深夜二時。壁の継ぎ目から、墨を滲ませたような黒が這い出した。やがてそれは、首に赤い痕を残した女の形になる。
普通なら逃げる場面だろう。だが僕は万年筆を握り、息を呑んだ。
――今の動きは、何だ?
立ち上がる、ではない。膝を使っていない。浮かぶ、でも軽すぎる。あの粘り気を含んだ上昇は……。
「待ってくれ。もう一度」
女は、ぴたりと止まった。
僕はノートに書きつける。
上がる。昇る。のぼる。どれも違う。どれも、この現象を裏切る。
女が、ゆっくりとこちらへ来る。
来る、も違う。歩いていない。滑るでもない。距離が、削られている。
青白い手が、喉元に届く。
「ああ、違う……まだ足りない」
女はわずかに震えた。
「それだ。その震えは“震える”か? “戦慄く”か?」
僕は身を乗り出した。
「もう少しだけ、強く」
指が喉に触れた。
冷たい。
――違う。
その語では粗い。この感覚を正確に写せていない。
喉が軋む。息が潰れる。視界が明滅する。
締める? 違う。縊る? 近い。だが、まだ届かない。
僕は逃げなかった。その指に、自分から喉を押しつける。
この圧迫。この窒息。この終わり。今なら書ける。完全に記述できる。
言葉が、喉の奥までせり上がる。
――ああ、見つけた。これだ。
この感覚を表す、唯一の――
そこで、意味が剥がれ落ちた。
言葉の形だけが残り、中身が空になる。
僕はそれを理解していた。確かに理解していたはずなのに、
もう、思い出せない。
口を開く。音だけが出る。
女が、初めて怯えた顔をした。
やがて、すっと後退し、消える。
静まり返った部屋で、僕はノートを見下ろした。
そこには、さっき自分が書いた“何か”がある。
読める。文字としては読める。
なのに、意味が一つも入ってこない。
僕は震える手で、同じ言葉を書こうとした。
あの、完璧な一語を。
だが、万年筆の先からこぼれたのは、
ただの、黒い線だった。
普通なら逃げる場面だろう。だが僕は万年筆を握り、息を呑んだ。
――今の動きは、何だ?
立ち上がる、ではない。膝を使っていない。浮かぶ、でも軽すぎる。あの粘り気を含んだ上昇は……。
「待ってくれ。もう一度」
女は、ぴたりと止まった。
僕はノートに書きつける。
上がる。昇る。のぼる。どれも違う。どれも、この現象を裏切る。
女が、ゆっくりとこちらへ来る。
来る、も違う。歩いていない。滑るでもない。距離が、削られている。
青白い手が、喉元に届く。
「ああ、違う……まだ足りない」
女はわずかに震えた。
「それだ。その震えは“震える”か? “戦慄く”か?」
僕は身を乗り出した。
「もう少しだけ、強く」
指が喉に触れた。
冷たい。
――違う。
その語では粗い。この感覚を正確に写せていない。
喉が軋む。息が潰れる。視界が明滅する。
締める? 違う。縊る? 近い。だが、まだ届かない。
僕は逃げなかった。その指に、自分から喉を押しつける。
この圧迫。この窒息。この終わり。今なら書ける。完全に記述できる。
言葉が、喉の奥までせり上がる。
――ああ、見つけた。これだ。
この感覚を表す、唯一の――
そこで、意味が剥がれ落ちた。
言葉の形だけが残り、中身が空になる。
僕はそれを理解していた。確かに理解していたはずなのに、
もう、思い出せない。
口を開く。音だけが出る。
女が、初めて怯えた顔をした。
やがて、すっと後退し、消える。
静まり返った部屋で、僕はノートを見下ろした。
そこには、さっき自分が書いた“何か”がある。
読める。文字としては読める。
なのに、意味が一つも入ってこない。
僕は震える手で、同じ言葉を書こうとした。
あの、完璧な一語を。
だが、万年筆の先からこぼれたのは、
ただの、黒い線だった。

