「これだわ……!」
神様はまだ、自分を見捨てていなかったらしい。
一筋の希望を見出したロゼッタだが、その背後からはひたひたと小さな足音が迫っていた。
「おっと、これ剥がすの忘れてた」
「えっ」
ベリッ。
先ほどの司書が、無造作にチラシを剥がし取る。温厚そうな顔立ちの中年が、今のロゼッタには邪悪な悪魔しか見えない。
「あ、あの、その募集……」
「ああ、これですか? 文官採用には試験があるんですが、それが今日なんですよ。十五時からだから、もうすぐかな」
つまり、残された時間はあと三十分あまり。慌ててチラシに目を向けると試験会場は王城、試験内容は「翻訳」とだけ記されている。
「王城ってここからだと、どのくらいかかりますか?」
「馬車で二十分ぐらいですかね。でも、馬車を調達できる場所は逆方向だし、どれだけ急いでも間に合わな……」
「でしたら私、風になります」
「はい?」
きょとんとする司書の目の前で、ロゼッタは躊躇なく踵の高い靴を脱ぎ捨てた。同時に淑女としての嗜みも放り投げる。
自分らしく生きるために妥協は許されない。
トランクと靴を抱えたまま、勇ましい表情で図書館を飛び出し、駆け出しかける。
「そこのお嬢さん、ちょっと待った!」
切迫した叫び声が耳をかすめたが、自分に向けられたものだとは露ほども思わず、ロゼッタは素足で石畳を力いっぱい蹴りつけた。
道行く人々が驚愕の表情でこちらを見るが、気などしていられない。街の中心に聳える王城を目指し、ただ前だけを見据えて走り続ける。
すると、どこからともなく馬の蹄の音が響き、一台の馬車がロゼッタの真横に並ぶと、追い越すことなく並走し始めた。
「だから待てって! そんなに急いでどこに行くつもりだい?」
馬車の窓から顔を出したのは、図書館で本を取ってくれたあの黒髪の青年だった。隣には銀髪の男の姿もある。
「し、試験なんですっ! 王城で、文官のっ!」
息を切らしながら答えると、青年は「なるほどね」と合点がいったように頷く。
「それなら乗っていきなよ。僕たちも城に用があるんだ」
「いいんですか!?」
「もちろん。おい、一旦止めてくれ」
青年が御者に指示を出すと、馬車は緩やかに停止した。
「それではお邪魔します」
青年の頭の上に光り輝く天使の輪が見える。
ロゼッタは嬉々として馬車に乗り込んだ。
光沢のあるベルベットの座席に、金糸で縁取られたカーテン。その豪奢な造りに、やはりふたりは高貴な身分なのだろうと直感する。
「よろしければ、足を見せていただけますか? 傷の手当てをいたします」
銀髪の男が、静かな声で申し出る。彼の膝の上には、いつの間にか救急箱が用意されていた。
「あ、はい」
厚意を断るのも失礼だと思い、恐る恐る右足を差し出した。
「少し沁みますが、我慢してください」
柔らかい布で砂利を拭い、消毒液を浸した綿で傷口を消毒する。一切無駄のない鮮やかな手際に、ロゼッタはしばし目を奪われていた。
「帰ろうとしたらトランクを抱えて裸足で爆走してる子が見えてね。いったい何事かと思って、二度見してしまったよ」
黒髪の青年が窓枠に肘をついて、悪戯っぽく笑う。
「見苦しいところをお見せして失礼しました……」
はたから見れば、さぞかし滑稽だったに違いない。平静を取り戻した途端、羞恥が波のように押し寄せ、ロゼッタは耳まで真っ赤にして俯いた。
「終わりました。次は左足を」
銀髪の男が短く告げる。視線を落とすと、右足には白い包帯が綺麗に巻かれていた。
「でも、試験があるなら悠長に本を読んでる場合ではないんじゃないかな。まあ予習も大事だけど、会場には余裕を持って行かないと」
「いえ。実は、ついさっき求人のチラシを見たばかりでして」
ロゼッタが苦笑交じりに答えると、青年は虚を突かれたように瞬きをした。
「見たばかりって……要するに、完全なぶっつけ本番ってことだろう? 君、本当に大丈夫かい?」
「正直言って、大丈夫じゃないかもしれません」
翻訳にはそれなりの自信がある。
とはいえ、試験の内容は不透明だ。
この挑戦がどれほど無謀なのかは、客観的に理解している。ロゼッタは見栄を張ることなく、本心をそのまま口にした。
「だけど、何もせずに諦めるのは嫌ですから。今の自分にできる精一杯を、やってみようと思います」
「そうか。いい結果になるといいね」
「はい!」
青年のささやかな励ましに、ロゼッタは力強く頷いた。
やがて三人を乗せた馬車は、石造りの正門をくぐり抜けて王城の敷地内に入った。青年がトランクを軽々と持ち上げて先に馬車を降り、ロゼッタに優しく手を差し伸べる。
「会場まで案内するから、ついておいで」
「は、はい」
青年に導かれ、西日に照らされた廊下を進んでいく。何度も王城を訪れているのか、彼の足取りには迷いがない。
そして廊下の突きあたりにある重厚な扉の前で、青年は足を止めた。
「僕の案内はここまでだ。さあ、遅れないうちに中へお入り」
「何から何まで、本当にありがとうございました」
青年からトランクを受け取り、ロゼッタは背筋を伸ばして深く頭を下げる。
「このくらい、気にしなくていいさ。……ああ、そういえば名乗るのが遅れたね。僕はエドガー。君に幸運があることを祈ってるよ」
「私はロゼッタといいます。それでは、行ってまいります」
顔を上げて、重厚な扉をゆっくりと押し開く。
広々とした室内には長い机が整然と並び、多くの志望者が席についていた。そのほとんどはロゼッタより一回りも二回りも年上の男性ばかりだ。
張り詰めた静寂の中、ロゼッタは試験官に促されるまま空いている席についた。
(なんだか急に緊張してきたわ……)
不安を押し殺すように唇を引き結び、ロゼッタはトランクから使い古した羽根ペンとインクを取り出した。
◆◆◆
試験から数時間後。王城の一室では、エドガーが手元の書類に目を通していた。
「失礼します、エドガー様」
軽いノックの後に銀髪の男が入ってくる。
「来月行われる国際会議の資料がまとまりました。ご確認いただけますか」
「ありがとう、ユーグ。後でゆっくり読ませてもらうよ」
エドガーは資料を受け取り、机に置いた。
軽く目を通しただけでも、細部まで簡潔にまとめられているのがわかる。流石だと賞賛の眼差しを向けると、目の前の男は謙遜するように一礼した。
「……ところで、彼女は無事に試験を終えられたかな。あの様子では、内容を理解することさえ難しかったかもしれないが」
ふと、裸足で駆けていた少女の姿が脳裏をよぎり、エドガーは独り言のようにこぼした。
「そもそも、今回の試験は合格者なしという結果に終わるのではありませんか? 流石に、求めている水準が高すぎるかと」
ユーグがはっきりとした口調で、自らの見解を述べる。的確な指摘に、エドガーは困ったように眉を下げて肩を竦めた。
「……わかっている。陛下の命通り合格者のみの採用とするつもりだが、条件を緩めて複数人の雇用に切り替えることも考えなくてはならないだろうな」
けれど、あれくらいを軽々と解けなくては、『あの仕事』を任せられないのも事実。
機密保持の観点からも、雇う人間は最小限に留めるべきだという点では、エドガーも国王と同意見だった。
エドガーが小さく溜息をつき、頭を悩ませていたその時。
大きなノック音が部屋に響き渡り、ひとりの試験官が慌ただしく飛び込んできた。
「ほ、報告します。本日の試験で、満点の者が出ました!」
「……なんだって?」
思いがけない知らせに、エドガーはユーグと顔を見合わせた。普段は冷静沈着な腹心も、驚きを隠せずに大きく目を見開いている。
「こちらをご覧ください」
試験官が興奮を抑えきれない様子で、解答用紙を差し出した。
紙面を埋め尽くす赤い丸と、淀みのないなめらかな筆跡。この答案の主は、これほどの難問をいとも容易く解いてみせたのだ。
氏名欄に記された名を見て、エドガーは思わず息を呑む。
「ロゼッタ・ブランドール……」
それは、先の見えない未来に一筋の光が差した瞬間だった。
神様はまだ、自分を見捨てていなかったらしい。
一筋の希望を見出したロゼッタだが、その背後からはひたひたと小さな足音が迫っていた。
「おっと、これ剥がすの忘れてた」
「えっ」
ベリッ。
先ほどの司書が、無造作にチラシを剥がし取る。温厚そうな顔立ちの中年が、今のロゼッタには邪悪な悪魔しか見えない。
「あ、あの、その募集……」
「ああ、これですか? 文官採用には試験があるんですが、それが今日なんですよ。十五時からだから、もうすぐかな」
つまり、残された時間はあと三十分あまり。慌ててチラシに目を向けると試験会場は王城、試験内容は「翻訳」とだけ記されている。
「王城ってここからだと、どのくらいかかりますか?」
「馬車で二十分ぐらいですかね。でも、馬車を調達できる場所は逆方向だし、どれだけ急いでも間に合わな……」
「でしたら私、風になります」
「はい?」
きょとんとする司書の目の前で、ロゼッタは躊躇なく踵の高い靴を脱ぎ捨てた。同時に淑女としての嗜みも放り投げる。
自分らしく生きるために妥協は許されない。
トランクと靴を抱えたまま、勇ましい表情で図書館を飛び出し、駆け出しかける。
「そこのお嬢さん、ちょっと待った!」
切迫した叫び声が耳をかすめたが、自分に向けられたものだとは露ほども思わず、ロゼッタは素足で石畳を力いっぱい蹴りつけた。
道行く人々が驚愕の表情でこちらを見るが、気などしていられない。街の中心に聳える王城を目指し、ただ前だけを見据えて走り続ける。
すると、どこからともなく馬の蹄の音が響き、一台の馬車がロゼッタの真横に並ぶと、追い越すことなく並走し始めた。
「だから待てって! そんなに急いでどこに行くつもりだい?」
馬車の窓から顔を出したのは、図書館で本を取ってくれたあの黒髪の青年だった。隣には銀髪の男の姿もある。
「し、試験なんですっ! 王城で、文官のっ!」
息を切らしながら答えると、青年は「なるほどね」と合点がいったように頷く。
「それなら乗っていきなよ。僕たちも城に用があるんだ」
「いいんですか!?」
「もちろん。おい、一旦止めてくれ」
青年が御者に指示を出すと、馬車は緩やかに停止した。
「それではお邪魔します」
青年の頭の上に光り輝く天使の輪が見える。
ロゼッタは嬉々として馬車に乗り込んだ。
光沢のあるベルベットの座席に、金糸で縁取られたカーテン。その豪奢な造りに、やはりふたりは高貴な身分なのだろうと直感する。
「よろしければ、足を見せていただけますか? 傷の手当てをいたします」
銀髪の男が、静かな声で申し出る。彼の膝の上には、いつの間にか救急箱が用意されていた。
「あ、はい」
厚意を断るのも失礼だと思い、恐る恐る右足を差し出した。
「少し沁みますが、我慢してください」
柔らかい布で砂利を拭い、消毒液を浸した綿で傷口を消毒する。一切無駄のない鮮やかな手際に、ロゼッタはしばし目を奪われていた。
「帰ろうとしたらトランクを抱えて裸足で爆走してる子が見えてね。いったい何事かと思って、二度見してしまったよ」
黒髪の青年が窓枠に肘をついて、悪戯っぽく笑う。
「見苦しいところをお見せして失礼しました……」
はたから見れば、さぞかし滑稽だったに違いない。平静を取り戻した途端、羞恥が波のように押し寄せ、ロゼッタは耳まで真っ赤にして俯いた。
「終わりました。次は左足を」
銀髪の男が短く告げる。視線を落とすと、右足には白い包帯が綺麗に巻かれていた。
「でも、試験があるなら悠長に本を読んでる場合ではないんじゃないかな。まあ予習も大事だけど、会場には余裕を持って行かないと」
「いえ。実は、ついさっき求人のチラシを見たばかりでして」
ロゼッタが苦笑交じりに答えると、青年は虚を突かれたように瞬きをした。
「見たばかりって……要するに、完全なぶっつけ本番ってことだろう? 君、本当に大丈夫かい?」
「正直言って、大丈夫じゃないかもしれません」
翻訳にはそれなりの自信がある。
とはいえ、試験の内容は不透明だ。
この挑戦がどれほど無謀なのかは、客観的に理解している。ロゼッタは見栄を張ることなく、本心をそのまま口にした。
「だけど、何もせずに諦めるのは嫌ですから。今の自分にできる精一杯を、やってみようと思います」
「そうか。いい結果になるといいね」
「はい!」
青年のささやかな励ましに、ロゼッタは力強く頷いた。
やがて三人を乗せた馬車は、石造りの正門をくぐり抜けて王城の敷地内に入った。青年がトランクを軽々と持ち上げて先に馬車を降り、ロゼッタに優しく手を差し伸べる。
「会場まで案内するから、ついておいで」
「は、はい」
青年に導かれ、西日に照らされた廊下を進んでいく。何度も王城を訪れているのか、彼の足取りには迷いがない。
そして廊下の突きあたりにある重厚な扉の前で、青年は足を止めた。
「僕の案内はここまでだ。さあ、遅れないうちに中へお入り」
「何から何まで、本当にありがとうございました」
青年からトランクを受け取り、ロゼッタは背筋を伸ばして深く頭を下げる。
「このくらい、気にしなくていいさ。……ああ、そういえば名乗るのが遅れたね。僕はエドガー。君に幸運があることを祈ってるよ」
「私はロゼッタといいます。それでは、行ってまいります」
顔を上げて、重厚な扉をゆっくりと押し開く。
広々とした室内には長い机が整然と並び、多くの志望者が席についていた。そのほとんどはロゼッタより一回りも二回りも年上の男性ばかりだ。
張り詰めた静寂の中、ロゼッタは試験官に促されるまま空いている席についた。
(なんだか急に緊張してきたわ……)
不安を押し殺すように唇を引き結び、ロゼッタはトランクから使い古した羽根ペンとインクを取り出した。
◆◆◆
試験から数時間後。王城の一室では、エドガーが手元の書類に目を通していた。
「失礼します、エドガー様」
軽いノックの後に銀髪の男が入ってくる。
「来月行われる国際会議の資料がまとまりました。ご確認いただけますか」
「ありがとう、ユーグ。後でゆっくり読ませてもらうよ」
エドガーは資料を受け取り、机に置いた。
軽く目を通しただけでも、細部まで簡潔にまとめられているのがわかる。流石だと賞賛の眼差しを向けると、目の前の男は謙遜するように一礼した。
「……ところで、彼女は無事に試験を終えられたかな。あの様子では、内容を理解することさえ難しかったかもしれないが」
ふと、裸足で駆けていた少女の姿が脳裏をよぎり、エドガーは独り言のようにこぼした。
「そもそも、今回の試験は合格者なしという結果に終わるのではありませんか? 流石に、求めている水準が高すぎるかと」
ユーグがはっきりとした口調で、自らの見解を述べる。的確な指摘に、エドガーは困ったように眉を下げて肩を竦めた。
「……わかっている。陛下の命通り合格者のみの採用とするつもりだが、条件を緩めて複数人の雇用に切り替えることも考えなくてはならないだろうな」
けれど、あれくらいを軽々と解けなくては、『あの仕事』を任せられないのも事実。
機密保持の観点からも、雇う人間は最小限に留めるべきだという点では、エドガーも国王と同意見だった。
エドガーが小さく溜息をつき、頭を悩ませていたその時。
大きなノック音が部屋に響き渡り、ひとりの試験官が慌ただしく飛び込んできた。
「ほ、報告します。本日の試験で、満点の者が出ました!」
「……なんだって?」
思いがけない知らせに、エドガーはユーグと顔を見合わせた。普段は冷静沈着な腹心も、驚きを隠せずに大きく目を見開いている。
「こちらをご覧ください」
試験官が興奮を抑えきれない様子で、解答用紙を差し出した。
紙面を埋め尽くす赤い丸と、淀みのないなめらかな筆跡。この答案の主は、これほどの難問をいとも容易く解いてみせたのだ。
氏名欄に記された名を見て、エドガーは思わず息を呑む。
「ロゼッタ・ブランドール……」
それは、先の見えない未来に一筋の光が差した瞬間だった。
