「これは……」
古文書や古記録、さらには一目では判別できないほど劣化したものまで。レクティオ語で記された本が多く並んでいるが、長年湿気に晒され続けたせいでいずれも損傷が激しい。背表紙の文字は滲み、かすれて読めなくなっているものもある。
この様子では、中身も悲惨な状態になっているに違いない。本を愛するロゼッタにとっては、まさに悪夢のような光景だった。
「陛下は探求心が旺盛なお方でね。ここにある古文書に何が記されているのか、解明するようにと僕に命じられたんだ。けれど、うちの文官でレクティオ語を扱える者はいない。一応僕もレクティオ語を習得しているけど、ここまで酷いとちょっと厳しいんだよね。そこで急遽、古文書に精通する人材を募集したというわけさ」
「な、なるほど」
相槌を打ちながらも、ロゼッタは内心、冷や汗が止まらない。
(ただの翻訳作業かと思ってたら、まさか陛下勅命の案件だったなんて……)
そんな大それた仕事が、果たして自分に務まるだろうか。まだ何も始まっていないのに、ロゼッタは早くもプレッシャーに押し潰されそうになっていた。
「難しく考えることはないよ」
ロゼッタの心境を見透かしたように、エドガーがくすりと笑って仕事の詳細を語り始める。
「君には、一番端の書物から順に解読をお願いしたい。内容をノートに書き写して僕に届けてくれれば、あとは複製チームがその後の作業を引き継ぐ流れになっている。というわけで、早速実践してみようか」
弾んだ声で言うと、エドガーは隅の書架から一冊の本を慎重に引き抜いた。わずかな摩擦によって、表紙の欠片が白い粉となってはらはらと床に落ちる。
「まずはこの一冊からだ」
差し出された本を、ロゼッタは手が汚れるのも構わず両手でそっと受け取った。
「さて、そろそろ戻るとしようか。ここは空気が悪いからね」
湿り気を帯びた淀んだ空気から解放され、ふたりは図書室に戻った。暗闇に目が慣れていたせいか、窓から差し込む陽光が妙に眩しく感じる。ロゼッタは光を遮るように、目の前に手をかざした。
(ネガティブなことは考えない。とにかく、この仕事に向き合うだけよ!)
弱腰になっていた自分を叱咤していると、亜麻色の髪を揺らし、ひとりの女性が駆け寄ってきた。
「あら、あなたが噂の新人さん?」
「はい。ロゼッタ・ブランド―ルと申します」
ロゼッタが丁寧にお辞儀をすると、女性もにこやかに自己紹介をする。
「私は複製チームのリーダーを勤めるミラベル・ハーウットです。てっきり堅物のおじ様がいらっしゃるものと思っていたので、こんなに可愛らしい方が来てくださって安心いたしました。よろしくお願いしますね、ロゼッタさん!」
ミラベルはロゼッタの両手をがっしり掴み、上下に大きく振った。
「よ、よろしくお願いします」
熱烈な歓迎ぶりに、ロゼッタが目を白黒させながら頷く。
「ちょうどよかった。ミラベル、何か書くものを持ってきてくれ」
「はい。少々お待ちを」
程なくしてミラベルがノートと筆記具を用意すると、ロゼッタはテーブルにつき、古書の表紙をじっと見つめた。どうやら料理本のようだと、断片的な単語を繋ぎ合わせて推察する。
(……よし)
背筋をぴんと伸ばし、一ページ目を開く。湿気を含んでしんなりとした紙の感触が指先に伝わってきた。
ペン先にたっぷりとインクを含ませ、古書を追う視線と同時にさらさらとノートを埋めていく。欠落した文字の空白を脳内で補完し、文脈から最も相応しい言葉を瞬時に導き出すのだ。
『よいか、ロゼッタ。古代文字の解読に必要なのは、知識と想像力、そして思い切りの良さじゃ。こういうのは穴だらけのパズルみたいなものだからのぅ。足りないピースを自ら作って、埋めていくのじゃよ』
祖父の教えを思い返しながら、ひたすら思考を巡らせ、ペンを走らせ、夢中でページをめくっていく。きりよく五ページ目を解読し終えたところで、ロゼッタは「ふう」と小さく息を吐いて顔を上げた。
「はっ」
ロゼッタの周囲には、いつの間にかエドガーとミラベルだけでなく、多くの文官たちが固唾を呑んで集まっていた。
「すごいな、ロゼッタ。まだ十分しか経っていないのに、もうこれだけの文量を……」
「は、はい。このあたりは欠損も少なくて読みやすかったので……ですが、この調子なら数日もあれば一冊分は完了できると思います」
ロゼッタが謙遜しながら見通しを告げると、文官たちは言葉を失い、驚いた顔で互いを見合わせた。そんな彼らの一方で、ミラベルが感心した様子でノートに目を通している。
「字もクセがなくて綺麗ですね。もしかして事務作業などの経験がありますか?」
「あ、ええと……父の仕事を手伝っていました」
正しくは父ではなく、元婚約者の仕事だったのだが。ミラベルの質問に、ロゼッタは微妙に嘘をついた。
その時、盛り上がる図書室に、近衛兵らしき男がやって来た。
「サンジェスト閣下、国王王妃両陛下が先ほど帰還されました。直ちにロゼッタ殿を伴い、お越しいただくようにとの命です」
「わかった。それじゃあ本日一番の大仕事、国王夫妻への謁見に行こうか、ロゼッタ」
冗談めかして笑うエドガーをよそに、ロゼッタは張り詰めた面持ちで表情を引き締めた。
(くれぐれも粗相がないようにしないと)
何度も脳内でカーテシーの手順と挨拶を繰り返しながら、浮き足立つ心地でエドガーの後に続く。
辿り着いたのは、一際豪華な造りの扉の前だった。白銀の表面に、ルミナリア王国の紋章である百合の花が彫り込まれている。
「サンジェストです。ロゼッタを連れてまいりました」
「お待ちしておりました」
エドガーが扉を叩いて入室を告げると、従者の手によって内側から扉が開かれる。
謁見室は質素ながらも上品なしつらえで、正面のソファには三十代半ばほどの男女が、柔和な笑みを湛えて座っていた。
「噂はかねがね聞いている。初めまして、ロゼッタ。私がこの国を統治する王、リカルドだ」
国王が立ち上がり、静かに歩み寄る。ロゼッタは意を決したようにドレスの裾を指先でつまみ、優雅な動作で深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります、ルミナリア国王陛下。ロゼッタ・ブランドールでございます」
「そんなに緊張なさらないで。わたくしは王妃のフランシスカです」
品のある笑い声とともに、王妃がロゼッタの手を優しく取る。
「まさかブランドール家の方が来てくださるなんて思ってもいませんでしたわ」
「我が家のことをご存じなのですか?」
「もちろんだとも」
国王はにこやかに、ロゼッタの問いに答えた。
「先代……私の父が在位していた頃、ある地方が大規模な水害に見舞われたことがあった。国境付近の地ということもあって、すぐには駆けつけられず途方に暮れていたのだが、そんな折、真っ先に支援してくれたのがそなたの家だった。おかげで、救われた民の命は計り知れない」
「そうだったのですね」
「どうもエリアン王国は、我々が困窮しきったところを見計らって、法外な見返りを求める算段だったらしい。人命がかかっている時に、自国の利益を優先するやり方が気に入らない。ブランドール伯はそう憤っていた」
昔話のように国王は軽く笑うが、ロゼッタはわずかに眉間をひそめた。
(エリアン王国の先王はそんなことを……おじ様が怒るのも当然だわ)
故人を責めるべきではないと思いつつも、ロゼッタは暗い影を落とした表情になる。
「湿っぽい話はここまでにしよう」
ロゼッタの内心を察した国王が、明るい口調で話を戻した。
「ロゼッタ、君を呼んだのは挨拶のためだけではない。是非見て欲しいものがあるのだよ」
国王の言葉に合わせ、従者が金細工を施した平箱を恭しく運んでくる。その中から取り出されたものを見て、ロゼッタは息を呑み、目を見開いた。
複雑な幾何学模様の円陣がいくつも描かれた、古びた書物。国王はその色褪せた表紙を掲げ、誇らしげに微笑んだ。
「人知を超える異能を秘めた魔導書だ。世間では我が国には現存せぬとされているが、実はこうして代々の王の手で秘匿されてきたのだ。その力を、今ここでそなたに見せるとしよう……」
国王が流れるような手つきで魔導書を開き、小さな声ですばやく呪文を唱える。すると、ページから溢れ出した赤い光が、瞬く間に視界のすべてを覆い尽くした。
「……っ!」
いったいどんな魔法が出てくるのだろうか。ロゼッタは瞬きをするのも忘れ、鼓動を高鳴らせる。
ところが。
光が霧散した後に残ったのは、国王の目の前で頼りなげに浮遊する、マッチの火ほどの小さな火球だった。そのまま三十秒ほど燃え続け、最後にはぷすん……と力尽きたかのように消えてしまった。
「…………」
なんとも言えない沈黙が謁見室を包み込む。国王は魔導書を静かに閉じると、キリッとした真剣な表情で叫んだ。
「以上!」
(え……ええっ!?)
ある意味で予想外すぎる効果を突きつけられ、ロゼッタは呆気に取られる。思わず隣のエドガーを仰ぎ見ると、彼も頬を引きつらせ、乾いた笑みを浮かべていた。
「恐らく、これは魔導書の黎明期に作られた試作品なんだ。保存状態こそ他国のものより良いけど、いかんせん使える魔法が限られていて、威力もこの通り微々たるもので……」
「つまり、ただのゴミというわけですわ」
王妃が頬に手を添え、晴れやかな表情で一刀両断する。妻の痛烈な一言に、国王は「うっ」と低い声で呻いた。
「そこまで言わなくてもいいだろう。これでも我が国が誇る大事な国宝なのだぞ?」
「そんなポンコツ魔導書、役に立たなすぎて他国には明かせませんわ。知られたところで、鼻で笑われるのがオチですもの」
子供のように拗ねる国王を軽くあしらい、王妃はロゼッタに向き直った。
「期待させてしまってごめんなさいね、ロゼッタさん。この人ったら、新人が入るたびにこうして自慢したがるのよ」
「い、いえ。滅多に見られない貴重なものを拝見できて光栄です」
ロゼッタの言葉に偽りはない。たとえ試作品であろうと、魔導書は魔導書。それだけで、十分すぎるほどの価値がある。
「おお、そうか。見せた甲斐があったというものだ!」
国王はたちまち元気を取り戻し、嬉しそうに頬を緩めた。そして嬉々として、自説を披露し始める。
「それに、試作品がこの国にあるということは、かつてこの地で魔導書作りが盛んに行われていた証拠でもある。となれば、あの隠し部屋の中にその作成法を記した資料が眠っていても不思議ではない」
「確かに……」
「かつて一冊の指南書をもとに数多の魔導書が作られた……ある国の文献にそう記されている。エドガーに命じてあの隠し部屋を隅々まで調べさせたものの、未だそれらしき記述は見つかっていない。だが、膨大な古書のどこかに、その秘密が眠っていると私は睨んでいる」
そう語る国王の声は熱を帯び、青い瞳には期待に満ちた光が宿っている。その子供のような横顔を見て、王妃は小さく肩を竦めた。
「夢を追いかけるのも結構ですけれど、ほどほどになさってくださいまし。そもそも、魔導書が現存しない国なんて珍しくありませんわ。確かエリアン王国もそうでしたわよね?」
「……はい」
王妃に突然話を振られ、ロゼッタは一瞬言葉を詰まらせながらも答えた。
古文書や古記録、さらには一目では判別できないほど劣化したものまで。レクティオ語で記された本が多く並んでいるが、長年湿気に晒され続けたせいでいずれも損傷が激しい。背表紙の文字は滲み、かすれて読めなくなっているものもある。
この様子では、中身も悲惨な状態になっているに違いない。本を愛するロゼッタにとっては、まさに悪夢のような光景だった。
「陛下は探求心が旺盛なお方でね。ここにある古文書に何が記されているのか、解明するようにと僕に命じられたんだ。けれど、うちの文官でレクティオ語を扱える者はいない。一応僕もレクティオ語を習得しているけど、ここまで酷いとちょっと厳しいんだよね。そこで急遽、古文書に精通する人材を募集したというわけさ」
「な、なるほど」
相槌を打ちながらも、ロゼッタは内心、冷や汗が止まらない。
(ただの翻訳作業かと思ってたら、まさか陛下勅命の案件だったなんて……)
そんな大それた仕事が、果たして自分に務まるだろうか。まだ何も始まっていないのに、ロゼッタは早くもプレッシャーに押し潰されそうになっていた。
「難しく考えることはないよ」
ロゼッタの心境を見透かしたように、エドガーがくすりと笑って仕事の詳細を語り始める。
「君には、一番端の書物から順に解読をお願いしたい。内容をノートに書き写して僕に届けてくれれば、あとは複製チームがその後の作業を引き継ぐ流れになっている。というわけで、早速実践してみようか」
弾んだ声で言うと、エドガーは隅の書架から一冊の本を慎重に引き抜いた。わずかな摩擦によって、表紙の欠片が白い粉となってはらはらと床に落ちる。
「まずはこの一冊からだ」
差し出された本を、ロゼッタは手が汚れるのも構わず両手でそっと受け取った。
「さて、そろそろ戻るとしようか。ここは空気が悪いからね」
湿り気を帯びた淀んだ空気から解放され、ふたりは図書室に戻った。暗闇に目が慣れていたせいか、窓から差し込む陽光が妙に眩しく感じる。ロゼッタは光を遮るように、目の前に手をかざした。
(ネガティブなことは考えない。とにかく、この仕事に向き合うだけよ!)
弱腰になっていた自分を叱咤していると、亜麻色の髪を揺らし、ひとりの女性が駆け寄ってきた。
「あら、あなたが噂の新人さん?」
「はい。ロゼッタ・ブランド―ルと申します」
ロゼッタが丁寧にお辞儀をすると、女性もにこやかに自己紹介をする。
「私は複製チームのリーダーを勤めるミラベル・ハーウットです。てっきり堅物のおじ様がいらっしゃるものと思っていたので、こんなに可愛らしい方が来てくださって安心いたしました。よろしくお願いしますね、ロゼッタさん!」
ミラベルはロゼッタの両手をがっしり掴み、上下に大きく振った。
「よ、よろしくお願いします」
熱烈な歓迎ぶりに、ロゼッタが目を白黒させながら頷く。
「ちょうどよかった。ミラベル、何か書くものを持ってきてくれ」
「はい。少々お待ちを」
程なくしてミラベルがノートと筆記具を用意すると、ロゼッタはテーブルにつき、古書の表紙をじっと見つめた。どうやら料理本のようだと、断片的な単語を繋ぎ合わせて推察する。
(……よし)
背筋をぴんと伸ばし、一ページ目を開く。湿気を含んでしんなりとした紙の感触が指先に伝わってきた。
ペン先にたっぷりとインクを含ませ、古書を追う視線と同時にさらさらとノートを埋めていく。欠落した文字の空白を脳内で補完し、文脈から最も相応しい言葉を瞬時に導き出すのだ。
『よいか、ロゼッタ。古代文字の解読に必要なのは、知識と想像力、そして思い切りの良さじゃ。こういうのは穴だらけのパズルみたいなものだからのぅ。足りないピースを自ら作って、埋めていくのじゃよ』
祖父の教えを思い返しながら、ひたすら思考を巡らせ、ペンを走らせ、夢中でページをめくっていく。きりよく五ページ目を解読し終えたところで、ロゼッタは「ふう」と小さく息を吐いて顔を上げた。
「はっ」
ロゼッタの周囲には、いつの間にかエドガーとミラベルだけでなく、多くの文官たちが固唾を呑んで集まっていた。
「すごいな、ロゼッタ。まだ十分しか経っていないのに、もうこれだけの文量を……」
「は、はい。このあたりは欠損も少なくて読みやすかったので……ですが、この調子なら数日もあれば一冊分は完了できると思います」
ロゼッタが謙遜しながら見通しを告げると、文官たちは言葉を失い、驚いた顔で互いを見合わせた。そんな彼らの一方で、ミラベルが感心した様子でノートに目を通している。
「字もクセがなくて綺麗ですね。もしかして事務作業などの経験がありますか?」
「あ、ええと……父の仕事を手伝っていました」
正しくは父ではなく、元婚約者の仕事だったのだが。ミラベルの質問に、ロゼッタは微妙に嘘をついた。
その時、盛り上がる図書室に、近衛兵らしき男がやって来た。
「サンジェスト閣下、国王王妃両陛下が先ほど帰還されました。直ちにロゼッタ殿を伴い、お越しいただくようにとの命です」
「わかった。それじゃあ本日一番の大仕事、国王夫妻への謁見に行こうか、ロゼッタ」
冗談めかして笑うエドガーをよそに、ロゼッタは張り詰めた面持ちで表情を引き締めた。
(くれぐれも粗相がないようにしないと)
何度も脳内でカーテシーの手順と挨拶を繰り返しながら、浮き足立つ心地でエドガーの後に続く。
辿り着いたのは、一際豪華な造りの扉の前だった。白銀の表面に、ルミナリア王国の紋章である百合の花が彫り込まれている。
「サンジェストです。ロゼッタを連れてまいりました」
「お待ちしておりました」
エドガーが扉を叩いて入室を告げると、従者の手によって内側から扉が開かれる。
謁見室は質素ながらも上品なしつらえで、正面のソファには三十代半ばほどの男女が、柔和な笑みを湛えて座っていた。
「噂はかねがね聞いている。初めまして、ロゼッタ。私がこの国を統治する王、リカルドだ」
国王が立ち上がり、静かに歩み寄る。ロゼッタは意を決したようにドレスの裾を指先でつまみ、優雅な動作で深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります、ルミナリア国王陛下。ロゼッタ・ブランドールでございます」
「そんなに緊張なさらないで。わたくしは王妃のフランシスカです」
品のある笑い声とともに、王妃がロゼッタの手を優しく取る。
「まさかブランドール家の方が来てくださるなんて思ってもいませんでしたわ」
「我が家のことをご存じなのですか?」
「もちろんだとも」
国王はにこやかに、ロゼッタの問いに答えた。
「先代……私の父が在位していた頃、ある地方が大規模な水害に見舞われたことがあった。国境付近の地ということもあって、すぐには駆けつけられず途方に暮れていたのだが、そんな折、真っ先に支援してくれたのがそなたの家だった。おかげで、救われた民の命は計り知れない」
「そうだったのですね」
「どうもエリアン王国は、我々が困窮しきったところを見計らって、法外な見返りを求める算段だったらしい。人命がかかっている時に、自国の利益を優先するやり方が気に入らない。ブランドール伯はそう憤っていた」
昔話のように国王は軽く笑うが、ロゼッタはわずかに眉間をひそめた。
(エリアン王国の先王はそんなことを……おじ様が怒るのも当然だわ)
故人を責めるべきではないと思いつつも、ロゼッタは暗い影を落とした表情になる。
「湿っぽい話はここまでにしよう」
ロゼッタの内心を察した国王が、明るい口調で話を戻した。
「ロゼッタ、君を呼んだのは挨拶のためだけではない。是非見て欲しいものがあるのだよ」
国王の言葉に合わせ、従者が金細工を施した平箱を恭しく運んでくる。その中から取り出されたものを見て、ロゼッタは息を呑み、目を見開いた。
複雑な幾何学模様の円陣がいくつも描かれた、古びた書物。国王はその色褪せた表紙を掲げ、誇らしげに微笑んだ。
「人知を超える異能を秘めた魔導書だ。世間では我が国には現存せぬとされているが、実はこうして代々の王の手で秘匿されてきたのだ。その力を、今ここでそなたに見せるとしよう……」
国王が流れるような手つきで魔導書を開き、小さな声ですばやく呪文を唱える。すると、ページから溢れ出した赤い光が、瞬く間に視界のすべてを覆い尽くした。
「……っ!」
いったいどんな魔法が出てくるのだろうか。ロゼッタは瞬きをするのも忘れ、鼓動を高鳴らせる。
ところが。
光が霧散した後に残ったのは、国王の目の前で頼りなげに浮遊する、マッチの火ほどの小さな火球だった。そのまま三十秒ほど燃え続け、最後にはぷすん……と力尽きたかのように消えてしまった。
「…………」
なんとも言えない沈黙が謁見室を包み込む。国王は魔導書を静かに閉じると、キリッとした真剣な表情で叫んだ。
「以上!」
(え……ええっ!?)
ある意味で予想外すぎる効果を突きつけられ、ロゼッタは呆気に取られる。思わず隣のエドガーを仰ぎ見ると、彼も頬を引きつらせ、乾いた笑みを浮かべていた。
「恐らく、これは魔導書の黎明期に作られた試作品なんだ。保存状態こそ他国のものより良いけど、いかんせん使える魔法が限られていて、威力もこの通り微々たるもので……」
「つまり、ただのゴミというわけですわ」
王妃が頬に手を添え、晴れやかな表情で一刀両断する。妻の痛烈な一言に、国王は「うっ」と低い声で呻いた。
「そこまで言わなくてもいいだろう。これでも我が国が誇る大事な国宝なのだぞ?」
「そんなポンコツ魔導書、役に立たなすぎて他国には明かせませんわ。知られたところで、鼻で笑われるのがオチですもの」
子供のように拗ねる国王を軽くあしらい、王妃はロゼッタに向き直った。
「期待させてしまってごめんなさいね、ロゼッタさん。この人ったら、新人が入るたびにこうして自慢したがるのよ」
「い、いえ。滅多に見られない貴重なものを拝見できて光栄です」
ロゼッタの言葉に偽りはない。たとえ試作品であろうと、魔導書は魔導書。それだけで、十分すぎるほどの価値がある。
「おお、そうか。見せた甲斐があったというものだ!」
国王はたちまち元気を取り戻し、嬉しそうに頬を緩めた。そして嬉々として、自説を披露し始める。
「それに、試作品がこの国にあるということは、かつてこの地で魔導書作りが盛んに行われていた証拠でもある。となれば、あの隠し部屋の中にその作成法を記した資料が眠っていても不思議ではない」
「確かに……」
「かつて一冊の指南書をもとに数多の魔導書が作られた……ある国の文献にそう記されている。エドガーに命じてあの隠し部屋を隅々まで調べさせたものの、未だそれらしき記述は見つかっていない。だが、膨大な古書のどこかに、その秘密が眠っていると私は睨んでいる」
そう語る国王の声は熱を帯び、青い瞳には期待に満ちた光が宿っている。その子供のような横顔を見て、王妃は小さく肩を竦めた。
「夢を追いかけるのも結構ですけれど、ほどほどになさってくださいまし。そもそも、魔導書が現存しない国なんて珍しくありませんわ。確かエリアン王国もそうでしたわよね?」
「……はい」
王妃に突然話を振られ、ロゼッタは一瞬言葉を詰まらせながらも答えた。
