花びらが、ひとひら落ちた。
それは季節のせいではない。
この家では、いつも何かが静かに壊れていく。
「――信じられない」
鋭い声が、部屋の空気を裂いた。
「どうして私が、あんな男と結婚しなきゃいけないの?」
花城美桜は、部屋の隅でただ静かに立っていた。
視線の先では、義姉が感情を露わにしている。
「“冷酷王子”なんて呼ばれてる男よ?愛想もない、情もないって噂ばかりじゃない」
橘颯人。
その名前は、美桜でも知っていた。
巨大企業・橘家の御曹司。
そして――誰にも心を許さない男。
「そんな人と結婚するくらいなら……」
義姉の視線が、ゆっくりとこちらへ向いた。
「……あなたが行けばいいじゃない」
――え?
一瞬、意味が理解できなかった。
「ちょうどいいでしょ。どうせこの家にいても役に立たないんだし」
軽く笑いながら、そう言い放つ。
その言葉は、驚くほど簡単に胸に落ちた。
――ああ、そうか。
ここにいる限り、自分はずっとこうなんだ。
否定されて、価値を測られて、
“いらないもの”として扱われる。
「……分かりました」
気づけば、口が動いていた。
義姉が、一瞬だけ目を見開く。
「私が、結婚します」
静かに言ったその言葉は、驚くほど揺れていなかった。
――どんな相手でもいい。
ここにいるより、ずっとましだ。
それに。
“冷酷”なんて言葉に、今さら怖がる理由もない。
数日後。
初めて会ったその人は、噂通りの男だった。
「……初めまして。花城美桜です」
丁寧に頭を下げる。
視線を上げた先にいたのは、
整いすぎた顔と、感情のない瞳を持つ男。
「橘颯人だ」
短く、それだけ。
無駄のない声。
温度のない視線。
「これは契約だ」
低く、はっきりと告げられる。
「余計な期待はするな」
――やっぱり、そういう人なんだ。
胸の奥が、少しだけ痛む。
けれど。
「……はい。分かっています」
美桜は、小さく微笑んだ。
“それでもいい”と、思えたから。
その瞬間。
ほんのわずかに。
彼の瞳が揺れたことに―
美桜は、まだ気づいていなかった。
