長かった夏休みが開けて、今日から二学期。
先生に借りたままでいた折り畳み傘をバッグに入れて家を出た。

久しぶりに先生に会える。

それだけで胸が弾んだ。

額に滲む汗も、通勤ラッシュの電車も、蝉の煩わしい声も全然苦じゃなかった。


早めに学校に着いて、職員室へと真っ直ぐ向かう。

髪の毛を手ぐしで整えて、ふぅっと小さく息を吐いた。

曲がり角を曲がれば職員室だ。


「…だから今は無理だって言ってるだろ」



ピタッと反射的に足が止まった。
曲がり角の先から聞こえてきたのは、1番会いたかった小幡先生の低い声。

「…分かってるよ。でもそっちだって…」

途切れ途切れに聞こえる言葉。
電話?電話口からも女性の怒鳴っているような声が漏れていた。

「…もういい。後で話す」


軽くそう言って通話が切れる音がした。
壁にへばりついて、聞き耳を立てていた私は、どうしても胸の奥がざわついてしまう。


どうしよう、やっぱり放課後にしようかな…


そう思って廊下を引き返そうとした時だった。


「…?綾瀬?」


肩がビクッと震えて、そーっと振り返る。

「お、おはようございます…」


「おはよう」


どうしてこんな所に?って先生の顔に書いてある。そりゃあそうだよね、まだホームルーム前だし、職員室に用があって来たとしか考えられない。


「傘…返そうと思ったけど…その、」

「あぁ…ごめん。聞こえたよな」

「いえ…あの、聞こえました。だから、その…後にしようかなって…」

しどもろどろに正直に話してしまった。
この状態で聞いてない方が変だよね。

「気遣わせて悪かったな」

「いえ、傘ありがとうございました」

少しの沈黙。いつもならもう少し何か話せるのに。

先生は傘を受け取ると、小さく笑った。


「役に立ったか?」

「はい、すごく助かりました」

まだ、一緒にいたいのに。
先生に会う口実もこれでもう何も無い。


「…綾瀬」

踵を返そうとした瞬間、名前を呼ばれて顔を上げる。


でもその先の言葉はなかった。

代わりに、ほんの一瞬だけ視線を逸らして小さく息を吐いた。


「…いや、なんでもない。またな」

それだけ言って、先生は背を向ける。
その背中が、いつもより少し遠く感じた。

━━踏み込んじゃいけない。

そう分かってるのに。

どうしても知りたくなってしまう。

先生のこと。
さっきの電話口、きっと奥さんだよね…

ダメなのに。

こんなことで、ほんの少しでも期待してしまう自分が、嫌になる。


.