あの後、先生は自分の折り畳み傘を貸してくれた。
「俺はまだ仕事があるから、帰る頃には雨も止んでると思うし、遠慮なく使って」
黒い、大きな傘は私をすっぽり覆って。
駅に着く頃にはもうほとんど雨は止んでいた。
思い出す。
温かくて大きな腕。
柔軟剤の匂い。
心音。
耳に残る、『奈桜』って呼んだ声。
それだけで胸がいっぱいで、どうしようもなく好きだと思ってしまう。
涙が溢れ出て、気持ちも一緒に消えてくれたら楽なのに。
部屋で一人、泣き崩れた。
誰にも知られることもなく、この気持ちはいつか消えるのだろうか。
私を見てくれる人なんて本当にいるのかな。
大人なんて嫌い。
都合の悪いことは全部なかったことみたいに隠して、
勝手に決めたルールを押し付けてくるくせに、
本当の気持ちなんて、誰も聞こうとしない。
私なんて――
羽をもぎ取られた鳥みたいだ。
飛べなくさせられた鳥は、どこにも行けないまま、狭い鳥籠の中に閉じ込められて、
空を見上げることしかできない。
私も、あと10年早く生まれていたら
先生の奥さんになれたのかな。
先生が大切に思う人は、どんな人なんだろう。
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