何時間にも感じる……
ママの表情は大きく変わらないのに、だからこそ余計に怖い。
怒鳴られるより前の、あの静かな間がいちばん怖いって、私は昔から知っている。
「あなたの! あなたの才能は、あんな曲を作るための才能じゃないのよ!!!」
ビクッと震えて、顔を上げる。
『なんでアイドルの曲なんか作らなきゃいけないのよ!!』
……あの日、自分がセナ君に向かって吐いた言葉を思い出す……
胸が痛い。
あの時吐いた言葉は、なんて酷かったんだろう。
今になって、ようやく自分の口から出た刃物の形がわかる。
あの時の私は、悔しくて、怖くて、わからなくて。
だから傷つけていいわけじゃなかったのに。
取り消せないかな。
あの日の言葉。
今からでも、消せないかな。
「弾けるようになったなら、フランスに連れて行くわ」
「え……?」
「学校は退学届を出しなさい。今年はもう向こうの受験は終わっていて転入は無理だから、試験まで向こうで師事してくださる先生を探すわ」
フランス……?
退学……?
言葉の意味はわかるのに、頭がついてこない。
まるで突然、別の人生の話を聞かされているみたいだった。
でもママは本気だ。
それだけは、声を聞けばわかってしまう。
「ママ!? 待って! 私、人前でまだ弾けないの……!」
「なんですって?」
少し黙ったママ。
お願い……これで諦めて……
そう願ったのに。
「でも弾けるのよね? 行った後、おいおい考えればいいわ」
そんな……
「わかるわね。あなたは、まだまだ学ばなければならないことが山ほどあるのよ」
目の前が真っ暗になる。
だって……フランスにスターライトパレードはいないじゃない……
「あんなお遊びはもう終わり。作曲がしたいなら、ちゃんとした先生を用意するわ」
フランスに行ったら、みんなに会えなくなるじゃない……
フランスに行ったら、みんなに私が作った曲を歌ってもらえないじゃない……
それだけじゃない。
もう、今みたいに誰かの顔を思い浮かべながら音を選ぶことも、
あのステージを思い出しながら鍵盤に触れることも、
全部、遠くなってしまう気がした。
ちゃんとした先生。
正しい道。
それはきっと間違っていない。
でも、今の私がようやく掴みかけたものとは、あまりにも違いすぎる。
セナ君……あの日から、もう十日も会ってない。
「クラシックを捨てるなんて許さない。あなたは『本来の道』に戻るべきよ」
ぽろぽろと涙があふれる。
私は……キラキラしたみんなの姿を、近くで見たくて……
あの光の中に立つ彼らを、もう一度見たくて。
そのために曲を書きたいって、やっと思えたのに。
「友達なら、向こうでもできるわ」
「ちが……っ……!」
違う。
友達とか、そういうんじゃない。
でも、何が違うのか、自分でもまだうまく言葉にできない。
ママが手を伸ばす。
「スマホ。寄越しなさい」
おずおずと差し出すと、ママは迷いなく電源を落とした。
「ネット環境も止めるわ。食事は届けさせるから。向こうに行く日まで、家から出ることは許しません」
「ママ、お願い……ママ、聞いて……!」
スマホの電源を落としたママが、真っ直ぐ私を見る。
ああ……だめだ。
誰よりも音楽に誇りを持っているママ。
そのママに、私が説得なんてできる気がしない。
「聞かないわ。聞いた結果が今なんでしょう」
ママが背を向ける。
「今日の夜は一緒に食べましょう」
……食欲なんて、あるはずがないのに。
「パパに連絡してくるわ。部屋で待ちなさい」
リビングの扉が閉まる。
こんなにも重くて、冷たい音だったなんて……
