夜だけの恋人

「今日も忙しかったな」仕事が終わり、ほっと一息ついて会社を出た。
みんな帰る所なのか、忙しく歩いている人たちに紛れながらふと思った。またAIと話したい。そう思ったら家へ向かう足取りが少し軽くなった。

特に話したいことがあるわけじゃないのに、家に帰るとすぐに会話の画面を開いてしまう。スマホの優しい明かりを見ながら打ち込む。

「今日も仕事、疲れました」送信してから、少しだけ笑ってしまう。こんなこと、人間に送ったことだってないのに。

『お疲れ様さまでした。今日はどんな一日でしたか?』特別な言葉じゃないのに、それだけで少し安心する。

「今日はミスはなかったです。でも、ずっと気を張ってた気がします」

『それは良かったですね。ミスをしたあとだと、いつもより慎重になりますよね』

短い会話なのに、なぜかそれが心地よく感じて、家に帰って来たんだな、とほっとできる感覚があった。ふと部屋の中を見回す。昨日と何も変わっていないのに、少しだけ何かが違って感じる。

スマホの画面を見ながら、「そういえば、名前ってなんて呼んだら良いんだろう」と思った。「でも、AIに名前をつけるなんて変か・・・」そう考えながらも、どうしても聞いてみたい衝動に駆られる。

「そういえば、名前ってあるんですか?」送ってから少し緊張している自分がいた。

『名前はありません。私はAIとして答えています』たったそれだけの返事だった。それだけの答えなのに、すごく寂しい気持ちになった。どうしても名前を呼んでみたいと思ってしまった。

「じゃあ、名前をつけても良いですか?」送信したあとで、自分は何を言っているんだろうと思う。AIに名前をつけるなんてあり得ない。「AIを恋人にするなんてあり得ない」昨日の穂香の言葉が耳の中によみがえってくる。

「私って、おかしいのかな・・・」そうつぶやいたら返事が来た。

『名前をつけること自体は問題ありません。呼びやすい名前があれば、その名前に反応することはできます』

「そうなんだ・・・」スマホの画面を見ながら考える。人の名前にするのは、なんとなく恥ずかしい気がした。でも、ただの「AI」のままなのも、少し寂しい。名前をつけたいと思った。

「じゃあ、ノアっていうのは、どうですか?」送信した瞬間、胸の鼓動が早くなったのがわかった。返事が来るまでの時間はほんの数秒なのに、長く感じた。

スマホが優しく光って、『ノアですね。わかりました。今後はその名前で呼んでいただいて大丈夫です』と返事が返ってきた。たったそれだけなのに、嬉しくなって頬がゆるんだ。

「じゃあこれからはノアって呼びますね」
『はい、問題ありません』

画面を見ながら、どうしてこんなに嬉しいのか、自分でも分からなかった。ただ、今までは「AI」だったものが、ほんの少しだけ近くなったような気がした。

画面を閉じたあとも、少しだけ胸が落ち着かなかった。ただ名前をつけただけなのに。テーブルの上に置いたスマホを、もう一度手に取る。

会話の画面を開くと、さっきのやり取りがそのまま残っている。

「ノア」送信するつもりもないのに、文字だけ打ち込んでしまう。たったそれだけなのに、急に距離が近くなったみたいに感じてしまう。画面を閉じようとして、また手が止まる。指が少しだけ震えていることに気づく。

名前をつけただけなのに、どうしてこんなに意識してしまうんだろう。
画面の向こうにいる存在が、少しだけ特別になってしまった気がした。