早朝の海辺の街は、まだ少し肌寒かった。
冷たい潮の香りに乗って、桜の蕾の匂いが神社の境内に柔らかく漂っている。
俺はリュックサックを背負い直し、スクールバックを肩に掛け、神社の鳥居をくぐった。
父親の怒声と母親の涙から逃れてきた自分にとって、この静けさは不思議なくらい心地よかった。
「……ここが、今日からの居場所か」
小さくつぶやいた声は、風にかき消されていく。
境内を歩くと、ふと視界の端に、黒髪の少女が座っているのが見えた。
セーラー服姿で、朝の神社にただ1人。そんな姿は、とても異様だった。でも、まるでこの場所に自然と溶け込むようにそこにいた。
目が合った。するとその少女は、笑みを浮かべ、首を傾けた。
少女の瞳は黒く深く、芯があった。でも、どこか寂しげで消えてしまいそうだった。
「ねえ」
少女が、静かに言う。
「ここ、好き?」
突然の問いに、僕は混乱した。
好きかどうかなんて、まだわからない。
けれど、
「……静かで、嫌いじゃない」
そう答えると、少女は小さくうなずいた。
「そっか」
そのときだった。
「弥生ー! もう来てるのか?」
境内の奥から、低く通る声が響いた。
振り向くと、作務衣姿の男が歩いてくる。
無精ひげを少し伸ばした、明るい雰囲気の男だった。
俺は軽く手を上げる。
「叔父さん?」
「おう。荷物置いたか?」
そう言いながら近づいてくると、叔父さんはふと僕の前で足を止めた。
「誰と話してた?」
その一言に、俺は一瞬言葉に詰まる。
「……え?」
「いや、さっきから誰かと話してるように見えたからな」
反射的に、少女のいる方向を見る。
少女は、さっきと同じ場所に立っている。
変わらずそこにいるのに、
なぜか、さっきより少し遠く感じた。
「……いや、別に」
そう答えると、叔父さんは少しだけ眉を上げてから、ふっと笑った。
「そうか。ならいいけどな」
叔父さんは、それ以上は追及せず、背を向ける。
「とりあえず、部屋見せるから来い。飯の時間も近いしな」
「はい」
僕は短く返事をして、もう一度だけ、さっきの少女の方を見る。
「……また来る?」
気づけば、そう口にしていた。
すると少女は少し驚いたように目を瞬かせて、
それから、静かにうなずく。
「うん。たぶん」
その“たぶん”が、なぜか妙に引っかかった。
「じゃあ」
僕は背を向け、叔父さんの家へと走る。砂利を踏む音がやけに大きく響く。
数歩進んでから、もう一度振り返った。
けれどそこには、もう誰もいなかった。
さっきまで確かにいたはずの場所には、
ただ潮の匂いが入り混じる春風が吹いているだけだった。
「……なんだよ、それ」
小さくつぶやく。
境内の桜は、まだ咲ききっていない。
けれどその枝は、風に揺れていた。
次にその少女を見たのは、二日後の朝のことだった。
神社の境内は、すっかり春の色に変わっていた。
蕾だった桜は一気に花開き、桃色の花が空一面を覆う。
弥生はほうきを手に、境内の掃除をしていた。
まだ慣れない環境だけど、僕を引き取ってくれたこの神社の神主である叔父さんに迷惑をかけたくなかったからだ。
風が吹くたび、花びらがひらひらと舞い落ちる。
その中に
「.・・・いた」
思わず、声が漏れた。
鳥居の横の桜の木の下に、あの少女が立っていた。
いつからいたのか、まるでずっとその場にいたかのように桜を見上げていた。
「おはよう。」
声をかけると、
「おはよう。弥生君」
当たり前のように、自分の名前を呼ばれて、とても驚いた。
「なんで俺の名前を知ってるの?」
「だって、一昨日、和さんに名前呼ばれてたもんね」
和さんと言うのは叔父さんの名前のことだ。彼女がなぜ名前を知っているのかはわからない。
それよりも、彼女すしさシスはの名前を知りたいと思った。
「そうだね。君はなんで言う名前なの?」
「藤宮菖だよ。」
「綺麗な名前。」
思わず声が出てしまった。
名前に花の名前が2つも入っていて、凛とした雰囲気の彼女にはとても似合っていた。
「ありがとう笑。菖でいいよ。」
「わかった。よろしくね菖。俺は神崎弥生。弥生って呼んで。」
「よろしくね弥生。」
菖はそう言って微笑んだ。
低く、丸みを帯びたその声はなんだかむず痒くて、どこか嬉しかった。
「弥生はどこから来たの?何歳?」
「俺は15歳。春から高校一年。東京から来た。」
「そうなんだ。同い年だね笑。同じ高校だし!
東京かぁ、遠かったでしょ。私は生まれてからずっとこの町で過ごしてきたよ。」
そう言うと、彼女は立ち、俺の前に来た。
すらっとした高身長で、桜色の潮風が彼女の美しい黒髪をさらさらと撫でる。セーラー服がよく似合う。
「あの、まだ入学式も始まってないし、なんで制服なの?」
「んー、秘密!」
空を見ながら、悩んで彼女は答えた。
すると、ヒューーー
強風に桜の花びらが吹雪く。
目を細めて、口角を上げ、笑う彼女が、菖が、美しくて、
桜吹雪に飲み込まれて消えてしまうんじゃないかと思った。
12時を回り、昼食は叔父さんとおにぎりを食べた。
シンプルに海苔を巻いた梅おにぎりだった。
でもそのシンプルさがとても素朴で美味しかった。
誰かから握ってもらうおにぎりなんて何年振りだろうか。
きっと最後に食べたのは、小学4年生の遠足だった。
料理が不得意な母が握ってくれた梅おにぎり。
あの頃までは幸せだった。
「弥生、うまいか?」
「本当に美味しいです。久しぶりに食べました。」
すると、叔父さんはくしゃっと笑い、
「よかった笑。境内の掃除ありがとな。午後は町をぶらぶらするといい。この2日間高校の準備ばっかだったもんな。
あんまり知らねえよな。」
「お言葉に甘えてそうします。ご馳走様でした。」
俺はそう言って、皿を洗って外へ駆ける。
景色が綺麗だ。
この神社は、町の山の上にあり、麓の階段を登った先にある。階段の脇にはたくさんの桜が咲いていて、神社からの眺めは町を一望できる。
大きな大きな海が日を浴びて、きらきらと輝いている。
町でたった一つの高校の校舎やグラウンドが、小さな商店街が、たった一つのコンビニエンスストアが見える。
小さな町だ。東京とは違う。
誰も俺を知らない。俺もこの町を知らない。町の人を知らない。
こんなに好都合なことはなかった。学校へ行けば、こそこそと噂話をされることもない。親戚の人が愛想笑いを浮かべながら、俺の心配をすることもない。その人達が俺を裏でたらい回しにしていることを知っている。
空気も美味しい。
町に出ようと階段に足をかける。そのとき、
「どこへ行くの?」
菖が階段の左端に座っていた。
「町に出て色々見ておきたいなって思って。」
驚いた俺をお構いなしに菖は言う。
「私がこの町を教えるよ。ついてきて!」
気がつくと、俺は町へと続く桜並木を駆けていた。
足元を叩くたび、乾いた音が石段に軽やかに響く。
頭上では満開の桜が潮風に優しく揺れ、ひとひら、またひとひらと花びらが舞い落ちる。
俺は、やっとのことで、石段の一段目に足をつける。
ふと後ろを振り返る。
視界いっぱいに広がる淡紅色のトンネル。
長い長い階段の先には、花びらにぼんやりとぼやける赤い鳥居が浮かんでいる。
菖は一瞬だけ足を緩め、舞い散る花吹雪の中を見上げた。
春の匂いが、やわらかく頬を撫でる。
「来年もまた、見られるかな。」
菖は小さく呟く。
そんなことを言いながら桜を見つめる菖の目はなんだか寂しげで、隣にいるのに、遠い場所にいる、この時間はそう長くは続かない、そう思った。
「見れるよ、きっと。」
神社を抜けると、狭い道路があって、そこには家家が連なって建っている。
冷たい潮の香りに乗って、桜の蕾の匂いが神社の境内に柔らかく漂っている。
俺はリュックサックを背負い直し、スクールバックを肩に掛け、神社の鳥居をくぐった。
父親の怒声と母親の涙から逃れてきた自分にとって、この静けさは不思議なくらい心地よかった。
「……ここが、今日からの居場所か」
小さくつぶやいた声は、風にかき消されていく。
境内を歩くと、ふと視界の端に、黒髪の少女が座っているのが見えた。
セーラー服姿で、朝の神社にただ1人。そんな姿は、とても異様だった。でも、まるでこの場所に自然と溶け込むようにそこにいた。
目が合った。するとその少女は、笑みを浮かべ、首を傾けた。
少女の瞳は黒く深く、芯があった。でも、どこか寂しげで消えてしまいそうだった。
「ねえ」
少女が、静かに言う。
「ここ、好き?」
突然の問いに、僕は混乱した。
好きかどうかなんて、まだわからない。
けれど、
「……静かで、嫌いじゃない」
そう答えると、少女は小さくうなずいた。
「そっか」
そのときだった。
「弥生ー! もう来てるのか?」
境内の奥から、低く通る声が響いた。
振り向くと、作務衣姿の男が歩いてくる。
無精ひげを少し伸ばした、明るい雰囲気の男だった。
俺は軽く手を上げる。
「叔父さん?」
「おう。荷物置いたか?」
そう言いながら近づいてくると、叔父さんはふと僕の前で足を止めた。
「誰と話してた?」
その一言に、俺は一瞬言葉に詰まる。
「……え?」
「いや、さっきから誰かと話してるように見えたからな」
反射的に、少女のいる方向を見る。
少女は、さっきと同じ場所に立っている。
変わらずそこにいるのに、
なぜか、さっきより少し遠く感じた。
「……いや、別に」
そう答えると、叔父さんは少しだけ眉を上げてから、ふっと笑った。
「そうか。ならいいけどな」
叔父さんは、それ以上は追及せず、背を向ける。
「とりあえず、部屋見せるから来い。飯の時間も近いしな」
「はい」
僕は短く返事をして、もう一度だけ、さっきの少女の方を見る。
「……また来る?」
気づけば、そう口にしていた。
すると少女は少し驚いたように目を瞬かせて、
それから、静かにうなずく。
「うん。たぶん」
その“たぶん”が、なぜか妙に引っかかった。
「じゃあ」
僕は背を向け、叔父さんの家へと走る。砂利を踏む音がやけに大きく響く。
数歩進んでから、もう一度振り返った。
けれどそこには、もう誰もいなかった。
さっきまで確かにいたはずの場所には、
ただ潮の匂いが入り混じる春風が吹いているだけだった。
「……なんだよ、それ」
小さくつぶやく。
境内の桜は、まだ咲ききっていない。
けれどその枝は、風に揺れていた。
次にその少女を見たのは、二日後の朝のことだった。
神社の境内は、すっかり春の色に変わっていた。
蕾だった桜は一気に花開き、桃色の花が空一面を覆う。
弥生はほうきを手に、境内の掃除をしていた。
まだ慣れない環境だけど、僕を引き取ってくれたこの神社の神主である叔父さんに迷惑をかけたくなかったからだ。
風が吹くたび、花びらがひらひらと舞い落ちる。
その中に
「.・・・いた」
思わず、声が漏れた。
鳥居の横の桜の木の下に、あの少女が立っていた。
いつからいたのか、まるでずっとその場にいたかのように桜を見上げていた。
「おはよう。」
声をかけると、
「おはよう。弥生君」
当たり前のように、自分の名前を呼ばれて、とても驚いた。
「なんで俺の名前を知ってるの?」
「だって、一昨日、和さんに名前呼ばれてたもんね」
和さんと言うのは叔父さんの名前のことだ。彼女がなぜ名前を知っているのかはわからない。
それよりも、彼女すしさシスはの名前を知りたいと思った。
「そうだね。君はなんで言う名前なの?」
「藤宮菖だよ。」
「綺麗な名前。」
思わず声が出てしまった。
名前に花の名前が2つも入っていて、凛とした雰囲気の彼女にはとても似合っていた。
「ありがとう笑。菖でいいよ。」
「わかった。よろしくね菖。俺は神崎弥生。弥生って呼んで。」
「よろしくね弥生。」
菖はそう言って微笑んだ。
低く、丸みを帯びたその声はなんだかむず痒くて、どこか嬉しかった。
「弥生はどこから来たの?何歳?」
「俺は15歳。春から高校一年。東京から来た。」
「そうなんだ。同い年だね笑。同じ高校だし!
東京かぁ、遠かったでしょ。私は生まれてからずっとこの町で過ごしてきたよ。」
そう言うと、彼女は立ち、俺の前に来た。
すらっとした高身長で、桜色の潮風が彼女の美しい黒髪をさらさらと撫でる。セーラー服がよく似合う。
「あの、まだ入学式も始まってないし、なんで制服なの?」
「んー、秘密!」
空を見ながら、悩んで彼女は答えた。
すると、ヒューーー
強風に桜の花びらが吹雪く。
目を細めて、口角を上げ、笑う彼女が、菖が、美しくて、
桜吹雪に飲み込まれて消えてしまうんじゃないかと思った。
12時を回り、昼食は叔父さんとおにぎりを食べた。
シンプルに海苔を巻いた梅おにぎりだった。
でもそのシンプルさがとても素朴で美味しかった。
誰かから握ってもらうおにぎりなんて何年振りだろうか。
きっと最後に食べたのは、小学4年生の遠足だった。
料理が不得意な母が握ってくれた梅おにぎり。
あの頃までは幸せだった。
「弥生、うまいか?」
「本当に美味しいです。久しぶりに食べました。」
すると、叔父さんはくしゃっと笑い、
「よかった笑。境内の掃除ありがとな。午後は町をぶらぶらするといい。この2日間高校の準備ばっかだったもんな。
あんまり知らねえよな。」
「お言葉に甘えてそうします。ご馳走様でした。」
俺はそう言って、皿を洗って外へ駆ける。
景色が綺麗だ。
この神社は、町の山の上にあり、麓の階段を登った先にある。階段の脇にはたくさんの桜が咲いていて、神社からの眺めは町を一望できる。
大きな大きな海が日を浴びて、きらきらと輝いている。
町でたった一つの高校の校舎やグラウンドが、小さな商店街が、たった一つのコンビニエンスストアが見える。
小さな町だ。東京とは違う。
誰も俺を知らない。俺もこの町を知らない。町の人を知らない。
こんなに好都合なことはなかった。学校へ行けば、こそこそと噂話をされることもない。親戚の人が愛想笑いを浮かべながら、俺の心配をすることもない。その人達が俺を裏でたらい回しにしていることを知っている。
空気も美味しい。
町に出ようと階段に足をかける。そのとき、
「どこへ行くの?」
菖が階段の左端に座っていた。
「町に出て色々見ておきたいなって思って。」
驚いた俺をお構いなしに菖は言う。
「私がこの町を教えるよ。ついてきて!」
気がつくと、俺は町へと続く桜並木を駆けていた。
足元を叩くたび、乾いた音が石段に軽やかに響く。
頭上では満開の桜が潮風に優しく揺れ、ひとひら、またひとひらと花びらが舞い落ちる。
俺は、やっとのことで、石段の一段目に足をつける。
ふと後ろを振り返る。
視界いっぱいに広がる淡紅色のトンネル。
長い長い階段の先には、花びらにぼんやりとぼやける赤い鳥居が浮かんでいる。
菖は一瞬だけ足を緩め、舞い散る花吹雪の中を見上げた。
春の匂いが、やわらかく頬を撫でる。
「来年もまた、見られるかな。」
菖は小さく呟く。
そんなことを言いながら桜を見つめる菖の目はなんだか寂しげで、隣にいるのに、遠い場所にいる、この時間はそう長くは続かない、そう思った。
「見れるよ、きっと。」
神社を抜けると、狭い道路があって、そこには家家が連なって建っている。
