花を揺らす風

 橘家の屋敷は、あまりにも静かだった。
 広い玄関。磨き上げられた床。
 足音さえ、どこか遠くに吸い込まれていく。

(……ここが、私の家になるんだ)

 花城美桜は、そっと息を吐いた。

「こちらへ」

 使用人の一人である、藤崎千代(ふじさき ちよ)に案内され、長い廊下を歩く。
 どこを見ても整いすぎていて、まるで現実味がない。
 用意された部屋は、ひとりで使うには広すぎるほどだった。

「何かあればお呼びください」

 そう言って扉が閉まる。
 ――ひとりになった。

(……大丈夫)

 ぎゅっと手を握る。
 ここはもう、あの家じゃない。
 誰かの機嫌を伺って、息を潜める必要もない。
 そう思ったはずなのに。

 ――どこか、落ち着かない。

 夜。

 広いダイニングには、二人分の食事が用意されていた。
 長いテーブルの向こう側に、橘颯人が座っている。
 距離が、遠い。

「……いただきます」

 小さく呟き、食事を口に運ぶ。
 静かだ。
 食器の音だけが、やけに響く。

(何か、話した方がいいのかな)

 そう思って顔を上げた瞬間。

「無理に話す必要はない」
 
 先に言われた。

「……え」

「その顔をしている。気を遣っているんだろう」

 淡々とした声。
 けれど、不思議と刺さる感じはなかった。

「ここでは、そういうことはしなくていい」

 一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。

 ――気を遣わなくていい?

 そんなこと、言われたことがなかった。

「……はい」

 小さく頷く。
 それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。
 その日の深夜。
 慣れない環境のせいか、なかなか眠れなかった。
 喉が渇いて、部屋を出る。
 廊下は暗く、静まり返っていた。

(キッチン……この先、だったはず)

 慎重に歩いていた、その時。

 ――ぐらり、と視界が揺れた。

「……っ」

 思わず壁に手をつく。

(……大丈夫、大丈夫……)

 そう思ったのに、足元がおぼつかない。

「何をしている」

 低い声が、すぐ近くで響いた。

「……っ、橘、さ――」

 言い終わる前に、体が傾く。
 ――倒れる。
そう思った瞬間。
 腕を、引かれた。
 気づけば、しっかりと支えられていた。

「ふらついている」

 近い。
 思ったよりずっと近くに、彼の顔があった。

「……すみません」

 反射的に謝る。

「謝る必要はない」

 短く返される。

「……食事は」

 ぽつり、と彼が言った。

「きちんと摂っているのか」

 一瞬、言葉に詰まる。
 そんなことを聞かれるとは思っていなかった。

「……はい、一応」

 本当は、あまり食べられていなかった。
 でも、それを言う必要はないと思った。
 ――そういうのは、迷惑になるから。

「嘘をつくな」

 静かに言われて、息が止まる。

「顔色が悪い。足元も不安定だ」

 淡々としているのに、逃げ場がない。

「……すみません」

 また謝ってしまう。
 その瞬間。

「だから、謝るなと言っている」

 少しだけ、声が強くなった。
 驚いて顔を上げると、
 彼はほんのわずかに、眉を寄せていた。

「……座れ」

 そう言って、近くのソファへと促される。
 抵抗する間もなく、座らされて。
 しばらくして。
 温かい飲み物が、差し出された。

「……あの」

「飲め」

 それだけ。
 けれど、その仕草はどこか不器用で。
 美桜は、そっとカップを受け取った。
 温かさが、指先からじんわりと広がる。

(……この人は)

 冷たい人のはずなのに。
 どうしてか、そうは思えなかった。

「……ありがとうございます」

 小さく呟くと。
彼は一瞬だけ、視線を逸らした。
――それが、ほんのわずかな変化だったことに。
 美桜は、まだ気づいていない