ロゼッタがその名を口にした瞬間、国王の眉がぴくりと跳ねる。
国王は「少し待て」と足早に謁見室を出ていくと、ほどなくして一冊の古びた手帳を手に戻ってきた。
「私の父が遺した手記だ。エリアン王国から留学してきた青年、オーヴァンについて記されている。読書家同士、古書を読み合って意気投合していたようだが、ある日意見が食い違って仲違いしてしまったらしい。そのことを後悔……はしておらんな」
ロゼッタとエドガーが手帳を覗き込むと、そこには「あの偏屈愚か者め」「将来禿げてしまえ」などといった罵倒のオンパレードが綴られている。
「……多分、喧嘩の原因は魔導書だと思います」
「何か知っているのかい?」
「はい。昔、おじい様から『あるご友人』との喧嘩について聞いたことがありまして……」
エドガーの問いに頷き、ロゼッタは苦笑を浮かべながら当時のことを振り返る。
オーヴァン曰く、かつてその友人とともに魔導書の製法が記された書物──『垂れ耳探偵ロップス』を発見した。オーヴァンは即座に作成を提案したが、友人に猛反対されたのだという。
『なーにが『大いなる力は災いを招く』だ、あのボケナスが! どうせ未知の力に腰が引けただけだろうが。あいつがやらぬのなら、ワシひとりで完成させてやるわい!』
友人と袂をわかった祖父は、帰国後、自らの記憶だけを頼りに垂れ耳探偵を完全に複製した。そこからさらに暗号の解読を進め、ついには独力で魔導書を作り上げてしまったのだ。
「もしかしたら、あの隠し部屋はオーヴァン殿のような者を二度と出さぬために、父上が作ったのかもしれんな。しかし、なんともったいないことをしたものだ。今にして思えば、やけに試作品の魔導書も破棄しろとうるさかったのは、そういうことだったのか」
国王は残念そうに眉を下げて、思ったことを素直に口にした。
「ところでロゼッタ。君はいつ、この本を見つけたんだ?」
「こちらで働き始めてすぐのことです。お仕事の合間に、こっそり翻訳と暗号の解読を進めていました。呪文はさておき、暗号は文字数も多いうえに記憶もおぼろげで、少々手間取ってしまいましたが」
ロゼッタがそう答えると、国王は驚きを隠せない様子で瞬きを繰り返した。
「二冊分の翻訳を同時並行で……?」
「どうして、すぐに話してくれなかったんだい? 君の負担にならないように、仕事を調整することもできたのに」
エドガーが気遣うように尋ねると、ロゼッタは気まずそうに目を泳がせた。
「自分の正体を明かすのを躊躇したということもありますが……」
そう言って、おずおずとエドガーに視線を向ける。
「えっと、その……エドガーさんから順に翻訳するように言われていたのに、勝手なことをしたら怒られてしまうと思いまして……黙っていて、本当に申し訳ありませんでした」
「ふむ。これはエドガー、そなたが悪いな」
国王が腕組みをしてエドガーをじろりと睨むが、その口元には楽しげな笑みが浮かんでいる。
「その方がやりやすいと思っただけで、どうというわけでは……」
バツが悪そうに言葉を濁してから、エドガーはふっと表情を和らげ、安心させるようにロゼッタに向き直った。
「だけど勇気を出して打ち明けてくれてありがとう、ロゼッタ」
「……はい」
真っ直ぐな感謝の言葉が、心に優しく染み渡っていく。
ロゼッタは顔の強張りをゆるゆると解き、安堵の吐息を漏らした。
ふたりの傍らでは、国王がそわそわとした様子でロゼッタのノートを凝視している。
「時に、ロゼッタよ。先ほど暗号も解読したと申していたが……」
「この本に隠されている暗号って、実はとっても単純なんです。こうやって右から順に縦読みするだけで、別の文章が浮かび上がってくるんですよ」
ロゼッタはノートを開き、該当する箇所を指先でゆっくりと辿るようになぞった。
「エレスト樹、コランディア草、……うむ、これが原料か。だが、聞いたこともない植物ばかりだな。千年前ともなれば、もう絶滅しているかもしれんぞ」
暗号を読み上げた国王が、残念そうに眉をひそめる。けれど、ロゼッタは首を横に振った。
「いえ、こちらに載っているものはすべて古い呼び名ですが、どれも現存しているものばかりです。今の名前に書き換えたリストを用意してありますので、ご安心ください」
「手際がよすぎる……」
ロゼッタの周到さに少し引きつつも、エドガーはあることに気づいて息を呑んだ。
「ということは、呪文も縦読みで隠されているのかい?」
「いえ」
「まあ、流石にそこまで単純じゃないか。あくまで製法だけが……」
「呪文は左から斜めに読むと解読できます」
実はこの本の暗号、仕組みさえわかってしまえば驚くほど単純なものなのだ。
ふいに国王が振り返る。
「……エドガーよ、製本の専門家を至急集めることは可能か?」
その真剣な面持ちから、国王の本気が窺える。
「でしたら、古書の複本作業に携わっている者たちに任せましょう。彼らの中には製本経験者が多数おります」
エドガーの声も、いつもより弾んでいた。次に国王が何を命じるのか手に取るようにわかっていたからだ。
「よし、これより魔導書の作成を開始する! 国の威信をかけた大仕事だ。予算の心配は無用、全力で取りかかるのだ!」
「承知いたしました」
国王の力強い宣言に、エドガーが恭しく頭を下げる。
(すごい……なんだか夢でも見てるみたい)
ロゼッタは興奮で胸を高鳴らせながら、目の前の光景を夢見心地で見つめていた。
◆◆◆
こうして国王の号令の下、魔導書作りが始まった。
数日もしないうちに、王城には大量の原材料が運び込まれた。紙やインクの要となる植物だけではなく、鉱物や貝殻、中には岩塩や蜂蜜といった変わり種まである。
「これ、本当に材料なんですか……?」
ミラベルが不思議そうに手に取ったのは、白ウサギの毛玉が詰まった小瓶である。紙をすく際、植物の繊維と一緒に混ぜ込むように書かれてあるのだ。
複本チームは半信半疑ながらも、紙、インク、表紙の各班にわかれて作業を開始した。
ロゼッタは現場の総監督という立場を任されたが、製本に関してはまったくのど素人である。解読内容と実際の作業を照らし合わせながら、彼らの作業を見守ることぐらいしかできずにいた。
そして、エドガーも日に数度は現場を訪れている。本来、確認は一度で十分なのだが、どうしても魔導書の進捗が気になるらしく、休憩と称して顔を出しているのだ。
「ところで、このタイミングで作り方を打ち明けてくれたのは、この前の作物の件と何か関係があるのかな?」
流石は切れ者の宰相である。
ロゼッタは「はい」と返事をして、手に持っていたノートをぱらぱらと開いた。魔導書の魔法がどのような効果をもたらすのか、わかりやすく書き記したものだ。
「こちらのページをご覧ください」
「……これは攻撃魔法かい?」
「いえ、吹雪を巻き起こす魔法です。文章だけでは伝わりにくいと思って、イメージ図を描いてみました」
「そうなんだね」
エドガーには空から降り注ぐ無数の隕石と、そこから必死に逃げ惑う棒人間たちにしか見えなかった。
「確かにこの魔法なら、ルミナリア王国を寒冷地と同じ環境に変えられそうだ」
「はい。ですが、そのまま吹雪を起こしたら国が混乱に陥ってしまいます。ですから、こちらの魔法と併用するんです」
次にロゼッタが開いたページには、大きな球体が描かれている。エドガーはそれを一瞥して、脇に書かれている文章に目を通した。
「結界魔法か。こんなものもあるんだね」
「はい。まずある一帯をこの魔法で隔離します。その内部に限定して吹雪を発生させれば、外に影響を及ぼすことなく真冬の状態を保つことができるんです。それなら、寒冷地用の作物も開発できるかと」
ロゼッタ画伯は、真面目な顔で簡潔に持論を唱えた。
「理論上は可能だと思うけど、その結界を張る位置や範囲はどうやって指定するんだい?」
「この魔法の呪文は『万物の核より領域の証を天に示せ』とあります。これって、特定の場所に立って土地の面積を口にするだけで、そこを中心に範囲が指定できるという意味だと思うんです。つまり、数字そのものが呪文の鍵になるのではないでしょうか」
「……随分と細かいな。うちの国にある魔導書の呪文はもっとシンプルなのに」
「あちらは試作品だからじゃないですか?」
あんなしょぼい火の玉しか出ないのに、範囲も威力もあったものではない。同じ考えに至ったふたりは、顔を見合わせて笑った。
「おふたりでお話し中、失礼いたします」
そう言って、両者の間にしれっと割り込んできたのはユーグだった。
「先ほどエリアン王国に滞在している外交官から報告がありました。ロゼッタ様には、念のため早急にお伝えしておくべきかと思いまして」
「何があったんですか?」
「あちらの国の王太后が、先日亡くなられたとのことです」
「えっ……」
ロゼッタの脳裏に王太后の姿が思い浮かぶ。
最後に彼女を見たのはあの波乱の葬儀の時だった。あれからわずか二ヶ月後しか経っていないというのに。
けれど、この時のロゼッタは知るよしもなかった。
王太后の死をきっかけに、エリアン王家……いや、エリアン王国を揺るがす大騒動が巻き起こることを。
国王は「少し待て」と足早に謁見室を出ていくと、ほどなくして一冊の古びた手帳を手に戻ってきた。
「私の父が遺した手記だ。エリアン王国から留学してきた青年、オーヴァンについて記されている。読書家同士、古書を読み合って意気投合していたようだが、ある日意見が食い違って仲違いしてしまったらしい。そのことを後悔……はしておらんな」
ロゼッタとエドガーが手帳を覗き込むと、そこには「あの偏屈愚か者め」「将来禿げてしまえ」などといった罵倒のオンパレードが綴られている。
「……多分、喧嘩の原因は魔導書だと思います」
「何か知っているのかい?」
「はい。昔、おじい様から『あるご友人』との喧嘩について聞いたことがありまして……」
エドガーの問いに頷き、ロゼッタは苦笑を浮かべながら当時のことを振り返る。
オーヴァン曰く、かつてその友人とともに魔導書の製法が記された書物──『垂れ耳探偵ロップス』を発見した。オーヴァンは即座に作成を提案したが、友人に猛反対されたのだという。
『なーにが『大いなる力は災いを招く』だ、あのボケナスが! どうせ未知の力に腰が引けただけだろうが。あいつがやらぬのなら、ワシひとりで完成させてやるわい!』
友人と袂をわかった祖父は、帰国後、自らの記憶だけを頼りに垂れ耳探偵を完全に複製した。そこからさらに暗号の解読を進め、ついには独力で魔導書を作り上げてしまったのだ。
「もしかしたら、あの隠し部屋はオーヴァン殿のような者を二度と出さぬために、父上が作ったのかもしれんな。しかし、なんともったいないことをしたものだ。今にして思えば、やけに試作品の魔導書も破棄しろとうるさかったのは、そういうことだったのか」
国王は残念そうに眉を下げて、思ったことを素直に口にした。
「ところでロゼッタ。君はいつ、この本を見つけたんだ?」
「こちらで働き始めてすぐのことです。お仕事の合間に、こっそり翻訳と暗号の解読を進めていました。呪文はさておき、暗号は文字数も多いうえに記憶もおぼろげで、少々手間取ってしまいましたが」
ロゼッタがそう答えると、国王は驚きを隠せない様子で瞬きを繰り返した。
「二冊分の翻訳を同時並行で……?」
「どうして、すぐに話してくれなかったんだい? 君の負担にならないように、仕事を調整することもできたのに」
エドガーが気遣うように尋ねると、ロゼッタは気まずそうに目を泳がせた。
「自分の正体を明かすのを躊躇したということもありますが……」
そう言って、おずおずとエドガーに視線を向ける。
「えっと、その……エドガーさんから順に翻訳するように言われていたのに、勝手なことをしたら怒られてしまうと思いまして……黙っていて、本当に申し訳ありませんでした」
「ふむ。これはエドガー、そなたが悪いな」
国王が腕組みをしてエドガーをじろりと睨むが、その口元には楽しげな笑みが浮かんでいる。
「その方がやりやすいと思っただけで、どうというわけでは……」
バツが悪そうに言葉を濁してから、エドガーはふっと表情を和らげ、安心させるようにロゼッタに向き直った。
「だけど勇気を出して打ち明けてくれてありがとう、ロゼッタ」
「……はい」
真っ直ぐな感謝の言葉が、心に優しく染み渡っていく。
ロゼッタは顔の強張りをゆるゆると解き、安堵の吐息を漏らした。
ふたりの傍らでは、国王がそわそわとした様子でロゼッタのノートを凝視している。
「時に、ロゼッタよ。先ほど暗号も解読したと申していたが……」
「この本に隠されている暗号って、実はとっても単純なんです。こうやって右から順に縦読みするだけで、別の文章が浮かび上がってくるんですよ」
ロゼッタはノートを開き、該当する箇所を指先でゆっくりと辿るようになぞった。
「エレスト樹、コランディア草、……うむ、これが原料か。だが、聞いたこともない植物ばかりだな。千年前ともなれば、もう絶滅しているかもしれんぞ」
暗号を読み上げた国王が、残念そうに眉をひそめる。けれど、ロゼッタは首を横に振った。
「いえ、こちらに載っているものはすべて古い呼び名ですが、どれも現存しているものばかりです。今の名前に書き換えたリストを用意してありますので、ご安心ください」
「手際がよすぎる……」
ロゼッタの周到さに少し引きつつも、エドガーはあることに気づいて息を呑んだ。
「ということは、呪文も縦読みで隠されているのかい?」
「いえ」
「まあ、流石にそこまで単純じゃないか。あくまで製法だけが……」
「呪文は左から斜めに読むと解読できます」
実はこの本の暗号、仕組みさえわかってしまえば驚くほど単純なものなのだ。
ふいに国王が振り返る。
「……エドガーよ、製本の専門家を至急集めることは可能か?」
その真剣な面持ちから、国王の本気が窺える。
「でしたら、古書の複本作業に携わっている者たちに任せましょう。彼らの中には製本経験者が多数おります」
エドガーの声も、いつもより弾んでいた。次に国王が何を命じるのか手に取るようにわかっていたからだ。
「よし、これより魔導書の作成を開始する! 国の威信をかけた大仕事だ。予算の心配は無用、全力で取りかかるのだ!」
「承知いたしました」
国王の力強い宣言に、エドガーが恭しく頭を下げる。
(すごい……なんだか夢でも見てるみたい)
ロゼッタは興奮で胸を高鳴らせながら、目の前の光景を夢見心地で見つめていた。
◆◆◆
こうして国王の号令の下、魔導書作りが始まった。
数日もしないうちに、王城には大量の原材料が運び込まれた。紙やインクの要となる植物だけではなく、鉱物や貝殻、中には岩塩や蜂蜜といった変わり種まである。
「これ、本当に材料なんですか……?」
ミラベルが不思議そうに手に取ったのは、白ウサギの毛玉が詰まった小瓶である。紙をすく際、植物の繊維と一緒に混ぜ込むように書かれてあるのだ。
複本チームは半信半疑ながらも、紙、インク、表紙の各班にわかれて作業を開始した。
ロゼッタは現場の総監督という立場を任されたが、製本に関してはまったくのど素人である。解読内容と実際の作業を照らし合わせながら、彼らの作業を見守ることぐらいしかできずにいた。
そして、エドガーも日に数度は現場を訪れている。本来、確認は一度で十分なのだが、どうしても魔導書の進捗が気になるらしく、休憩と称して顔を出しているのだ。
「ところで、このタイミングで作り方を打ち明けてくれたのは、この前の作物の件と何か関係があるのかな?」
流石は切れ者の宰相である。
ロゼッタは「はい」と返事をして、手に持っていたノートをぱらぱらと開いた。魔導書の魔法がどのような効果をもたらすのか、わかりやすく書き記したものだ。
「こちらのページをご覧ください」
「……これは攻撃魔法かい?」
「いえ、吹雪を巻き起こす魔法です。文章だけでは伝わりにくいと思って、イメージ図を描いてみました」
「そうなんだね」
エドガーには空から降り注ぐ無数の隕石と、そこから必死に逃げ惑う棒人間たちにしか見えなかった。
「確かにこの魔法なら、ルミナリア王国を寒冷地と同じ環境に変えられそうだ」
「はい。ですが、そのまま吹雪を起こしたら国が混乱に陥ってしまいます。ですから、こちらの魔法と併用するんです」
次にロゼッタが開いたページには、大きな球体が描かれている。エドガーはそれを一瞥して、脇に書かれている文章に目を通した。
「結界魔法か。こんなものもあるんだね」
「はい。まずある一帯をこの魔法で隔離します。その内部に限定して吹雪を発生させれば、外に影響を及ぼすことなく真冬の状態を保つことができるんです。それなら、寒冷地用の作物も開発できるかと」
ロゼッタ画伯は、真面目な顔で簡潔に持論を唱えた。
「理論上は可能だと思うけど、その結界を張る位置や範囲はどうやって指定するんだい?」
「この魔法の呪文は『万物の核より領域の証を天に示せ』とあります。これって、特定の場所に立って土地の面積を口にするだけで、そこを中心に範囲が指定できるという意味だと思うんです。つまり、数字そのものが呪文の鍵になるのではないでしょうか」
「……随分と細かいな。うちの国にある魔導書の呪文はもっとシンプルなのに」
「あちらは試作品だからじゃないですか?」
あんなしょぼい火の玉しか出ないのに、範囲も威力もあったものではない。同じ考えに至ったふたりは、顔を見合わせて笑った。
「おふたりでお話し中、失礼いたします」
そう言って、両者の間にしれっと割り込んできたのはユーグだった。
「先ほどエリアン王国に滞在している外交官から報告がありました。ロゼッタ様には、念のため早急にお伝えしておくべきかと思いまして」
「何があったんですか?」
「あちらの国の王太后が、先日亡くなられたとのことです」
「えっ……」
ロゼッタの脳裏に王太后の姿が思い浮かぶ。
最後に彼女を見たのはあの波乱の葬儀の時だった。あれからわずか二ヶ月後しか経っていないというのに。
けれど、この時のロゼッタは知るよしもなかった。
王太后の死をきっかけに、エリアン王家……いや、エリアン王国を揺るがす大騒動が巻き起こることを。
