きみのポケットに入ってた恋

 希美の自室には大小様々なぬいぐるみが置かれている。どれも希美の大切な癒しだった。自らの城の中、希美は部屋着で机に座っていたが、おもむろにベッドに寝転がった。うつ伏せ状態で顔だけ持ち上げ、スマホ画面を眺める。礼司とのメッセージ履歴が表示されていた。

『影のハネ、すごいなあ』

 希美はごろんと仰向けになった。

『なんだか最近、先輩のことよく考えてるかも……』

 ゆっくりと瞬きし、希美は思索にふける。

『なんでかな……』

 希美はそっと目を伏せた。部屋着のポケットに片手を入れる。



 昼も夜も優しい色合いをした、希美の異空間……幻想世界。希美は静かに目を開ける。

『ここは、落ち着く』

 ユニコーンやうさぎが希美にじゃれついてきた。笑いながら希美は戯れる。ふわふわの毛並みに触れながら、希美は考えていた。

『学校にも、いろんな人がいる』

 希美の瞳が由佳、橋村、三崎などを順に幻視する。想像の人間たちは次々に消え、最後に礼司の像が現れた。

『速水先輩……』

 それまでと同じように礼司の姿も消える。希美はそれに一抹の寂しさを覚えた。

『なんだろう。先輩は他の人と違う』

 希美の両手が胸の前で強く握られる。

『なんかざわざわする、かも』

 希美はまた、そっと目を伏せた。



 午前も早い時間。休み時間の廊下にはまばらに生徒が行きかっている。
 希美と由佳は相変わらずおしゃべりに花を咲かせていた。二人に声をかける女子生徒がいた。河嶋紗耶香というクラスメイトである。学年単位でも目立つ美人だった。

「二人ともおはよ」

 希美と由佳はそれぞれ短く挨拶した。紗耶香は少し申し訳なさそうに続ける。

「ごめんね、急に話しかけたりして」
「別にいーよ!」
「うん」

 由佳は元気な声を、希美は控えめな頷きを紗耶香に返す。

「ありがと」

 微笑むと、紗耶香はこそりと周囲を見回した。

「あのさ、香坂さん風紀委員だったよね」

 希美は目をしばたたかせる。

「うん、そうだよ」
「飯田くんわかる? B組の」
「ん? うーん、分かるような分からないような……」

 懸命に思い出そうとしたが、希美の脳裏には顔すらはっきり浮かばなかった。

「私ね、好きなの。飯田くん」

 わずかに頬を赤らめながら、しかしはっきりと紗耶香は告げた。希美と由佳は同じくらい目を丸くする。

「へ、へえ……」

 希美は曖昧に返事をしつつ、何故か関係ないのに赤くなった。由佳は興味しんしんな表情で希美たちのやり取りを聞いていた。紗耶香がゆるく握った手のひらを唇に当てる。

「それでね。もし連絡先知ってたら、私に教えてもいいか聞いてほしいなって」
「な、なるほど……」
「知ってる?」

 紗耶香は首を傾げた。希美は言いにくそうにぽそぽそと答える。

「ごめん……伝達のために先輩の連絡先がちょっとあるだけだから……個人の連絡先はわかんないや」
「そっか……ごめんね、急に」

 紗耶香は柔らかく微笑んでいたが、隠し切れない落胆もにじませていた。

「う、ううん。こっちこそごめん」
「……もし分かったら、聞いてくれる?」

 紗耶香が笑いかける。数秒前のしょんぼりした顔が嘘のような妖艶な笑みだった。

「う、うん! 聞くよ!」

 希美はどぎまぎしつつもなんとか肯定を返す。紗耶香は喜びをいっぱいに顔にたたえてはにかんだ。

「ありがと。恥ずかしいから内緒ね?」
「も、もちろん!」

 希美は力強く首を縦に振る。もう一度にっこり笑うと、紗耶香は由佳に向き直った。

「ごめんね桜井さん。香坂さん借りちゃった」
「ん、いーよいーよ! 応援してるね!」

 由佳は小さくガッツポーズをしてみせる。

「嬉しい。ありがと。それじゃ」

 ひらひらと手を振り、紗耶香は教室へと去っていった。

「あ、うん。またね」
「また話そうねー!」

 各々手を振り、希美たちは紗耶香の背を見送る。その場には希美と由佳が残された。小さな沈黙が訪れる。破ったのは由佳だった。由佳は勢いよく希美の方を向く。

「すごいことを聞いてしまった!」
「声が大きいよ!」

 希美は思わず声をひそめた。由佳も声量を下げる。

「内緒とは言ってたけどさ、あんなはっきりスッパリ……」
「そ、そうだね……たしかに」
「バレてもいいくらいの気持ちなんだろうか……」
「それは本人にしか分からないけど……」

 無粋な推論を繰り広げ、女子高生二人は静かに盛り上がる。

「もしかしてさ、牽制だったんじゃない? 希美に」
「ええ? それはないでしょ! 接点ないよ」
「風紀委員同じじゃん」
「そうだった……」

 あまりの即落ちっぷりに由佳はけたけたと笑った。

「あんま喋ったことないけど、河嶋さん悪い人じゃないよね。へー好きな人いるんだ」
「すごく綺麗だよね、河嶋さん。えーっとB組の、えっと」

 希美は先ほど聞いたばかりの言葉を詰まらせる。由佳が勢いよく人差し指を立てた。

「私知ってる! 飯田!」
「そうだ。飯田君」
「めっちゃくちゃ普通だよ! モブ顔! 特筆すべき点無し!」
「ひどい……」

 希美は思わず目を伏せる。由佳は構わずに続けた。

「河嶋さんだったらよりどりみどりだろうになあ……何故……」
「さあ……」
「恋は盲目なんだね……」
「う、うん。そうなんだろうけど急になに……」
「世の不条理を儚んでいる……何故飯田なんだ」
「別に良いでしょ!」

 希美が大声で突っ込む。それも流して由佳は腕を組んだ。

「まあねえ。好きになるきっかけってそれぞれだろうし……いつの間にかってこともあるもんね」
「いつの間にか……」

 希美はぼんやりと復唱する。

「私もするか! 恋!」
「しようと思って出来るの?」
「知らない!」

 笑いあう二人の声が廊下に響いていた。



 放課後の風紀委員室には湿気がこもっていた。希美はぼんやりと橋村の話を聞いている。

『今日はずっと河嶋さんのこと考えちゃった……』

 橋村が紙束を片手でぺしぺしと叩いた。

「最近急な雨が多い。傘の取り扱い、忘れ物、気を付けること」
『雨……』

 聞いているようで希美はあまり話を聞いていなかった。橋村の言葉がBGMのように希美の脳内を通り過ぎていく。希美はちらりと礼司を見た。相変わらず礼司は浅く腰掛けた足を投げ出している。

『また見ちゃってる。変なの』

 視線を机に戻し、希美は照れ笑いを浮かべた。窓の外では話題を見計らったかのように雨が降り出していた。



 委員会を含めたその日の全ての用事を終えた希美は下駄箱にいた。上靴からローファーへと履き替える。希美は扉を開けて空を見上げた。辺りは暗く、雨は本降りになっていた。手にした折りたたみ傘を開き、希美はため息をつく。

『しばらくやまないかな……』

 歩き出した希美の目に、ふと二年生の下駄箱が映る。礼司が手持ち無沙汰な様子で雨空を見上げていた。ポケットに入れられた片手はいつもよりもの寂しそうに見える。

『あ……』

 目線を下げた礼司と希美の目が合う。礼司は気まずげに微笑んだ。

『速水、先輩』

 希美は一瞬俯いて自分の靴を見た後、早足で礼司に駆け寄った。

「速水先輩!」
「香坂。お疲れ」
「お疲れ様です」

 言いながら希美は傘をたたんで隣に並んだ。礼司は空に視線を戻す。

「あー、よく降るよな」
「そうですね」

 一瞬の沈黙が二人の間を漂う。希美はそっと礼司の顔をのぞきこんだ。

「あの……傘、ないんですか?」
「あー、まあ……そうです」

 観念したように答え、礼司は頭をかいた。希美はまた自分の靴を見る。ローファーは雨に濡れ、普段とは違う色に発色していた。

『困ってるんだもん……何もおかしくない』

 希美は持っていた傘をぎゅっと強く握りなおした。

「あの……入りますか? よかったら……」

 なんとか言葉を絞り出す。希美に笑みをつくる余裕はなかった。

「え」
「え、駅まで、ですけど……」

 途切れ途切れになりながら希美は言葉を継ぐ。

「あー、いや、俺は助かるけど……気い使わせた?」
「いえ! 全然! 私はいつもこうです!」
「それもそれでどうかと思うけど……目ェあった時、香坂こういうのほっとけなさそうだと思ったんだよな。悪い」

 礼司は申し訳なさそうに笑った。

「あの、本当に……私がしたくてしてるから……先輩だって、いつも優しくしてくれるし……」

 希美はもごもごと呟く。礼司は少しだけ目を見開いた。

「俺が?」
「はい」

 控えめな動作で希美がこくんと頷く。礼司は照れをごまかすように目をそらした。

「あー、じゃあ、お言葉に甘えるわ。ありがとう」
「いえ……」

 希美が傘を開く。人目にはわからない程度だったが、希美の手は震えていた。

「どうぞ」
「うん」

 礼司はポケットから手を取り出し、さしかけられた傘の柄を持った。

「持つよ」

 礼司が短く告げる。希美が返事をする前に、希美の手から取り上げる形になった。自分の傘を持つために、礼司がポケットから手を出してくれた。そう認識した瞬間、希美はどうしてか自分の恋心を自覚した。何故だか理由は分からないが、はっきりと全てが腑に落ちた。礼司のポケットから、希美の恋が零れ落ちたようだった。

「あ……」

 声とも音ともつかないものが希美の口から滑り出る。礼司は首を傾げた。

「ん?」

 唾と感情の波を飲み込み、希美はなんとか口を開く。

「ありがとうございます……」
「こちらこそ」

 礼司が柔らかく微笑む。希美も微笑み返した。

『私、速水先輩が、好きだ』

 一つの傘を共に使いながら、希美と礼司は下駄箱から歩き出した。

『先輩のこと、好きだったんだ』

 希美は密かな眼差しで礼司を見上げる。

『先輩のこと考えてざわざわしてたんじゃなくて』

 視線に気づいた礼司が希美を見て首を傾げた。

「なに?」

 希美は顔をほころばせる。

『どきどきしてたんだ』

 視線を前に向け、希美は静かに答えた。

「なんでも、ないです」
「そう?」

 言いながら礼司も前に向き直った。希美は一目だけ傘を持つ礼司の手を見て、すぐに視線を戻した。生まれたてのときめきが希美の胸を満たす。傘の中では絶えず雨がはじかれる音が響いていた。