レイファール伯爵家の長女として生まれたロゼッタは、物心ついた頃から両親に疎まれて育った。
実母は、ロゼッタがわずか三歳の時に病で他界。程なくして父が後妻として迎え入れたのが、シャロンの母親だった。
実のところ、ふたりは母が倒れる以前から不倫関係にあり、それが原因で屋敷の中では常に激しい喧嘩が絶えなかったという。そして邪魔者が亡くなると、愛人はまんまと伯爵夫人の座に収まったというわけだ。
初めてこの事実を知った際、ロゼッタは怒りと呆れで目まいを起こしかけた。
(貴族に浮気はつきものだけど、病気の妻を放って密会だなんて最低すぎる)
やがてシャロンが誕生すると、両親の関心はすべて妹へと移る。
特に父は、前妻の面影を色濃く残すプラチナブロンドと菫色の瞳を持ったロゼッタを避けるようになり、後妻によく似た妹を溺愛していた。
周囲から蝶よ花よと育てられたシャロンは、愛らしい容姿とは裏腹に猫かぶりなわがまま娘へと成長していく。
『そのぬいぐるみとーっても可愛いわ。ねぇ、わたくしにちょうだい、お姉様っ』
『ダメよ、シャロン。これは親戚の方が私のために選んでくださったものなのよ』
『何よ、ケチケチ! お姉様のくせに逆らうなんて生意気! お父様たちに言いつけて、屋敷から追い出してやるんだからっ!』
自分の思い通りにいかないと、感情に任せて喚き散らす。
両親もシャロンの本性には気づいていたはずだが、「愛嬌のある子だ」と盲目的に甘やかすばかりだった。
一方、家族から爪弾きにされたロゼッタは、ひとりで読書をすることが多くなっていた。使用人たちも主人の顔色を窺い、最低限の世話しか焼こうとしない。
(放っておかれる方が気楽でいいわ)
本人もその孤独を静かに受け入れていた。
幼くして既に達観していたロゼッタを、唯一気にかけていたのは、祖父のオーヴァンだった。
『ロゼッタよ、お前は本当に本好きじゃのう。いったい全体、誰に似たのやら……む? ワシか、ワシじゃな。はーっはっは!』
孫娘の頭を撫でながら豪快に笑うオーヴァンは、考古学の権威として名を馳せ、若い頃は隣国へ留学していたこともある人物だった。家督を息子に譲ってからは、屋敷の離れに引きこもって研究に没頭していた。
ロゼッタが読む本は、どれも祖父の書斎で見つけたものばかり。オーヴァンが古文書を読み解いて、そっくりに再現する際、助手として模造本作りを手伝うことも少なくなかった。
けれど、ロゼッタが十二歳の時にオーヴァンが亡くなると、楽しかった日々は終わりを告げる。王家が、彼の遺した模造本を貴重な歴史的資料として、すべて譲り受けたいと申し出たのだ。
そして祖父の遺品と引き換えに、ロゼッタに与えられたのがレオナールの婚約者という肩書きだった。
(やっと、この窮屈な家から抜け出せる……っ!)
祖父との大切な思い出の品々を、王家に差し出されてしまうことには複雑な思いがある。それでも、愛のない両親や身勝手な妹から離れられる喜びがあった。
しかし。
『君が私の婚約者かい? はぁ……期待外れもいいところだ』
『はい?』
『私はもっと華やかで愛くるしい花のような女性が好みでね。君のようなくっきりとした、悪く言えば可愛げのない顔立ちには正直惹かれないんだよ。父上の命令だから婚約してやるが、私に愛されるなどと期待しないでもらいたいな』
何て失礼な人なの。それが、王太子に対するロゼッタの第一印象だった。
宣言通りレオナールには徹底的に無視され、移り住んだ王宮でも使用人たちにすらあからさまに軽んじられ、結局ロゼッタの居場所はどこにもなかった。
唯一、心の休まる場所は図書室だけだった。
誰にも邪魔されず、ただ読みたい本を選ぶ。それだけでロゼッタは幸せだった。
レオナールに必要とされるのは、決まって諸外国から難解な文書が届いた時のみ。読書を通じて数多の異国語を習得していたロゼッタは、翻訳をすべて押しつけられていたのだ。
けれど、レオナールから労いの言葉をかけられたことは一度もない。
『次はもう少し手際よくやってもらいたいものだ』
何度、書物で彼をぶん殴ってやろうと思ったことか。政略によって繋がれたふたりの関係は、初めから氷のように冷え切っていた。
(だけど、まさかシャロンと関係を持っていたなんてね。確かに殿下の好みではあるけれど)
妹に王太子を横取りされた哀れな令嬢。当然、世間にはそのように映るのだろう。
そう思うと少し癪ではあるが、それを差し引いてもロゼッタの心はかつてないほどに晴れやかだ。
休んでなどいられない。部屋に戻るなり、ロゼッタは最低限の荷物をトランクにすばやく詰め込んだ。次に読みかけの本を図書室に返却して、「今までお世話になりました」と司書にお辞儀をする。
「ロ、ロゼッタ様?」
「では失礼いたします」
突然の別れの挨拶に戸惑う司書を背に、ロゼッタは軽やかな足取りで廊下へ踏み出す。
婚約解消の件は既に城内に広まっているようで、周囲からは明け透けな陰口やせせら笑いが聞こえてくるが、もはや小虫の羽音にしか聞こえない。一度も足を止めることなく、ロゼッタは王城の巨大な正門を堂々とくぐり抜けた。
(さて、これからどうしましょう)
ここから王都にあるレイファール伯爵邸までは、それほど遠くない。けれど、正直帰る気にはなれなかった。
(あそこに戻ったところで、どうせ『殿下を不快にさせたお前が悪い』って嫌味を言われるのがオチだもの)
しかも今のロゼッタは、王太子に捨てられた傷物扱いだ。まともな縁談など望めないからと、どこぞのろくでもない貴族へ嫁がされかねない。そんなの絶対にごめんだ。
(私の人生は私のものよ。もう二度と、誰にも振り回されるものですか)
固い決意を胸に、ロゼッタは小さなポーチを取り出した。ずっしりと重いその中身は、大量の金貨。かつてオーヴァンが「もしもの時のお守りじゃ」と授けてくれたへそくりである。これだけは両親やシャロンの目から死守し、肌身離さず隠し持っていたのだ。
今がまさに、そのもしもの時。
金貨を一枚手に取り、ロゼッタは通りかかった辻馬車を呼び止めた。
「すみません。王都を抜けてロス伯爵領までお願いします」
「あいよ。うちの馬は速いんだ」
ロゼッタから金貨を受け取り、御者がニヤリと笑う。
動き出した馬車の揺れに身を任せながら、ロゼッタは今後の計画を練っていく。まずは王都から離れ、そこからは馬車を乗り継いで目的地へと向かう。
見知らぬ土地に行くことに、不安がないわけではない。
けれど、これから始まる新しい人生に、ロゼッタは胸の高鳴りを抑え切れずにいた。
実母は、ロゼッタがわずか三歳の時に病で他界。程なくして父が後妻として迎え入れたのが、シャロンの母親だった。
実のところ、ふたりは母が倒れる以前から不倫関係にあり、それが原因で屋敷の中では常に激しい喧嘩が絶えなかったという。そして邪魔者が亡くなると、愛人はまんまと伯爵夫人の座に収まったというわけだ。
初めてこの事実を知った際、ロゼッタは怒りと呆れで目まいを起こしかけた。
(貴族に浮気はつきものだけど、病気の妻を放って密会だなんて最低すぎる)
やがてシャロンが誕生すると、両親の関心はすべて妹へと移る。
特に父は、前妻の面影を色濃く残すプラチナブロンドと菫色の瞳を持ったロゼッタを避けるようになり、後妻によく似た妹を溺愛していた。
周囲から蝶よ花よと育てられたシャロンは、愛らしい容姿とは裏腹に猫かぶりなわがまま娘へと成長していく。
『そのぬいぐるみとーっても可愛いわ。ねぇ、わたくしにちょうだい、お姉様っ』
『ダメよ、シャロン。これは親戚の方が私のために選んでくださったものなのよ』
『何よ、ケチケチ! お姉様のくせに逆らうなんて生意気! お父様たちに言いつけて、屋敷から追い出してやるんだからっ!』
自分の思い通りにいかないと、感情に任せて喚き散らす。
両親もシャロンの本性には気づいていたはずだが、「愛嬌のある子だ」と盲目的に甘やかすばかりだった。
一方、家族から爪弾きにされたロゼッタは、ひとりで読書をすることが多くなっていた。使用人たちも主人の顔色を窺い、最低限の世話しか焼こうとしない。
(放っておかれる方が気楽でいいわ)
本人もその孤独を静かに受け入れていた。
幼くして既に達観していたロゼッタを、唯一気にかけていたのは、祖父のオーヴァンだった。
『ロゼッタよ、お前は本当に本好きじゃのう。いったい全体、誰に似たのやら……む? ワシか、ワシじゃな。はーっはっは!』
孫娘の頭を撫でながら豪快に笑うオーヴァンは、考古学の権威として名を馳せ、若い頃は隣国へ留学していたこともある人物だった。家督を息子に譲ってからは、屋敷の離れに引きこもって研究に没頭していた。
ロゼッタが読む本は、どれも祖父の書斎で見つけたものばかり。オーヴァンが古文書を読み解いて、そっくりに再現する際、助手として模造本作りを手伝うことも少なくなかった。
けれど、ロゼッタが十二歳の時にオーヴァンが亡くなると、楽しかった日々は終わりを告げる。王家が、彼の遺した模造本を貴重な歴史的資料として、すべて譲り受けたいと申し出たのだ。
そして祖父の遺品と引き換えに、ロゼッタに与えられたのがレオナールの婚約者という肩書きだった。
(やっと、この窮屈な家から抜け出せる……っ!)
祖父との大切な思い出の品々を、王家に差し出されてしまうことには複雑な思いがある。それでも、愛のない両親や身勝手な妹から離れられる喜びがあった。
しかし。
『君が私の婚約者かい? はぁ……期待外れもいいところだ』
『はい?』
『私はもっと華やかで愛くるしい花のような女性が好みでね。君のようなくっきりとした、悪く言えば可愛げのない顔立ちには正直惹かれないんだよ。父上の命令だから婚約してやるが、私に愛されるなどと期待しないでもらいたいな』
何て失礼な人なの。それが、王太子に対するロゼッタの第一印象だった。
宣言通りレオナールには徹底的に無視され、移り住んだ王宮でも使用人たちにすらあからさまに軽んじられ、結局ロゼッタの居場所はどこにもなかった。
唯一、心の休まる場所は図書室だけだった。
誰にも邪魔されず、ただ読みたい本を選ぶ。それだけでロゼッタは幸せだった。
レオナールに必要とされるのは、決まって諸外国から難解な文書が届いた時のみ。読書を通じて数多の異国語を習得していたロゼッタは、翻訳をすべて押しつけられていたのだ。
けれど、レオナールから労いの言葉をかけられたことは一度もない。
『次はもう少し手際よくやってもらいたいものだ』
何度、書物で彼をぶん殴ってやろうと思ったことか。政略によって繋がれたふたりの関係は、初めから氷のように冷え切っていた。
(だけど、まさかシャロンと関係を持っていたなんてね。確かに殿下の好みではあるけれど)
妹に王太子を横取りされた哀れな令嬢。当然、世間にはそのように映るのだろう。
そう思うと少し癪ではあるが、それを差し引いてもロゼッタの心はかつてないほどに晴れやかだ。
休んでなどいられない。部屋に戻るなり、ロゼッタは最低限の荷物をトランクにすばやく詰め込んだ。次に読みかけの本を図書室に返却して、「今までお世話になりました」と司書にお辞儀をする。
「ロ、ロゼッタ様?」
「では失礼いたします」
突然の別れの挨拶に戸惑う司書を背に、ロゼッタは軽やかな足取りで廊下へ踏み出す。
婚約解消の件は既に城内に広まっているようで、周囲からは明け透けな陰口やせせら笑いが聞こえてくるが、もはや小虫の羽音にしか聞こえない。一度も足を止めることなく、ロゼッタは王城の巨大な正門を堂々とくぐり抜けた。
(さて、これからどうしましょう)
ここから王都にあるレイファール伯爵邸までは、それほど遠くない。けれど、正直帰る気にはなれなかった。
(あそこに戻ったところで、どうせ『殿下を不快にさせたお前が悪い』って嫌味を言われるのがオチだもの)
しかも今のロゼッタは、王太子に捨てられた傷物扱いだ。まともな縁談など望めないからと、どこぞのろくでもない貴族へ嫁がされかねない。そんなの絶対にごめんだ。
(私の人生は私のものよ。もう二度と、誰にも振り回されるものですか)
固い決意を胸に、ロゼッタは小さなポーチを取り出した。ずっしりと重いその中身は、大量の金貨。かつてオーヴァンが「もしもの時のお守りじゃ」と授けてくれたへそくりである。これだけは両親やシャロンの目から死守し、肌身離さず隠し持っていたのだ。
今がまさに、そのもしもの時。
金貨を一枚手に取り、ロゼッタは通りかかった辻馬車を呼び止めた。
「すみません。王都を抜けてロス伯爵領までお願いします」
「あいよ。うちの馬は速いんだ」
ロゼッタから金貨を受け取り、御者がニヤリと笑う。
動き出した馬車の揺れに身を任せながら、ロゼッタは今後の計画を練っていく。まずは王都から離れ、そこからは馬車を乗り継いで目的地へと向かう。
見知らぬ土地に行くことに、不安がないわけではない。
けれど、これから始まる新しい人生に、ロゼッタは胸の高鳴りを抑え切れずにいた。
